拾
人間は、完璧とはほど遠い存在だ。長い年月をかけて体を鍛え、技を練り、内面すら強くした者でも、自分より優れた敵を前に心が折れる事は少なくない。それが、致命的な攻撃を今まさにうける瞬間ならば、死を覚悟してしまうのは当然の事だろう。
戦場では自分の死を覚悟する間もなく、死んだ事すら気付けない者のほうが圧倒的に多いのも確かだ。しかし、強者に近付けば近付くだけ先読みの能力で己の死を事前に知ってしまう。特に、感覚を常人より加速させられる能力者達は、直感からの知らせもあり、死期を事前に知る事となる。
省吾は能力だけでなく、策の上でもギャビンに上を行かれた。そして、何倍にも引き延ばした着弾までの時間で、迫ってくる死を感じ続けている。
もし省吾が命令に従うだけの機械で出来た兵士ならば、人の体を微塵にしてしまう弾丸をただ受け入れたかもしれない。そして、省吾がプロの格闘技者や殺し屋と呼ばれる類の職を生業とした者ならば、自分の中にある炎を消した可能性はある。
だが、プロの兵士でありながら自分の意思で前に進み、金や権力で戦おうとしない省吾は絶望に囚われない。気が狂ってもおかしくないほどの恐怖が襲ってくるからといって、それに負けるほど省吾は弱くはないのだ。
デビッドに完膚なきまでに敗北し、サラ達を失った日に省吾の心は一度へし折られた事がある。その時の省吾であれば、死が恐ろしいほどの速さで迫ってくる今の状況で諦めていた事だろう。だが、折れた心をこの世に居なくなった人々の想いで支え、立ち上がってきた今の省吾は諦めようとしない。
……こんな所で。こんな所でえええぇぇぇ!
数え切れないほど多くの敗北と、散っていった優しい人々の魂が鍛えた省吾の心は、もう決して折れない。
……終われるかあああああぁぁぁぁ!
物理的な効果のない人の心だが、金属生命体を体に宿した超能力者達には、何者にも勝る武器となるのだ。
「ぐがああぁぁぁ!」
絶体絶命の状況に置かれた省吾は、獣のように叫び、背負った多くの想いごと、精神を爆発させた。それにより、心を糧とする金属生命達達は、主と定めた者の指示に応える為に、力を最大限に放出し始める。
セカンドでしかない省吾がいくら力を増しても、能力でギャビンを圧倒する事は不可能だ。多少の幸運はあっても、物語の中にいる英雄達のように、都合よく新たな力が目覚める事など、現実では起こりえない。それでも、絶対を存在させない現実の中で、最後まであきらめない者にだけ見いだせる道は確かにある。
ファントムを生み出す金属生命体達は、真っ黒い力の濃度を増し、省吾の全身を内側から満たしていく。それにより省吾の体は、信じられないほどの内圧を得る。
ただ、それと同時に限界を迎えている体内の細胞達が、悲鳴を上げていた。人の天敵となりうるその黒い力は、何の代償もなく得られるほど単純なものではなく、省吾の寿命がすり減る。
残り少ない省吾の人生を消させなかったのは、ファントムを生み出す事が出来ない金属生命体達だ。省吾の細胞と融合している金属生命体達は、黒い力に押し潰されそうな内臓等を、輝く力で支えていた。血の中に潜んでいる金属生命体達は、サイコキネシスの力を半分使い、血流をコントロールする。そして残り半分を主の指示に従い、体外にある省吾が脇につけたホルスターへと向かわせた。
音さえも聞こえないひどくゆっくりとした世界で、省吾はホルスターの入っている拳銃を少しずつサイコキネシスの力で引きずり出していく。省吾が狙っているのは、なんとか指先だけ動く右腕を引寄せて銃を握らせ、拳銃の衝撃で危機から脱することだ。
(あうううぅぅ!)
省吾が生き残った上で、戦いを続行できるただ一つのその道は、成功するはずのないものであった。だが、省吾を見守り続けた魂だけとなった女性により、なかったはずの未来がまた一つ切り開かれる。
(エース! 死ぬ! いやああああぁぁぁぁ!)
