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名無しのエース  作者: 慎之介
五章
48/82

 草むらの中で虫達が騒ぎ、イヌ科の動物らしき遠吠えが聞こえる深夜の荒野を、一つの影が真っ直ぐに進んでいた。それは大きな背嚢を背負い、血のしみがこびりついた戦闘服を着ている、アサルトライフルを構えたままの省吾だ。


 体力の低下から走っていない省吾だが、基本的な歩く速度が常人を上回っている。それだけでなく、追い風も手伝って速いとは言い切れないが、遅くはない。


「ふぅぅ……ふぅぅ……」


 独特の呼吸を繰り返している省吾は、障害物のほとんどない広い荒野を、深夜のうちにわたりきろうとしていた。日中、雑草が生えているだけの見晴らしがいい荒野を渡ろうとすれば、敵に見つかりやすく、命の危険が大きいからだ。


 上半身を屈め気味にしている省吾は、伸び放題になっている雑草を踏みつけながら、力強く進んでいる。


……月。それに、北極星は。間違えてないな。


 目印になる物が地上にない荒野にいる省吾が、一定距離を進むたびに足を止めずに空に目を受けていた。そして、自分が進んでいる方向が狂うたびに修正を行い、ほぼ最短距離でその広い荒野を抜けていく。


 増水した川原での戦闘から半日近く経過しているが、その間省吾は一度も休憩をとっていない。そのせいで足腰が悲鳴を上げ始めているだけでなく、集中力もかなり落ちてきているが、省吾は足を止めようとはしなかった。死んでいった者達の事を考え続け、省吾は胸からの痛みを燃料として、気力の炎に投げ入れている。


 命を削り続けている省吾の移動は、偶然ではあるがギャビンの張った陣を崩しており、危機を少なくしていた。普通の人間が移動できる距離と、馬を持っていた場合さえ計算していたギャビンだが、省吾がそこまで常軌を逸した暴挙に及んでいるとは考えもしていないようだ。


「ふぅぅ……ふぅぅ……ふぅぅ……」


……よし。もう少しだ。


 地平の先に森が見えた省吾は、気を緩めるどころか引き締め、足を前に出す速度を変化させる事なく進む。


 その省吾が森の中へその第一歩を踏み出す頃、部屋の中に四つ置かれている椅子の一つに、ヤコブが座った。それを見たケイトも対面になる様に、少し痛んだ折り畳みのパイプ椅子に座り、相手からの言葉を待つ。


 眠気によりかなり目蓋が重くなっているケイトだが、ヤコブの話を聞くべきだと勘によって感じ取っていた。茶色の柔らかそうな短い巻き毛と、地下で暮らす続けた為に、白すぎる肌を持つヤコブを見ていたケイトは、眠気を覚まそうと眉間をつまむ。


「眠いのに悪いね。明日は、午後まで寝ていて貰っていいから」


 目を擦っているケイトの眠りへの欲求を読み取ったヤコブは、いつもの様に笑顔のまま気遣う言葉を吐く。そして、身に付けている黒と白のレタージャケットのポケットから、片手だけを引き抜き額部分を掻いた。


「あ、いえ。お気になさらないでください」


 まだ十代であるヤコブだが、能力のせいか老成しており、小馬鹿にしたようにも取れる言葉使いをしている。現在反乱軍を纏めているのは、母親ではなく実質ヤコブであり、ケイトだけでなく他の者もあまりそれを気にしていない。ジョージのように都市内にいる時だけでなく。抜け出す時にもさほど苦労をしなかった一部の者だけが、鼻につくと考えているだけだ。


「相変わらず……。本当に綺麗な言葉使いだね。君の言葉には、スラングがほぼ混じらない」


 褒めているとも取れる言葉を吐いたヤコブから、微笑んだままのケイトは無意識に天井に向けて視線を逸らした。


「はぁ……。ありがとうございます」


 相手が目線を逸らした理由が分かっているらしいヤコブは鼻で笑い、それに気が付いたケイトは誤魔化すように説明を始めてしまう。


「あの……これは……。貴方には隠す理由が無いので、教えますが……」


 戦争孤児として世界の狭い暗い場所に隠れて生き延びたケイトは、セーラに保護された八才の時に、ほとんど言葉を知らなかった。言葉を覚えきる前に両親が死に、似たような境遇の子供達で固まって暮らしていた為、それがケイトにとって普通だったのだ。


