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名無しのエース  作者: 慎之介
四章
40/82

 見つているだけで神秘的な空想をしてしまいそうな、月と星のカンバスが農園の空に広がっていた。


 その日は人間の目から空を隠す雲が少ないおかげで、天体観測には持って来いの状況だったといえる。しかし、日々の生活に追われた人々は、月夜を見上げて感慨にふけるほど余裕を持っていなかった。


 北の空で、また一つの星が尾を引いて流れようとしていたのだが、宿題を終えてベッドで眠っているアリサも、罠にかかった労働者を森の外へ誘導していた省吾も気付かない。流れ星に気が付いたのは、農場からかなり離れている小高い丘の上で、大きな岩に座っている少年だけだ。


「あっ……」


 帽子を逆向きにかぶった少年のいる丘は、大昔に巨石文明でもあったのではないかと思える岩が、いくつも転がっていた。その岩の周りには雑草だけが生えており、樹木等の障害物や人工の光もないおかげで、夜空がよく見える。


「また、星が落ちたよ」


 少年の隣に座っていた髪の長い女性は、暗闇でほとんど相手が見えないにも関わらず、うなづく事で少年に応えた。無地ではあるが紫色のスカート丈が長いドレスを着たその女性は、少年が闇の中でも自分を正確に捉えていると知っているからだ。


「こんな世界間違ってる。壊さないといけない……」


 長時間空を見上げていたせいで首が痛くなったらしい少年は、顔を地面に向けて目を閉じ、心地よい夜風と虫達の泣き声に耳を傾けた。少年達が空を見ている丘へと続く、地面がむき出しになっている細い道の先に数人の男性が待機している。


「まだ終わらないのか?」


「まだだろうな。多分、後一時間以上はかかるはずだ」


 仲間の言葉を聞いたひげを蓄えている男性は、やっていられないといわんばかりに周りに聞こえるように息を吐いた。それを聞いて不快感を覚えた別の男性が、口を開く。


「仕方ないだろうが。あれは、あのお方にとって必要な事だ。お前も、分かっているだろう?」


「分かってるけどよぉ。たき火もさせてもらえないんじゃ、飯も用意できねぇしよぉ」


 自分の顎髭を無骨な手で撫でた男性が、さらに愚痴をこぼしそうだと予想した仲間は、月の光に輝かせた鋭い目を向けた。


「まさか……。我等を導いて下さるあのお方が、信じられないとでも?」


「いや、そうじゃ無いけどよぉ」


 喧嘩を始めてしまいそうな仲間を見かねて、その中で一番年配の男性が、仲裁をする為に発言する。


「やめろ。仲間同士で言い争ってどうなる? お前の気持ちも分かるが、今は我慢の時だ。あの方が導いて下さる事を、信じようじゃないか。なぁ?」


「ああ。分かってる。その……悪かった」


 年配の男性から肩を軽くたたかれた髭の男性は、何も持っていない両手を広げて持ち上げる事で、降参のポーズを仲間に見せた。その光景を超能力により見ていたフィフスの少年は、達観したように笑うと、閉じていた目を開いてもう一度空に向ける。


「もうすぐだ。もうすぐ、僕等の願いが叶うんだ……。もうすぐ……」


 隣に座った女性の膝の上に置かれた手に、自分の手を重ねた少年は、空に向けた目に謎めいた輝きを灯していた。少年が持つエメラルドの様な瞳が動きを止めると同時に、少年の体から強い光が発せられた。そして、少年自身だけでなく、手が触れていた女性の体ごと包み込む。


「僕はもう、待ちきれない……。未来をこの手の中に……」


 少年の目から、一粒だけ零れ落ちた虹色に光る涙は頬を伝い、考えられない程ゆっくりと岩に落ちて染み込んでいく。


 同じ頃、農園の最端にある館の大広間に集められた高齢の使用人達は、少年よりも多くの涙を流していた。辛い事があるはずの老人達は自分達の声を殺し、ハンカチに涙を吸収させて主であるニコラス老人を見つめる。