省吾が行ったわけではないのだが、サイコキネシスの力が一部分だけ拳銃以外に向かって行く。一発の黒く変色したライフル弾が、本当にごくわずかではあるが軌道を変える。それは、省吾のまだ引き寄せられていない右腕の、手首より少しだけ上に突き刺さった。
弾丸の持った腕を骨ごと吹き飛ばすだけの威力を、黒い力で高まった内圧が押しかえしていく。ただ、その弾丸の威力は完全には消えておらず、省吾に右腕の肘を折りたたませ、胸元にまで手を弾き飛ばす。
超高速の世界で、脳の回転がギャビンより勝っている省吾は、無理矢理引き寄せた偶然を、最大限に活かす為に働き続けていた。
「おおおおおおおおぉぉぉぉ!」
拳銃を見事に右手で握った省吾は、弾丸が発射されれば自分の左腕を傷つける角度ではあったが、気にせず引き金を引いていく。
……ぐううぅぅ!
空中で自由落下に任せるしかなかった省吾は、拳銃による推進力を得る事で、それよりも早く床へと体を落とす事に成功した。
……三発。くそっ。
体を掠めたライフル弾が肉を削るだけでなく、左わき腹と右腕の上腕部にそれぞれ一発ずつ入り込んだ。十分すぎるほどの代償を払わされた省吾だが、真っ暗な絶望を切り裂いて、再び立ち上がった。
「はぁ! はぁ! はぁ! はぁ! はぁ! はぁ!」
地面に落ちた衝撃で掴んでいられなかった拳銃が、大理石で出来た床を音を立てながら滑っていく。
力の塊を移動させ、背中に光る強固な盾をすでに作っているギャビンは、ライフル弾を容易く弾いている。だが、そのギャビンの顔からは笑みが消えており、ゆっくりと振り向く。ギャビンにとって省吾が死ななかった事は、かなり予想外だったらしい。
「しぶとい……本当にしぶとい男だ……」
……俺は弱い。どうしようもないほどに。それでも! 少しでいい。俺に。俺に武運を!
瀕死の状態で立ち上がった省吾は、足腰どころか全身が小刻みに震えており、目に見えて弱っている。それでも、精神を爆発させた力が残っている間しか勝機がないと考えた省吾は、間をおかずに次の行動を開始した。
脳の超高速状態を維持したまま、太もも部分に固定していたサブマシンガンを左手で掴み取った省吾は、敵に向かって再び走り出す。
「愚かな……」
省吾が放つ殺気に呼応する様に、ギャビンの脳が常人では不可能なほどの高速処理を開始した。
「消え去るがいい!」
勘で省吾は殺さない限り止まらないのだと理解したギャビンは、六角柱の力を自分の前面に移動させると、右拳を突き出す。
……俺は。俺は! もう、負けない! 守り切って見せる! 絶対に!
引き金を引くと同時に、苦痛や恐怖といった必要ないと思えたものを投げ捨てた省吾は、瞳に全てを焼き尽くさんばかりの炎を灯している。ギャビンが自分に放った力が、省吾にはどれほど危険か分かっている。それでも、引き金を引いたまま、足を止めずに相手との距離を詰めていく。
「なっ……なんだ?」
黒い力の内圧に支えられた省吾の体は、重傷を負っているとは思えないほどの動きを見せていた。ゆっくりと時が流れる世界の中で、イメージと寸分たがわず体を動かしていく省吾は、人の理想をすら超えつつある。
敵の攻撃だけでなくギャビンの眼球がどう動いているかまで見えている省吾は、攻撃を避けながら敵の意識がそれた場所へ体を滑り込ませていた。
「こんな事が……」
向かってくる銃弾を無視することが出来ないギャビンは、省吾だけを目で追い続けることが出来ない。それを、予測で補おうとしているが、省吾は一度も予想通りの場所におらず、そのたびに補足し直す作業が必要だ。
人間は、相手が右方向に動いているのを見て、一度視線を逸らしても、先程より右側にいるだろうと予測して、相手を捉えることが出来る。逆にいえば、相手からの視線がそれた短い時間で方向転換してしまえば、予測した場所をまず見てしまう相手の虚を突けるのだ。省吾はギャビンの視覚内にいるにもかかわらず、意識の死角に飛び込む事で、実体を捉えさせない。
処理が追いつかなくなったギャビンの脳内で、省吾の体は気体にでもなったかのように消え、常にぶれている影のようにしか見えなくなっていた。省吾が能力によって、全てではないが、弾丸の軌道を変化させているのも、ギャビンの脳をさらに混乱させている原因だ。
自分の理想とした体術を実現している省吾は、一歩進むごとに命が削れ落ちていくと分かっていながら、迷いなく前に進み続けた。攻撃を避けきり、ギャビンとの距離が二メートルを切ったところで、弾丸の無くなったサブマシンガンを投げ捨てた省吾は、ナイフを握る。驚異的といえるほどのギャビンが持つ動体視力を体捌きで上回った省吾は、輝かせた右足で床を蹴り付け、懐へと飛び込んでいく。
……ぐう! そこだあああああぁぁぁ!
