拾弐
一時的に演説会場へと変わった館の庭から四つ、速度の違う影が周囲を囲む森へ向かっていた。四つの影の中で一番移動が速いのは、ニコラス老人から指示を受けたグレースであり、その後をアリサと二人の女性使用人が続いている。
一分一秒を争う状況で、アリサについて来いとだけ告げたグレースは、目印となるバールに向かって全力疾走していた。靴を日頃履いているヒールの高い物から、運動用に履き替えているグレースに、幼いアリサや高齢の使用人達が追いつけるはずもない。
「はぁ……はぁ! ふっ! ふんんっ!」
雑草のまばらに生えた地面から、滑り込む様に銀色のバールを拾ったグレースは、勢いよくバールを大地に突き刺した。そして、くぐもった金属音を聞くと同時に、てこの原理を利用して刺さったバールを地面に向かって下していく。
「えっ? 何?」
地面に隠されていた金属で出来たプレートが見えたアリサは、顔を真っ赤にして力を込めているグレースを手伝おうと手を出すが、驚きの表情を見せている。それは、縦横それぞれ四メートルほどある金属プレートが、ある一定の高さまで持ち上げると、ダンパーが働いて自動で持ち上がったからだ。
プレートによって隠されていたコンクリートで出来ている地面の中央には、銀行の巨大金庫を思わせる丸い扉が付いている。
「あの……グレースさん……」
「説明は後! 今は見ていなさい!」
師であるグレースからの強い口調の指示で、アリサは口をつぐんだが、状況が全く分からずに落ち着きなく館と隠し部屋を交互に見ていた。不安を表情だけでなく体中で表現しているアリサを、少しかわいそうだと思うグレースだが、説明はしない。
省吾だけでなく、アリサの事までニコラス老人は計算に入れており、隠していたシェルターに入るまではグレースに喋るなと指示していた。アリサは省吾の事を最優先にする可能性が高い為、喋ってしまうと予想外の行動で計画が狂う危険があるのだ。
「遅れてしまったねぇ。ごめんよぉ」
手伝いに来た二人の老婦人は、かなり遅れたがそれでも精一杯早く動いた事をグレースは知っており、笑顔で返事をする。
「いえ! 大丈夫です!」
コンクリートのくぼみにはまっていた、手回し用ハンドルを取り出したグレースは、四角いくぼみにハンドルを差し込んで回転させた。グレースがハンドルを回す事で、扉に仕込まれていた仕掛けが連動を始め、人間の腕力では開かない頑丈で重い扉が回転しながら横方向に開いていく。
機械音の後に、重厚な音と共に開いた扉の先には、地下に続く緩やかなコンクリート製の階段が続いていた。
「はい」
地下の先は暗闇だが、使用人の女性からランタンを受け取ったグレースは、その中へもぐっていく。
「ふぅぅ……。ふっ!」
広い地下室の奥ある、床にボルトで固定された発電機の始動グリップを握ったグレースは、息を吐いた後勢いよくそれを引く。その日の為だけに幾度も練習を重ねていたグレースは、迷うことなく速やかに予定の動作を済ませているのだ。
発電機を始動させた事で、地下室に電気による光が灯り、空調のファンが回り始めた音が部屋中に低く響いた。
「よし! よし! よし!」
前日にも確認をした、毛布や食料を最終指さし確認したグレースは、急いで扉の外へ戻っていく。
「お兄ちゃん……」
緑色のワンピースを着たアリサは、両手を精一杯膝に向けて伸ばし、スカート部分を強く握っていた。使用人である男性と、ニコラス老人の演説がアリサにも聞こえており、省吾が戦う事を知ってしまったのだ。エースという名は、演説をする二人とも直接口にはしなかったが、強いという言葉でアリサにもすぐに察しがついたようだ。
