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名無しのエース  作者: 慎之介
六章
62/82

 超能力者達は外部的に分かり易いサイコキネシス側の力だけでなく、超感覚と呼ばれる五感を拡張する能力を持っている。レベルや基礎となる能力の組み合わせにより、それは様々な能力として発揮されるが、受け取った外部からの情報を処理するのは人間の体だ。自分の持った能力を扱い続ける事で磨かれている練度は、使いこなせていなかった超能力を開放していくと同時に身体を鍛える事もさす。


 つまり、練度を高めた者は能力の応用や拡張が出来るだけでなく、元の五感も常人より鋭敏になって行き、銃弾を知覚できる程に変われるのだ。


 ファーストでしかない省吾の部下である特務部隊の者達は、戦場で戦っただけでなくファントムを駆逐し続けており、五感もかなり鍛えられている。能力自体の幅に大きな差があり、本来ならばファーストの者はサードの者に敵わないはずだ。しかし、未来の世界で家畜のように生きるサード達よりも、練度の高い特務部隊の者達は実戦で役に立つ。セカンドであるにも関わらず、ノア兵士達に省吾が勝っているのは、練度を誰もまねできないほど鍛えている事が大きい。


 フォースであるケイトの練度は特務部隊に所属した者達ほどではないにしろ、ノア兵士達よりは確実に高く、それに伴って五感も鋭くなっている。ケイトの練度を知っている省吾は下手に動けば、自分が相手に触れる前にボタンを押されると推測できた。


「お……落ち着け……」


 省吾が数センチ足を前に進めただけで、ボタンの上にある親指をケイトは折り曲げて叫んだ。


「動くなって……いってるだろうがああぁぁぁ!」


 ケイトの強く大きな言葉は、省吾の顔をひきつらせ、こめかみ部分から冷たい汗を流させた。


 心底から省吾を止めようとしているケイトは、日頃の優しい顔と丁寧な喋り方をかなぐり捨て、本来の言葉で省吾だけでなくヤコブも威嚇する。


「お前もっ! 動くなっ! これははったりじゃない! いいなっ!」


 ケイトの言葉に体をびくりと跳ね上げたヤコブは、息をのみながらゆっくりとうなずいて見せた。


 知能面で優れているヤコブは、対処策を考えながらも、ケイトが自分にいった言葉を思い出している。喋るのが上手くないといっていたケイトが、ヤコブの想像していた以上に荒々しい言葉を口にし始めたからだ。


 セーラから言葉を習い始めた頃のケイトは、使いやすいという理由で、今省吾達が聞いているような言葉遣いをしていた。時間介入組の中でも比較的早くセーラに保護された第二世代の者だけが、そのケイトを知っている。


……まずい。この距離は、詰められない。どうする?


 ケイトの言葉使いを気にしている余裕すら無い省吾は、粘度の高くなった唾液を飲み込みながら目算で距離を計算していた。


「くそがあぁ! 動くなよおぉ!」


 省吾が少し腕を動かしただけで、ケイトは折り曲げた親指をボタンに近付け、相手を威嚇する。


「落ち着くんだ、ケイト。それを置け」


 物理的にどうしようもなくなっている省吾は、なんとか交渉を試みようとしているが、後先も考えられなくなっているケイトが簡単には応じるはずもない。


「ふざけんなっ! 落ち着けるわけ……ないだろうがああぁぁ!」


……まずい。ケイトは、目的すら自分で見失いそうになっている。なんとか、そこを思い出させないと交渉も無理だ。


 省吾の全てを受け入れられるほどになっていたケイトだが、どうしても離れたくないという気持ちがそれを上回ってしまった。自分ではどうしようもなくなったケイトの欲望は、脳の線を切ってしまっており、冷静な思考力を失わせている。


 そのように思い余った思考にでもならない限り、省吾は止められないのだと、ケイトもどこかで分かっているのかもしれない。


……そうだ。目的を思い出させて、なんとか落ち着かせるんだ。


 目を血走らせ、鼻息が荒くなっているケイトに、省吾は降参の意志を示す為に両手を上げて見せた。そして、ゆっくりとケイトが凶行に及んだ理由を聞き、妥協する為の道を探そうとしている。