いつ折れてもおかしくないほどのひびが幾つも走った左足を支えに、上半身を振りかぶる様に回転させ、右拳を進ませた。もし敵がギャビンでさえなければ、省吾はそこで敵の命を刈り取り、戦闘は終了していただろう。
身体能力で省吾が上をいっていても、フィフスであるギャビンには、能力による超感覚がある。部屋の中全てを感じ取っているその超感覚により、ギャビンはサブマシンガンから放たれた弾丸のいくつかが、先程と同じように反転した事に気付いていた。
高速状態で超感覚からの情報を処理しているギャビンは、そこから省吾が何をしようとしているかを考えている。攻撃に使ったせいで、ギャビンの作る六角柱の力は半数以上が体から離れており、引き戻すのが間に合わない。自分へ最初に向かって来ている右拳には、威力が全くないとギャビンは認識できており、胸元に折りたたんだ左手のナイフこそが本命だと読む。右拳によって出来る死角から飛び込んでくるナイフに能力で対処すれば、背中から弾丸が襲い、逆ならばナイフが胸を裂くだろうと、ギャビンは省吾の先を見た。
省吾に他の事を仕込むだけの時間がなかったと分かっているギャビンは、迷うことなく力を背後にまわし、心の中で笑う。
懐に飛び込んできた省吾へギャビンは視線を向けてはいないが、反応出来なかったわけではない。最短距離の死角を目指す省吾の無意識らしい癖を計算に入れていたギャビンは、そこにおびき寄せる為に敢えて足元に罠として目線を向けなかった。そして、それによって捉え辛かった省吾の動きを、完全に捉えたのだ。
背中に弾丸では貫くことが出来ない盾を作り終えたギャビンは、右拳を引く腰の回転で左手を突き出していく。ギャビンの突き出した左手は、省吾がナイフを突き出そうとした出端を挫く位置に進んでおり、もうナイフが振りぬかれる事はない。
離れている力の結晶を省吾の背後へ向けて飛ばし始めたギャビンは、勝利を確信した所で違和感を覚えた。自分の広げて突き出した左掌に、待っていても省吾のナイフを握った拳が届かないからだ。
まともに動かなくなった右腕をふるう為に、省吾は投球フォームを思わせる体勢で、今もギャビンの眼前にいる。省吾の身体能力を過大評価したギャビンは、そこからでも上半身を相手が反転させられると考えていた。だが、いくら省吾でも振りぬいた後なら不可能では無いが、全力で踏み込んでいる最中に、上半身を反転させられるだけの能力は持っていない。
左掌を突き出していく勢いで、ギャビンの視線が右方向へずれる。それにより、視界の隅で省吾の右拳が開かれていく事にギャビンは気が付く。読み違えたと分かったギャビンだが、防げないとしても大した威力もない張り手ならば、受けても問題ないと考えた。それにより、常人では不可能な速度で行われた最強と呼ばれる二人の戦いは、決着を見る。
……行けえええええええええぇぇぇぇえぇ!