省吾は自分から過去を語ろうとしない為、アリサは何も情報を持っていない。しかし、色々な知恵を持っているだけでなく、尋常ではない動きを見せる省吾を、アリサは違う世界から来た者の様に感じ取っていた。超能力を持っていなかったとしても勘が鋭い者が世の中には存在し、アリサもその一人なのだ。
「あっ! ああ……」
地下から出てきたグレースは、ニコラス老人を見つめるアリサに気が付き、省吾の事に気が付いたのだろうと正確に理解した。
「駄目っ!」
自分が抑えられなくなったアリサは、老婦人二人の間を抜けようとしたが、グレースに後ろから押さえつけられて動けなくなる。
「放して! 放してぇぇぇ! お兄ちゃんが! お兄ちゃん!」
聞き分けなく腕の中で暴れる涙を溜め始めたアリサに、グレースは優しさと力強さを合わせた言葉で囁き掛けた。
「いい? よく聞いて。エースさんは、貴女が止めても戦うわ」
「でもっ! でもぉ!」
自分を引き摺ってでも進もうとしていたアリサを、腰の部分で抱く様に掴んでいたグレースは持ち上げる。
「世界一強いお兄さんを、貴女は信用できない? 貴女のお兄さんが、負ける所を想像できる?」
腹を蹴られながらも問いかけたグレースの言葉で、アリサの体から力が抜け、首を左右に振る。
「エースお兄ちゃんは……。負けないもん。負けない……」
省吾の事を本当の兄だと思っている少女の涙が、黄土色の渇いた地面に落下し、変色させた。
「貴女が行けば、お兄さんの邪魔になるの。邪魔になってしまうの。私も……あの人達の力にはなれない……の……」
自身も泣いているが、耳に届いたグレースの声が鼻にかかっていた為、アリサは顔をゆっくりと背後に向ける。
「グレー……ス……さん……」
アリサを抱きしめる力を強くしたグレースは、涙をいっぱいに溜めて、悔しそうにニコラス老人達を見ていた。そのグレースを見てしまったアリサは、目を閉じて分かったとだけ呟き、拘束状態から解放される。
「さっ! あの人達が来るわ! 誘導を手伝って! あっと、声は、あまり出しちゃ駄目よ」
流れ落ちそうだった涙を、服の袖で勢いよく拭ったグレースはアリサに出来るだけ優しく笑いかけた。それは、強がりでしかないのだが、明日を掴む計画が糸のように細い成功率しかないと知っているグレースは、そうすることしか出来ないのだ。
時に人が、地獄の中で生きながらえる事よりも、死が纏わりついた幸せを求めるのは、生まれついての業なのかもしれない。
「はっ……はい」
涙が止まり始めた目を何度も手で擦っているアリサを見たグレースは、ニコラス老人が見込みのある子供だと評していた事を思い出す。自分がニコラス老人に保護された同い年の頃には、アリサ程の強さはなかったとグレースは考えている。グレースは、幼くして芯を持つに至ったアリサが、どれほど苦労したかも理解しているのかもしれない。
「こちらです。押さないでください。焦らなくても、中には十分な広さがあります。こっちです」
気を引き締め直したグレースは、使用人達により誘導された労働者達を、事故の無い様に地下シェルター内部に進ませていく。最後にアリサを中に進ませたグレースは、扉を開閉する為のハンドルを持って、階段を降りて行った。
「大丈夫だよぉ。任せておくれ」
階段を降りてすぐの壁にある、外側と同じ四角いくぼみにハンドルの先を差し込んだグレースは、ゆっくりと回していく。
「私達の家族を……任せましたよ。グレース」
扉の前でグレースを見つめた高齢の使用人達は、優しく笑っており、慈しむ様に見下ろしていた。
