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名無しのエース  作者: 慎之介
四章
39/82

 ニコラス老人の居住している館を囲んだ森は、アリサ達の村があった森よりはかなり狭い。しかし、林ではなく森といえるだけの広さは有しており、それに伴って館までの道のりもそれなりの距離がある。


 その森の人間ではない住人達は、近くに天敵である人間がいると知っており、それほど騒ぎ立てたりはしない。また、農園内でも昼夜問わず労働者達は黙々と仕事を続けている為、館に届くほどの音が発生するはずもない。そのおかげで館の一階にいれば大よそどこにいても、馬車がある程度まで近づけば走ってくる音が耳に届く様になっている。


……もう少し味わいたかったが、仕方ない。


 皿にのせられていた料理を、凄い勢いで噛み砕いて胃に流し込んだ省吾は、仕事を再開しようとしていた使用人達に頭を下げる。


「ごちそうさまでした。ありがとうございます」


「お粗末様でした。ああ、いけません。こちらで片付けますので、どうぞそのままで」


 笑顔で頭を下げかえした使用人の年配女性は、食器を自分で片付けようとした省吾に首を横に振って見せた。


「では、お願いします」


 申し訳ないと思いつつも、その場で意固地になれば相手に迷惑をかけると考えた省吾は、もう一度頭を下げてから裏口へと向かう。馬車の音を聞いた使用人の幾人かは帰ってきた主人を迎える為に、玄関ホールへと急いでいた。


……さて、農機具を配りに行くか。その後は、水路だな。


「よっ……」


 修理を終えた農機具を手押しの荷車に素早く乗せた省吾は、鍛え上げた腕を筋張らせて車輪を回転させる。


 十人ほどの使用人達が、玄関ホールに整列した。それを確認し終えた男性の使用人が、豪華な作りの扉を開く。


 玄関の前に止められた馬車からは、ニコラス老人が降りてくる最中だった。気になる事のあったニコラス老人はグレースが降りるのを待たずに、急いで使用人達の所まで歩み寄る。


「お帰りなさいませ。旦那様」


 杖の先を石畳でカツカツと鳴らして館内に入ったニコラス老人を、使用人達は深く頭を下げて迎え入れた。


「ああ、いい。さっさと、頭を上げろ」


 挨拶をされなければ怒りを見せるニコラス老人だが、その日は挨拶を聞く時間すら煩わしく思えたらしい。


「どうだ?」


 省吾を言葉で圧した男性は使用人達の中心人物らしく、その男性にニコラス老人は顔を近づけて問いかけた。


「はい。滞りなく」


「そうか……。ふふっ……。そうか。でかしたぞ」


 使用人の男性から受けた報告がお気に召したらしいニコラス老人は、気持ち悪いほど顔を歪める。そのニコラス老人を省吾やアリサが見れば顔をしかめるか、一歩後ろに下がるかも知れないが、慣れている使用人達は笑顔を崩さない。


「あの……。それは?」


 荷車を引いて馬車の隣を通り過ぎようとした省吾を、珍しくグレースが呼び止め、その声でニコラス老人が振り返った。


 常に冷静沈着なグレースは、省吾が仕事をしている最中は自分から話しかける事が少ない。だが、その荷車に乗っている農機具を不審に感じたらしく、珍しく省吾に自分から声を掛けた。


「壊れていた物を、修理したんだ。これで、皆の効率が上がるはずだ。あ、倉庫から新しい物を、持ち出したわけじゃないからな」


 グレースに話し掛けられた事に驚いていた省吾は、どの部分を相手が気にして声を掛けたかを自分なりに推測していたらしい。そのなんとも不器用な返答に、日頃無表情なグレースの口角が上がり、くすくすと笑い始めた。


……うん? 返答を間違えたか?