省吾の右手首付近に食い込み、黒い力で無理矢理押さえつけられていた黒いライフル弾は、体内に入った事で輝く力を付加されていた。体から離れた弾丸に、何度も進行方向を変えるような指示を出す力を、セカンドの省吾は持っていない。しかし、体の外ではなく内側に弾丸があれば、能力を追加する事も、種類を変える事も出来る。
体内でも威力を失いきっていなかったその弾丸を、留まらせる為に省吾は誘導の力を使っていた。そして、加速へと変更させる。省吾の掌を突き破って排出された真っ黒い弾丸は、威力こそ落ちているが、ギャビンの顔へと向かって行く。
常人では絶対選択しない策で省吾は挑んでおり、それはギャビンの想像を超えていた。黒い弾丸がギャビンの頬を削るのと同時に、省吾の背後に向かっていた六角柱達は力を失い、徐々に砕けていく。
自分の作った力の破片すら制御できなくなったギャビンは、高速処理を続ける頭で敗北を噛みしめる。そして、省吾が字名として語ったエースの意味について、半強制的に考えさせられていた。エースとは、トランプの一をさす言葉であると同時に、何かの組織で最上の存在を表す場合にも使われる。
「国連……軍の……エース……」
威力の落ちた力の結晶達が消えながらも省吾の背後にぶつかり、主であるギャビンも巻き込まれていった。消えていくサイコキネシスの力と激突した弾丸達は軌道を変え、ギャビンの肩と太ももだけでなく、省吾の体も貫通していく。ギャビンと縺れながら床に打ち付けられた省吾の体は、真っ赤な液体をまき散らしながら、浮き上がる。
……まだ。まだ終わってない。まだ、俺は。
体内から黒と輝く力が急激に失われていく省吾は、脱力したまま加速をしていた意識が元へと戻って行った。ギャビンを倒す為にはらった対価は安いものではなく、宙でゆっくりと放物線を描いている省吾は、指一本すら動かせない。
衰弱しきった省吾の体は、再度床にぶつかっても、そのまま複数個所を痛めながら転がっても、痛みの信号すら発しなくなっている。床にぼろ布のように横たわった省吾の歪んだ視界が、真っ暗に変わって行こうとしたところで、頭の中に助けられなかった人々の顔が蘇った。
……駄目だ! まだだ! まだなんだ! まだ俺は死んでない! 戦える!
歯を食いしばると同時に瞳に炎が戻ってきた省吾は、なんとか想いに応えた左腕と右足だけで、震える体を持ち上げていく。
「ぐうぅぅ! はぁ! はぁ! こっのっ……おおおおおおぉぉぉ!」
自身の血で滑る右足を何度も引き寄せ、左腕から血が流れ落ち、爪が剥がれようとも、省吾はゆっくりと立ち上がっていった。すでに省吾の武装はナイフ一本と、リボルバー式の拳銃一丁だけしか残っておらず、体もまともに動かない。それでも、それは自分が死ぬ事を含めて、省吾にとって些細な問題に過ぎないらしく、立ち止まるはずもなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
信じられないほど重く、脳からの指示に従ってもくれない体を気力で支えた省吾は、玉座の間へと繋がる扉へと歩き出す。命と共に床へとしたたり落ちる血を、無意識に内部から能力で止めた省吾は、もう指すら動かない右腕をたらし、左手で脇腹を押さえ、左足を引き摺っていく。金属生命体達の情報交換で意識が朦朧としていたギャビンは、床にうつ伏せで倒れたまま、そんな省吾に顔を向けた。
「ガブリエラ……様……私は……私はああああぁぁぁ!」
情報交換による不調だけでなく、銃弾に撃ち抜かれているギャビンだが、ふらふらと立ち上がり、省吾が向かっていた扉の前に立ちはだかる。ただ、その時の能力が封じられ、眼球と唇を小刻みに揺らしているギャビンからは、最強の面影はなくなっていた。実際に瀕死の省吾よりも、今のギャビンは弱いだろう。立ち上がっただけで残った気力のほとんどを失ったギャビンは、うわごとのように考えた事をそのまま口に出していく。
「もう……もう……私は……失いたくない……。愛する者を……もう二度と……ガブリエラ様のようには……」
省吾が知っているはずもない事だが、十年前まだ少年とも青年ともいえる年齢だったギャビンは、王の妃達を守る任についていた。そして、誰よりも優しく、笑顔が太陽のように輝いていた一人の女性に、心を奪われたのだ。真面目な性格と洗脳の効果もあり、ギャビンはその想いを口にした事すらない。だが、想いは今もなお消えていない。