「目的はなんだ? 要求を教えてくれ。それとも、俺を殺したいだけか?」


「ちがっ……違うっ! わた……私の要……求は……」


 要求を思い出そうとしたことで、狂気に染まっていたケイトの目に、少しだけ理性の光が戻っていく。


……まだだ。まだ、警戒は解けていない。焦るな。


「行ってほしくない……。そうっ! 行ってほしくないんだよ! それじゃあ……確実に死んじまうだろうがっ! あんたがあぁ!」


 瞬きをほとんどしていないケイトの目に、感情の高ぶりから涙が溜まり、叫びと共にこぼれ始める。


「何故だ? 作戦が成功すれば、お前の望んだ平和が手に入るんだぞ?」


 省吾の質問で奥歯を音が出るほど強く噛みしめたケイトは、抑える事が出来なくなった気持ちをぶちまけた。


「あんたが……あんたが好きだからだよおおぉぉ! 愛してるんだよ! ちくしょおおおぉぉぉ!」


 腕を上げたまま両目を大きく見開いた省吾は、一気に噴き出していた汗が引き、しばらくの間硬直する。


「死んでほしく……ないんだよぉぉ。一緒にいたいんだよおぉぉ……くそっ……」


 スラングも含まれているが、ケイトの素直な愛の告白は、自身で想像していた月明かりの元で行われた。ただ、ケイトが想像していたロマンチックなものとは大きく違い、周囲はかなり張りつめた空気が漂っている。


「ふぅぅぅ……。なるほど。よく分かった」


 息を吐いた省吾は腕を下しながら目を閉じ、ケイトからの想いを噛みしめながら頭を回転させていく。


……ケイトは、何度も俺を救ってくれた。先の無い俺が彼女に出来る事は、もう決まっている。


「なっ! 動くなっ!」


 目を閉じたまま隣に立つヤコブの肩に手を置いた省吾は、念話によってケイトの事を依頼した。


(えっ? いいの? そりゃ、出来るけど……)


(ああ。すまないが、頼む)


 恥も外聞も捨ててケイトが立ちはだかったのは、立ち止まろうともしない省吾に、どうしても自分を見てほしいという気持ちからだ。


「あ……あう……あ……」


 省吾が目を閉じた事で、冷静になりかけていたケイトの中で気持ちが暴れ出し、言葉すら上手く出てこなくさせている。


「こっ! こっち見ろよっ! 私を……見て……よ……」


 やっとまともな言葉を絞り出したケイトは、迷いの無くなった強い意志を見て取れる瞳の前で、声が小さくなっていく。勘違いされる事も少なくない省吾の強い力を持った眼光は、ケイトから思考どころか、時間そのものを奪う。


「あ……ああ……」


 省吾の心を全て飲み込んでしまいそうな瞳に見惚れていたケイトだが、体を相手に触れられた事で、意識が元に戻る。ケイトは省吾の取った予想外の行動で、呼吸が止まり、少し前とは違う意味で思考回路が停止した。


「ケイト……ありがとう……」


 省吾は無防備にケイトに近付いただけでなく、自分の命を奪うかも知れない起爆スイッチを奪おうともせずに相手を抱きしめる。


「ケイトのおかげで、俺は今ここに立っていられる。ケイトがいなければ、俺はもうこの世にはいなかっただろうな。ありがとう、ケイト」


 抱きしめられたまま想い人から囁かれた事で、ケイトは両腕から力が抜け、起爆スイッチが地面へと落ちていく。まだ泣き止むことが出来ないケイトは、震える両手を省吾の背中にまわし、心を天へと昇らせる。


「いっちゃ……やだああぁぁ! エー!」


 抱きしめる力を少しだけ強くした省吾は、少しの間だけではあるが、ケイトの涙が落ちた肩の微かな暖かさを味わう。


「エー?」


 腕の力を抜き、自分とケイトの間に少しだけ空間を作った省吾は、相手の額に軽い口づけをした。幼かった省吾を本当の息子として育てていたマークは、額への口づけをした後に問いかけてきた少年に、最大の愛情表現だと説明している。


 涙を流しながら頬を赤く染めたケイトは、それが相手のその場で出来うる最大の愛情表現なのだと理解できていない。しかし、自分が全てをさらけ出して告白した結果、省吾が受け入れてくれたのだとは分かっているようだ。