「ごめんなさい。その泥が付いた農機具を見れば、私でも分かりますよ」


「そうか。俺は、余計な事をいってしまったのか」


 相手の笑い始めた理由が分かった省吾は、素直にその考えを口に出したが、その言葉もグレースにはおかしいと感じられたようだ。


……笑われるのは、一向に構わないが。


 腰を曲げ、右手で口、左手で腹部を押さえたグレースは、笑いを堪えようとしているらしいが、上手くいっていない。


「ごめっ……ごめんなさい。ぷふっ!」


 首を傾けて軽く息を吐き出した省吾は、真っ赤な顔をしたグレースを直視してはいないが、その場から立ち去ろうともしていなかった。


……この人のおかしいと感じるポイントは、俺とかなり違うだろうな。まあ、重要な事じゃないか。


 その二人のやり取りを見ていたニコラス老人は、もう一度馬車の近くにまで戻り、省吾に声を掛ける。


「こいつを、気に入ったか?」


 ニコラス老人の言葉に隠された意味が分からなかった省吾は、無表情のまま相手を見つめ返す。


「なんなら、今晩にでもお前の小屋に、こいつを向かわせてやろうか? うん?」


 省吾と違ってグレースには、ニコラス老人がいった意味が分かっているらしく、顔の赤みが消えない。


……小屋? 見張りの手伝いか? 何故今更?


「いえ、見張りは一人で十分ですが……。何か、ご不満な点でも?」


 ニコラス老人は省吾の発した面白味の欠片もない返答に、視線を逸らして鼻から息を強く吐き出した。


「ふん! 欲の無い男だ。もういい」


 省吾はニコラス老人が気分を害した理由が今一つ理解できず、顔をしかめて頭を掻いている。男女の営みについて、省吾も他者と同等の知識を持っているが、仕事と恋愛を直結する回路がなく、結果残念な答えを導き出す事も多い。その省吾を見て、顔の熱を高めて俯いていたグレースは、再度笑いを堪える為に口を手で押さえた。


……駄目だ。よく分からない。多分、重要な事じゃないだろう。


「あの、俺は仕事に戻りますね」


 自分を雇っているニコラス老人に断りを入れた省吾は、荷車を引いて農園へとつながる道へと歩き出した。その省吾は、ニコラス老人やグレースの態度を理解しようともしておらず、自分に向けられた意味のある視線すら気付きながらも深く考えない。


 省吾の背中に向けられた視線には、嫉妬の黒い気持ちがこもっており、気付いたのであればなんらかの対処をするべきかもしれない。しかし、PSI学園でその手の視線に慣れ過ぎ、恋愛をどうでもいいと思っている省吾は黙って農園に向かう。


「おかえりなさい」


 省吾と行き違いで二階の自室から降りてきたアリサは、ニコラス老人とグレースに頭を下げた。


「ただいま」


「うむっ」


 アリサに笑顔を向けたグレースだけでなく、機嫌のいいニコラス老人も返事を返す。省吾と会う時間が著しく減っているアリサに、省吾が先程までいた事を伝えるのは酷だと考えたグレースは、何も教えなかった。省吾が居なくなるとすぐに館の中へ戻ってしまったニコラス老人も、アリサに省吾の事を喋りはしない。


「部屋に戻って、お勉強しましょうか?」


「はい!」


 グレースも省吾と同様にある視線に気が付いており、急ぎ気味に館の中へ可愛い生徒を連れて戻っていく。


「ちっ……」


 十分に魅力的な外見を持ったグレースだけでなく、まだ幼いアリサにまで邪な視線を向けていた男性は、一度舌打ちをして馬車を車庫兼馬小屋に戻しに向かった。四十代になった使用人男性、マシューは特定の恋人や配偶者が出来た事が一度もない人物だ。


 二十代でニコラス老人に見出されて以来、マシューは農場ではなく館で馬や鳥等、家畜の世話を続けている。農園生まれではないが若い頃のマシューは働き者で、動物が好きな好青年だった為、ニコラス老人の目に留まった。だが、心と頭の弱いマシューを取り巻く環境は、彼の根本を歪めてしまい、現在に至っている。


 館に取り立てられたマシューは、十分な食事が与えられ、それまでとは比較にならない程楽な仕事を与えられた。それにより、自分は特別な存在であると錯覚してしまい、労働者達を見下すようになってしまう。それだけでなく、人間は飢餓状態が続くと脂肪を蓄えようとする体質になる為、楽な仕事をこなすマシューは体の横幅が見る間に広がった。