「はい! 必ず! 必ずです! 約束します!」
ハンドルを回す手を止めたい気持ちを抑え込んだグレースは、心を込めた精一杯の声で返事をする。どこまでも無力なグレースは、それ以外に命を掛けようとしている者達へ、出来る事が無いのだ。
ゆっくりと閉まっていく扉のせいで、使用人達の顔が隠れていくのが悲しくて仕方ないグレースは、胸の痛みを堪える。
「よし。行くぞ。一、二の三!」
扉が閉まると同時に、金属プレートのダンパーを手動で解除した使用人達は、手で押さえていたプレートを一斉に離した。
プレートが閉まると同時に、押し出された風が土を巻き上げるが、使用人達は全く意に介さない。その使用人達は、ノアの能力者達にばれない様にプレートの上へ土をかけ、雑草を不均等に植えつけて、乾いた土を振りかけた。自分達にとって、命よりも大事な家族を守ろうとしている使用人達に、妥協や隙はないようだ。
「いいですか? 皆さん。落ち着いて聞いてください。残った方々は、命を掛けてノアに抵抗を試みます。つまり……」
計画について話し始めたグレースに、逆らえる状態でもない労働者達は、座って大人しく顔を向けていた。
グレースの説明を聞いて、使用人達が死ぬ覚悟で計画に挑んでいる事を知った労働者達の多くが、悲しみに暮れる。外に出ようとした者もいたが、家族の想いを無駄にしてはいけないというグレースの説得で、何とか踏みとどまった。
「ファーストとセカンドが奴隷として働かされている農園も、日を追うごとに技術を進歩させ生産量を増やしています。人数と土地に限界がある以上、こちらとしては……」
ニコラス老人が、無理をさせてでもノアに労働者を不要と思わせない様にしていた事や、日持ちする食材を備蓄していた事をグレースは説明する。その説明で、労働者達は無理でもしない限り今は生きられない世界なのだと改めて認識し、ニコラス老人を恨んでいた者の幾人かは顔を伏せた。
「失敗するとは、思っていませんが……。最悪の場合、このシェルターの中だけで、水を節制すれば約三カ月は生きていけます。そして……」
科学技術の信じられない程衰えた世界で、外部を監視する無線カメラやモニターは、見た事が無い者も多い。労働者達が座っている大きな部屋の隣に狭くはあるが、外の様子が危険なく見える部屋があるとだけしか、グレースは説明しなかった。
グレースは、ガブリエラ経由でニコラス老人にもたらされた、電灯ですら説明しても理解してもらえなかった為、それについての説明を諦めたのだ。
「来た……」
隣の部屋に移動して椅子に座ったグレースが、八台あるモニターの電源を入れると、ノアの面々が屋敷の庭に到着したところだった。
労働者が視界から消えても歩く速度を変えなかったディラン達だが、屋敷の前に立ったニコラス老人を見て不審には思っているようだ。変わらず屋敷の前に杖を突いて立っていたニコラス老人は、満面の作り笑顔でディラン達を迎えている。
「どうかされましたか? 監査に何か問題でも?」
「はあぁぁ?」
あまりにも白々しい言葉を吐いたニコラス老人に、ディランだけでなく冷静なリアムも顔をしかめる。館の中へ入ったように見えなかった労働者達を、リアムは能力を使わずに視力だけで探したが、見つけられなかった為、口を開く。
「おい。ここに押し寄せた大量のゴミ虫はどうした? 森の中からは、気配を感じないようだが?」
笑顔を全く崩そうとしないニコラス老人は首を傾げ、あたかも困ったように眉をハノ字に曲げる。
「ゴミ虫でございますか? さあ、なんの事でしょうか?」
「ああ! もういい! お前の茶番に付き合う気は、ない!」
