八
世界を満たす時代と呼ばれるものには、矮小な人間では計り知る事の出来ない流れが存在する。そして、時代の本流とされる力に、無謀だと分かりながら戦いを挑んだ者は、有史以来大勢存在した。
何かを変えようとすれば、変わらない様にと維持する力が働き、維持しよとすれば、変えようとする力が働く。どちらにしても流れには強さがあり、時代が望む本流と呼ばれる側にはそれ以外の何倍もの力がある。防衛や革命を行った局面を個別で切り取れば理由を見出す事も出来るが、全体を見てみるとまるでそうなるべくしてなったとしか思えない事が多い。
時代の本流に逆らい、革命を成功させた者は確かに存在しているが、並大抵の苦労では成し遂げることが出来ないだろう。省吾が居た時代で第三次世界大戦を発生させた者達は、自分の望んだ世界を手に入れる為に変革を行おうとした。しかし、本流の力に背を押された省吾達国連軍の前に、敗北する事となり、夢や野望は打ち砕かれている。
二十一世紀で人々の理想に近い世界が築けたのは、時代に望まれたとおりにフランソア達が動いた事が大きいと、考えることが出来るだろう。そして、未来の世界で異分子として入り込んだ省吾は、本流になりえるかと聞かれれば、否と答えることが出来る。
省吾がいないと仮定して、反乱軍がつぶれてしまうか、細々と勢力を増やすかは分からないが、ノアの世界を覆すだけの力はない。ならば、未来の世界で時代の望む本流となるのはノアであり、レベルの低い者や能力の無い者がいくら苦しもうとも、それは揺るぎようがないといえる。
そんな状況下で時代そのものに戦いを挑む省吾は、かつて追い風となった時代の流れから、拒絶されているようだ。幾度も不可能と思える事を実現させて現在に至ってはいるが、省吾が変えようとする時代を、維持しようとする強い力がいくつも存在している。
本来時代そのものを弱い人間が変える為には、ケイト達が使った時間介入の様な反則ともいえる手段を必要とするが、省吾はそれを持ち合わせていない。限られた武器、セカンドの能力、強い意志、戦場で培った経験の力だけで、省吾は戦いを挑んでいる。それも戦力は補充も使い捨ても出来ない自分一人だけであり、無謀以外のなにものでも無いだろう。
予知能力者である反乱軍を率いたヤコブとガブリエラには、その流れを読み解く力が多少ではあるが備わっていた。流れを変えられる望みを唯一持っている省吾を支援しようとはしているが、絶望的な確率を変動させるには至っていない。それでも省吾を妨げるであろう時代の流れに乗った力を、誰に知られる事もなく潰しているが、雲霞のごとく湧き出すそれらを潰しきる事は不可能だ。
今また、予知能力者であるヤコブの掌から零れ落ちた黒い力が、時代を変えようとする者達に絶望を投げつけようとしている。
「あっ……ああ……はぁ……はぁ……あぁ……」
反乱軍の拠点である地下の真っ暗な一室の奥から、何処か苦しげな息遣いが聞こえ、ジョージは怪しく笑う。
ケイトに手痛い言葉を受けてから数日たつが、当然のごとくジョージは反乱軍からはじき出される様な事はない。ジョージが一人で考えた最悪はただの妄想でしかないのだから、告白に失敗しただけの男性を爪弾きにしようとはだれもしないのだ。
逆に、皆が高嶺の花と考えるケイトに告白しようとしたことで、ジョージは度胸があると見直されてすらいる。だが、一度妄執に憑りつかれたジョージは、自分自身の妄想から抜け出せておらず、今も瞳からどろどろの黒い感情を垂れ流していた。
ジョージが扉の前で聞き耳を立てている部屋の男性は、一人で閉じこもったまま、数日間外に出ていない。同じような男性は反乱軍の中で他にも数人いるが、誰も苦しみ続ける男性達の事を気にしてはいないようだ。
元々ガブリエラの方針で、反乱軍の活動は各々が自主的に行う決まりがあり、疲れた等と感じる者に活動を強制する事はない。その部分を活用するだけでなく、交友関係があまりない者達を選んだジョージは、抜け目がないといえる。