 どんどん太っていくにつれ、自分達を見下してくるマシューを、農園の女性が相手にするはずもない。もし少しでもマシューにまともな思考能力があったならば、省吾の様に農園を手伝い、女性と結ばれる事もあっただろう。だが、そうはならなかった。


 マシューは農園の女性達に距離を置かれるだけでなく、ニコラス老人を恨む元仲間達に白い目で見られている。そして、体は他の者よりも大きいが、喧嘩をする勇気も腕力もないマシューは森より外にはほとんどでなくなった。


 使用人の中に女性はいるが恋愛対象になりえない年であった為、必然的にマシューの行き場の無いどろどろに腐敗した気持ちはグレースに向けられる。だからといって、主に逆らってまで愛人だと思っているグレースに手を出すほどの勇気もなく、不快感を覚える視線だけを送り続けた。そのような状況下で、自分とは必要だったとしても極力会話を避けるグレースが、省吾には時折笑顔を見せるのがマシューには許せなかった。


 また、省吾が館に雇われてからは、まだ幼いアリサにマシューは気持ちの半分を割いている。ニコラス老人の愛人ではないアリサに、自分がちょっかいをかけても咎められないのではないかと、マシューは考え始めていた。


 つまり、マシューはアリサとグレースとの距離を自分が縮めるには、省吾の存在が邪魔でしかないと感じている。館の使用人という同じ地位を持っているせいで、マシューは自分と省吾は同格だと考えているようだが、ファントムを倒した相手に喧嘩をして勝てるとは思っていないようだ。


 省吾と違い、館の使用人という運だけで手に入れた地位しか持っていないマシューは、一月もの時間をかけてある結論を出す。それは、省吾が仕事で何らかの失敗をして、地位が落ちれば自分を見る二人の気持ちも、動くだろうという答えだ。


 当たり前の話ではあるが、競争している訳でもない相手が転落しようが、マシューを取り巻く環境が変わるはずもない。ましてや、グレースは省吾が居なくてもマシューが嫌いな事に変わりはなく、何があっても今のままでは二人の心中が変化する事はないだろう。そして、省吾が何らかの理由で館からいなくなれば、家族であるアリサもついていくという選択肢しかない。


 そのような誰でも分かる答えにたどり着けないマシューを、賢いなどと思う者はまずいないだろう。それでも自分の出した答えが間違えていないと思い込んだマシューは、省吾の隙を狙い続けていた。


 グレースに向けられた視線に気が付いているニコラス老人に、別の馬車を運転する使用人を探されていると、マシューは夢にも思っていない。


 そのマシューは、馬車から外した馬へ桶に入った水と食料を与え、日課となっている体毛の手入れを始めていた。


「あいつ、早く失敗しねぇかなぁ……。うひっ」


 残念な思考の持ち主であるマシューは、直接省吾を陥れる罠を仕掛けようとしているらしいが、思いつけていないのがある意味で救いだろう。餌を与える事で、唯一自分を慕ってくれる動物達の世話をしながら、マシューは省吾がはまるはずもない馬鹿げた罠を考え続ける。


「ほれぇ。入れないだろうがぁ」


 小屋の入り口付近で固まっていた鳥達をマシューが蹴り飛ばし、小屋の中に餌をまき始めたのと同じ時刻、省吾の目が細くなっていた。その省吾は修理を終えた農機具を、集まった労働者達に返却しており、神仏であるかのように拝まれている。


 先程まで困った顔を作っていた省吾が目を細めたのは、その労働者達に拝まれる事が気に障ったからではない。


……そうだ。そうだよ。何故、使用人の年齢があんなに高いんだ? 使えない人間は始末するんじゃないのか?


 ノルマが達成できず、使えないと判断した者は始末されると労働者達から聞いていた省吾は、かなり遅れて直感の反応した部分に気が付いた。


……使用人の仕事が、農園よりも楽なのは変じゃない。しかし、人数が余るほどの使用人を、あのニコラスさんが何故雇ったままにしているんだ? あっ!


 使用人達の事を思い浮かべた省吾は、その者達がよく日に焼けたしみの多い肌を持っていた事を思い出す。それにより農場で働けなくなった者が、実は始末されたのではなく館の使用人になったのではないかと、省吾は答えらしきものにたどり着く。


……辻褄が合わなくもないが、なんでだ?


