壱
大災害から十年以上の月日が流れ、国連軍の働きにより戦争は既に終結していた。災害だけでなく戦争や天敵の出現により、そのまま荒廃し続けるのではないかとさえ思えた世界は、かつての活気を取り戻しつつあった。
「はぁ」
事務総長に就任している、災害前は教師として働いていた女性が、長い会議から解放され溜息をついた。彼女は白人種特有の高い鼻と、グレーの瞳を持ち、少し長めの茶色い髪を後ろで束ねている。
「お疲れ様でした」
「ありがとう。今回の議事録も、今日中に提出してくれるかしら?」
女性から少しだけ遅れて部屋を出た補佐官を務める男性は、上司からの要求に笑顔でうなずいた。それを見た女性は、会議中も気にしていた事をその男性に尋ねる。
「中尉は、もう到着している?」
「はい。部屋で待機しているはずです」
補佐官の返事を聞いた女性が、足早にトイレへと向かった。そして、個室で用を済ませて洗面台の前立つ。常に持ち歩いているバッグから道具を取り出した女性は、少し乱れた髪型や化粧を直す。
その国連事務総長である女性の本名は、フランソワーズ・ルブランだ。だが、大戦中指導者として男性顔負けの活躍をし、元々強気な性格もあって、フランソワーズの男性名であるフランソアの愛称で呼ばれている。その一見馬鹿にしたようにもとれる愛称には、周囲からフランソアへの親しみや尊敬がこもっており、本人も気に入っているようだ。
そのフランソアは、五十代にしてはかなり若く思える外見をしていた。彼女を知らない人物に写真だけを見せれば、三十代と答える者も出てくるだろう。やりがいがあり、人に見られる機会が多い国連の事務総長という仕事が、フランソアの若さを保つ秘訣かも知れない。
しかし、彼女自身は自分の老いをひしひしと感じており、増えてきた白髪と顔の小じわを見て溜息をつく。口紅を引き直しながらフランソアが思い出しているのは、彼女の老いをすすませた原因となっている世界情勢についてだ。
戦争終結後、可能な限り不満を残さないように幾度も話し合いを続け、国を再編成した。土地の大きな国を分断し、いくつかの小さな国を統合させ、場合によっては国自体の場所を全く違う所へ移動させたのだ。現在の世界地図は、災害前とは大きく変わっている。災害や戦争により使えない土地が増え、人口が激減した国も多く、仕方のない事だった。
各国共に一度は納得しながらも、後々出てきた不満を申し出た国が少なくない。中には、そのまま国連を脱退してしまった国まで出てきている。その上、各地には戦争から生き残った者達が作った武装集団が、数多く潜伏していた。
そういった様々な事情で、国連は軍を縮小する事も、予算を削減することも出来ていない。問題に問題が重なった状況で責任者を務めるフランソアが、自分の老け込み方を悩むのは仕方のない事なのかもしれない。
「よし!」
フランソアは化粧を終えると同時に、鏡の中にいる自分に向かって気合を入れ、自分専用の部屋へと向かう。
フランソアが部屋に入ると、国連軍の制服を着た一人の男性が机の前に立っていた。補佐官から部屋の中で待つように指示されたその男性は背筋を伸ばし、両かかとをつけ、指先までをまっすぐ伸ばして気をつけの姿勢のままフランソアを待っていた。
それを見たフランソアは、声を出さずに少しだけ口角をあげる。そして、背後から男性に嬉しそうに指示を出す。
「休め」
フランソアの声を聞いた男性は、素早く両足を肩幅まで広げ、両手を背中で組んだ。そして、高級感溢れる座り心地の良さそうな席へと座るフランソアを、目線だけで追いかけた。
「相変わらずね、エース」
「お久しぶりです」
中尉へと階級の上がった少年は、東洋人特有の若く見える顔を持ってはいるが、もう少年とは呼べないほど成長していた。
「おおよその話は、聞いているわね?」
「はい」
男性は、フランソアへ即座に返事をすることが出来た。それは、数日前に上官から特殊任務へ従事するようにと指示及び説明をされていたからだ。また、その上官から詳細は直接事務総長から直接聞くようにとも、申し渡されていた。
「現地へ潜入後、特秘での重要人物の護衛任務と聞かされました」
男性は任務を、各地で潜伏する武装集団へのスパイとして潜入及び、スパイ任務中の仲間やターゲットの護衛だろうと考えていた。だが、その予想は大きく裏切られる。