「ケイトからの気持ちは、俺の誇りになる……。ありがとう……」


 信じられないほどの幸福感に包まれたケイトは、目を閉じて省吾の胸に頭の重さを預けたが、次の瞬間に顔を青くした。


「この想いも背負って、俺は前に進むよ。俺は、ケイトに幸せな未来を、必ず与えて見せる」


 自分の気持ちは受け入れられたが、引き留める事に成功していないと分かったケイトは、閉じていた目蓋を急いで開こうとする。だが、抗えないほど強力な精神波の直撃を受け、一瞬で意識を暗い闇の底へと落としていった。


 省吾から依頼を受けていたヤコブが、搾り出した力で強力な精神波を作り、ケイトのヒューズを強制的に切ったのだ。


 ケイトは省吾の行動でサイコガードを忘れてしまうほど気が緩んでおり、抵抗することも出来なかった。結果的にケイトの精神にダメージを一切負わせる事なく、省吾は彼女を無力化する事に成功したのだ。清濁に気を回すことも出来なかった戦場を生きた省吾は、狡いと思われるほど鮮やかに相手の隙を突く。


 全身から力の抜けたケイトが倒れないように掴んだ省吾は、体勢を入れ替えて優しく抱き上げ、近くにあった木の根元にゆっくりと寝かせる。そして、起爆スイッチを回収した後、布袋に入れていた戦闘服と拳銃を取り出し、素早く着替えを済ませていく。


 防弾チョッキの上に戦闘服を身に着け、慣れた手つきでホルスターをつけていく省吾を、ヤコブはただ黙って見つめていた。


……これを着るのは、いつ以来だろうな。


 フィフスという化け物が大勢いるノアの首都へ、単身乗り込もうとしている省吾は、日頃と少しだけ違う戦闘服を身に着けている。特務部隊に配属されてからは、緑を基調とした迷彩柄の戦闘服を省吾は身に着ける事が多かった。


 同じ迷彩柄と呼ばれる今身に着けた戦闘服は白と灰色を基調としており、特殊部隊に所属していた時代に省吾が毎日着ていた物と同じ型だ。その戦闘服こそが、省吾にとって文句の無い自分に相応しいと思える、死に装束なのだろう。


「後は……。任せたぞ」


 最後に戦闘服のグローブをつけ終えた省吾は、ヤコブに声を掛け、相手がうなずくと同時に走り出す。


……よし。作戦開始だ!


 川原まで移動した省吾は事前に選んでおいた馬の馬具に、準備していた装備を固定し、腕時計を確認した。


……急ごう。もう、時間の余裕はない。


 省吾は馬の自由を奪っていた縄をほどき、鐙に片足をかけて跨り、手綱を使って指示を出す。逃げ出したくなるような勝率しかない作戦に挑む省吾だが、その瞳に迷いも陰りもないだけでなく、灯っている炎をより強くしていた。


……俺が、変えてみせる! この狂った世界を!


 自分の中にある砂時計の砂は残り少ないとよく分かっている省吾だが、死への恐れはとうの昔に捨ててきたらしい。首都へと向かう間にも、激しい苦痛は省吾を幾度か襲ったが、己を運命の弾丸にした青年の強い意志を揺らがせる事すら出来なかった。


 重すぎるといっても過言ではない想いや命を背負った省吾は、一人で馬を駆り、戦場へと突き進んでいく。


 省吾を回転の中心とした歯車達が、月夜を走る青年の動きにあわせて、軋むような轟音をあげて力を自分と連動した仲間に伝えた。それに伴って運命の字名を持つ者が月明かりに、穏行の力を紛れ込ませ、省吾に纏わせる。


 リアム達を注視している絶望は、あり得ないとしかいえない道を省吾が選んだ事もあり、その動きに気付いていない。


「あら?」


 省吾と同じように月明かりに照らされている者達の中で、焚き火の火力調整をしていたグレースは、アリサを見て笑顔を作る。グレースや農園の仲間達と食事を終えたアリサは、慣れない移動の疲れからか、座ったまま眠り始めてしまったのだ。


「ふふっ……。お疲れ様」


 馬車から薄手の毛布を取り出したグレースは、アリサを起こさない様に気を付けながらそれをかける。


「疲れたんだろうねぇ……」


 労働者である中年女性も、日頃から周囲に明るさを振りまく農園のアイドルとなっているアリサの寝顔に、自然と優しい表情を作っていた。その隣で地面に直接座り、地図を広げている労働者の青年二人は、自分達が進み終えた距離を確認している。