 使用人達が仕事についていけなくなった元労働者達で、現労働者達の親や祖父母だろうと省吾の直感も主に告げていた。


 しかし、ニコラス老人が命を狙われてまで、労働者達にその事実を隠している理由が分からない。それだけでなく、使用人達も愛する家族に少し歩くだけで会いに行けるのに、そうしない事情があるのかと省吾は頭をひねっていた。


「エースさん? あの……」


 立ったまま腕を組んで難しい顔をし始めた省吾に、労働者達は幾度か話し掛けたが返事をもらえない。その労働者達は少しの間、悩み続ける省吾を見つめたが、仕事に戻る為に一礼してその場を一人、また一人と離れて行った。


 労働者達の中で最後まで残ったのは、省吾の事を悪く思っていない数人の若い女性達だけだ。


「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」


「あ、いや。なんでもない」


 心配した一人の女性が手を伸ばした事で省吾のセンサーが反応し、やっと相手にまともな返事をした。省吾へ反射的に伸ばした手を避けられてしまった女性は、唇を軽く噛んだがその場をすぐには離れない。


「何か困った事があれば、いってください」


「あのっ。私にもいってください。なんでもします」


 一人の女性が距離を縮めた事で、他の者達も省吾を取り囲むように足を進めてしてしまう。


「どんな事でも、いってくれれば……えっ?」


 いくら強い想いがあろうとも、体術に関して長年訓練を積んできた省吾に、女性達が付いていけるはずもなかった。取り囲まれそうになった省吾は、女性達の隙が多い場所へ緩やかに移動した後、壁となった女性達の間を素早く抜けたのだ。


 相手の死角を利用した上に、緩急をつけた省吾の動きに、女性達は相手が消えた様に見えたのだろう。何度も瞬きをしていた女性達は、首だけでなく上半身を左右に振り、自分達の背後に立っている省吾にかなり遅れて気が付いた。


 もし彼女達が敵兵士であったならば、背後にいる省吾に訳の分からないうちに始末されていたかもしれない。或いは、省吾が人並みかそれ以上の下心を持ち、ロマンチストであれば、女性がなんでもとはいうべきではないと甘く囁いた可能性がある。


……なんでもか。それなら。


 当然ではあるが、そのどちらも該当しない為、真剣な目を女性達に向けた省吾は、相手の求めていない言葉を口に出す。


「じゃあ、その言葉に甘えよう」


 農園内で生きる事に必死になっている女性達にとって、恋愛は唯一残された楽しみで希望でもあった。労働者達に厳しいニコラス老人でも、妊婦へはノルマを緩和し、食料を与えるだけでなく、一時的な休息まで許す。ニコラス老人にとって、それは農園の新しい働き手を増やす投資でしかないが、女性達は裏のある恩赦でもより多くあやかりたいと考える。


 戦場で死を隣り合わせにして恋愛観を構築したケイトとは少し違うが、農園の女性達も積極性で負けてはいないのだ。労働者である女性達は、理想的な配偶者に見える省吾の言葉や行動で、一喜一憂しているのだが、その日はもっとも輝かせていた目の光が一瞬で消え失せた。


「目の粗いざるか、かごを貸してくれ。後、あの荷車も明日まで使わせてほしい。どうだろう?」


……ぬう? どうしたんだ?


「何か、不都合でも?」


 目の光が死んだ女性達の空気を読み取った省吾は、取り繕うように問いかけたが、心のこもっていない声が戻ってくる。


「あの……じゃあ、私がお貸しします……」


「あ、ああ。あの……お願いします」


 自分の家に一人の女性が肩を落として歩き始めると、他の女性達もとぼとぼと畑に向かって散って行った。省吾の発している白すぎる雰囲気に、女性特有の感覚で答えを出したその女性達は、やる気が削がれたらしい。


……俺は何かをしくじったようだな。どうする? いや、今優先するべきは、情報の整理と仕事だな。うん。


 女性達の背中を見つめていた省吾だったが、いつもの様に面倒だと思った事は投げ捨て、情報の整理に頭を切り替える。そして、女性から竹で出来たざるを借り、一人で黙々と水路の掃除を続けながら、自分にとって重要な情報整理に没頭した。


……あっ、そうか。あの人達の服に染みついた臭いは、オイルとグリス。それに鉄粉の臭いだったんだ。金属の加工をしているのか?