 投下爆弾で初恋の少年を含めた仲間達が息絶え、運よく生き残ったケイトだけがセーラに保護された。言葉を上手く操るのに時間が必要だったケイトは、その影響で日頃スラングを取り入れていない喋り方をしている。


「つまり……あの……。私は、喋るのが上手くないんです。スラングの使い方も間違えるので……」


 目を閉じて話を聞いていたヤコブは、ゆっくりと目蓋を開くと、黙ったまま透き通った瞳でケイトを見つめた。


「あの……その……」


 省吾とは違う種類の強い意志が感じられるヤコブの瞳に見つめられたケイトは、言葉を詰まらせた。綺麗な瞳を持つ少年に、全てを見透かされた気分になったケイトは、焦りから膝の上で組んでいた手を小刻みに動かしている。


 その事にも気が付いているヤコブは、見つめている瞳を逸らさずににやりと笑い、意味ありげに問いかけた。


「本当に……それだけなの…………かな?」


 ヤコブの目を見続けていたケイトの背筋に冷たいものが走り、体を緊張させると同時に目を大きく開かせる。全身をサイコガードで守っているケイトは、相手が特殊能力を使っていないと分かっていが、それ以外の何かをヤコブから感じていた。今のケイトを表現する言葉として、蛇に睨まれたカエルといえなくもないが、どちらかといえば仏の手の内でもがく孫悟空が適切だろう。


 天才やカリスマ等の言葉で呼ばれる少し特殊な者が、世の中には確かに存在しており、ヤコブもその一人だろう。そういった類の人間を前にした者達は、離れて眺めていた時とは違い、相手からの圧力を勝手に感じ取り、今までの自分を維持しようともがくのだ。


 ただ、輝く様に見える相手が何もしていなくとも、相手を否定し始める者や、受け入れて形を変える者など対応はそれぞれで違いが出る。タイムマシーンの中で、省吾の強い意志がこもった瞳を初めて直視したオーブリーは、後者だったといえるだろう。


「何がいいたいのですか? はっきり仰ってください」


 ヤコブの瞳に怯んでいたケイトだったが、その時間は短く、すぐに傾いだ心を立て直して少し鋭くした目線を返した。


 特殊な輝きを放つ力を、ヤコブのように先天的に持っている者と、省吾のように後天的に身に付ける者がいる。どちらのタイプがより強い光を放つかに、確固たる法則は存在しないが、ヤコブよりも省吾の光が強いのだけは間違いない。その省吾を間近で見た事のあるケイトは、相手から感じた圧力を押し返す事に成功したのだ。


 ケイトの心がどう動いたかを読み解いたらしいヤコブは、驚いて真顔を作って見せたが、すぐに笑顔に戻した。ヤコブはケイトを見極めようとはしていたが、脅すつもりも圧迫して潰そうというつもりもないのだから、当然だろう。


 驚いたのは、今まで反乱軍に加わった大人達は素直にヤコブを受け入れており、圧力を眼光で押しかえされたのが初めてだったからだ。受け入れてもらえなくとも、拒絶の反応が来るだろうとしか考えていなかったヤコブは、自分の予想が外れた事を喜んでいる。自分の予想を裏切ったケイトに、見込みがあるとヤコブは考えており、遠まわしな喋り方を止めた。


「僕の見た所……。君は他人と自分の距離が……。心の壁が厚い様に感じるんだ。違っているかい?」


「それは……」


 再びヤコブから目線を逸らしたケイトは、眉をハノ字に曲げると唇を噛み、返事の言葉を探す。


「その表れとして、言葉が丁寧……。いや、よそよそしいの方が、正解かな? どう?」


 ケイトは他人を簡単に心の近い場所に置かないが、一度受け入れてしまった者が間違っていても、否定できなくなる。自分でもその事が分かっているケイトは、図星を突かれ、嘘の通じない相手に開き直ってもいいものかと悩んでいるのだ。


