九
絶望と呼ばれるものの歪めた世界で、何者かによって作られている、嘘にまみれたノアの首都に、負の感情が満たされていた。
それを糧としている絶望は喜び、人々が苦しむ姿を見て笑っていてもおかしくない状況だが怒りを感じている。何故ならば、恐怖に囚われているのが自分の手駒であるノア兵士達であり、死者が一人も出ていないからだ。
何も成せなかった人間が死ぬ前に吐く出す絶望を好むそれは、まだ直接的な力を持っておらず、好ましくない状況でもただ手をこまねいてみている事しか出来ない。
「嫌だ……俺はもう嫌だ……」
フォースである兵士達は、省吾の仕掛けた巧妙な罠にことごとくはまり、身じろぎする事すら怖がっている。
省吾の仕掛けた二本目のワイヤーを切るまで作動しない罠は、一度安全を確認した場所で気を緩めた兵士達に、爆発による破片をぶつけた。そして、仲間が爆発に巻き込まれたのを見て、後ずさった兵士の足が来るであろう位置に仕掛けられていた火薬がかなり少ない地雷は、連鎖的に爆発する様に設置させている。
首都に仕掛けた罠のうち、なんのひっかけもなく作動するものは三割程度で、それ以外は裏か裏の裏をかくようになっていた。罠を避けようとしていた兵士達だが、動けば動くだけ底なし沼のように省吾の思惑にはまり、思考の迷宮に落ちていく。
「はぁぁぁ……もう、たくさんだ。やってられるかよ……」
どう動いても罠にはまってしまうと諦めて座り込んだ兵士は、臀部で石畳みに隠されていた地雷を作動させてしまう。
「いてえええぇぇぇぇ! くそっ! くそっ! ちくしょう!」
火傷してしまった臀部を押さえて、情けなく転げまわるそのノアの兵士からは、奴隷となった者達に恐れられた面影は消えている。
「帰りたい! もう、こんな所に居たくない! もう嫌だあああああぁぁぁ!」
痛みと恐怖で感情が抑えられなくなった為、涙を流しながら本音を大声で叫び、仲間の戦意まで奪ってしまう。
「ああああっ! ちくしょう! あ……ああ? 嘘……だろ?」
火傷した個所を手で押さえながら石畳を転がっていた兵士は、地面すれすれに張られていたワイヤーを足に引っ掛けてしまった。
「う……ううぅぅ……ごほっ! おほっ! いぃぃ……」
兵士の引いたワイヤーの先には、訓練用のゴム球が火薬で飛び出す、クレイモア地雷がつながっていたのだ。いくら訓練用といっても、火薬で撃ちだされる硬いゴム球には、直撃すれば人間の骨を折ってしまうほどの威力がある。
考えもなく泣き叫んで転がった兵士のせいで、動けずに立ち尽くしていた仲間が、三人ほど戦闘不能になった。
「すっ! 座るなあああぁぁ! 動くな! もう、何も触るな! そのままの状態を維持するんだ! いいな!」
少し離れていた場所で、能力によって一部始終を見ていた紺色の軍服を着て胸の星が二つあるノア兵士は、仲間に注意を呼びかける。王の持ち物である首都の建物を、自分達から壊す事がどうしても出来ない兵士達は、ついにほぼ全員が動きを止めた。
それと同じ頃、首都のある山岳部手前にある平原で、土煙を巻き上げていた一団が、テレパシーを使って一斉に馬の動きを止める。
「おい! あれ! 止まれ!」
反乱軍で最古参の男性は、首都へと向かう道のかなり先で、二台の馬車を見つけて止まる様に仲間に指示を出していたのだ。ヤコブが包み隠さず全てを話した結果、五十頭ほどの馬に直接乗った者達と、四台の馬車がノアの首都へ向かう事になった。
妊娠中などの理由でごく一部の者達は拠点に残ったが、それ以外の者達は英雄を信じると決め、前日ノア兵士達から奪った馬と馬車を走らせているのだ。