ニコラス老人が発したその言葉で我慢の限界がきたらしいディランは、唾を地面に吐き捨てた。
「隠している能力者を出せ。それと、ゴミ虫共がどこに行ったかを教えろ。隠さずにいえば、お前の命について多少は考えてやらんでもない。早くしろ」
「なるほど、隠し事でございますか……」
考え込むふりをしたニコラス老人は、館の扉が内側からノックされた音を聞き、ゆっくりとうつむく。
「ああ! そういえば、ありました。ありました」
「早くいえ! じゃなきゃ、連れてこい! 殺されたいのか! ゴミが!」
俯いてディラン達に顔を見られないようにしたニコラス老人が、作り笑顔を消した事にリアムだけが雰囲気で気が付いた。
「なんだ?」
「いやぁ。最後まで隠し通せましたよ……」
下げられたままのニコラス老人の顔は、ノアに対する怒りでどんどん歪んでおり、鬼のように変わっていく。
「ああ? 最後?」
「そう最後だ。わしは、ノアに大事な家族を奪われた者なんだよ。この大馬鹿共め!」
激しい怒りの形相を一気に上げたニコラス老人は、能力者達をびくりとさせるほどの声で叫んだ。
「な! まず……」
ニコラス老人の叫びと共に、館の壁から隠されていた穴が数え切れないほど蓋を破って出現し、その中から銃口が外へと延びる。
……共振? フォース以上? いや、この説明だと俺でもなるのか。
隠し部屋の中で、ノートを終盤まで読み進めた省吾は、訳の分からない記述にぶつかり、眉間にしわを作った。
そのページに行きつくまでは、意味がすぐに理解できる程分かりやすく、省吾に役に立つ情報ばかりだ。しかし、そのページに書かれていた、ディラン・ウインスの名を知らない省吾は、理解に苦しんでいる。
……光の壁を作る能力者。フィフスか。何故こいつだけ、個人情報が?
ディランの情報を読み終えた省吾は、次のページにもフィフスの情報が載っているのかと推測したが、外れていた。
……このページはなんだ? 恐ろしい能力者なのは分かったが、補足説明もないな。
「ふぅぅ」
省吾は眉をひそめたままではあるが、見当もつかない為に、ページを読み進むことにしたようだ。元は日記だったらしいノートは、故意的に破り捨てたページが多く、明らかに読む相手に説明するような内容に途中から変化していた。
……俺が読む事まで、能力で予知されていたか? なら、さっきのフィフスは。
ノートを読み終わる手前で、耳に何発もの銃声が飛び込んできた為、省吾は勢いよくベッドから立ち上がる。
……なんだ? やはり、トラブルか? どうする? 千里眼を使うか?
開かれたまま床に落ちたノートが、最終の一ページ前だと分かっていた省吾は、出て行くべきか迷いながらしゃがんでページをめくった。
……これ、全て計画か!
呼びに来るではなく、指示があるまでとニコラス老人がいった本当の意味を、省吾も理解したようだ。
「くそっ!」
ノートの最終ページを見た省吾は、急いで部屋を飛び出し、銃声の鳴り止まない一階へと向かう。ニコラス老人の書いたノートの最後には、今すぐ銃声のする館の一階に来いとだけ書かれていたのだ。
千里眼を、なんとなくで自分が使わなかった事まで読まれていたと分かった省吾は、寒気を感じた。そして、ガブリエラが黒幕もしくは、黒幕に通じた者であれば、取り返しがつかなくなる事も推測できている。だが、自分自身が持つ直感が急げと叫ぶ為、走り出した足を省吾は止めることが出来ない。
豪華な作りの扉の前に、敢えて憎しみの的として立っているニコラス老人は、笑っていた。表情のほとんどが狂気じみた怒りを表しているが、ニコラス老人の両口角は確かに限界まで吊り上っている。