「君の在り方を否定するつもりはない。誰彼構わず受け入れろなんていわない。でも、他人の心を軽視してはいけないよ」


「そんなつもりは……あの……。ないのですが……」


 自分が諭され始めた事に納得できていないケイトは、歪んだ眉を元に戻しておらず、声も小さくなっていく。


「もう一度いうが、僕は変われなんていなわいよ。ただ、表面上だけの人付き合いは、相手の本心を見え難くする。その事だけは、頭の隅に置いておいてほしい」


 オーブリー達には心を開いているケイトだが、第三世代の者達ですらまだ薄い壁があると、自覚はしている。ヤコブが見当違いの事をいっていないとよく分かっているケイトは、肩を落として俯いていた。


「その付き合い方でも、勘のいい君なら、相手の本心が見抜けるはずだ。僕はそう確信した。そして、それがこれから重要になるんだ」


 ケイトは俯いていた顔を急いであげ、今も笑顔を維持しているヤコブに向けると同時に、瞳を凝視する。相手の発した重要という言葉で、ヤコブがわざわざ自分を諭すのが、未来の確率を変化させる為なのだとケイトは察したのだ。


「ほらね。君には見抜く力がある」


 自分をまじまじと見つめてくるケイトに対してヤコブは、目を細めて嬉しそうに笑いだしていた。予知能力を持つ少年に掌で踊らされたと分かったケイトは、唇の先を突きだして目を細めた不満の表情に変わる。


「ははっ。ごめんごめん。で、ここからが大切な事だけど、これからよくない事が起こるかも知れない。僕も可能な限り動くけど、気を付けて」


「よくない事? ですか?」


 大きく息を吐いて笑いを完全に消したヤコブは、真剣な顔を作るとケイトにうなずいて見せてから、口を開く。


「以前話したように、僕等の予知は完璧には程遠い。よくない兆しは見えても、どう繋がっていくかはまだ見えてないんだ。でも、反乱軍の中で何かがおこりそうな感じなんだ」


 人の心というヒントも貰っているケイトは、省吾の活躍で反乱軍の者が浮かれ気味になっている点を思いだす。それをまるで読んでいたかのように、ポケットから両手を抜き出して膝に置いたヤコブは、言葉を続ける。


「天候なんかの自然は、人間じゃどうしようもない。見えていても変えられないしね。でも、人間の歴史は全て心が作ってきたものだ。そして、未来も……」


 反乱軍の中でもすでにいくつも不安材料を見つけ出していたケイトは、ヤコブの言葉を重く受け止めた。


「僕の予知では、解決の鍵は君ではないかと感じていてね。明確じゃなくて悪いんだけど、少し気に留めておいてほしい」


 真剣な顔をしたヤコブに、ケイトも真剣な顔を作ってうなずく。


「とはいっても。君の彼氏は、心に関係なく確率を変化させちゃうけどねぇ」


 ケイトを見て鼻で笑ったヤコブは、それまでの怪しい気配を消すと、急に子供らしい雰囲気で喋り出す。それを見たケイトは驚くよりも先に、彼氏という言葉で顔を赤くし、省吾の顔を浮かべて狼狽する。


「なっ、何を。あの……あの……エーと私とは……その……まだ。あの……えと……なんていうか……」


「彼氏とはいったけど、井上しょ……えと、エーさんとはいってないよ? 僕は」


 しどろもどろで言い訳を始めたケイトを、心底おかしいと感じているヤコブは、わざと意地悪な言葉を吐いた。その言葉を聞いたケイトは、更に顔を赤くすると口を強く結び、怒りと恥ずかしさでぷるぷると震えている。


 防音されている部屋の中に、ヤコブの笑い声が響き、ケイトはひっぱたきたいという欲求を大きくしていく。


「あの……あのぉ! そんなに、おかしいですか? 私が誰を好きでも……」


「ぷくくっ……。ごめんごめん。ごめんってば」


 抗議が聞こえたヤコブは笑いをなんとか堪えて謝罪したが、顔をそむけて頬を膨らませたケイトの怒りは消えない。それからしばらく機嫌を取ろうとヤコブは話し掛けたが、顔をそむけたままのケイトは反応をしなかった。