 しかし、産まれてから農業を強制され、ろくに勉強をする機会が与えられなかった二人は、地図をほとんど理解できない。


「なぁ、グレースさん? 今は、このあたりだったよな?」


「えと……農園って、これだったっけ?」


 倒れていきそうだったアリサを地面に寝かし終えたグレースは、青年二人の背中越しに地図へ目を向ける。


「ええ。今居る場所はあってるわ。でも、農園はそのもう少し下の、四角くて文字の書いてある所よ」


「ん? ああ、これか……」


 説明を受けた青年の一人が、小指と親指だけを伸ばした手を地図に置き、直線的ではあるが農園を出て丸一日自分達が移動し続けていた距離を測っていく。目的としている場所までの距離が、残り三分の二ほどだと分かった青年二人は、満足したようにうなずきあう。


「そんなに、心配しなくても大丈夫だよぉ」


「そうよ。明日の日が出てから、出発しても……。多分、お昼過ぎには着けるはずだから」


 目的の場所への到着が遅れれば、酷い目にあうかも知れないと恐れている青年達を、女性二人が笑う。


「わかってっけど……なあ?」


「うん。正直、何があるかわからねぇし……怖い」


 グレース達が翌日までに到着する必要があるのは、ノアの首都であり、二台の馬車は大量の農作物を荷台に積んでいる。


「そうよね……。でも、農園でもいった通り、これはいい兆候なんだし……。頑張りましょ」


 省吾がノア兵士達を撃退し続けたせいで、農園へと向かわせられる者が少なくなっており、グレース達に直接持ってくるようにと指示が出た。直接伝言に来たノア兵士に聞いたわけではないが、大よその事情が推測できたグレース達は、指示に素直に従ったのだ。


 救世主と信じた男性が、着々と世界を変えているのだと感じられたグレース達外へ出た数人以外の労働者達は、今も未来への希望を仲間達と話し合っている。


「あ、ああ。そうだな」


 グレースに気のある青年二人は、大きく息を吐くことで恐怖を紛らわせると、うなずいて見せた。青年達の笑顔はぎこちないが、化け物の巣窟である首都に向かうグレースを守ろうとついてきた勇気に、嘘はない。


 その事が分かっている中年女性は、青年二人に発破をかけようとしたのか、冗談として少し縁起の悪い事を口に出す。


「まぁ……。いざって時は、グレースの為にあんたらが死ぬ気で働いておくれな。その為に、来たんだろぅ?」


 ディランの事を思い出した青年二人は、中年女性の発した死ぬという言葉で、腰から逃げるような姿勢にはなった。だがすぐに自分にとって大事な事を思いだし、グレースに顔を向けてから、中年女性に返事をする。


「お……おう! グレースさんとアリサちゃんは、死んでも俺達が守ってやるよ。見てろよ! ばばあ!」


「あたしは見捨てるのかい? 冷たい子だねぇ」


 中年女性に言葉の揚げ足を取られた青年の一人が、言葉を詰まらせたのを見て、グレースがくすくすと笑う。


「あの人には敵わないけどさ……。それぐらいなら……僕達にでも出来ると思うだよね……。きっと……」


 グレースと同じように笑ったもう一人の青年は、自分達を守った青年を思い出しながら呟く。その言葉を聞いた他の三人も、ニコラス老人達がこの世を去った日の事を思いだし、焚き火に目を向ける。農園でノアから世界が解放される日を待つ者達は、火を見るたびにその日戦場となった農園で、真っ赤に染まった男性を思い出す。


 夜風で目にかかった髪をかきあげたグレースは、胸が苦しくなるのを誤魔化そうと、空へ目を向けた。火から視線を外し、省吾の事を考えないようにしようとしたグレースだが、それは上手くいかない。輝く星達が自己主張をしている夜空を見たグレースは、つい省吾は今もその空のもとで戦っているのではないかと、考えてしまうのだ。


 ただし、省吾が戦っているどころか、最終ともいえる作戦を進めているとは、グレースも考えていない。それどころか、直接説明されたガブリエラ達親子以外、その世界では誰一人として省吾の開始した策を気づける者はいないだろう。