 大広間に集められたのは、ほぼすべての使用人ではあるが、マシューだけでなく省吾やアリサもその中に含まれていない。老人と呼ぶべきでない者は、その大勢の中でニコラス老人の隣で、いつもの様に表情を殺して立っているグレースだけだ。


 大広間の壁には、等間隔にろうそくが入ったランタンが取り付けられており、部屋の隅々まで橙色の光が行き届いていた。その部屋にあるノアの紋章が飾られた壁の前に、杖を突いて立っていたニコラス老人は、一度咳払いをして口を開く。


「分かっているだろうが、明日の監査が最後となるはずだ。心しておけ」


 ニコラス老人が発した低く強い声で、すすり泣く声は一斉に止み、一同は出来る限りの笑顔を主に向ける。ランタンの淡い光により照らされながら笑う老人達を見て、異様な光景だと感じる者も多いだろう。


「旦那様……」


 もう喋る事はないとばかりに立ったまま目を閉じたニコラス老人に、使用人を代表した男性が声を掛ける。


「なんだ?」


 省吾を言葉で威圧できるほどの使用人である男性に対して、ニコラス老人は片目だけを開き、ぎろりと睨みつけながら問いかけた。その眼光を笑顔で受け流した使用人の男性は、精一杯頭を下げ、皆の意見を代表して伝える。


「今まで、我々共の様な者達を飼って頂き、誠にありがとうございました。このご恩は、死んでも忘れません」


 男性の言葉が終わると同時に、騒ぐわけにはいかない使用人達は、一斉にニコラス老人に頭を下げて見せた。


「ふんっ!」


 使用人達からの礼を鼻で笑い飛ばしたニコラス老人は、使用人達に頭を下げさせたまま部屋を出て行く。


 部屋の明かりが橙色だった為、使用人達や扉を開いたグレースも気が付いていないが、ニコラス老人の顔は真っ青になっている。下の者に弱みを見せたくないらしいニコラス老人は、部屋を出ると足早に自室へと戻ろうとしていた。


「うっ! はあっ! あ……あ……」


 呼吸が出来ないほどの差し込むような痛みに、ニコラス老人は自室の前で膝をついて両目を見開く。纏っていたガウンの胸元を掴んだニコラス老人は、何とか呼吸をしようと唾液の流れ出している口を、開いては閉じている。


「ぐっ! うぐぅ……」


 自分の部屋に戻ろうとしているニコラス老人は、枯れ木のように細くなった手をドアの取っ手に伸ばすが、数メートルの距離がそれを阻む。


「旦那様!」


 ニコラス老人の異常に一番早く気が付いたのは、いまだに大広間で頭を下げたままの使用人達ではない。翌日の資料を渡す為に、ニコラス老人の寝室へと向かっていたグレースが、苦しんでいる主人に駆け寄った。


 資料を床にばらまいたグレースは、窓からの月明かりを頼りに、ニコラス老人を助けようと手を差し出す。しかし、ニコラス老人は自分に伸びてきたグレースの手を、歪んだ視界の中で払いのけてしまう。そして、悲しそうに表情を歪めたグレースに鬼気迫る顔を向け、消え入りそうな声で告げた。


「くっ……くす……り……」


「はいっ! ただいま!」


 幾重もの金属製の扉を急いで開き、走ってニコラス老人の寝室に飛び込んだグレースは、脇机の引き出しから瓶に入った薬を取り出す。そして、脇机の上に置かれていた金属製の水差しとコップも掴むと、主人の元へ舞い戻る。


「どうぞっ!」


「うぐっ! はぁはぁ……うっ!」


 僅かだが痛みの治まったニコラス老人は、グレースから受け取った薬瓶の蓋を両手で乱暴に外す。


 横に傾けた薬瓶を掌の上で振ったニコラス老人は、数も気にせず出てきただけ薬を口に含んだ。そして、顔を天井に向けながら薬を喉の奥に押し込み、グレースが差し出してきたコップに入った水を吸うように飲む。