 裸足になった省吾は水路の中に入り、水草を根元から引き抜きながら、また一つの真実にたどり着く。


……農機具の金具は、使用人達がどこかで作っているのか? それは、変な事じゃないか。


 ざるですくい取ったゴミや水草を荷車に乗せた省吾は、使用人達が自分達の仕事を館の管理だけだといった意味を正確には理解していない。


「やっと、四分の一ってところか。先はまだ長いな……」


 中腰での作業により硬くなった筋肉を自分でほぐす省吾は、広い農園に広がる水路を眺めている。頭上から少しだけ地面に向かって進み始めた太陽に照らされて、猛禽類らしき影が農園の空を緩やかに旋回していた。


……今日中に、半分までは終わらせよう。


「ふぅ……」


 ふやけ始めた足の裏に触れる地面からの熱を心地よいと感じていた省吾だが、息を吐くと同時にまた脛部分まで浸かる水路へと足を踏み入れる。そして、作業中の労働者達から声を掛けられつつ、日が沈むまで水路の掃除を一人で続けた。


 省吾が荷台一杯になった水草を食用に出来ないかと、労働者の中では高齢の者に問いかけた時、ガラスで出来たコップが砕け散る。


「くっそっ! むかつく!」


 コップが粉々になったのは、それを使ってワインを飲んでいた者が、怒りにまかせて床に投げつけた為だ。怒りにより猛っているのは、機嫌のいいニコラス老人や省吾ではなく、白いノアの軍服を着た男性だった。


「くそっ! くそっ!」


 拳を震わせるほど怒っている男性が居るのは、農場から離れたノアの支配している都市であり、そこではサードの能力者達が強制労働をさせられている。その都市の中でもひときわ豪華な屋敷に管理者として住んでいるのが、フィフスの力を持ったディランであり、彼こそがコップを床に叩きつけた人物だ。


 ディランはアリサ達の村を襲ったデビッドの兄であり、弟と同じ赤みのある茶色い髪と少しだけ細長い二重の瞳を持っている。また、白人特有の眉間から伸びる真っ直ぐな鼻と、深くくぼんだ目元も弟似ているといえなくもない。


 だが、長身の細身で垢抜けた若者といった印象を受けるデビッドと、百七十に満たない長さの筋骨隆々な体を持ったディランを兄弟だとすぐに分かる者は少ないだろう。デビッドの様に手入れをしていないディランの眉は太く凛々しい事もあり、兄の方が軍人らしい外見をしている。


「やってられるかっ!」


「では、断りますか?」


 ディランに王からの命令を伝えた男性は、怒っている上司を前に顔色一つ変えず、白々しい言葉を吐いた。


「出来る訳ないだろうが! くそっ!」


 ノアに属したフィフスがいくら優遇されているとはいえ、王からの命令を意味もなく断る事は出来ず、その事を部下の男性も知っている。ディランから少しだけ距離を置いて、手を後ろで組んでいる男性は、上司のわがままに嫌味を敢えて口に出したのだ。


「リアム……。そんなに、俺を怒らせて楽しいか?」


「さあ。なんの事でしょう」


 鋭い眼光で自分を睨んだディランから、リアムと呼ばれた部下の男性は目を逸らし、それ以上自分から何も喋らなかった。


 リアムはデビッドの乗る馬車を操ってアリサ達の村に来た軍人であり、ディラン達兄弟と幼馴染でもある。リアムは超感覚の能力が強く、ノアの中でフォースとしては地位がかなり高い。そのリアムが毎回馬車の運転を自分で行うのは、彼が他人を信用しない性格であり、命を部下に預けたくないと考えるからだ。