それは隠す必要が無くなった、ニコラス老人の憎しみと復讐に憑りつかれた、本来の表情なのだろう。大きく見開かれたニコラス老人の目は、毛細血管が裂けるのではないかと思えるほど血走ってどす黒い心を表している。
「はははあぁっ! この場所がお前達の墓場で、今日が命日だ! 悪魔共おぉ!」
今も、館の穴から伸びている銃口は、火と叫び声をあげて弾丸を能力者達に撃ちだしていた。
「マガジンを補充しておくれぇ!」
「弾が詰まった! フォローを頼む! こっちだ!」
数年をかけて気付かれない様に訓練を重ねた使用人達は、敵が反撃の隙を作らない様に銃弾を放ち続けている。
三人で一チームを組んでいる使用人達は、弾丸を発射していた一人が弾切れになると、隣で撃たずに構えていた者が引き金を引く。そして、残った一人がマガジン交換を終えた銃を渡し、その銃を受け取った者はそれを構えて自分の順番を待つ。
これは元の時代にいた省吾も考えた、能力者に有効な戦い方であり、攻防を一度に行えない能力者を仕留めることも可能だ。予知能力により綿密に立てられた計画で不意を突く事は、狡いといえるが能力の無い者が敵に対抗するにはその方法しかない。
「こっのっ! ゴミ屑共が!」
「ダニエル! おい! おいって! お前等あぁぁ!」
ゴミと呼ばれるニコラス老人と使用人達の奇襲は、想像以上の成果が上がっており、六人いた敵の二人を絶命させていた。ディランとリアムは降り注いだ銃弾を難なく防いだが、他の四人は防御膜を展開するのが遅れたのだ。そこから二人が致命傷を受けずに生き残ったのは運でしかなく、もう二人が命を失ったのは不運でしかない。
いくらフォースの能力者でも、超感覚で弾丸の位置を掴み、反射的に防御するには訓練が必要になる。省吾の時代に時間介入した能力者達が、リアムのように難なく弾丸を防いでいたのは、実戦を積んでいたからだ。戦争中だった時代を生き延び、時間介入で銃弾を掻い潜っていたケイト達は兵士としては未熟だが、能力者としての練度は高い。それに対して、銃のほぼなくなった時代に生まれ、安全な立場で能力の無い者を虐殺だけしてきたノアの兵士達は、弱いと表現していいだろう。
リアムがその環境で能力の練度を高めたのは、皮肉な事にウインス兄弟の悪乗りに、無理矢理付き合わされ続けたからだ。おもしろそうだという理由で、三階の窓から突き落とされた事もなるリアムは、能力を使わなければ生きてはいなかった。
ウインス兄弟に見舞われた能力に比べれば、怖いとも感じない銃弾を防御膜によって防いでいるリアムは、表情を変えていない。しかし、友人が作った赤い水たまりを見た兵士達二人は、分かりやすく怒りを顔に出していた。
「くそっ! くそおおおぉぉ!」
フォースでしかないその二人は、銃弾を防ぎながら攻撃に転じることが出来ないが、ニコラス老人を睨んでいる。ノアの兵士達を、睨み返しているニコラス老人も二人以上の憎しみを瞳に宿しており、気圧される事はない。
それこそが、ノアを支配した馬鹿げた考えを切っ掛けとした、憎しみと恨みによる負の連鎖だ。大事な者達の命を奪われた者同士は、お互いが痛み分けとして怒りを飲み込まなければ、殺し合う事しか出来ない。
「ふぅぅ……うっ!」
仲間であるはずの兵士すら、どうでもいいとしか考えていないリアムだったが、驚きの表情と共に後ろに下がった。それは、五枚の光る壁により全身を守っていた姿が隠れたディランを、能力で確認したからだ。
自分にとって何一つ上手くいかない状況が続いたディランは、幼馴染のリアムでも見た事が無いほど怒っていた。その怒りに呼応して、周囲を囲む壁も光の強さを増していた為、ディランの姿がリアムから見えなくなっていたのだ。