「はぁはぁ……はぁ……はぁぁぁ……」


 薬を飲み終え、その場に突っ伏して目蓋を閉じていたニコラス老人の呼吸が、数分で落ち着いていく。うつ伏せの状態から仰向けに自分の体を転がしたニコラス老人は、天井を焦点の合わない目で見つめて尚も呼吸を整え続けた。


 その光景を、ばらまいてしまった資料を拾い集めていたグレースは、悲しそうに見つめており、目には涙まで溜めている。


 ニコラス老人は、二十世紀の平均寿命よりも歳を重ねており、過酷な未来ではかなりの長寿だ。だからといって不老不死であるはずもなく、天寿を全うする時間はどんどんと押し迫っている。苛烈な人生を送ったニコラス老人に、運命が用意したのは、老衰ではなく病による最後だった。


 医療が信じられない程衰退してしまった未来では、複数個所に転移した末期がんを治療する術はない。ニコラス老人が瓶から取り出した薬も、治療薬ではなく過去の世界で違法とされた麻薬に近いものだった。


 既にニコラス老人を襲っている痛みは鎮痛剤でどうにかなるレベルを超えており、寿命を縮めてまで強い薬を服用せねば、活動する事も出来ないのだ。


「もう少し……。もう少しだけ、待ってくれ……。わしはまだ……」


 壁際まで這いずったニコラス老人は、壁を利用して上半身だけを起こし、そのまま背を壁につけてうわごとのように呟いた。資料の束を両腕で抱えたグレースは、潤んだ瞳でニコラス老人を見下ろし、唇を強く噛んでいる。


「なんだ! その顔は! いっただろうが! お前は、心を殺してでも強くないといけないんだ! わかっ……」


「おじいちゃん……」


 秘書をしかりつけていたニコラス老人の耳に、グレースの消え入りそうな声が届き、瞳の狂気が陰った。


「ふぅぅ……。困ったものだ。おいで……」


 手招きした後両手を広げて見せたニコラス老人は、胸の中に飛び込んできたグレースを優しく抱きしめる。ニコラス老人がグレースに行ったハグは、下心を表現したものではなく、家族への愛を表している。数年ぶりに孫としての表情を表に出しているグレースは、祖父の頬に軽い口づけをして目を閉じる。


 使用人の中でも一部の人間しか知らない事だが、グレースはニコラス老人にとって本当の孫と変わらない存在だ。ニコラス老人が若い頃に住んでいた自治区は、内部での争いにより半数以上の家屋が焼失する大参事で消滅している。


 その争いの中で、能力者をかばったとしてニコラス老人は雑貨店の外に引きずり出され、暴徒から袋叩きにされたのだが、弟妹は屋内で暴行を受け雑貨と共に炎にまかれた。その時のニコラス老人は発狂してしまい、一番年上で能力の無かった弟が、自力で家を脱出した事に気が付かなかったのだ。


 ニコラス老人と血の繋がらない弟は自治区から逃げ出して生き延び、子供だけでなく孫まで作っていた。弟自体はノアの能力者狩りで命を落とし、兄との再会を果たせなかったが、孫のグレースはニコラス老人が保護したのだ。


「ここで、甘さは捨てなさい……。これからお前は、甘えられる相手もいなくなり、一人になる」


「はい……」


 涙を流しているグレースは、廊下で抱き合った格好のまま、祖父であるニコラス老人の目を見つめる。


「お前は強い子だ。わしが保証する。だから、生き延びておくれ……」


「はい……」


 涙だけでなく鼻水まで流しているグレースは、最後だと自分に言い聞かせて、祖父の胸に顔を埋めていく。月が覗く廊下で抱き合った二人にとって、それは何よりも嬉しく悲しい、大事な家族としての最後になる時間だった。


「なんだよ。やっぱり、愛人じゃないか……」


 抱き合ったままの二人を見て、無粋極まりない言葉を吐きだしたのは、隠し扉の中で全てを見ていたマシューだ。ニコラス老人の異常を最初に発見したのは、使用人やグレースではなく、二階にある隠し扉から食料庫につまみ食いに入ったマシューだった。