自室にこもっている男達は内側から鍵を閉めており、外側から開く為の鍵はジョージがくすねている為、誰も入ることが出来ない。
「そろそろだな……。ふふっ……。ああ……楽しみだなぁ……。どんな顔を見せてくれるんだろう?」
ジョージが黒い感情に任せて作ったのは、ダリアに翻弄されて傷ついた者達を核とした、悪意の繭だ。都市内で嘘をつき続け、どのように喋れば人がどう反応するかを知っているジョージは、人心を惑わすすべをよく心得ている。
ノアが超能力によって洗脳を実行するまで、その言葉が存在しなかったかと聞かれれば、あったと返事をするしかない。それは、超能力を使わなくても洗脳行為自体が可能で、事実行われていた事を意味している。薬等の科学的な力を使う方法もあるが、人が思っている以上に不安定な心は、言葉だけでも操作出来てしまう。
ダリアによって傷心状態だった男性達に近付いたジョージは、相手のプライドごと心を粉々にしてしまう言葉を囁いた。そして、その者達を隔離する事で誰にも相談が出来ない状態にし、自殺してしまいそうなほどどん底に落としこんだ。
男性達がどん底に到達さえすれば、ジョージの目的はほぼ達成されており、後は自分だけが入れる部屋で優しい言葉を掛ければいいだけだった。心神喪失状態で慰められれば、救いともいえる言葉を吐くジョージを絶対的な者に感じ、受け入れてしまう。
「大丈夫。君は何も間違えていない。うん。僕が保証するよ。僕のいった事で、間違いはあったかい?」
笑顔のジョージに肩を叩かれた男性は、情けない笑顔を浮かべ、感謝の言葉と共に涙を流し始めた。
「あ……ああぁぁぁ……ありがとう……ありが……とう……俺……俺……」
ろうそくだけしか光源の無い部屋では分かり難いが、無言で男性の肩を強く抱いたジョージの笑顔は、禍禍しいものだ。
悪徳な押し売り業者でもしないほどあからさまな表情のジョージに、正常な男性ならば疑いの目を向けただろう。しかし、心がもう自分ではどうしようもない所まで到達してしまっている男性には、何が正しく何が間違えているかすら分かっていない。
「そうなんだ……。元居た町には、僕の事を好きな女三人いたんだ。その三人が、逃げろといってくれてね……。その時は辛かったけどねぇ。僕は勇気を持って選んだのさ」
男性に向かってしゃべりかけるジョージの言葉は、半分どころかほぼ全てが嘘だが、洗脳状態にある男性は真実として受け入れる。
「そうか……。あんたモテるんだな。勇気もあるし……俺とは大違いだ……」
本当に意味の無い話で相手を油断させたジョージは、目的へと向かって少しずつ内容をずらしていく。
「ああ。君は……いや、君が正しいんだ。あれは騙されていると、僕も思うね。間違いないよ。うん」
「そ……そうだろ? あんたも、そう思うだろ? な?」
ジョージからの賛同を得た男性は、目をむいて唾液を飛び散らせるほど、会話に熱をこめていく。正常ではなくなっている男性は、ジョージに自分が操られているなどとは、考えもしないのだろう。
「俺が正しい! そうだよ! 俺は間違っちゃいないんだ! そうに決まってる!」
わざとらしく神妙な顔を作ったジョージは、目を閉じて腕を組むと何度もうなずき、まるでいま思いついたかのように喋り始めた。
「君は正しい。で……僕はそれを悪と見るね。うん。これは、れっきとした悪だ。正義である反乱軍に、あっていいものじゃない。そうだろう?」
「悪……悪ぅ? あ……ああ! そうだ! あれは悪だ! ここにあっていい物じゃない!」
最後まで誘導が出来たと気を緩めたジョージは、笑顔を作って鼻から息を吐き、相手の肩に手を置く。
「正義の心を持った君なら、賛同してくれると信じていたよ。やろう! 僕達の手で、未来の為に悪を排除するんだ」
「ああ! 未来の為に!」
拳を色が変わるほど握りしめた男性は、ジョージの顔を真っ直ぐに見ながら、大きくうなずいた。それを見たジョージは、もう一度人を小馬鹿にしたように笑い、座っていた黄ばんだ布団のひいてあるベッドから立ち上がる。