「大丈夫か? どっか、痛かったら……」
「ふふっ……大丈夫よ。ありがとう」
馬車の中で、姉の様な女性を気遣う第三世代の男性は、相手からの返事を聞いて胸を撫で下ろす。そして、馬車を乱暴に止めた運転手に文句を言う為に、扉を開いてむくれた顔を外に出すが、緊張に包まれている雰囲気で口を開けなかった。
「あ、僕が確認するよ」
「お? そうか? 頼む」
古参の男性が乗る馬の後ろに乗っていたヤコブは、二台の馬車を能力で確認し、その偶然も運命なのかと苦笑いを浮かべる。それを見ていた古参の男性は、まだ豆粒のようにしか見えない馬車の操り手を、敵兵士かと勘違いして睨む。
「あ、違う違う。あれは、僕等の仲間だよ。首都に向かってそうだし……合流しよう。皆には僕が伝えるよ」
全速で走らせていた馬達が疲れていた事もあり、反乱軍の面々は、土煙で相手を驚かせない様にゆっくりと近づく。
「や……やっ! やっ! やっぱり、引き返した方がいいんじゃないか? なんかいっぱいいるぞ! なあ!」
優れた勘も能力もないグレース達は、肉眼で見える位置まで移動したヤコブ達一団を前に、心音を早めていた。
「だ……大丈夫……大丈夫よ。落ち着いて……許可をあるんだから……」
引き返していては目的の時間に遅れ、確実に処罰を受けると考えたグレースは馬車を止めなかったが、恐怖で顔が引きつっている。いくら許可があろうとも、グレース達農園の者達にとって能力者は畏怖する対象であり、それは仕方がない事なのだろう。
(みんなは、ここで止まってて。僕の知り合いだ)
テレパシーで仲間達を止まらせたヤコブは、古株の男性が操る一頭だけで、グレース達に近付いていく。馬の上から自分達を見つめてくる相手に顔を向け、粘り気のある唾液を飲み込んだグレースに、ひょこりと男性の背後から顔を出したヤコブが声を掛ける。
「やあ、グレースさん。首都に向かうのかい?」
「ヤ……ヤコブ? なんで貴方が、ここにいるの? ノアの首都は、目と鼻の先なのよ? それに、こんな所を見られたら……」
焦りもせずに馬の振動で少しずれた帽子をかぶりなおしたヤコブは、テレパシーを受け取れない相手に、口頭で説明を始めた。それによって、自分達が思う以上に、英雄の戦いが進んでいる事を知ったグレース達は、それぞれが驚きの顔を作る。
「エース……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
今にも泣き出しそうなアリサが見つめた低い山の中にある首都内は、フォース達が動けなくなり、トラップが作動しない為、静けさを取り戻し始めていた。
「おい! 何してるんだ! 敵の探索はどうしたんだ?」
疲れ切った顔で立ち尽くしていた兵士達を見た、ネイサン直属である男性兵士二人が、仲間に駆け寄ろうとしている。
「来るな! 罠があるんだ! 怪我じゃすまないぞ!」
省吾の仕掛けた罠に、殺傷力はほぼないのだが、恐怖に負けている兵士達は、仲間に少し大げさな注意をする。
「はぁ? 罠? 罠って……もしかしてこれか? こんなもん、避ければいいだけじゃないか……」
建物の間に張られたワイヤーに気付いた男性兵士は、一度しゃがんでワイヤーを軽く指ではじくと、仲間の兵士達が声を掛けるよりも先に跨いだ。
「おい! ばっ……馬鹿か!」
ワイヤーを跨いだ男性兵士は、その先にあった地雷を作動させてしまい、近くで立ったまま動けなくなっていた兵士と共に壁まで吹き飛んだ。
「だから……注意したのに……馬鹿野郎が……」
壁に背中だけでなく後頭部をぶつけ、気を失った男性兵士を見て、動けなくなっている兵士達が顔を歪める。