「これに目を通してちょうだい」
椅子と同様に高級感がある机の引き出しから、フランソアは少し大きめの封筒を取り出した。そして、男性に向かって差し出す。
「失礼します」
フランソアから渡された封筒を手に取った男性は、中身を見て違和感から少しだけ首を傾げていた。男性の反応が予想通りだったフランソアは、また声を出さずに肩だけを小刻みに揺らしながら笑う。
「あの、これは?」
男性が開いた封筒の中からは、学校のパンフレットと戸籍に関わる書類等が入っていた。スパイとしての下準備をする書類だと考えられなくもないが、勘が鋭い男性は少し違和感を覚えたのだ。
「エース。貴方は、これからその学校に通う生徒になるの」
「えっ? あの、はい?」
男性は日頃では考えられないほど間の抜けた返事を、国連の一番偉い人物へと返していた。それだけ男性にとって予想外の任務であり、頭がうまく回っていない。
「その学園の話は聞いた事ある?」
「はぁ、噂程度には」
男性が通わなければいけない学校は、国連内では有名だった。未成年の超能力者達を集めて教育・指導する、特殊な学校だからだ。
「貴方は、そこの生徒になり……」
任務についてフランソアが説明する内容から、男性は彼女の真意を理解しようと一言一句聞き逃さない様に心がける。
「……後の事を考えると、人員を増やす必要があるのよ」
フランソアの説明により、任務の内容を男性は概ね理解できた。だが、納得できない部分があり、顔をしかめたままパンフレットとフランソアを交互に見ていた。
「まだ、国籍は申請していなかったわよね?」
「あの……あ、はい」
望んだ答えをくれそうにないフランソアに対して、男性の返事は含みのあるものだった。男性は、今までプロの兵士として、受けた任務を素直にこなしてきた。その為に、どの様に抗議すればいいかが、すぐには思いつけないのだ。
「軍務として仮の発行も考えたけど……。学園は貴方の母国日本だし、この際正式に申請しなさい。いいわね?」
フランソアに会話のペースを掴まれると、反論する機会がなくなるとよく知っていた男性は、あらん限りの勇気を出してかすれた小さな声を出す。
「あの……あのぉ、ですねぇ」
「何かしら?」
戦う力だけでいえば、フランソアに圧勝するはずの男性は、小動物のようにぷるぷると怯えながら自分の疑問を口に出す。
男性が自分から目線を逸らさなかった事で、フランソアにも相手が振り絞った勇気の度合いをうかがい知る事が出来た。その男性は都合が悪いと、目線を相手から逸らす癖があると彼女はよく知っているのだ。
「事務総長殿。何故、生徒なのでしょうか? 職員でも、いいのではないですか?」
男性の実年齢は不明だが、軍内部では成人男性として扱われていた。また、災害の年数から逆算し、おおよそ十八から二十歳ぐらいではないかと自分でも考えていた。
「今、この部屋には、私と貴方だけよ?」
笑顔を消して目を閉じたフランソアは、声を低くすることで男性に自分が不機嫌であると伝えていた。その声を聞いた男性の額に、冷たい汗が噴き出す。そして、情けない声でフランソアに質問をする。
「あの、怒ってらっしゃいますか? 先生?」
「いいえ」
フランソアは先生と呼ばれる事で、笑顔を取り戻した。フランソアと男性はただの上司と部下ではなく、教師と生徒でもあるのだ。まともに学校へ通った事のない男性を、個人的に指導したのはフランソアだ。喋る事には困らないが、読み書きを不得手としていた男性を見かねて、教育を買って出たのはフランソア側からだ。
元々男性は強制的に軍から与えられた休暇でも、トレーニングしか行わない無趣味な人間だった。しかし、フランソアと勉強を始めて以降は、休日のたびにほぼフランソアの仕事に同行させられるだけでなく、彼女の家に半強制的に宿泊させられた。そして、勉強から礼儀作法にいたるまでの生きる事に必要な教育を、国連のトップから受けたのだ。
災害により夫と子供をなくしていたフランソアは、男性を本当の子供のようにかわいがると同時に、厳しくしつけた。戦争終結まで続いたその教育のせいで、男性はフランソアに上司であるだけではなく、先生や母親としても頭が上がらない。
「これも仕事よ。観念なさい」