 少し茶化し過ぎたと苦笑いをしたヤコブは、仕方なく席を立ち、扉の取っ手に手をかける。そして、振り向かずに侘びとしての言葉を、まだ怒っているケイトへと告げた。


「ここからは、君の兄弟達にも秘密にしておいてほしいんだけど……」


 ヤコブの言葉使いとトーンが変わった事で、ケイトも怒りは消えていないが顔を少年の背に向ける。


「あの人は凄い人だ。ゼロとしか思えなかった可能性を、全て手繰り寄せていく……。信じられない確率でね」


 少年の背を見たまま省吾の顔を思い浮かべたケイトは、自分が記憶を消そうとした時の事を思いだしていた。


 能力を使って省吾の記憶を消した時のケイトは、悲しさで胸が張り裂けそうになり、三日ほど寝込んでいる。それほどの痛みを伴って使った力を、省吾は受け付けておらず、脱出装置の恩恵もなしに生きて未来へとたどり着いた。そして、セカンドでしかないはずの省吾は、未来で最強ではないかと呼ばれていたフィフスまで倒している。


 どれをとっても不可能としかいえない事を、これだけ立て続けに省吾が行っているのは、もうすでに偶然ではないとケイトも感じていた。


「あの人に常識は通じない。だから、そこに僕もママも賭けようと考えた。あの人なら、きっとたどり着いてくれるはずだ。きっとね……」


 今まで誰にも喋らなかった事を言い終えたヤコブは、L字型の取っ手を九十度回転させ、扉のロックを解除する。そのまま立ち去ろうとしたヤコブの背中を見たケイトは、少年に似つかわしくない悲しげな雰囲気を読み取った。


「あの……」


 ケイトの言葉で、ヤコブは振り向かないが扉を押そうとした手の力を緩め、耳に届くはずの言葉を待つ。


「貴方もたまには、今みたいに気を抜かないと、気疲れで倒れちゃいますよ?」


 年相応に笑っていた少年を見たケイトは、ヤコブの考えた通り相手の本質を読み取っていた。


「息抜きがしたいなら、いつでも来てください。ただ、年上をからかうなら、次はお仕置きしますけどね」


 ヤコブは背を向けたまま少しだけ笑うと、返事をせずに部屋を出て、少し離れた自室へと向かって歩く。そのヤコブの顔は笑っているが、どこか悲しげな面も持ち合わせており、まるで様々な経験を積んだ大人にしか見えない。


 瓦礫や砂が端に避けられた、真っ暗な通路を明かりもなく一人で進んだヤコブは、突き当りにある扉の前で立ち止まった。そして、ポケットからキーホルダーのついた鍵を取り出し、扉を開錠して中へと入っていく。


 ヤコブが入った部屋は八畳ほどの広さがあり、少しだけ高級そうなキングサイズのベッドと、大量の本が詰まった本棚が三つ壁際に並んでいた。壁にはクローゼットと、トイレや風呂に繋がっている扉もあり、その部屋は元々人が住むか仮眠をとる部屋だったらしい事が分かる。


 ヤコブの気配に気付き、ベッドに横になっていた女性はゆっくりと上半身を持ち上げた。


「あ、いいよ、ママ。そのまま寝ててよ」


 ガブリエラに声を掛けたヤコブは、そのまま後ろ手で扉の取っ手についた鍵を捻って施錠する。部屋には明かりがなく、普通の人間ならばまず光を求めて行動するだろうが、超能力者であるその親子には不要らしい。


 髪が長い以外にこれといった特徴の無いガブリエラを、美人と思う者もいれば、そうでないと思う者もいるだろう。


 ガブリエラは自分の好きな紫色の寝間着を着ており、外出用の服も七割が紫色で統一されている。それはガブリエラ個人の趣味であり、息子にその色を身につけろと強要するつもりはないようだ。上半身をベッドの上で起こしているガブリエラは、クローゼットの前で青い寝間着に着替えているヤコブに微笑みを向け続ける。