「くっ! このワイヤー……先には、何も繋がってないじゃないか! 舐めやがって! こんなもの!」
「馬鹿か! 止めろ! それは……」
能力でワイヤーを切断したもう一人のネイサン直属である男性兵士は、意識していない方向から飛んできた住居の扉に対処が出来なかった。爆薬で吹き飛ばされた金属製の扉は、男性兵士の意識を刈り取るだけでなく、次の罠まで作動させてしまう。
引っ張れば作動するワイヤーの罠だけを省吾が仕掛けるはずもなく、切断されて作動するタイプや、本当に何もないただのワイヤーも多くある。能力者達の中にはサイコキネシスの力を使い、人間とは思えないほど跳び上がれる者もいるが、それすらも省吾は見越していた。
「また、地雷……。なら!」
二人の男性兵士が撃沈した場所から少し離れた路地裏で、またネイサン直属の兵士が根拠のない自信に満ちた笑みを浮かべている。
「こうすればいいだけだ! 馬鹿が……ああ?」
建物の屋根同士をつないでいた細い糸を切ってしまった兵士は、跳び上がった事を後悔しながら地へと落ちていく。
ネイサンに鍛えられていた兵士達は、リアムほど優秀ではないにも関わらず、他の者より能力だけでなく頭もよく、自分達を天才か秀才だと思い込んでいた。実際にその者達は、洗脳によってあまり考え事をしない者達よりは少しだけ賢いのだが、自分達の思っているほど優れている訳ではない。ネイサンが自分に扱いやすい程度の教育を施しただけの者達は、過去の世界でいえば基本的な教育を受けただけの凡人にすぎないのだ。
凡人以下の者達が多い首都内で育ったその者達は油断する事が多く、頭脳となれる指揮官がいなければ、他の兵士達よりも無能になってしまうらしい。隙だらけのその者達を、省吾のトラップは見事にからめ捕り、戦闘不能に追い込んでいく。
「どうかしたかね? マイヤーズ?」
参謀専用の部屋内でネイサンと会話を続けていたリアムは、再度聞こえ始めた爆発音によって、視線を窓に向けていた。リアムだけでなく、窓の外を見続けていたデビッドも振り返った為、ネイサンは問いかけている。
「何か……あったかもしれませんね。外で……」
省吾に及ばないとはいえ、直感が優れているリアムとデビッドは、胸騒ぎを感じ始めていたのだ。
「それは、外の戦いが終わったと感じているのかね? ふむ……敵は、ギャビンと戦うまでもなく、倒されたという事か?」
「いえ……。戦いはまだ続いていると思われます。さらにいえば、こちらの不利に事が進んでいるかもしれません」
あり得ないと思いつつも、リアムの言葉を確認する様に見つめたデビッドがうなずいた事で、ネイサンが腕を組んで鼻から息を吐き出す。それを見たリアムは、すでにかなり冷めている紅茶を飲みほし、間違っていた場合の予防線を張った。
「まあ、これはただの勘です。確認してみなければ、絶対とはいえません」
リアムの言葉を聞いたネイサンは、品のいい黒い椅子から立ち上がり、二人に指示をする。
「いや、能力者の勘は馬鹿に出来ん。確認をしておくべきだな。ついてきなさい。宮殿内にいる兵から、情報を聞こうじゃないか」
ネイサンに逆らおうと考えないリアムとデビッドは、先頭をきって部屋を出る自分達の上司についていく。
二人の勘を信じて動き始めたネイサンは間違えていないが、それをするのがもう少し早ければ、結果は変わっていただろう。時代そのものの流れを変え、運と呼ばれる要素さえマイナスからゼロに戻している省吾により、現実はネイサン達にまで平等な時を刻ませている。
人それぞれが平等に与えられた時間を、無駄に過ごしたネイサン達と、前に進み続けた省吾では、得られるものが違うのだ。