フランソアは、任務にかこつけて男性を学校に通わせることで、自分では教えきれなかった常識や友人との付き合い方を学んできてほしいと考えていた。何よりも、男性に災害や戦争で失われた青春を、感じてほしいようだ。その為、男性が嫌がろうとも、生徒として通わせたいらしい。
「任務ですか……分かりました!」
瞳に強さが戻り、自分に敬礼する男性を見て、相手の性分が分かっているフランソアは遠まわしではあるが釘をさす。
「あくまで、緊急時以外は普通の生徒ですからね」
「はっ!」
敬礼をしたまま意志の強さを表す瞳を自分へ向けた男性に、フランソアは不安しか感じることが出来なかった。
「はぁ……この子は……」
レディーススーツの上着にあるボタンを外しながら、フランソアは溜息をつく。そして、本当に任務ではあるが、その部分を強調してしまった自分の不用意な言葉を、どのようにリカバリしようかと考えている。
「一つ伺ってもいいでしょうか? 事務そ……先生」
マニキュアの綺麗に塗られた人差し指の爪で机をこつこつと叩いていたフランソアに、指令書と資料をその場で再確認していた男性が質問をした。
「何かしら?」
「この戸籍は、住所と電話番号以外が空白ですが、自分で記入すればよろしいのでしょうか?」
「ええ。分からないしね。自分で、好きに書きなさい」
フランソアの返事で、男性は胸ポケットに差してあったボールペンを取り出す。それを見たフランソアは、焦りから声を大きくして男性を制止する。
「待ちなさい! もう、書くつもり?」
「はい。この書類は、早急に提出するべきだと考えたのですが。何か不都合でも?」
「もう、名前と生年月日は決めてあるの?」
「はい」
生い立ちのせいで、その男性が名前等に無頓着になってしまった事を、フランソアは十分理解している。だからこそ、確認が必要だと思えた。そして、彼女の予感は的中する。
「決めてある名前と、生年月日を言ってみなさい」
男性は自信に満ち溢れた笑顔で、フランソアに返答した。
「自分はこれから、一月一日生まれの山田太郎です」
フランソアは、白人特有の白い肌を持っている。そのフランソアのこめかみより少し下に、血管が浮かび上がった。
「貴方は、私を舐めているの?」
「いえ! 自分にそんなつもりは!」
男性は至って真面目なのだが、日本文化に疎く、名前はなんでもいいとしか考えられなかった。
「あっ、鈴木一郎の方がよかったでしょうか?」
男性の余計な提案により、フランソアのスイッチが完全に切り替わる。それから男性は、教育という名のお説教を受けた。そして、フランソアから名前の重要性について嫌というほど説かれた男性は、目から強さが消え、力なく少し考えてから提出しますと返答した。
「はぁ、時間が無くなったわ」
「はい……すみません」
尚も怒りがくすぶっているフランソアに、男性は何とか謝罪の言葉を絞り出した。
「私は今日から一週間、ここを離れます。その書類は、うちの補佐官に提出しなさい。三日以内よ。でも、ちゃんと二十四時間以上は熟考しなさい。いいわね?」
「はい……」
子犬のように震える、仲間から歴戦の猛者と評された男性を見て、怒り過ぎたかも知れないと考えつつもフランソアは薄く笑っている。彼女に加虐癖があるわけではなく、常識の欠落していた幼かった男性とよく似たやり取りをしていた事を思いだし、懐かしく感じているだけだ。
フランソアは、男性に十分すぎるほど個人的な愛情を持っている為、世話を焼ける事が嬉しく感じる部分があるのだろう。
「では、長くなるでしょうけど、任務……頑張りなさい。下がってよろしい」
「はい。ありがとうございます」
握っていた書類を封筒の中へ戻し、敬礼後、男性はフランソアに背を向けて部屋の出口へと向かう。
「あっ! ちょっと待って」
「はい?」
ドアのノブに手をかけた男性を、フランソアは再度呼び止めた。そして、本当の母親に劣らないほど優しい笑顔を男性に向ける。
「任務も大事だけど、学生生活……十分に楽しんできなさい」
「はい。先生」
フランソアに照れくさそうな笑顔を返した男性は、敬礼ではなく会釈をしてから部屋をでる。そして、そのまま図書館へと向かった。男性は名前を決める為に、日本についての調べものをするつもりのようだ。
その数日後から男性は、多くの苦難に満ちた二年以上にも及ぶ特殊任務へ、着任する事となった。