脳の血管が切れてしまうのではないかと思えるほど頭に血が上っているディランの顔を、赤ではなく青紫にまで変化していた。
「殺すぅぅ……。ぶち殺す。それも、楽には殺してやらん。殺してくれと言い始めるほど苦しめて、殺してやる」
ディランの恐ろしさをノアの中で誰よりも知っているリアムは、無言で後退を始めており、庭から出ようとまでしている。
「馬鹿な事をしてくれたもんだ。私はもう、知らないぞ……」
額や首の冷や汗をハンカチで拭っているリアムは、一時間ほどで町を半壊させた幼馴染の兄弟喧嘩を思い出していた。
「調子に……乗り過ぎだあああぁぁぁ!」
ディランが叫ぶと同時に、ニコラス老人の前に五十センチ四方の壁が作られ、人間では回避が難しいほどの速度で扉に向かう。
「うぐっ……」
小さな光の壁は、ニコラス老人を信じられない速度で扉に叩きつけ、そのまま突き破った。
「あっ……あがっ……ごほっ……」
館の階段にぶつかって力なく床に転がったニコラス老人は、口から血を吐いて咳き込んでしまう。
「旦那様あぁぁ!」
「く……来る……ごぼっ! 来るなああぁぁ。戦え! おほっ! 鉛を……はぁはぁ……食らわせろ……」
使用人の幾人かは、瀕死にまで追い込まれたニコラス老人に駆け寄ろうとしたが、足を止める。
「くっ! 怯むな! 隙が出来る! 撃て! 撃ち続けろ!」
自分の命さえ次につなぐ捨て駒だと、ニコラス老人に言い聞かされていた使用人達は、悔しそうに顔を歪めたが仕事を放棄する愚は冒さなかった。
「えほっ! ごほっ! ごほっ! ごほっ! はぁはぁ……。そうだ。それでいい」
焦点が合わなくなり、意識が朦朧としはじめたニコラス老人は、仰向けに倒れたまま未来に続く鍵を待つ。その切っ掛けは来ないかもしれないと思っている事と苦痛で、ニコラス老人の表情はしわが幾本も入って歪んでいる。
「計画……。未来は……」
「ニコラスさん!」
十年以上待っていた叫び声を聞いたニコラス老人は、目に少しだけ涙を溜め、表情が自然と笑顔に変わる。
「英雄は……おほっ! あの女のいった通り……大馬鹿者らしいな」
省吾の声で限りなく成功率が低かった計画の確率が、変動していると感じたニコラス老人の目に気力が戻っていく。使用人達と自分の命を費やし、敢えてぎりぎりまで省吾に真実を告げない事でのみ、予知能力者が作った計画は成功へとたどり着く。
その中でもっとも失敗につながる因子は、武力の強さではなく、人間が自分でも制御できない心だった。真実を知り、省吾が素直にノートに書かれたニコラス老人の指示に従わなければ、計画は潰えていたのだ。
戦場に迷わず踏み出した省吾の馬鹿としかいえない素直さを、ニコラス老人は嬉しそうに笑っている。
……敵は? 三? いや! 四だ!
千里眼で出来るだけの情報収取をしながら走っている省吾は、途中が瓦礫に変わっている階段の上から飛び降りた。
「ニコラスさん! しっかり!」
……腹部から血? これは吐血の血じゃない。早く手当をしないと。
倒れたままのニコラス老人に駆け寄った省吾は、背広の上着をめくり怪我の状態を確認している
「流石は英雄……。いいタイミングで……ごほっ! 来るもんだ」
「何をいってるんですか! しっかり! 意識を保ってください!」
先程まででは考えられない程穏やかに笑うニコラス老人に、医療器具を持っていない省吾は叫ぶ事しか出来ていない。
……鮮血? 動脈がやられたのか? どこに行けば、包帯や薬は手に入る? どこに?