 主人の命を心配する気持ちよりも、つまみ食いがばれて怒られたくない気持ちが強かったマシューは、苦しんでいたニコラス老人をただ見つめていたのだ。そして、グレースの声を聞いて見つからない様に金属製の扉をそっと開き、二人の様子をうかがっていた。


 少し距離が離れていた為、マシューは二人の会話を聞きとれていなかったようだが、それはいい事だったのかもしれない。


「ここまでだ。わしが未練になっては、本末転倒だ」


 目を閉じていたグレースは、両親が命懸けでノアによる狩りから自分を逃がし、大木のうろで一晩泣き明かした事を思い出していた。その生きる気力を失いそうだったグレースに、森を駆け回って息を切らせたニコラス老人は、笑顔としわだらけの手を差し出したのだ。


 ニコラス老人と離れたくないという気持ちはグレースの中で限界まで膨らんでいたが、しわが出来るほど目蓋を強く閉じ、心にけじめをつけて口を開く。


「はい……」


 限られた時間を惜しむ様に、ハグをしたまま心を通わせていた二人は、お互いに見つめ合った後、距離を取った。そして、ニコラス老人に肩を貸したグレースが、ゆっくりと扉が開け放されたままの寝室に向かう。


「ちっ……」


 抱き合っていた二人によからぬ妄想をしていたマシューは、目を血走らせて鼻息を荒くしていた。しかし、寝室に戻っていく二人を見て、舌打ちをすると食料庫の隠し扉をゆっくりと閉める。


 グレースをニコラス老人の愛人だとしか思えなくなったマシューは、自分にとって嬉しい光景が見えるとでも思っていたのだろう。


「期待外れだな。はぁ……」


 食料庫に保管されていた新鮮なトウモロコシを、生のままかじり始めた扉の前に座るマシューは、不満げな顔をしていた。


「あの爺……。早く死なねぇかなぁ……。そしたら……うん?」


 ぶつぶつと独り言をいっていたマシューは、回転の悪い頭で何かを思いついたらしく、気持ちの悪い笑みを作る。


「そうだよ。そうすれば……。いひっ……いひひっ」


 頭の悪いマシューが頑張って絞り出したのは、ニコラス老人が失策後に死ねば、若い自分が農園をノアから任せて貰えるだろうという事だった。更に、そうなればグレースも自分のものになり、省吾の力を盾に労働者達も思い通りに出来るとまで、考え始めている。


「あの爺さんは長くない。それなら……ひひっ」


 ニコラス老人が病死したとして、年齢や能力的に考えて、後継者になるのはマシューではなくグレースなのだが、本気で気が付いていないようだ。また、超能力者同士はお互いに能力を持っているかある程度判別できるため、省吾が農園を継ぐことは難しいが、アリサもマシューよりは後継者に近いだろう。


「そうすりゃ、楽に生きられるじゃないか。ひひっ……。ああ、待ちきれねぇ……。早く死ね」


 マシューが考えているのは、他力本願で情けない現実味の薄い妄想であり、実現するはずもない。


「いててっ……。くっそ」


「分かったから、やめろ! くそ……」


 その夜、二度目となる労働者達の侵入に対応していた省吾は、罠から解放されてもまだ暴れようとしていた者達の背中を押して森の外まで歩かせていた。


……やっと、諦めたか。


 二人いた侵入者の腕を、左右の手でそれぞれ背中の後ろでひねったまま関節を固定していた省吾は、森を出ると同時に手を放す。それは、森の中を歩く間中隙を探していた二人の力が抜けた事で、やる気が失せたのだろうと省吾が判断したからだ。