「僕には、手を貸してくれる仲間に心当たりがある。悪を滅ぼす準備は、整えて見せるから……少し時間をくれないか?」
「ああ! あんたなら信じられる! 待つよ!」
自分の心をぼろ布のようにした相手であるジョージの部屋から出る背中を、男性は名残惜しそうに見つめていた。背を向けたジョージが、悪意しか感じない不気味な笑顔を浮かべていると、操られた男性は気付けるはずもないのだろう。
「では、待っていてくれ!」
「ああ!」
部屋を出たジョージは、羽化したばかりの手駒が余計な影響を受けない様に、盗んだ鍵で施錠する。
「ひっ……ひへへへっ……。馬鹿は、扱いやすくていい。ひひっ」
正義を口にしたジョージの顔は邪悪そのものに染まっており、自分の思い通りに進み始めた事を、心底喜んでいた。
「ん? へへっ……気を付けないとな」
前方から人が来ると気が付いたジョージは、両手で顔を洗うように撫で、人がよさそうに見える顔を作る。そして、手駒を羽化させる為に、次の真っ暗な繭へと向かって、何食わぬ顔で進み始めた。
反乱軍のほぼ全ての人間が、ノアの支配から世界を解放しようと考えている。ただし、全員という訳ではなく、特にジョージが反乱軍の中で求めていたものは皆と全く違っていた。
解放に命を掛けられない者の多くは、奴隷としての生活に耐えられなくなって逃げ出し、一人で生きていけない為に反乱軍に所属しているだけだ。ジョージもその者達と反乱軍に所属した動機は近いが、都市内で失敗した事を悔やんでいるという点で、原点が違う。
自分を受け入れ、自分の思い通りになる理想の場所をジョージは手に入れる為に、反乱軍に所属し続けている。都市にいた頃には口先だけで誤魔化し、他人に仕事を押し付けていたジョージが、真面目に働いたのはそのせいだ。
馬鹿な妄想が現実と区別できなくなっているジョージは、もはやノアに戦いを挑みたいなどとは考えない。その為、都市から逃げ出して行き場の無い自分を拾ってくれた、ガブリエラ達親子が邪魔だとさえ思い始めていた。
ヤコブ達がいる間は、ノアと戦い続ける組織である事を止めないだろうが、いなくなれば戦うのを他の者も止めるだろうと、ジョージは本気で予想している。予知能力の助けが無くなり全滅するかもしれないが、自分以外の者がノアから世界を本気で開放する為に、玉砕覚悟で戦おうと考えるとジョージは理解していない。
ジョージが妄想を続けて行きついた答えは、徐々に手駒を増やし、邪魔な者達を排除する事で、ヤコブとガブリエラにとって代わろうという方法だった。気に入った女性は全て自分のものにし、周囲に自分だけのイエスマンをそろえ、地下から掘り出した酒で長になったジョージは毎日宴会をしようと考えている。
ジョージが理想とする反乱軍の姿は、反乱軍と呼べるものではなくなっており、今まで自由を求めて死んでいった者達への冒涜だ。
「ああ。大丈夫。僕が保証するよ。自信を持ってくれよ」
「分かった……分かったよ……。自信を持つか……。いい言葉だな」
不気味な笑みを浮かべたジョージは、自分の作った繭の中で十分に心が破たんした者達を、手駒へと変えていく。少し前までのヤコブであれば、ジョージの動きに気付き、穴だらけのそれに何らかの対策を打っただろう。しかし、ジョージの様な小物ではなく、狂気により突き動かされた大物が活動を始めており、それどころではないようだ。
「延期……ですか? 何故です? 今情報を絶てば、最悪我らが失敗したと取られる可能性が……」
会議をする為の部屋で、ヤコブから都市への定期的な情報供給を延期出来ないかと相談された、反乱軍内で古株の男性は困惑を表情に出す。
「うん……。今やっと温まってきた都市に水を差すのは、将来的な意味で僕もよくないと思う……」