 慈愛に満ちた雰囲気と微笑みを浮かべたガブリエラに、好感を抱く者は少なくないだろう。極端な特徴がない白人女性であるガブリエラの、外見を好きにならなかった異性でも、その笑みを見れば恋に落ちる可能性は十分にある。


「よっと! ふぅ……」


 着替えを終え、汚れた服を専用のかごに入れたヤコブは、子供らしい顔を作るとベッドに向かった。そして、靴を脱いで少しだけ勢いをつけてベッドに飛び込み、大好きな母親の腹部に抱き着く。それを無言で見つめていたガブリエラは、息子の頭を優しく撫で、疲れを癒そうとしていた。


 少しの間、気持ちよさそうに目を閉じて撫でられていたヤコブは、全身を発光させて一日の出来事を能力で母親に報告する。それが二人にとっての日課なのだが、その日は報告が終わったヤコブが、口頭で別の事を母に喋り始めた。


「ママ……。ケイトさんと、話をしてきたよ」


 息子を撫でる手を止めたガブリエラは、不思議そうに自分の膝の上から見上げてくるヤコブに目を向ける。ガブリエラは何も喋ろうとしないが、ヤコブは優しい母の笑顔だけで十分満足しているようだ。


「ケイトさんは、ママのいった通りの人だったよ。頭と勘がいいし……。僕等の力になってくれと思う……。多分だけど」


 母と二人になれる部屋の中でだけ、本来の自分を出せるヤコブは、眠るまでの短い時間を甘え続けた。息子に重荷を背負わせていると分かっているガブリエラは、息子が寝付くまで付き合う事を負担とは感じない。


「あ……もっと……喋りたいのに……な……」


 目蓋の重さに負けたヤコブは、寝息を立て始め、疲れから深い眠りへと落ちていった。それを確認したガブリエラは、息子を膝の上から降ろして布団をかけ、自分ももう一度夢の中へ帰っていく。息子と母親が同じベッドで眠るなんの変哲もない光景ではあるが、長い年月戦い続ける二人には代えがたい至福の一時なのだろう。


 ヤコブが眠りについて数時間後、朝日を見た省吾は移動を開始して初めてとなる休憩をとろうと、川原へと降りた。


……ここは。そうか。


 前日に振った雨のせいで、まだ水かさが増したままの川を見た省吾は、荷物をゆっくりと下しながら目を閉じる。思い出しているのは、幸せだったサラやアリサ達との村での思い出で、偶然ではあるがその川の風景が村の近くにあった川と似ているのだ。


 アリサと水を掛け合って遊ぶサラとジョンを思い出した省吾の胸は、いつもの様に呼吸を止めてしまうほどの激痛を走らせる。目蓋を閉じたまま胸元を強く鷲掴みにしていた省吾だが、敵が来る可能性を忘れてはいない。


……大丈夫。大丈夫だ。俺は、まだ戦える!


 周囲で様子をうかがっていた肉食動物を、退散させてしまう程の殺気を放った省吾は、目蓋を素早く開く。真っ直ぐに透明度が少しだけ回復した川を見る省吾の瞳は、強い意志が溢れ出さんばかりだ。


 両手を川に差し入れた省吾は顔を洗い、水分を補給した後、木の陰に移動して休息を取り始める。


……アリサに平和な世界を。その為なら、俺は死んでもいい。いや、俺の生きている価値は、もうそこにしかない。


 上り始めた太陽を見つめる省吾は、アリサはまだ眠っているだろうと考えているが、その予想は外れていた。農園でグレースと出荷の準備に追われているアリサは、夜通しの作業を続けており、まだそれが終わっていない。


「ふぅぅ……。トウモロコシは完了ね。次は……芋だけど……」


 選別した大量のトウモロコシを木箱に詰め終えたグレースは、服の袖で額の汗を拭きとりアリサに目を向ける。


「アリサちゃん? もう、眠ったほうが……」


「ううん! 大丈夫!」


 地面に直接座り込んだアリサは、両手に玉葱を掴んだまま、グレースに顔だけを向けて笑った。


「そう? かなり進んだから、何時でも休んでいいからね」


「うん!」


 ニコラス老人達のいなくなった農園では、農作物の生産をこれまで通り労働者達が行っているが、選別と出荷は主にグレースとアリサが行っている。


 ディランと戦う前から、ニコラス老人と使用人達によって作られていた農園存続の計画書を使って、グレースは農園を今の状態でいえば上手く運用していた。今までよりも備蓄を少なくすることで、労働者達の食事量を増やし、ノアへの出荷量を維持している。