「馬鹿な! 誰が、それを許可したんだ! そんな事では……ええい! くっ……」
他の参謀達が、愚策に走った事を知ったネイサンは、自分に向いていた運が傾き始めた事を感じとり、焦りを覚える。
「井上省吾……奴の狙いは……王か……なら……」
取り乱し始めたネイサンを冷めた目で見つめているリアムは、省吾が次にどう動いてくるかを考えていた。
「誇りある……ノアの兵士か……こうなれば、惨めなものだ。うん? そういえば……」
ネイサンについて、宮殿内を移動していたリアムは、廊下に布団を敷いて寝かされている兵士達を見つめ、ある事に気が付く。多数のけが人を出しつつも、死者が出ていない事の異常性は、他の者達も洗脳さえされていなければ、気が付けたかもしれない。
省吾ならば、兵士達を殺すだけの力を持ち、それを恐れないはずだとリアムには分かったようだ。
「そうか……そういう事か。井上省吾」
ノア兵士達を宮殿から誘き出し、殺さずに確固撃破するという困難を敢えて行っている省吾の思惑に、リアムが逸早く気付いた。
リアムがノアに心から忠誠を誓うか、ネイサンに心酔していれば、それに対応する為の策を口にしたかもしれない。しかし、自分以外の存在を人間として見ていないリアムは、自分が優位に立つチャンスではないかと野心をたぎらせ始め、考えを誰にも教えなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
リアムの予想した通り、省吾は参謀達の愚策で宮殿内の戦力が減った事を直感で読み取り、その隙に死の物狂いで食らいついている。すでに宮殿内部に侵入している省吾は、着実に作戦を進めているといえるが、余裕など一欠けらもない。
ただの人間が一人で遂行するには重すぎる策に省吾は挑んでいるのだから、それは当然という言葉でしか表現できないだろう。瀕死の体から送られてくる痛みの信号は、主である省吾の意識を常に刈り取ろうとしており、命の砂は見る間に落下していく。
「はぁはぁはぁ……もう少し……」
添え木とワイヤーで応急処置をした骨の折れた右腕を庇いながら、省吾は暗く細い場所でほふく前進をしている。まだ完全に骨が折れてはいないが、上手く動かなくなった左足を引き摺る様に、省吾は進んでいく。
ガブリエラから宮殿の細部に至るまで情報を受け取っている省吾は、地下水路から宮殿内に侵入している。中庭の排水溝に繋がっている土管内は、大人一人がぎりぎり通れる広さしかなく、泥や苔でひどく不衛生だが、省吾はそれを意に介さない。
邪魔になる背嚢はすでに破棄しており、背中に乗せた武器を濡らさない様に注意を払いながら、左腕と右足だけの力だけで、這うように体を前進させる。血と泥で汚れ、ぼろぼろになっている省吾の姿は、偶像の英雄とはかけ離れているが、空想でしかないそれらより誇り高いものだ。
「ふぅ……ふぅ……進路……クリ……ア……」
金属の格子で塞がれた排水溝から、土管内に差し込む太陽光を見た省吾は目を閉じ、能力で出た先に敵がいない事を確認する。
「はぁはぁ……はぁぁぁぁぁ……ふっんっ!」
少し端がさび始めている排水溝の蓋を内側から押し上げた省吾は、そのまま素早く庭に出ると、柱の陰へと身を隠す。
……ここからだ。ここからが、本番だ。
体にワイヤーで固定していた武器の確認を素早く行った省吾は、音もなく王がいるはずの部屋へ向かって最短距離を移動し始めた。左足を痛めているとは思えない速度で移動する省吾の足音は、長い年月で習得した技能が消している。
……ぐうううぅぅ!