「兄さん!」


 省吾に解放されても痛みが引かない腕と肩を撫でていた男達には、珍しく森の外に迎えが待ち構えていた。


「あれほど、止めてっていったのに!」


「五月蝿い! 帰るぞ!」


 館に侵入しようとした男性達の妹らしき女性三人を、昼間詰め寄られそうになった省吾もまだ覚えている。


……あの子達の家族だったのか。なるほど。


 両手を腰に当てて立っている省吾は、五人が館の壁変わりである森から、一定の距離に離れるまで確認しようとしていた。


「あっ! おい!」


 侵入者の妹達は、兄と一緒に家へ帰ろうとしていたが、何を考えたのか省吾に駆け寄って行く。


「あの、本当にすみません。この償いは、すぐにでもさせて頂きます」


 自分に向かって頭を下げた女性達が、謝罪の気持ちより下心を強くしていると省吾は気が付けない。


「あっ! あの、エースさんの家に、何か差し入れでも……」


……家? 見張り小屋の事か? 何故、この人達は少ない食料を俺に? 自分で食べればいいのにな。


「いや、遠慮する。何より、貴女達が悪いんじゃない。明日の仕事に差し支えない様に、帰って眠るべきだ」


「おい! 帰るぞ! おいって!」


 いつものように省吾へ想いが届かない女性達は、兄達に腕を掴まれて、それぞれの家に帰って行った。


 農園の労働者達から慕われている省吾だが、ニコラス老人を本気で殺そうとしている者達にはよく思われているはずもない。自分に向かられた憎しみのこもった視線には省吾も気付いており、仕方がない事だと諦めていた。だ、年頃の女性を家族に持つ者達からも、省吾は逆恨みされているのだが、その事は気が付けていない。


……もう、一時か。早いな。


 五人が離れていくのを見届けた省吾は、左腕につけた外せない腕時計で時刻を確認してから小屋へと戻っていく。


……今日の月は、なんだかいつもと違って見えるな。満月のせいか?


 省吾の勘は、近づいてくる運命の足音に反応しているようだが、主に正確な未来を見せる程の力はない。


「痛いない……痛いないよ」


 小屋に戻って目を閉じた省吾の脳は、夢として過去に存在した一人の女性を、登場人物として選んだ。その女性は苦しそうな呼吸を続けているが笑っており、夢の中で何をする事も出来ない省吾は消えていく女性を見つめる事しか出来ない。


「男は、クールで強く……格好よくだ!」


 両拳を震わせるほど強く握っていた省吾に、親代わりだった男性が昔言った言葉がよみがえってきた。男性に対して言い訳する事も出来ない省吾の心は、いまだに深い傷から血を流し続けている。


 ただの思い出でしかない夢の映像は、省吾の持つ直感が作り出したものか、この世にいない者達からの警告だったのかは分からない。その夢によって変化が起こったのは、省吾の内面にある真っ赤な炎だけだ。


……俺はまだ、死んでない。まだ、戦える。俺は。


 残酷な現実の中で、運命が歯車によって紡ぎ出した分岐点は、貧弱な人間である省吾に選択を迫ろうとしていた。


「ふぅぅ……」


 朝日と共に目をさまし、桶に溜めた水で顔を洗った省吾は、運命の流れをいまだに捉えきれていない。


 いつもの様にくわとざるを持って外に出た省吾は、小屋の隣に置いてある借りたままの荷車にその二つを乗せる。そして、手押しの荷車を引いて、掃除をする為に水路へ向かおうとしていた。


……あれ? 珍しいな。


 省吾が驚いたのも無理からぬ事で、何もなければ昼まで寝ている事もあるマシューが、館の入り口である森の前に立っていたのだ。そして、館に繋がっている道の左右に設置されている木よりも長い金属製のポールに、ノアの紋章を掲げていた。


「ふんっ! ふんんんっ!」


 恰幅のいいマシューは何故か腕力が弱く、ノアの紋章が描かれた旗を滑車のついた縄で引き上げるだけで、歯を食いしばって汗を流している。


「ふぐぐぐっ……いてぇ!」


 両掌が痛かったらしいマシューは、握っていた縄を離してしまい、中腹まで上がっていた旗が一気に落ちてしまう。


「ああ……」


「あの、手伝おうか?」


 肩を落として嘆き始めたマシューを見かねて、省吾は荷車に引っ掛けていた指を外し、声を掛けた。


「おっ? おお! 頼む!」


 痛む掌に息を吹きかけていたマシューは、省吾の申し出を素直に受け入れたが、自分は手伝おうとせず指示だけをする。


「一番上までだぞ。いいな? 早くしてくれ」


 手伝わないだけでなく、余計な言葉を吐いてしまう部分が皆に嫌われていると、マシューは全く分かっていない。マシューの態度を気にしていない省吾は、縄を両手で掴むとかなり力を込めて引いた為、バランスを崩しそうになった。


「うっ!」


……あれ? 軽い?