ガブリエラが逃げ出したと知ったギャビンは、ノアから抜け出す事すら考えたが、どうしても洗脳の効果を破る事が出来なかった。ヤコブの弟を守ろうとしたガブリエラが、重傷を負いながらも死ななかったのは、ギャビンがそう指示していたからだ。また、王となるべきガブリエラの息子捕獲後、反乱軍をノアが追わなかったのも、ギャビンが参謀達をそうなる様に誘導したからだった。
人格さえ歪めてしまう洗脳能力によって、今のギャビンはガブリエラを想う気持ちが、全て王を守りたいとの考えに書きかえられている。その為、今の自分では、省吾に殺されてしまうだろうと分かっていながらも、ギャビンは立ち上がったのだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……そうか……」
自分の前で両手を広げて立っているギャビンに、省吾は握った左拳で裏拳を打ち込み、吹き飛ばす。
「あがああぁ! あぐううぅぅ……」
省吾は恋愛感情を持っていないだけで、教育により知識は十分に獲得している。ギャビンのガブリエラという呟きが聞こえた省吾は、それだけで大よそを的確に推測していた。
「道を間違えたならまだしも……。殺そうとするなんて、論外だ。男なら、大事な人は守るものだ……。俺は、そう認識している」
頬を押さえたまま倒れているギャビンに、省吾はマークから教えられた言葉を吐き捨て、扉を押し開く。
「守……る? 私は……ガブリエラ様……」
殴られた事で、一時的に意識がはっきりしたギャビンは、省吾の言葉を噛みしめながら、涙を流して体から力を抜いた。体内で発生している情報交換により、洗脳の効果を受けていない為か、ギャビンにははっきりと自分が間違えていたのだと理解できている。
「くっ……ぐっ……うぅぅぅ……」
ガブリエラを守る側として、ノアを一人でも抜け出すべきだったと考えたギャビンは、仰向けのまま涙の量を増やした。正常な思考が出来始めたギャビンは、正しい道を選べなかった自分が悔しくてたまらないらしい。
省吾が、自分に止めをささなかったのは、そうする事で精神的に苦しみ、反省しろといっているようにギャビンは受け取ったようだ。元々省吾には殺す気などなく、銃弾で撃ち抜いてしまったのもギャビンが強すぎた為なのだが、テレパシーすら使えないギャビンは気が付けない。
血の流れ出す肩や太ももよりも痛む胸を押さえたギャビンは、流れ弾でガラスの割れた窓へと目を向ける。窓枠に残った、尖っているガラスの破片に、太陽からの光が角度を変えられ、七色に揺らめく。鮮やかに輝く暖かな光の中に、優しい笑顔でバラ園の手入れをするガブリエラの姿を思い出したギャビンは、声を殺して泣き続けた。
黒幕と呼べる者が、悪意から絶望と取引さえしなければ、フィフス達が間違えた道を歩むことも、サラ達優しい人々が死ぬ事もなかっただろう。正しい世界の在り方を、フランソアから教えられてよく分かっている省吾は、ニコラス老人からの真の敵を討てという言葉を反芻していた。
……くうっ! くそっ! 動け。
ギャビンの部屋を出た省吾は、左手を壁につき、ぼろぼろの体を支えながら、通路を進んでいく。床と接触するたびに激痛が走る省吾の左足は、青紫色に腫れ上げっており、右足も膝の震えを止めない。
「ごほっ! えほっ! ごほっ! はぁ……はぁはぁ……」
口内に溜まった血を、省吾は勢いよく吐き出すのではなく、口の端から床へ垂らしていた。口からだけでなく、鼻や耳からも出血している省吾は、どこからどう血が出ているかをもう意識できていないのだ。
省吾の命を現した時の砂は、ギャビンとの戦闘でも大量に零れ落ち、残量が今も減り続けている。気を失うどころか、死んでもおかしくない状態である省吾だが、血走っている目の瞳だけが、薄暗い通路の中でぎらぎらと輝いていた。
……なんだ?
静かだった玉座の間へ続く通路に、突然低く唸るような機械音が響き始め、大理石で作られているように見える何もなかった壁が、スライドする様に開く。
「なっ! あいつ!」
……あれは。あいつらは!