脳から分泌されている、アドレナリン等の薬物ではどうしようもないほどの痛みが、省吾を襲っている。だが、もうそれでは止まらない。柱や通路の曲がり角といった隠れる事が可能な場所までを、小刻みに移動しながら、誰に見つかる事もなく省吾は目的の場所に到着した。
玉座の間へと繋がる一本道になっている通路の手前には、祭典などを行う為に用意された、広い部屋がある。省吾の到着したその部屋の入り口は開け放たれており、本来いるはずの警備兵達も立っていなかった。
……入ってこいという事か、いいだろう。どの道、避けては通れない!
部屋の中央で高い位置にある窓からの光に照らされ、静かに立っているのは最強の一人であるギャビンだ。部屋に入る前からギャビンがいるだろう事が分かっている省吾は、自分の中に湧き出しそうになった恐怖を強い意志で握りつぶす。
目を閉じたまま腕を組んで立っているギャビンも、優れた直感で接近して来る者の気配を、すでに感じ取っていた。目を開いたギャビンは、鼓動と体温を高めて体を臨戦態勢にするとともに、どこか遠い眼差しを扉の先に向けながら呟く。
「ガブリエラ様……私はこんどこそ……」
それぞれが負けられない理由を背負った、最強と呼ばれる二人の戦いは、ギャビンの言葉から開始される。
「出てきたらどうだね? 井上何某くん。君の鉄に似た死の臭いは、ここまで漂ってきている。それでは、隠れた事にならない」
ギャビンのいる、太い柱が並び、全面が総大理石の広い部屋は、王が好む匂いに満たされており、その言葉は誇張しただけのものだ。王が好んでいるのは、ガブリエラの寝室でも嗅ぐことが出来た、野生のバラに似た強く甘い香りだった。
出入り口の陰でアサルトライフルの安全装置を外した省吾は、相手からの挑発を無視して、戦略を組み立てながら飛び込むべき時を見計らっている。
「どうした? 今更、怖気付いたとでもいうのか? ここには、私一人しかいない。さあ、出てきなさい。一騎打ちだ」
勘を研ぎ澄まされている省吾も、伏兵はいないと理解しているが、敵一人が大量破壊兵器並の強さを持っている為、はいそうですかと動けるはずもない。自分から動くつもりはないらしいギャビンは、省吾が居るであろう場所に向けた目を鋭く変えながら、言葉を続ける。
「その名前は……。確か、中ご……いや日本という国のものだったか? 君には多少の興味がある。私は、話をしたいとさえ思っているのだよ」
武力だけに頼りたいわけではない省吾は、ギャビンが本当に平和的解決を望めば、その要求を考えたかもしれない。しかし、ギャビンの隠しきれていない殺気を読み取っている省吾は、相手の呼吸を読む事だけに集中し続ける。
「国連軍といったそうだね? その軍は存在したが、それは過去の話で、今はなくなっている。君がもう一度、作ろうとしているのかい?」
洗脳によって、ノアが作る世界こそ人類にとって平和でもっとも理想的なものだと、ギャビンは信じて疑わない。その為、理想郷であるノアを壊そうとする省吾を、ギャビンは本当に排除すべき存在だと考えている。
「ふぅ……これでは、せっかく君の為に用意した舞台が台無しじゃなっ! はああぁぁぁ!」
ギャビンがわざとらしく目を閉じて息を吐き出した瞬間に、銃口だけを部屋の中に差し込んだ省吾が、引き金を引いていた。
省吾の能力が付加されたライフル弾は正確に敵へ向かったが、ギャビンの発生させた輝く六角柱型の力に、床に叩きつけられるか軌道を逸らされて壁へと向かう。そうなるだろう事は、省吾も分かっており、白い金属で作られた弾丸を使用してはいない。
……よし! 成功だ。