応急手当程度しか心得の無い省吾は、もっと医学の知識を身に付けておくべきだったと悔やみながら、自分なりの対応をしようとしている。ノアの能力者達と戦っている使用人達の事も省吾は気にしているが、目の前で失われそうな命を無視は出来ないようだ。
どうすればいいかも判断が付きかねている省吾は、震える手でシャツをはだけて怪我を直接確認しようとした。だが、それに気が付いたニコラス老人は、省吾とは別の理由で震わせている手で、伸ばされた手を払い除ける。
「ごほっ! わしに……はぁ……そんな趣味はない」
「何を……こんな時に!」
ニコラス老人の目は焦点が合わなくなっているが、省吾が心底助けようとしている事は分かるらしく、笑っていた。数十年かけてひねくれてしまったニコラス老人は、素直に自分は助からないといいたくないのかもしれない。
「そうか……えほっ! はぁはぁ……。それがお前の心が持った……形か」
「は?」
意味ありげにニコラス老人が発した言葉を、省吾は全く理解できておらず、医療器具を探しに行こうとした。しかし、ニコラス老人に安全な場所に退避するから肩を貸せと指示された為、素直に従う。
「そこの壁を蹴破れ、地下へ続いている。おほっ! ごほっ!」
省吾がニコラス老人の指さした階段脇に向かおうとした時、屋敷内に複数の爆音が轟いた。
……なんだ?
反射的に音の発信源に顔を向けた省吾は、立ち止まって目を大きく開き、あまりの出来事に絶句する。ディランが出現させた一メートルほどの立方体は、壁も床も窓も関係なく突き破り、館の中に飛び込んできていた。
その光る立方体は銃弾を弾く防御力と、当たった箇所を容易く押し潰す攻撃力を持っている。大砲に撃ちだされた鉄球よりも破壊力のある攻撃にさらされた館は、見る間に景色を変えていった。壁や天井はハチの巣を思い出すほど穴だらけになって行き、戦っていた使用人達が真っ赤に染まって目を背けたくなる姿に変わっていく。
「おらああぁぁ! どうした! 撃ってこいよ! 撃った分を、百倍にして返してやるからなぁ!」
どんどんと空中に光の箱を出現させているディランは、怒りに満ちた心のおもむくまま、館に攻撃を続ける。
「リンさん! リンさん! しっかりしておくれ!」
「ぐがああああっ! 腕が! 俺の……」
阿鼻叫喚の地獄と化した館の中で、重傷を負った使用人達を見た省吾は、ニコラス老人を連れたまま助けに向かおうとした。その省吾は、耳元で命を削りながら大きな声を出したニコラス老人のせいで、足を止めざるを得なくなる。
「馬鹿者があぁぁ! ぜひぃ……ぜい……。お前は、わしと地下に向かうんだろうが。はぁはぁ。余計な事をするな」
笑顔を消して恐ろしいほどの表情を作ったニコラス老人は、震える手で省吾の胸元を強く掴む。
「今……はぁはぁ……ごほっ! 今、お前が行ってどうにかなるのか? はぁはぁ……大局を見ろ。お前の成すべき事を……考えんか!」
必死に叱りつけているニコラス老人は、ガブリエラから省吾の性質を聞いており、何をしてでも止めようとしていた。省吾は犠牲者を増やさない為に、緊急時は真っ先に先頭で戦う。それこそがニコラス老人達の真実を隠した原因だ。
戦闘力の高い省吾が銃を装備すれば、ノアの兵士達に善戦する事は出来るだろう。しかし、相手がフィフスではそうはならない。ニコラス老人が十年の歳月をかけて命を削りながら準備を整えたのは、省吾をフィフス以上の存在にする為だ。
肉体的にいくら優れていても、セカンドでしかない省吾がそこに至る為には、武器だけでなく心を支える地盤を固め、機を見計らう必要があった。
「しかし……えっ?」
足を止めた省吾が、命への未練から怪我をした使用人達に顔を向けるが、その使用人達は一様に笑っている。絶命した者以外は、重傷を負って真っ青な顔をした者まで、ニコラス老人の声を聞いて笑顔を作ったのだ。
「行ってくおくれなっ!」