いつもの様に痛んだパイプ椅子に座っているヤコブは、机に両肘をついて口元で手を組み、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「でしたら、継続すべきではないですか? 英雄殿の加勢になれる人数は、多ければ多いほどいいはずです」
反乱軍のもっとも大きな力になるのは、人数の多い奴隷として扱われている人々であり、パイプはヤコブも維持しておきたい。ある人物が運命に影響を与え始めなければ、ガブリエラが立てた奴隷達を自由にする計画は問題ないはずだった。
「でもね……。まだ、可能性は低いかもしれないけど、注意しなければいけない流れが出てきたんだ……」
ヤコブが予知を行って危険だと判断したのは、反乱軍の存在を知ったリアムであり、まだ確率は低いが反乱軍の全滅する未来まで見えている。
「それは、どれほどの可能性があるのですか?」
古株である男性の隣に座った女性から問いかけられたヤコブは、目蓋を閉じて返答を少し躊躇した。
リアムが反乱軍討伐に本格的な動きをする為には、状況を参謀達に報告した上で、許可を取らなければいけない。過去に負傷者を出して反乱軍を追わなくなった参謀達が、その許可を出す確率は低くいとヤコブには分かっている。そして、省吾が本格的に動き始め、大事な局面になったとはいえ、安全策ばかりではいけないとヤコブも分かっていた。
「多分……。まだ、危険度は三割無い段階だね……」
「その確率で、各都市との連携を切ってしまうのは、どうかと思えますが……」
ノアに対する最後のカードは、奴隷達を含めた大勢での犠牲をいとわない攻撃であり、下準備は反乱軍にとって最重要事項なのだ。
「いえ……。私は、危険はなるべく避けるべきだと思えますね。無茶をしては、万が一の立て直しが困難になります」
ヤコブからの議題と情報が出そろった会議室内では、反乱軍内で各班の班長達が討論を開始した。
「俺は、ヤコブの予知を信じている。だからこそ、三割ならば各都市との連携を、止めるべきではないと……」
「確かにな。約束を違え、都市内での情報が無い者達の信頼を回復するには、それ相応の時間が必要になるだろうし……」
班長を任されるほどの者達は、最低限本気でノアから世界を解放しようと考えており、議論も白熱していく。
「失敗した場合、人数が減るだけでなく、奴隷にされている人も大なり小なり迷惑を受けるはずよ。そうなれば、協力も望めなくなるし……」
「いやいや。人数が減るまではそうだろうが、協力はしてくれるんじゃないか? 罰を受ければ、よりノアを恨むはずだ」
当然ではあうが、トップであるヤコブが判断しかねている議題を、予知能力が無い者達で話し合っても、なかなか答えは出ない。それでもヤコブやガブリエラが判断に迷ってしまった場合、今まで幾度も会議により話し合いを行って方針を決めてきた。ヤコブの能力を知っている会議室で話し合いを続けている者達も、未来の可能性が常に変化していると知っている。
一度経過してしまった過去を変える事は不可能で、その流れによって作られる未来は変わらない。人間がその流れを歪める為には、現在の選択による行動を変えるしかなく、安易な答えは出せないのだ。自分達の命や未来がかかった話し合いで、気を抜ける者などおらず、意見を曲げない者も多い。
「七割……七割かぁ……。せめて、九とはいわないが、八ほどの確率があればなぁ」
「ちょっとぉ。それは、いいっこなしじゃない? 未来なんて、人間が全て決められるはずないんだからぁ……」
ジョージが八割ほどの繭を羽化させた五時間の間続いた会議は、意見が出尽くして膠着してしまう。
「ふぅぅぅ……。ここまで……ですね」
古株である中年男性は大きく息を吐くと、立ち上がってヤコブに視線を向け、無言でうなずきあう。
「皆も他の者達から意見を聞いて、自分の答えは出ているな? 多数決だ。それぞれの意見が分かる様に挙手してほしい。今回、回答の保留はなしだ。いいな?」