 省吾の行おうとしている事は、全ての情報を掴みさえすれば、他の者でも案の一つとしては考え付けるかもしれない。だが、あまりにも成功する確率が低く、強大な力を持ったノア側からすれば恐れの対象すらならないだろう。そして、それが反乱軍に所属する者達ならば、成功するはずもないと考え、他の策を模索するはずだ。


 そんなレベルの策を選んだ省吾だが、決して死期が迫った事で自暴自棄になった訳ではない。兵士として熟練されている省吾は、過剰な自信や英雄願望など持たず、勇気さえ捨てて、やるべき事を淡々とこなそうとしているだけだ。


 誰もがあり得ないと考える策こそ、本当に結果を残せる戦略なのだと、省吾は戦場で身を持って味わった事がある。ヨーロッパの最前線で省吾が死の淵をさまよう事になった、敵勢力の一斉攻撃もその一つだろう。省吾が傷も癒えきらぬうちに出撃したのにも、死期が迫っている以外に、敵へ可能な限り情報を与えない為という理由があるからだ。


 二十一世紀の戦争を戦った省吾は、情報の面で敵よりも優位に立つ事が、どれほど重要かを認識できている。実際にノアの参謀達は、百人もの仲間が負けるなどとは考えておらず、ましてや敵が攻め込もうとしているなどとは予想もしていない。


 ガブリエラ親子から託された情報は、省吾の手に渡った時点で、ノアの牙城を崩す強力な武器となるのだ。白い特殊な金属で出来た弾丸と、情報を得た省吾は、十分な勝算があるからこそ、馬を走らせている。


……ここで間違いないな。よし。


 馬を走らせ続けた省吾は、日時が変わる少し前に、ノアの首都がある標高の全体的に低い山岳部に到着した。そして、長距離の移動でばててしまった馬を、木につなぐ。そこは、人目に付かず、餌である草が生えている川の近くだ。


 馬具に固定していた荷物を持った省吾は、ガブリエラから得た情報を元に、首都内部へ侵入する目的のルートへと向かう。


……あれだ。


 カバンから取り出した個人用暗視スコープをつけた省吾は、首都内から川へと排水する為の水路を見つけた。ノアの首都は元々あった発電所を改造して作っている為、目の届く範囲は警備が強化されているが、それ以外の場所に隙はある。直径四メートルはあるその排水溝も、大型の動物が入り込まない様に金網を張られているだけだ。


 古くなって強度が落ちている金網をナイフで傷付け、蹴破った省吾は難なく水路に侵入した。人が出入りする様に作られていない水路は、登りになっており、足場も曲面になっている上に滑りやすい。そんな水路を苦も無く走っているのは、省吾の戦いで磨いたバランス感覚が、常人のそれとは違うからだろう。


 暗く一本道になっている水路に、ばしゃばしゃと省吾が走る事で水の跳ねる音だけが、響いていく。水路はかなり長いものだったが、省吾は立ち止りもせずに一気に駆け抜け、短い時間で首都の地下に到達した。


「ふぅぅぅぅ……」


 地上へと出る為の梯子の前で立ち止まった省吾は、呼吸を整えながら地上の様子を千里眼で確認する。洗脳を受けている首都に住む者達に夜遊びの習慣はないようで、町の中には掃除を義務付けられたみすぼらしい姿の奴隷である者達だけが彷徨っていた。


……これが、洗脳か。俺は影響を受けないが、サイコガードは反応しているな。


 両手に持ったバッグの取っ手に手首を通した省吾は、壁から直接生えた金属製の梯子を素早く昇って行く。そして、かなり重いはずのマンホールの蓋をてこの原理で難なくずらすと、すぐには地上にあがらず、目を閉じて感覚を研ぎ澄ます。


……見られている感覚はないな。見張りも、宮殿と門周辺だけだ。


 常時索敵しているのは、宮殿と呼ばれる場所だけだとガブリエラから省吾は教えられていたが、確認を怠らない。


 地上に出た省吾は、極力音を立てない様にマンホールの丸い蓋を閉め、素早く建物の陰へと移動する。首都内で亡者のようにゴミを拾いながら徘徊している奴隷達ですら、隙の無い省吾に気付いてはいないようだ。