省吾がタイミングを待ったのは、入ろうとした瞬間に攻撃を受ける危険が高かったからだ。小さな隙を活かした省吾は、ギャビンに弾丸を防がせている間に部屋の中に入り、彫刻が彫り込まれている柱の裏へ身を隠した。
「ふふっ……。やってくれるじゃないか」
超高速で飛ぶライフル弾を難なく防いだギャビンは、体の周辺に三十センチほどある六角柱を幾つも浮かせたまま、口角を上げる。最強と呼ばれているギャビンの力は、その六角柱型のサイコキネシスであり、ウインス兄弟の力とは種類が全く違う。
能力のコントロールと練度が、ケイト達時間介入組すら優に超えているギャビンは、力そのものを凝縮し、物質化するのではないかと思える域に達している。中空をゆっくり動く六角柱は、ディランが使っていた壁の数倍は硬度があり、最大三十センチ、最少一センチまでの大きさに変化させられるのだ。残光の筋を残しながら音速で敵へと正確に飛んでいくそれは、どんな能力者の防御も突き破るだけの威力がある。
また、複数発生させて一ケ所に固めれば、どんな攻撃も弾いてしまう盾へと早変わりするのだ。そして、一度出した六角柱は砕けるか一定距離離れなければ、コントロール以外にサイコキネシスの残量を消費せず、再使用が可能だった。
反則的な凶器を持つだけでなく、ギャビンは肉体的な部分も含め、練度が凄まじく高く、下手な小細工が通用しない。
……距離を置いていては、勝機が無い。接近するしかない。
アサルトライフルから弾の無くなったマガジンを外した省吾は、特殊な弾丸の詰まったマガジンを差し、弾を装填する。相手の隙なくしては、まともに戦う事すら出来ない省吾は、どうにか隙を作る為に脳内で幾種類もの策を巡らせた。
「どうした? これで、終わりか? 井上……何某くん?」
……やるしかない! ここが正念場だ!
「省吾! 井上省吾だ! もしくはエーでも、エースでも構わない!」
省吾から返事が返ってきた事で、ギャビンは驚きから目を大きくしたが、すぐに怪しさが漂う笑みを顔に戻す。
「ふむ……どれが、本名だ? それとも、全てが偽名か?」
緩やかに喋るギャビンに対して、省吾は柱の後ろに隠れたまま、叫ぶような大きい声を返した。
「戸籍上は、井上省吾! 本名は知らない! エースは字名だが、エーもれっきとした、俺の名前だ!」
「それでは、困るじゃないか……」
意味ありげに言葉を切ったギャビンは、全身の発光量を増やしながら、目にこもった殺気をほとばしらせていく。
「何故だ!」
……来る!
「君の……墓に名が刻めなくなるんだよ!」
省吾の隠れている柱に向かって、喋る事に集中してしまっただろう敵を打ち砕く為に、ギャビンの力が襲いかかる。だが、省吾がギャビンと会話をしていたのは策の一部であり、集中力をその程度できらせるはずもない。
大きな声で喋る事により敵に自分の居場所を教え、喋る事で隙が出来た様に見せた省吾が狙ったのは、敵が攻撃に移る隙だ。六角柱の形をした力が飛び立つよりも、刹那の時間だけ早く柱の陰を出た省吾は、敵に向けた銃口から弾丸を放つ。
ギャビンが、一度に発生させられる力の数に限りがあると知っている省吾は、敵のいる方向へ真っ直ぐに幾つもの弾丸を進ませる。攻撃を先に仕掛けたせいで、自分を守る力が少なくなっているギャビンは、防御に全てを向けるしかない。
左手だけで支えたアサルトライフルの引き金を引いたまま、短い間確保できた安全な時間で、省吾はギャビンとの距離を詰める。
「ふん! 小細工を! はあああぁぁぁぁ!」
攻撃に向けた六角柱が、大理石の柱を破壊しながら離れ過ぎた事でガラスのように砕け散り、ギャビンは失った数を掌から発生させてしまう。
……くそっ! 早い! 早過ぎる!