電灯ではなくろうそくの火だけに照らされた部屋で、班長になっている十人ほどの面々は、立ち上がった男性に無言で目を向ける。反乱軍の会議は、画期的な方法を考える目的もあるが、他人の意見も聞いて自分の答えを固める作業的な意味が大きいのだ。
「では、明日から各都市への定期連絡を、一時保留する事に賛成の者は手を上げてくれ。三……四人か……」
奴隷となった人々とのパイプを維持すると方針を決めた反乱軍の者達は、自分達がいかに甘かったかを思い知ってしまう。未来を見ていたヤコブも、リアムが流れに乗って力を得た、類まれな才能の持ち主だと、気が付いていない。
王の血を引いているせいか、能力だけでなく知能や判断力がヤコブは優れており、生まれながらに人の上に立つ資質がある。知能という点では省吾のいた時代にヤコブが生まれていたとしても、飛び級してしまえるほど高いのだ。
それでも天才と呼ばれる部類にいる者達の中で、頂点の一つと思しき位置にいるリアムの知恵に、ヤコブは対抗する武器が不足していた。また、判断力は直感の役割も大きいが、経験によって貯えられる力も重要で、その点もヤコブは省吾に劣る。
ヤコブが能力でいくらその足りない部分を補おうとも、人間であるという限界の足かせによって、完璧にはたどり着けない。まだアリサと同じ年齢でしかないヤコブは、今でも十分すぎる程よくやっているといえるが、人間として大事な部分まで欠落させて、上へと昇るリアムには一歩及ばないのだ。
ガブリエラから聞いた過去の内情だけしか知らないヤコブが、参謀達はすぐに重い腰を上げないだろうと判断した。ヤコブで考え付けることが、首都の内情をより分かっているリアムが、失念するはずもない。部下の失敗により不意に出来た時間を使って、リアムは上へと駆け上がる反則ぎりぎりの近道を、己で作り出していた。
人を崖から突き落とす事に微塵も罪悪感を覚えないリアムは、ウインス兄弟のように真綿で首を絞め、相手が苦しむ姿を楽しむような趣味を持たない。他人を排除する事が必要だと感じれば、リアムは最も効率的で確実な方法を選び、淡々と計画を実行するのだ。他人の感情を読み解けるほどの知恵をリアムは持っているが、そこに脳の中で別と区分してある道徳や情などが入り込む余地はない。
「はぁはぁはぁ……しっかり! しっかりしてくれよ! ぐっ! くそっ! くそおぉぉ!」
反乱軍で長時間の会議によって決定した都市との連絡継続は、一人のサイコパスによって最悪の結果を招こうとしていた。
「ああ、くそ! 血が止まらない! くそぉ! くそ!」
姉として小さい頃から自分の面倒を見てくれた女性を両腕に抱えた、第三世代の男性は闇夜を走っている。男性の上着で体をくるまれ、お姫様のように抱きかかえられた女性は、弟がいくら叫ぼうとも抗議をしない。ただ、男性が走る振動と苦痛を感じながら、目を閉じたまま眉間にしわを寄せて荒い呼吸を続ける。
「はぁはぁ……なんで……くそっ……くそぉぉぉ……」
涙をためて悔しそうに言葉を続ける男性も、額だけでなく腕や足から血を流しており、命にはかかわらないだろうが大きなダメージを受けていた。日頃の男性であればその状態で人を抱えたまま走り続けようとしないだろう。なにより、出来るだけの身体能力をその男性は持っていない。
それでも喉の奥から鉄の味が口内に充満し、肺や腹部から痛みが走っても、男性は足を止めなかった。血がつながっていなくとも、男性が抱えている女性はその男性にとって本当の家族であり、命を掛けられるほど大事な存在なのだ。火事場の馬鹿力とも呼ばれる限界を超える力は、省吾だけの専売特許ではなく、強い想いに脳と体が応えれば、誰でも発揮できる。
「頼む! はぁはぁはぁ! 頼むよ! 死なないでくれよ! はぁはぁ! 俺……俺ぇ!」
半分に欠けた月に照らされた、木のまばらに生えている草原を、ついに泣き始めた男性は走り続けた。第三世代の男が流した涙は淡い月光によりきらめき、雑草の生えた乾いる地面へと落ちていく。