左右の壁だけが長く続いていた何もない通路に、ネイサン達が現れ、目を見開いた省吾が動きを止める。参謀達の愚策を知り、玉座の奥にある部屋へと急いでいたネイサンは、自分だけが使える秘密の近道を抜けてきたのだ。焦りから他の者に教えたくない、日ごろ絶対に使用しないその道すら使ったネイサンは、省吾が通路にまで到達しているとは考えていなかった。
省吾と目があったネイサンとデビッドは、予想もしていなかった敵との遭遇で驚きから体を硬直させている。敵が宮殿からフィフスを減らして侵入するだろうと分かっていたリアムだけが、すぐに身構えて冷たい目線を相手に送っていた。省吾がその通路に到着しているという事は、ギャビンが破れたのだろうとリアムには分かっているが、それも予想内の事らしい。
明らかに戦闘力が減った省吾を見て、油断していいなどとリアムは考えないが、デビッドがいれば対処できると冷静に頭を回転させている。それどころか、省吾がネイサンを殺してくれれば、自分に有利になるのではとまで考えるリアムは、防御膜を出さない。
「お……お前かああああああああぁぁぁぁぁ!」
最高にまで冴えわたった省吾の勘は、デビッドとリアムを従えているネイサンこそ、黒幕だと目視した瞬間に見破る。それだけでなく、サラ達村の大事な人々を殺したデビッドの姿を見た事もあり、省吾の中に残っていた理性の糸は切れてしまい、叫びながら走り出していた。
寿命を減らしてしまうのだが、憎しみの感情を爆発させた省吾の体内を、黒い力が満たしていく。それにより、一時的に体の機能が正常に近い動作を始め、脳が超高速の世界へ強制的に入っていった。一瞬で柄まで真っ黒に変わったナイフを握った省吾は、人間とは思えない速度で、ネイサンに向かって直進する。
「やっべっ! こいつ! まじやべぇ!」
数歩下がったリアムのように冷静ではないデビッドは、省吾の目を見て寒気を感じ、急いで防御の膜を作った。密度の高い殺意と狂気を放つ省吾の眼光は、能力や相手の有利に関係なく、敵を怯ませるだけの力があるのだ。
輝く半透明な膜が通路一杯に広がったのを省吾も見えているが、ナイフを微弱に輝かせて怯みもせずに突き進んでいく。省吾がまっすぐネイサンに突き出したナイフは、デビッドの膜とぶつかり、大きな衝撃音が通路に響いた。
「なあ! ひっ!」
デビッドの膜で守られていると分かっていたネイサンだが、信じられない速度で自分に向かって来ていたナイフを恐れ、小さな悲鳴と共にしりもちをつく。
「何、マジになってんだよ! うぜぇぇんだよ!」
省吾のナイフが自分の作った膜を破れなかった事で、冷や汗をかきながらもデビッドに、まともな思考が戻ってくる。
「このゴミがっ! ゴミはゴミらし……ああ?」
自分の膜に触れた省吾のナイフを、サイコキネシスの力で固定しようとしたデビッドだが、失敗してしまう。超高速状態にある省吾には、敵の見えない力すら感じ取るだけの勘があり、掴まれるよりも早くナイフを引いたのだ。
「こっのっ! たかだかセカンドの……ゴミのくせしやがって!」
デビッドが反射的に放った、バスケットボール大の光る力を、省吾はバックステップで回避した。
「はぁはぁ……はぁぁぁぁ……おおおおぉぉ!」
敵との距離を置き、右腕を垂らしたまま、左手に握ったナイフを胸元に構えた省吾は、呼吸を少しだけ整えると、再び床を蹴る。自分自身の身を焦がすほどの怒りに囚われた省吾は、体と直感からの警告を無視して、真っ向から敵に刃を向けた。
素早さはギャビンを仕留めた時と同等だが、今の冷静な思考を失った省吾には勝機が全くない。今まで省吾を生き延びさせた策もなければ、大人二人が並ぶと肩をぶつける程狭い通路では、意識の死角に飛び込むだけの場所がないのだ。デビッドが飛ばしてくる輝いた衝撃波を省吾が避けられているのは、敵がまだ混乱しているからに過ぎない。
「こっ! こいつ! このっ! ええい! くそおおぉぉ!」