 縄に結びつけられた旗は、電動であるかのようにするすると一番高い部分まで、短い時間で上った。指示を待つ事なくポールに縄を結び付けている省吾を、口をぽかんと開いたマシューは見つめていた。


 豆粒のような目を見開き続けているマシューに顔を向けた省吾は、感じた疑問を問いかける。


「今日はどうしたんだ? 何かあるのか?」


「あっ……。なんだ? 知らないのか? 馬鹿だなぁ。今日はノアの監査が来る日だぞ」


……監査か。どうする?


 能力者が来るであろうことが予想できた省吾は、何処かに隠れるべきかもしれないと腕を組んで考え始めた。その省吾に助けられたはずのマシューは、何故か鼻息を何度も勢いよく吹き出し、怒りの表情を浮かべている。


「おい! ポールはもう一本あるだろうが! サボろうとするな!」


 自分の事を棚に上げただけでなく、何かを大きく勘違いしているマシューは、省吾にもう一本の旗を上げさせようとしていた。


……こいつに恨まれる事をした記憶は、ないんだがな。


 一人で顔を赤くしたマシューをあまり気にもしていない省吾は、溜息をついて人差し指を突き出す。


「はぁ……。分かったから、その握っている旗を貸せ」


 マシューは更にむっとした顔をしたが、自分の仕事を省吾にどうしてもさせたいようで、旗を差し出した。


 頭の回転が悪く勇気がないにもかかわらず、間違った自負心が強いマシューは、省吾の態度が気に入らないようだ。その為か、自分が農園の主になったら省吾の待遇を落とそうなどと妄想し、顔を更に気持ち悪く歪めた。


 館に向かって右側にあるポールで作業を始めた省吾は、手早く仕事を終えて、自分を睨んだままのマシューを無視して仕事に向かおうとしている。その省吾を徒歩で館から出てきたグレースが、呼び止めた。


「あっ! 待ってください!」


……なんだ?


「旦那様からの伝言です。今日はノアの監査人が来ます。ですので、昼までには館の奥に隠れていて欲しいとの事です」


 ニコラス老人が、自分の事まで計算に入れていた事を知った省吾は、少し驚きながらもうなずいて見せた。


「あの、何故エースさんがこの仕事を?」


 グレースの言葉で、マシューの顔が青ざめたのを見て、余計な事をいいたくない省吾は目線を上に向ける。マシューがおろおろし始めた事で、グレースは状況を推測できたらしく、息を大きく吐いただけでそれ以上問い詰めなかった。


「では、お願いしますね」


「了解した」


 省吾だけでなくグレースの態度も気に入らないマシューは、怒りながらも仕事をさぼった事を告げ口

されないかと表情をころころと変えていく。マシューに声を掛けたいどころか見たいとも考えないグレースは、省吾から館に顔を向けると帰って行った。水路の掃除を早く済ませたい省吾も、マシューに声を掛けず、荷車を引いて農場へと向かう。


「おはよう! エースさん!」


 挨拶をしてくれる労働者達に片手をあげて応える省吾は、マシューとのやり取りを見ていた黒い何かが笑った事を知らない。


 その頃、農場に一番近く、少し前までデビッドが統治していた町の前に、ディラン達が乗った二台の馬車が到着した。


 ディランが乗った側の馬車を操っていたリアムは、完全に停車させると運転席を降りて客室の扉を開く。中に乗っていたディランは三人座れる席を使って、足を組んだ状態で横になって眠っていた。