 奴隷達の清掃活動が深夜一時まで行われると聞いていた省吾は、一度目を閉じてガブリエラから受け取った首都の地図を思い出していく。


……武器の量には限りがある。囮を効率よく配置して、メインは一本だけに絞るしかないな。なら、悩むまでもない。


 ノアの首都自体を戦場にすると決めた省吾だが、フィフス達に真っ向から挑んで勝てるとは思っていない。


 奴隷達が水路とは別の地下にあるねぐらへと帰り始めた所で、省吾は闇にまぎれて首都の中を走り出した。個人用暗視スコープの力も借りている省吾は、一切の迷いなく、石畳の道や建物にトラップを仕掛けていく。荷物が減る事で省吾の移動速度はどんどん増して行き、それに正比例してトラップの数も増えていった。


 省吾が素早く取り付けているトラップは、超能力者ならば死にはしない程度の物ばかりだが、それも計算のうちだ。ガブリエラから首都の外にでるノアの者達は、洗脳の必要なく王に賛同しているが、都市内に生きる者達はそうではないと教えられている為、省吾は殺そうと考えていない。


 自分や反乱軍の殲滅に首都を警備しているフィフスが出てこなかったのは、その為なのだと思い当たった省吾もその情報を信じているのだ。弱者を守る事と、強者を殺す事がイコールではないと、ウインス兄弟のように殺人に快楽を感じない省吾は、正確に考えられる。


……ここが最後だ。後は、門と門番だけ。


 省吾が到着して数時間で、広いノアの首都は、知らずに歩けば大怪我をするほど危険な場所へと変化した。


 トラップを仕掛け終えた省吾は、腕時計で時間を確認し、太陽が山裾から顔を出すまでを考えていた。暗視などの超感覚も自分より優れている敵と戦う省吾は、夜間の戦闘で自分にほとんど理が無い為、太陽光が首都を照らし始める時間に作戦を開始すると決めているのだ。


……後、二時間ほどだな。十分だ。


 洗脳の力により、一部の者を除いて定時に眠る住民達の睡眠サイクルまで、省吾は計算して開始時刻を決めている。


 中身の無くなった大きな二つのバッグを破棄した省吾は、背嚢が軽くなった事もあり、侵入時よりも軽快に真っ暗な街中を走っていく。首都内で能力による警備が敷かれているのは、情報通り宮殿付近だけだった為、音を立てないだけで省吾は誰にも気付かれずに自由に動けていた。


……なんだ?


 人の気配を感じ取った省吾は、移動速度を急激に緩め、建物の壁に背をつけて聞こえてくる音に集中する。


……これは、泣き声? なのか?


 銃を構えて千里眼を発動した省吾は、そのまますすり泣く声が聞こえる場所を能力で確認した。月明かりに照らされた二つの小さな人影は手を繋いでおり、体の大きな少年が開いた手で目元を何でも擦っている。


 妹らしき少女を連れたその少年が奴隷である事は、身に着けた泥だらけの服装を見た省吾にもすぐ推測が出来た。


……これが、ノアが作った世界の本質か。


 やっと手に入れた食料を、同じ奴隷である者達に奪われそうになった少年は抵抗した為、暴行を受けて切れた唇から血を流している。悔しさから泣き止めない兄を見上げている幼い少女は、自分の目にも涙を溜め、唇を強く結んでいた。


 食料を奪われたという事まで省吾は分かっていないが、腫れた顔と体中の青あざで、暴行を受けたらしい事は察しが付いている。苦しみしか与えてくれないノアの支配した世界で、幼い兄妹は懸命に生きているが、虚ろな瞳には希望どころか絶望もない。希望というものを知らない為に、絶望する事すら出来ない二人は自殺を選ばないが、それは何よりも悲しい事だ。


「ふぅぅぅ……」


 個人用暗視ゴーグルを外した省吾は顔を空に向け、肉眼で自分を照らしている月を見上げて息を吐いた。幼い兄妹の涙を見た事で、死んでいった多くの者達や、ガブリエラ親子の悲しみ姿まで脳裏に蘇ってきた省吾は、痛む胸の上に手を置いている。


……こんな世界にする為に、俺は戦ったわけじゃない。こんな世界にしない為に、俺達は命を掛けてきたんだ。


 戦争中に黄泉の世界へと旅立っていった戦友達まで思い出した省吾は、これまでないほどに意志の炎を強くしていく。ノアの世界を作り出した黒幕へ向けられた、省吾の激しい怒りと深い憎悪は、上限が見えないほど高まっている。