フィフスであるデビッドならば、省吾がいくら素早くても、避けられないように通路一杯の衝撃波を生み出せばいいだけだ。しかし、省吾の眼光に怯み、力任せになったデビッドは、一撃で敵を仕留める為に、力を一メートルに満たない大きさに集中させてしまっている。
「はあああぁぁぁ!」
デビッドからの攻撃を体捌きだけで躱しきった省吾は、再びナイフを膜に向かって突き出すが、突き破れるはずもない。二度目の大きな音を聞いたネイサンは、放心状態から戻ると、悔しそうに再び距離を取る省吾を見て、自分は安全だと確信する。
「はっ……はは……驚かせてくれるものだ。ふふっ……」
顔を赤くして立ち上がったネイサンの笑いは、恥ずかしい姿を見られた事を誤魔化そうとした為だが、戦いに意識が集中しているデビッドは聞いていない。そして、ネイサンの大物然とした姿が作り物だと気が付いたリアムは、顔色を変えずに心の内で馬鹿にする。
だが、その事で省吾の回していた歯車の力を押しかえすべく、流れに力を与えていた絶望の効果が発現していく。
リアムはネイサンの底を知った事で、そばにいれば隙を突くチャンスが出るだろうと結論を出し、その場で事故死させるまでもないと考えたのだ。そこまで考えたリアムからすると、省吾は邪魔でしかなく、その場で排除するべき存在になった。
お互いに冷静さを失い、力任せに真っ向から挑みかかっていた省吾とデビッドの戦いに、リアムが参戦する。
「ちょこまかとおおおぉぉ! 避けんな! くそが! おらああぁ!」
(デビッド様。そのまま、続けながら聞いてください)
顔色も変えずにリアムは指向性のあるテレパシーをデビッドに送り、省吾を確実に倒す策を伝えた。
(返事は必要ありません。あれは、勘がいい。うなずくだけで気付くかもしれません。ですので、一方的で申し訳ないのですが聞いてください)
信頼するリアムからの策を聞いたデビッドは、省吾に気付かれない様に戦いに集中している芝居を続ける。
「おらっ! ああ! くそ! 当たれ! くそ! くそ!」
デビッドの言葉から気迫が抜けた事に、日頃の省吾なら気付けたかも知れない。だが、今の省吾は超高速の世界にいるせいで、声を上手く知覚できない。もう一度省吾のナイフが膜とぶつかり、バックステップで下がり始めると同時に、膜がネイサンとデビッドだけを囲うように、立方体状に変化した。
……なんだ? これはっ!
自分から膜の外へ出るといったリアムは、輝いていない目視不可能なサイコキネシスの力を、省吾に向かって放つ。それにあわせてデビッドも、一撃の威力を下がる代わりに、今まで以上に衝撃波の数を増やす。リアムは省吾が全ての力が見える程になっているとは考えておらず、視覚的に見える力と見えない力を一度に放てば、避けられないと考えたのだ。
狭い通路で、避ける隙間がほとんどなくなった省吾は、後退して敵の放った力の間が開く事を待つしかない。リアムの見えない力より、デビッドの見える力は進むのが早く、正面からでは分かり辛いが、立体的に見れば隙間が出来始めていた。
……もう少し! もう少しだけ間隔が開けば!
二度三度と床を蹴り、デビッド達に向いたまま後ろに下がっていた省吾だが、絶望の仕掛けた糸が絡みつく。
……なっ! くそっ! くそおおおおぉぉぉ!
限界を迎えているにも関わらず、無理に動かし続けていた省吾の左足が、床を蹴ろうとしたところで力を失う。左ひざに力が入らなかった省吾は足を滑らせ、空中で仰向けの姿勢になってしまった。
下がる速度が落ちた省吾に、高レベルの能力者達が放った力が、容赦なくぶつかっていく。その中でも、デビッドの放った一発は、省吾の肋骨を幾本も砕いて、直接心臓に衝撃を与えた。床にぶつかるよりも早く、心肺が停止してしまった省吾を見て、絶望の字名を持つものがにやりと笑う。
成功するとは思えない策をうまく進めていた省吾だが、最後の最後にきて、ニコラス老人が囚われるなといった言葉を最悪の形で思い知る。衝撃波を浴びた省吾の瞳から意識が消え、魂が体から抜けていった。