「大変だあぁぁぁ! 誰か! 誰か来てくれ!」
「薬……そうだ! 薬を! 薬と明かりを! 誰か! 早く!」
反乱軍の拠点へと最初にたどり着いたのは、時間介入組の男女ではなく、サードである男性二人だった。第三世代の男性に抱きかかえられている女性ほどではないにしろ、その二人も血を流すほどの怪我をしている。
怪我を負いながらもなんとか走る事の出来たその二人は、拠点出入り口の見張りをしていた仲間の前で倒れ込んだ。それがただ事ではないとすぐに理解できた見張りの者達は、倒れ込んだ二人を拠点内に運び、大声で叫んでいた。
待機をする部屋で、仲間とトランプを使って時間を潰していた救護を担当する者達は、狼狽えながらも救急箱を持ってよろけながら部屋を飛び出す。そして、広場の床に寝かされ、まだ息を切らせている二人の男性に集まってきた仲間達をかき分けて近づき、自分の仕事を開始した。
「なんてこった……。おい、悪いがもう少し詳しく……」
「はぁ……はぁはぁはぁ……。それで……いきなり囲まれて……はぁはぁ……あの……人達が、庇って……くれて……」
超能力で負った怪我の治療をされながら、逃げ延びてきた男性は、仲間に自分達が襲われた状況を伝えていく。
「どいてくれ! 通してくれ! 通してくれ!」
反乱軍内で班長を務める古株の男性は、各部屋から集まった仲間達を押しのけ、ヤコブを人ごみの中心へと進ませる。額に汗が噴き出すほど焦りを顔に出したヤコブは、幼く小さな体を利用して、古株の男性よりも早く怪我人の元へたどり着いた。
「あ……くぅ……こんな……」
横たわったまま包帯を巻かれていく男性二人を見下ろしたヤコブは、悔しそうに顔を歪めてしゃがむ。そして、寝かされて荒い呼吸を続ける男性達ではなく、その二人から話を聞きだしている見張りの者から話を聞く。
いつもの様に都市へと情報を伝えに向かった、八人の反乱軍に所属した者達は、待ち伏せしていたノアの兵士から強襲された。地下が索敵の死角になると農園で覚えたリアムは、部下達に穴を掘らせて待機させたのだ。
油断をしていた反乱軍の者は、最初の攻撃で仲間一人が絶命しただけでなく、二十人近い敵に囲まれてしまう。敵よりも能力の練度が高い、時間介入組の二人が仲間を庇って退路を作ったおかげで、命からがら怪我をした二人は逃げ出せたのだ。
「逃げるのが精いっぱいだったようで……。他の者は散り散りになって、分からないそうです。それから、フォースの二人も……」
見張りの者から報告を聞いたヤコブと古株の男性だけでなく、周囲を取り囲んだ者達もそれぞれが複雑な表情をしていた。
「分かったよ……。ありがとう……」
「あっ! いかん! 見張りを! 見張りを増やすんだ! 手の空いている者は、出入り口に向かってくれ!」
古株の男性が出した指示で、その場に集まっていた者の一部が、敵の襲撃と仲間の帰還を助ける為に出入り口へ向かおうとする。
向かったのが全員ではなく一部だったのは、ファーストやセカンドの者もおり、その者達は自分達が戦闘になった場合、足手まといになると考えているからだ。そして、ジョージを含めた命を無くしたくないと考えるサードの能力者も、怪我をした仲間以外にノアの兵士が来るかもしれない出入り口へと向かえない。
「なんで急にばれたの? これは何?」
第三世代の女性からの問いかけに、ヤコブではなく古株の男性が、予測できない事態だったと説明をする。その場に集まっていた他の時間介入組である幾人かは、すでに出入り口へと向かっているが、オーブリーとケイトは動けない。
「そんな……こんな事って……」
「オーブリー……」
オーブリーとケイトは偶然その日担当ではなかったが、都市へ向かうグループには一人か二人ほど時間介入組が護衛として同行する。襲撃を受けたその日は、三組の者達が各都市へと向かい、それに五人の時間介入組が加わっていた。
「えと……あの……えと……大丈夫。大丈夫よ。うん、きっと大丈夫」