「はぁはぁ……。時間は稼いで見せます! ですから!」
隠居して余生を楽しんでいてもおかしくない年齢の使用人達は、口々に省吾に進めという。使用人達が笑顔を無理にでも作っているのは、自分達の死を気に止めてはいけないというメッセージだと、省吾にも理解出来た。
「ふんっ! さあ! 行ってください!」
使用人の代表をしている男性は、銃を置くと壁に見える木の板を蹴破り、隠されていた階段の蓋を外して指さす。
「はぁ……はぁ……お前にも分かっているんだろう? ごほっ! 機を見誤るな」
デビッドを思い出した省吾は、自分の弱さに対して悔しさを表情に出し、千里眼を館の外へ向けた。
「ボーナスタイムだ! ありがたく受け取れえぇ!」
ディランを囲んでいた光の壁は正面の一枚だけになっており、透視の力が無い省吾にも相手の行動が見えている。叫びながら広げた両掌を空に向けたディランは、館の上空に巨大な光の壁を作り出していた。
「や……やめろ!」
館の中から叫んだ省吾の声は届くはずもなく、ディランが腕を振り下ろすと、館の三分の一が一瞬にして押し潰される。建物全てを潰せるほどの力をディランは持っているが、加虐癖を満足させる為にわざと手加減したのだ。
「く……そっ……くそ……」
数瞬前まで、省吾に笑いかけていた優しい老人達が、瓦礫の赤い染みに変わってしまった。全員と顔見知りだった省吾の脳内に、使用人達の顔が次々と浮かび、心が鮮血の量を何倍にも増やす。
「怯むな! 引き金を引き続けるんだ!」
全てを知って、短い余命をその日に使い切ると決めていた使用人達は、怯みもせず能力者達に牽制をかけ続ける。
使用人達は自分で英雄と名のならない、心優しい青年の事を心底信じており、子や孫の為に全力以上を出していた。銃の爆音で鼓膜が破れている者や、ディランの攻撃で足を失っている者もいるが、誰も気にかけてはいない。
「ごほっ! ごほっ! どうするんだ?」
「分かっています……」
苦しそうに目を閉じた省吾に、ニコラス老人は敢えて問いかけ、開かれた目蓋の下から現れた烈火の瞳に口角を上げた。命の血文字で書かれている使用人達からメッセージを受け取った省吾は、歯を食いしばってニコラス老人と共に地下へと向かう。
……迷っている場合じゃない。手が血で染まっている俺が戦うんだ。勝つ為なら、なんでもしてやる。だから。
地下に向かい始めた省吾を視界に捉えた者は、凛々しさを残した優しい笑顔を作り、想いを言葉にして渡していく。強い意志を目に灯した省吾は、無言でそれを全て受け止め、体温をどんどん上昇させていった。
「行ってください! 私達には貴方しかいないんです!」
「家族を……未来を!」
……くそ。くそっ。くそっ!
省吾がコンクリートで出来た階段を降り始めると、使用人代表の男性が笑顔を降りていく二人に向けたまま、蓋を掴んだ。
「頼みましたぞ!」
振り返る事も出来ない省吾は、歯を食いしばって肩を貸したニコラス老人と、階段を下りていく。
暗闇に入った事で初めて男性にも目視できたが、怒りに燃える省吾の全身は、淡い発光を始めていた。その背中に満足した使用人代表の男性は、笑顔のまま蓋をゆっくりと閉じ、すぐさま銃を握って戦いに戻る。
「エース殿は……英雄殿は進んでくださった! 後は、我らが時間を稼げばいいだけだ! 命を惜しむなあぁぁ!」
「おおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!」
代表である男性の言葉で、すでに衰えが如実な使用人達の脳から、信じられない量の化学物質が吹き出していた。愛の形として、最高の一つといわれる自己犠牲愛にまでたどり着いている面々は、未来への捨て石としてあの世へ真っ直ぐに進んでいく。
状況をモニター越しに確認していたシェルター内の労働者達は、外に出たいと申し出たが、血がにじむほど唇を噛んだグレースは鍵となるハンドルをがんとして渡さなかった。