「ディラン様? 到着しましたが、中には入られますか?」


 リアムの声でゆっくりと目を開いたディランは、窓から見える都市の壁を見て、目を閉じる。


「農園につくまで起こすなといっただろうが」


「ここが、農園までに通過する最後の町です。お手洗いに向かう必要はないですか? もし、飲み物や食事が必要でしたら……」


 まだ眠り足りないディランは、眉間にしわを作り、リアムに顔を向けずに不機嫌な声で答えた。


「ああ! 必要ない! 資料も昨日のうちに読んである! さっさと、迎え!」


「これは、失礼しました」


 溜息と共に扉を閉めたリアムは、もう一台の馬車から降りようとしていた部下達に、休みなしだと手の合図だけで知らせる。部下達は休憩できると緩めていた顔をしかめたが、ディランに逆らう訳にもいかないとすぐに馬車の中と運転席へ戻った。


「ふぅぅ。弟の方が、何倍も聞き分けがいいとはな……」


 運転席に座ると同時に鞭を振り下ろしたリアムは、馬車の車輪が出す音でかき消える程度の声で愚痴を吐く。


 再度眠ろうとしていたディランは、馬車の振動を不快に感じて、手の届く範囲にあったクッションを掴んで、憂さを晴らす為に一度持ち上げてから床に投げつけた。大して舗装されていない道を、馬車という元々自動車よりも揺れる乗り物で走っているのだから、眠り難いのは当然だ。


「ああ、むかつく。デビッドの馬鹿が。仕事ぐらい片付けて行けよなぁ。くそっ」


 ニコラス老人の農園を監査するのは、本来前統治職であるデビッドが済ませておかなければいけない仕事だった。しかし、デビッドはのらりくらりと理由をつけて、二カ月ほど先延ばしにしていた為、ディランが行く羽目になったのだ。


 ディランは一度、手が回らないと断りの書状を王に出したが、一度延期しているという理由で却下された。常にデビッドを意識しているディランにとって、自分の思い通りにならない以上に、弟の申し出だけが受け入れられた事が気に入らないらしい。


「くそ……くそ……むかつ……」


 こめかみ部分に血管が浮き出るほど怒っていたディランだが、少しずつ頭に昇っていた血が下がると、眠りに落ちた。


「ふっ……ふふっ……」


 馬車の振動により浅くなった眠りの中で、ディランは夢を見始めており、目を閉じたまま笑う。夢でディランが思い出しているのは、前日の夜、重傷を負わせるまで虐めた二人の若い使用人達の事だ。


 デビッドに比べてディランは短気ではあるが、仕事を比較的真面目にこなす為、ましに見える部分もある。だが、幼い頃に能力が発現した為、わがままを咎められる者がおらず、かなり歪んだ性格に育った。


 性格、性根、意思、どれをとっても歪んでいる兄弟に昔から付き合わされたリアムが、二人を嫌いなのはしょうがない事だろう。


「ふぅ……」


 ディラン達が農園を訪れる約二時間ほど前に、水路を全て清掃し終えた省吾は館に戻った。そして、ニコラス老人の指示を受け、食料庫とは違う隠し扉の中にある部屋に、一人でこもっている。


 部屋の中に窓はなく、ベッドと何も入っていないタンスがあるだけで、掃除も行き届いており省吾が出来る事は全くない。


「はぁぁ……」


 部屋に入る前に使用人達が持たせてくれた、トレイに乗った昼食も既に食べ終えている省吾は、ベッドに大の字になって天井を見つめている。


 情報整理にも行き詰まり、暇を持て余した省吾は、天井を見つめたまま自然と会えなくなった人々の事を思い出す。その一人一人との思い出が、省吾の心に重くのしかかり、まだ血を流している心の傷を抉っていく。