帰還していないカーンの事を考えて動揺しているオーブリーだが、自分を心配するケイトに笑顔を見せる。その笑顔が引きつっており、目が笑っていない事で、ケイトはオーブリーが強がっているのだとすぐに理解できた。
だからといって、無責任に励ますことも出来ないケイトは、相手を見つめたまま何をいえばいいのかと、眉尻を情けなく下げる。
「ほらっ! 私達も向かいましょ! 敵がくるかも知れないし……。帰ってきてくれる人もいるわよ……。そうよ……」
最悪の事態を想像したくないらしいオーブリーは、仕事をして考える事を放棄しようとしたらしく、出入り口へと歩き出した。かける言葉が見つからないケイトは、その不自然に笑ったままのオーブリーの背中に、黙ってついていく。
時間介入組の面々は危険な任務に取り組み、仲間が死んでしまう事も覚悟はしているが、慣れる事など不可能なのだ。人を殺す事で精神に異常をきたしていたルークの死も、仕方ないと頭で分かっていたが、過去の世界で省吾に時間介入組の者達が牙をむいたのはそのせいだった。
事前にケイトが仲間達を説得していなければ、省吾でもタイムマシーン内で会話が出来る状態に持ち込めなかっただろう。そんな心を持つ者達が、仲間を失ってしまえば精神的なダメージは避けられないし、愛する者を失えば悲しみは計り知れない。
「大丈夫……大丈夫よ……。あいつが死ぬはずないもの……。きっと、馬鹿力で仲間を抱えて帰ってくる……。帰ってくるわよ……」
ケイトに聞かれてもいないのに、瞬きをしなくなっているオービリーは、独り言をつぶやき続けた。
「嘘……うそおおおおぉぉぉぉ!」
悲鳴とも取れるダリアの絶叫を聞いたケイト達は、びくりと体を反応させ、出入り口に向かって走り出す。
「早く! ぜぇ、ぜぇ! 早く! 姉ちゃんを治してくれ! 早くしてくれよっ!」
第三世代の男性は、姉のような存在である女性を抱いたまま、腹の底から出した声で叫んでいた。
「死んじまうんだ! 俺の姉ちゃんがあぁぁぁ! 誰か! 誰か……はぁはぁ……助けて……くれよ。頼むよ……はぁはぁ」
地下鉄のホームだった場所で血塗れの女性を抱いた男性は、泣きながら両膝をついて動けなくなる。それをイーサンと共に見ていたダリアは、自分の見た光景が信じられないのか、固まって動きを止めた。
ダリアの目前で傷ついて動きを止めた二人は、時間介入組の中でも戦闘力が一、二を争うほど高い。省吾と学園で戦った男性は、感知能力でも回避が難しい空間を押す能力を持ち、その姉として育った女性は、全方位に強力な振動波を発生させられる。超感覚に優れているケイトは強い精神波で戦闘力を補っているが、真っ向から戦えば二人には敵わないだろう。
そのフォース同士の戦いで後れを取るはずの無い二人が、悲惨な姿で帰還したのだから、ダリアが動揺しても不思議ではない。二人が後れを取ったのは、ごく単純に奇襲によるダメージを負わされた事と、敵の数が多かったからだ。
ノアの兵士より能力の練度が高い二人は、相手がフォースだったとしても一度に三人から四人は相手に出来る。しかし、怪我をして仲間を庇いながら、各々が十人近い敵と向かい合えば、勝てるはずがないのだ。
いくら二人が戦場を生き抜いた強者だったとしても、省吾の様な特別になれるわけもなく、逃げ出せただけでも評価するべきだろう。
「早く! こっちだ! 早くしてくれ!」
逸早く傷ついた仲間を見て動くことが出来た第三世代の男性は、救護班の中年女性が息を切らせているのも無視して、駅のホームだった場所へと引っ張っていく。
「はぁはぁ……待って……あの……今……待って……」
駅のホームだった場所へとたどり着いた救護班の女性は、息を切らせてよろけているが、傷ついた二人の状態確認を始める。その女性に遅れて他に二人ほどの救護を担当する者も駆け付け、重症である二人の応急処置をしていく。
「はさみを! はさみを貸してください! 服を裂きます!」