ギャビンが再び補充するまでの時間が、死角に飛び込むために斜めに進んでいた省吾の予想を超えていた。
「終わりだあああぁぁぁ!」
弾丸を苦もなく防ぎながら、ギャビンが右拳を突き出したのと同時に、防御にまわらなかった力の塊が輝きを増す。
……まだ! まだだああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!
とても人間では回避できない力が、ギャビンの元から飛び出す寸前、窮地に追い込まれた省吾は今まで到達した事のない領域に足を踏み出した。死なない為に人間が備えているリミッターを全て外した省吾は、今まで以上の高速域に意識を加速させ、直感があり得ないレベルにまで引き上げる。
ギャビンの六角柱が、自分の後二歩ほど進んだ場所へ真っ直ぐ飛んでくるとはっきり見えた省吾は、地面に向かおうとしていた右足の角度を変えていく。自分の足さえもゆっくり動いているように見える世界で、省吾はギャビンの右側面に向かっていた体を、相手の正面に向かうように急激に変化させた。
それにより、ギャビンの力が進み軌道と省吾の体は接触しない事になり、相手との距離も一気に詰まる。主から届いた無理な注文に、ファントムを生み出す黒い力を借りたとはいえ、省吾の体はスムーズに答えていく。
何故なら、省吾の体がその無茶と呼べる指示を受けたのは初めてではなく、かなり慣れているからだ。そこまで意識下で精密にコントロールしたのは初めてだが、戦場を駆け抜け続けた省吾は無意識化で力を使い、飛び交う弾丸や砲撃をかい潜って今に至っている。
……なんだ? くっ! くそおおぉ!
省吾が左足を蹴り出し、右足をもう一度床に向かわせている間に、最強のフィフスは信じられない事をやってのけた。真っ直ぐに突き出した右拳を、フックに変化させて内側に巻き込んだギャビンの指示に、六角柱達は従う。
省吾より遅いとはいえ、練度の高さによって高速での動きに対応したギャビンは、走る角度を変えた敵に攻撃を合わせたのだ。空中で進む軌道を九十度変えた輝く力の絡まり達は、省吾の命を砕く為に、音速で進み続けた。
「おおおおおおぉぉぉ!」
凄まじい速度でぶつかったギャビンの力達は、最終的に床や壁にぶつかり、爆裂音を響かせる。音速で動いた六角柱は、実際には物理的な物ではない為、空気との摩擦や衝撃波を生む事はないが、尋常ではない破壊力を持っていた。省吾の持っていたアサルトライフルは粉々に砕かれ、硬い大理石の床すら、発泡スチロールで出来ているかのように弾け飛んでいく。
凶暴なウインス兄弟ですら、争う事を避け続けたギャビンの力は、人間に向けていいレベルのではない。もし空想でしかないが、ドラゴンや巨人といった化け物がいたとしても、ギャビンは神話に登場する神々のように撃ち滅ぼせるだろう。
いくらリミッターを外したとはいえ、所詮人間でしかない省吾は、その規格外の力を受けて無事で済むはずがない。ギャビンの視界には、すでに省吾の姿はなく、ライフル銃や大理石の破片だけが飛び散っている。
……このおおおおおおぉぉぉ!
自分の予想を超えてきたギャビンに対して、省吾は捨て身の戦法を迷いなく選び、ナイフを抜いていた。邪魔になるアサルトライフルから手を離し、右肩から床に向かって倒れ込んだ省吾は、走っていた勢いで転がる様にギャビンの足元へ到達している。走っている車から飛び降りるのにも似たその行為は、恐れを心から完全に消していた省吾だからこそできたのだろう。
床にぶつかった衝撃で飛びそうになった意識を引き戻した省吾は、力の流れに逆らわない様に転がりながら両膝を折り畳み、体勢を変化させていた。まだ丸まっている状態から無理矢理右足で床を踏みつけ、上体を起こし始めた省吾は、ギャビンの足元で片膝をついた状態になっていく。
ギャビンが右拳を突き出す為に前へ出した左ひざに、省吾の上へと向かって行く鼻先が掠めた。立って前を向いている状態では、胸元までしか人間の視界は届かない為、自分の下半身部分は死角になる。
完全に敵の死角へ入りこんだ省吾は、まだアサルトライフルが砕けた場所を見ているギャビンには見えないはずだ。
……いっけええええぇぇぇぇ!