 暗い闇に落ち込んでいく心とは逆に、目の中にある消えない炎は強くなっており、省吾はそれを落ちつけようと筋トレを始めた。


「三十……三十一……三十二……」


 表情には出さないがノアに対する怒りが全く消えていない省吾は、リアムを見た瞬間に飛び掛かってしまう危険性があり、ニコラス老人の判断は正しかったのだろう。


「八十二……八十三……八十四……」


 省吾は無意識に体を動かしているが、それすらもある人物は掌の上での出来事だと考えていると知らない。


 省吾の体が汗ばみ出した頃、館の前にある庭にはノアの馬車が止まっており、監査が開始されていた。人間以下の者が住む館の中に入りたくないというディランのわがままで、監査は庭で続けられている。


「こちらが、資料になります。次の出荷は、選別後ですので、明日を予定しております」


 使用人代表である男性は、ニコラス老人の指示に従って、監査に訪れたリアムに紙の束を渡した。


「ふん……」


 束を受け取ったリアムは、慣れた手つきで資料をめくり、必要事項だけを素早くチェックしていく。それを、ディランはニコラス老人達が準備した上等な椅子に座って、ふんぞり返ったまま見つめていた。


 監査といっても、ディランやデビッドは粛清が必要な時にしか働かず、実労働はリアム任せなのだ。


「問題はなさそうだな……ところで……」


 資料をチェックし終えたリアムは、ニコラス老人ではなく、資料を差し出した使用人に目を向ける。


「いつもの秘書はどうした?」


 今までの監査ではニコラス老人の補助をしていたのはグレースだったが、その日はアリサと一緒に省吾が居るのとは別の隠し部屋にこもっていた。


「はい。あれは、開墾できる土地を探しに出しております。半日ほど待っていただければ、帰ってまいりますが……」


「いや。それならいい……」


 表情を一切変えずに返答したニコラス老人を見て、リアムは疑問も持たずに資料の再チェックを始める。


「いつもの様に、食事をご用意させて頂きましたが……」


 ニコラス老人は、笑顔を作って館の扉を指さした。館の使用人達は料理がうまく、デビッドが監査に来ていた時代から付き添っていたリアム以外の兵士は、それにありつけると唾液を口内に溜める。


 しかし、眠り続けていたせいで空腹を感じていないディランは、機嫌がよくない事もあって断ってしまう。


「必要ない! ゴミ共の家で、飯など食えるか! 早く済ませろ!」


 ディランの言葉にリアムは目を閉じて溜息を吐いたが、ニコラス老人と使用人の男性は顔色を変化させない。表情を変えたのは、館での食事を楽しみにしていた、フォースの能力者である兵士達だけだった。


「よし。問題ない」


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げたニコラス老人と使用人を冷たい目線で見下したリアムは、決まり事であるかのように言葉で釘を刺す。


「お前達は生きる価値もない。今は、我らが王の温情で生かされているに過ぎない。食料の生産が少しでも落ちれば、どうなるかは分かっているな?」


「はい! 重々承知しております」


 日頃では考えられない程へりくだったニコラス老人だが、少しだけ口角を上げていた。その事に、ニコラス老人が頭を下げているせいで顔が見えないリアムは気付いていない。


「努々その事を忘れるなよ」


「ははっ!」


 頭を下げたままのニコラス老人達にリアムが背中を向け、監査が終わった事の分かったディランは笑顔で立ち上がった。


「終わりだな? 早く帰ろうじゃないか。ここは、臭くてかなわん」


 座っていた椅子を、掌程度の大きさしかない光の壁で吹き飛ばしたディランは、返事も聞かずに馬車の中へ戻っていく。


「はぁ……。引き上げだ!」


 指示を聞いた部下である兵士達は素早く馬車に乗り込み、資料を客室のカバンに入れたリアムも運転席に座った。馬に鞭を振るったリアムは、無表情で頭を下げ続けているニコラス老人達を冷たく見下したが、挨拶もなく去っていく。


 ニコラス老人は頭を上げていないが、ノアの馬車を森の外で待っていた者がいると知っている。馬の蹄手と車輪の音が遠ざかった所で、ニコラス老人は頭を上げると、歪んだ笑顔を浮かべて呟いた。


「くくっ……。始まるぞ……」


 その言葉と同時に、省吾を中心とした運命の歯車が、急速に回転速度を高めていく。

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