セーラから医療技術も叩き込まれているケイトは、迷うことなく救護班に加わり、仲間の手当てをしていた。
「ああ……そんな……こんな事って……」
治療を受ける者達を、口元で両手を組んでいるオーブリーは、何をすることも出来ずに見つめている。オーブリーには、ケイトの様な応急手当てをする医療知識がなく、見守る事しか出来ない。また、それ以前にカーンの安否を心配するあまり、両手が震え続けるオーブリーは、医療知識があっても今は役に立たないだろう。
外に出た時間介入組の中でも強い二人が重症を負わされたのを見て、カーンが帰還する可能性が低いと、オーブリーは理解してしまったようだ。気丈で姉御肌だったオーブリーはいなくなっており、涙を溜めて愛する者の帰還を心から願う、か弱い女性に変わっている。
大勢が固唾をのんで見守っているろうそくの火に照らされた駅のホームで、大怪我をした二人の治療は続けられた。二人の出血により、地下鉄のホームだった場所は殺人でもあったのかと思えるほど、真っ赤に染まっている。
未来の世界が技術的に衰えた事で、ノアの貴族しか持つことが出来ないほど貴重になった腕時計は、その場の誰もつけていない。それにより正確な時間はその場にいた誰も分からないが、少なくとも二時間以上は治療が続けられた。
その間、地下へノアの兵士達が来なかった代わりに、大怪我をした四人以外、反乱軍側の人間は誰も帰っては来ていない。
「はぁぁ……。ここまで……ですね……」
本当の医師はその場におらず、知れたレベルの処置といえなくもないが、出来る限りの事を終えたケイトは息を吐いた。
「誰か、担架を持ってきて。中のベッドで休ませるわ」
ケイトに無言でうなずいた中年の女性は座り込み、仲間に顔を向けて担架を持ってくるように依頼する。地下から掘り出した器具で、ケイトの知識によって識別された血液を輸血されている重症の女性は、麻酔によって浅い呼吸を続けていた。
「おい……どうだ? 助かるのか? 助かるよな? なあ?」
第三世代の男性は自身も深手を負っているが、姉のような女性をを見守り続けており、治療を終えた者達に問いかける。男性からの問いかけにケイトは返事が出来ず、視線を表面が風化したコンクリート製の床に向け、顔をしかめた。
貴重な抗生物質なども使って適切な処置をしたケイト達だが、女性が生き続けられると断言できないのは一番よく分かっている。細胞に金属生命体が融合しているフォースの能力者は、サードまでの者達より自己治癒能力が高い。自分達で出来る事をやりつくしたケイト達は、患者である女性の気力とその回復力にかけるしかないのだ。
「おいって! どうなんだよ! なあ! ケイト! 答えてくれよ! おいって!」
真っ赤に充血させた目に再び涙を溜めた第三世代の男性は、縫合した個所から血がにじんだのか、白い包帯が赤く変わる。男性側に命の別状がないとはいえ、重症ではあるのだが、慕う女性の事を気にするあまり痛みすら忘れているようだ。
同じように悔しそうに表情をゆがめ、涙を溜め始めたケイトに、男性は思い余って掴みかかってしまう。
「なあって! 頼むよ! 助けてくれよ! おい! なあ!」
自分と目が合わせられないケイトを見て、胸ぐらをつかんだ男性は、無駄だと理解しながらも叫ぶ。ケイト達が治療に手を抜いてたと男性は思っていないが、八つ当たりにも近い行為を止められない。無力な自分を責める勇気がない男性は、誰かに頼り、責任を押し付けなければ、自分を保っていられないほど心をぐらつかせているのだ。
「おい……。落ち着け。今は、待つしかないんだ。な?」
同じ第三世代である男性に止められたケイトを掴んでいる男性は、手を放すと今まで以上に情けなく表情を作る。
「うっ……ううぅうぅ……」
四つん這いで額を床につけて泣き始めた男性に、集まっていた反乱軍の者達は誰も声がかけられない。
悲しみに満ちた地下道に、それを好物とする黒いものが、ひたひたと近づいている事に誰も気付いてはいないようだ。