 だが、使用人達の抜けた穴は想像していたよりも大きく、そのしわ寄せをグレースとアリサがかぶっているのだ。元居た村で農作業を手伝う事もあったアリサが、頑張っているおかげで何とか維持できているが、出荷にも向かうグレースは目の下に隈が出来ている。


 備蓄の食料が駄目になる前に渡して、労働者達にも出荷の手伝いをさせているグレースだが、根本的な人数不足は解消できていない。人間の数が急に増えるはずもなく、その点はグレースがいくら頑張ろうとしても、どうしようもないのだ。


 救いとなっているのは、泥にまみれて必死に働くグレースを見て、労働者達がニコラス老人の時のように恨まないという点だろう。その部分をニコラス老人は最後まで気にしていたようだが、ディラン達との戦闘は労働者達の心境を変化させていた。


 以前とほとんど変わらない生活に不満を感じている労働者は多く、グレースとアリサの無理は何時か破綻すると誰が見ても分かる。だが、あの日全身が真っ赤に染まった一人の英雄を見た者達は、悲惨な世界にもうすぐ終わりが来ると信じることが出来た。農園の者達はゴールが見えているからこそ、いくら辛かろうとも踏ん張り我慢する事が出来ているのだろう。


 残酷な現実の中で虐げられてきた者達は、自分達が抱いた希望がいつ絶望に裏返ってもおかしくないと知っている。それでも、死しか選べなかったはずの絶望を裏返し、希望を希望のまま実現して見せた鉄と硝煙臭い英雄の成功を、疑えないようだ。


 綱渡りでしかない農園だが、その綱は今も戦い続けている優しい青年が命で作ったものであり、切れる事はないのだろう。


「よしっと! ふうっ」


 自分に気合を入れる意味で頬を軽く叩いたグレースは、作業を再開する前に地面に置いている、ランタンへと手を伸ばした。選別する為の光源として使っているランタンは、植物から限られた量だけ抽出できる油を燃料としている為、無駄遣いが出来ない。グレースは太陽が山影から半分ほど昇り、周辺や手元が見え始めた事で、火を消そうとしている。


「えっ? どうしたの! 大丈夫?」


 そこで先程まで元気に働いていたアリサが、動かなくなっている事にグレースは気付き、相手の前にしゃがんだ。腹部を押さえたアリサは、顔色を青くしており、明らかに呼吸がおかしくなり始めている。


「どうしたの? 痛いの?」


 狼狽えるグレースの声を聞きつけて、畑仕事をしていた労働者達の数人も、木々に囲まれた道を抜けてきた。


「どうした? 怪我でもしたか?」


 グレースとアリサを既に自分達の仲間だと受け入れている労働者達は、本当に心配そうに小走りで二人に駆け寄る。


「お……お腹……痛い……ぎゅって……する……」


 急激な腹痛に苦しんでいるアリサは、切れ切れになりながらも自分の状況をグレース達に伝えた。


「あの! アリサちゃんお願いします! 薬をとってきます!」


「おっ! おう! 大丈夫か? 嬢ちゃん?」


 労働者達用のシェルターにあった医療についての本を思い出したグレースは、今は自分の家となった元々省吾が使っていた小屋へ走る。そして、小屋の棚に移しておいた救急箱と医療の本を持って、急いでアリサの元に戻った。


 だが、そこでグレースにとって予想外の出来事が発生しており、訳が分からずに立ち尽くしてしまう。男性達よりも少し遅れて館跡地の庭に入ってきていた中年女性が、まだ息を切らせているグレースに向かって笑顔でうなずいているのだ。