 抑えきれなくなり始めた省吾の闘志に呼応して、ケースに入ったままの白いナイフは、じわりじわりと黒く変色を始めた。


「あっ! ああ……」


 まだ泣き止めない兄の手を掴んでいた少女は、その手を離し、石畳みの隙間に挟まっていたスナック菓子の破片を拾う。


「これ……」


 自分も空腹なはずの少女は力なく笑うと、泥のついた菓子の破片を、兄へと差し出していた。


「ぐすっ……お前が、食べな……」


 妹からの優しさを見た少年は、両手で何度も目を擦った後、無理矢理笑顔を作って声を出す。しかし、少年の顔からはすぐに笑顔が消え、真っ青な引きつった表情になると同時に、妹を庇うように抱きしめる。


 音もなく、いきなり眼前に現れた省吾を見た少年は、大事な妹を守ろうとしてそのような行動に出たのだ。


……なるほど。あざの位置が、腕や背中ばかりなのは、そのせいか。


 幼い妹を連れて逃げることも出来ない為に、少年は暴行を受けるしかなかったのだろうと、省吾にも分かったらしい。


 両膝を折り、震える兄と驚いて固まっている妹の前にしゃがみ込んだ省吾は、背嚢の底に残っていた携帯食量を差し出す。驚いたまま目を見開いている兄妹だったが、差し出された食料を見たせいで、唾液が口の中に溜まり、腹の虫が声を上げる。


「あ……え? あ……」


 月光が顔の半分を照らしている省吾は、優しく笑う事が出来ない為、兄妹にうなずいて見せた。省吾の放つ常人ではない雰囲気を本能で感じている兄は、そのまま動けなかったが、妹は違う。恐る恐る伸ばした手で保存用の乾パンを掴むと、素早く自分の胸元に引き寄せ、口の中へと詰め込んだ。


「あの……」


 背嚢の中にある紙袋から乾パンと干し肉を取り出した省吾は、兄の手を掴み、それらを握らせた。そして、騒がない様にと、口元に移動させた拳の人差し指だけを立てて再度うなずいて見せる。


 省吾が敵ではないと認識できたらしい少年は、乾パンを咀嚼している妹に干し肉を渡し、自分も乾パンを口に入れた。いつの間にか涙を流し始めた幼い兄妹の頭に、優しく両手置いた省吾は、超能力者であるはずの二人に念話を流す。


(聞こえるな? お前達の力を、俺に貸してくれないか?)


 口を動かしながらうなずいた二人に、省吾は奴隷となっている人達への伝言を依頼していく。兄妹の前に姿を見せた省吾に、一時の感情が全くなかったといえば嘘になるだろうが、抜け目などない。奴隷となっている人々が、戦いの巻き添えにならない様に、情報を伝えさせようとしているのだ。


(ほ……んと? ほんとに、ほんと?)


(ああ。約束しよう)


 暖かさを伝えてきた省吾の手が離れた事で、兄妹は寂しさを感じたようだが、少し前までとは明らかに表情が変わっている。流れていた涙は止まり、幼く無垢な瞳には、生まれて初めてであろう希望の光が、しっかりと灯っていた。


 兄妹達の前から消えるようにいなくなった省吾は、まだ地上に出ている子供達の位置を千里眼で確認し、同じ依頼を続ける。


 奴隷となった者達を直接見た省吾は、ガブリエラがノアの住民は、奴隷と口も利かないという情報を真実だと確信した。それにより、奴隷となっている者達に情報を流しても、自分の不利にはならないと判断したのだ。奴隷として生活する地下へと戻った子供達は、口々に省吾からの話を伝えた。


「はぁ? そんな事、出来るわけないだろうが……」


 子供達の話を聞いた大人達の多くは、信じようとはしない。だが心の奥底で、もし子供達のいっている事が現実になればと考えている。


 未来の世界で、ノアに所属していない者達の祈りが、一人の青年に集まっていく。


……ここが、索敵の境目だな。


 直感で敵の索敵を感知した省吾は、宮殿の見える建物の屋根に上り、身を伏せたまま時を待つ。


 太陽からの光がゆっくりと夜の闇を切り裂き始める頃、全ての準備を済ませた省吾は作戦を開始した。

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