省吾の左手にしっかりと握られているナイフは、黒い刃をギャビンの足元から喉へ向けて、真っ直ぐに進み始めた。
「なっ!」
大きく耳障りな金属音に混じって、省吾の驚きに満ちた声が部屋に響いていく。
口が裂けているかのように口角を上げているギャビンは、顔を足元に向けながら眼球をぎょろりと動かした。決死の覚悟で飛び込んだ省吾の刃は、弾丸を弾かなくてもよくなった六角柱達が作った盾に、見事に防がれていたのだ。
ハニカム構造を思い出すほど隙間なく集まったギャビンの力は、特殊な金属で出来たナイフでも切り裂けないほど強固になっている。
脳の処理を最高速度にまで高めていたギャビンは、顔の動きこそ遅れたが、転がってくる省吾を認識できていた。そして、直感で省吾の攻撃が向かってくると感じ取ったギャビンは、太もも部分から胸元までを守る六角形の盾を能力で作り出している。
「甘いな」
……化け物め!
もし自分が逆の立場なら防げなかったであろう会心の攻撃を、笑いながら対処して見せたギャビンに、省吾は奥歯を強く噛んだ。だが、省吾の強い意志を灯した目はまだ死んでおらず、考え抜いた策も潰えたわけではない。
省吾がアサルトライフルを使って放った弾丸達は、ギャビンの能力で防がれ、壁に向かっている最中だが纏った光を消していない。誘導の力を付加された弾丸達は、真っ直ぐにしか飛んでおらず、ギャビンに弾かれる以外に方向を一度も変えてはいないのだ。
そのライフル弾達が、ギャビンに正確に向かって行けたのは、省吾の基本的な射撃能力でしかない。
……そこだ! 撃ち抜け!
ナイフの攻撃を防ぎ、笑っているギャビンに対して、省吾は能力で進む方向を百八十度変えた弾丸を、背中へと直撃させようとした。ギャビンが笑っているのは、すでに勝利を確信しているからではあるが、結末は省吾の予想を超える。
……なっ! そんなっ!
背後から向かってくる弾丸すら超感覚で知覚出来ているギャビンは、作っていた盾に隙間を作り、右拳を引きながら左腕を伸ばす。省吾とタイプは違うが、戦闘に関して天才的な能力を持つギャビンに、弾丸の軌道が変えられるのを見せていたのは、致命的なミスだった。
「はああああぁぁぁぁ!」
省吾の腕を掴んだギャビンは、引き抜く様に敵の体を宙に浮かせ、自分の背中を守る盾にしてしまう。
……くっ! くそおおおぉぉぉ!
空中に投げ飛ばされた省吾は、もう何もすることが出来ず、ギャビンの斜めになった背中を見ている。
……こんな所で。こんな所でえええぇぇぇ!
自分の背後から迫ってくる、自分自身が放った弾丸の気配を感じ取りながら、省吾は顔を歪めた。セカンドでしかない誘導の力は、角度を一回変更するだけで消えてしまうほど、弱いものだ。
省吾の考えていた策はその弾丸達を防がれても、もう一段階先はあったが、空中に浮いた状態ではそこへは進めない。それだけでなく、人間を殺すには十分な威力がある弾丸に体を打ち抜かれてしまえば、省吾の全てが未来と共に終わる。
「ぐがああぁぁぁ!」
もう省吾からの指示を受け付けなくなっている弾丸達が、垂れ下がってほとんど動かない右腕から、着弾していく。
省吾の強い意志を、残酷にして無慈悲な現実が物理的力で、一気に押し潰そうと牙を突き立てた。