「はいはい。あんたは、頭の方を持って。そこに寝かしてあげましょ」


 中年の女性は焦らずに近くにいた男性とアリサを抱え、近くに落ちていた太い枝を枕にして地面へと寝かせた。


「あの……えっ? あのぉ?」


 木製の赤い十字が刻まれた箱と、分厚い本を抱えているグレースは、息切れがおさまったようだが、首を傾げたままだ。


「そこ見てみなさいよ。ねぇ?」


 中年女性が指さした先程までアリサが座っていた地面に、赤い染みが広がっており、女性であるグレースも腹痛の原因が理解できた。


「なんだ……。はぁぁぁぁぁ……」


 アリサが病気ではないと分かったグレースは、その場に崩れ落ちて、大きく息を吐いている。


 村での暮らしだけでなく、省吾との旅や農園での生活でも、アリサは食料に困った事が一度もない。そのせいで、農園で育った女性達よりも体の成長が早く、十一才の年齢で大人へと体が変わったようだ。


 グレースもニコラス老人に保護される前は栄養失調気味な生活をしており、十四才まで体が変化しなかった為、すぐには気付けなかったのだ。


「大丈夫? アリサちゃん?」


「気持ち悪い……。頭痛い……」


 中年女性からの問いかけに、横になって顔をしかめたままのアリサは、隠す事なく正直に答えた。アリサからの返答を聞いた中年女性は、グレースの元へ向かい、頭痛薬があるかと問いかける。


「あ、はい。あると思います。ちょっと、待ってください」


 救急箱を開いたグレースは、それらしい薬瓶を何本か取り出し、ラベルに書いてある名前と効能を本と照らし合わせた。


「これです。えと、十五才未満ですから、二粒ですね。あ、お水を持ってきます」


 中年女性に薬の瓶を渡したグレースは、立ち上がって膝付近についた土を払うと、置いてあった水筒をとりに向う。


「少し重いようだけど、こればっかりは慣れるしかないからねぇ」


 偶然ではあるが、その場にいた男性達は中年女性よりも年上の者達ばかりで、アリサの不調理由を推測できたらしい。その為、女性にしか分からない苦しみを味わっているアリサを、なんともいえない顔で見つめている。


「ほらほら。帰った帰った。仕事があるだろ?」


「お、おう! じゃあ、お大事にな。アリサちゃん」


 男性にとって気まずい雰囲気だったその場から逃げ出したくなっていた者達は、中年女性の言葉を助け舟だと感じた。チャンスを逃がしてはいけないと考えた男性三人は、アリサを気遣う言葉を吐き捨てて、その場からそそくさと逃げ出していく。


「まったく、男ってのは血に弱いし、いざとなったら役に立たないもんだねぇ」


 アリサの上半身を起こして薬を飲ませたグレースは、タオルを水筒の水で湿らせながら、中年女性の言葉で笑う。


「ふふっ……。そうかもしれませんねぇ」


 顔を青くして眉間にしわを寄せたまま横になったアリサの額に、グレースは冷たいタオルをのせた。そして、一度眠る様にと優しく髪を撫でながら言い聞かせ、動きたくなくなっているアリサはそれに従う。


「そういえば……アリサちゃん、いくつだっけ?」


「しっかりしていて、体も大きい方ですけど……。まだ、十一才なんですよ」


 アリサの年齢を聞いた中年女性も、大人の階段を上るのはまだ早いのではと思ったらしく、何かを考え始めた。


「発育がいいのはいいことだけどねぇ……。それにしても……」


 中年女性がいいたい事が分かっているらしいグレースは、話をさえぎって自分の言葉を相手に届ける。


「お兄さん……。いえ、大好きな男性に、振り向いてもらえるように、アリサちゃんは努力していました」


 アリサの兄と聞いて、中年女性もある青年が、ふらふらと農園を立ち去る後姿を思い出していた。


「その心に、体が答えたんじゃないですかね? 多分ですけど」


 グレースも同じ青年に淡い想いは抱いているようだが、アリサには敵わないと感じて複雑な表情をしている。


「たしか……血は繋がってないんだったねぇ。あの人と……」


 笑いながら中年女性の言葉にうなずいたグレースは、眠り始めたアリサを見つめ、思い出していく。


 やたらと真面目で、真っ直ぐすぎて間の抜けているように感じる言葉を吐き、死ぬ物狂いで最強に向かって行ったセカンドである一人の青年を。

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