「お前は、本当に昔から……。まあ、いい。出発の準備は……」


「部下に勧めさせています。ディラン様さえ、明日早朝に起きて頂ければ問題ありません」


 どこまでもそつのないリアムに、怒りをぶつけようと思わないディランは大きく鼻から息を吐きだした。


「じゃあ、明日はお前自ら起こしに来い」


「仰せのままに」


 煽っているとしか思えない程うやうやしく頭を下げたリアムに、不貞腐れているディランは部屋から出て行けと無言で手を何度も払って見せた。それを見たリアムは、部屋を出る前に一礼をした状態で、ディランが鳴らした使用人を呼ぶ鈴の音が耳に届く。


「お呼びでしょうか。ご主人様」


 リアムと入れ替わりで、二人の若い使用人がディランの部屋に入り、割れたコップと赤ワインで変色した絨毯に気が付いた。その使用人の女性達は、一人が箒と塵取りを持ち、もう一人が雑巾を持って部屋の掃除を始めようとする。


 しかし、二人にとって主人である機嫌の悪いディランは、少しだけ意地の悪い笑顔浮かべた後、わざとらしい悲しげな表情を作った。


「このワインは、いいものだった。惜しい事をしたな。そうは思わないか?」


 恐怖の対象である主人からの唐突な問いかけに、二人の女性は体をびくつかせながら、意に沿う答えを返すしかない。


「はい。もったいのうございます」


「そうだよなぁ? 捨てるには惜しいなら、お前達が飲めばいいんじゃないか?」


 ディランのいった言葉の意味がすぐに理解できなかった二人は、どう答えるべきか困り、額に冷たい汗が滲み出した。二人の女性が困って、挙動不審になっている事すら楽しいと感じているディランは、再び悪意のある笑みを浮かべている。


「あの……。私共はどうすれ……えぐっ!」


 主人の笑顔を見て怯えきっていた女性の髪を掴んだディランは、そのままその女性の顔を床に押し付けた。


「舐めて綺麗にしろと、いっているんだ。早くしろ」


 使用人は二人とも、サードの能力者ではあるのだが、フィフスのディランにはどう転んでもかなわない。ガラス片の散らばった変色している絨毯が見えている二人は、恐怖からごくりと生唾を飲み込んだ。


「俺の命令が聞けないのか?」


 女性二人の髪からディランは手を離したが、しゃがんだ体勢のまま突っ伏した女性二人に冷たい視線を送っている。自分の舌が汚れ傷つく事よりも主人が怒る事の方が怖いと感じている女性二人は、目に涙をためてゆっくりと床へ舌を伸ばす。


「ひっ! うぅぅ……」


「くくっ……。早くしろ。しみになるだろうが」


 尖ったガラス片で舌を切った女性を、ディランは笑いながら見つめ、さらに続けるようにと催促している。使用人である女性二人からすれば、そのディランの笑い声は、悪魔のそれと同質のものだと感じているだろう。


「あぐうぅぅ……」


 女性達が両手で押さえた口元から垂れた血を見て、鼻息を荒くし始めたディランは、二人の着ている服に手を伸ばす。


「えっ? いやっ! い……おっ、お許しください!」


 ディランに引きちぎられそうな服を押さえた使用人の女性は、血塗れの口で精一杯の許しを請う。


「はぁ……」


 ディランの部屋を出て、扉の隣にある廊下の壁に立ったままもたれかかっていたリアムは、腕を組んで目を閉じたまま溜息をついた。リアムは透視の能力を持っており、部屋の中を上司に気付かれない様に覗いていたのだ。


「使用人を補充しないといけないな……。はぁぁ、まったく……」


 ディラン達兄弟とリアムは幼馴染なのだが、実は三人はそれほどいい関係を築けてはいない。年子である兄弟はお互いをライバルと考え仲が悪く、リアムはその二人のお守りを苦痛に感じている。


 サイコキネシス側だけが異常特化した兄弟は、それぞれが優秀な補佐であるリアムを利用しようと考えていた。その為、兄弟が使い勝手のいい幼馴染を自分の部下にしようと取り合って喧嘩した事もあるが、リアムにより収拾されている。


 とかく暴走しがちな能力の高い危険な兄弟を制御する為に、リアムは王から直々に二人の補佐官の任を与えられており、そのせいで地位が上がるのは同年代の者より早かった。


「やっと、少し楽になるかと思えばこれだ。はぁぁ」


 リアムの黒に近い灰色の頭髪に白髪が多く、眉間や目尻にしわが増えたのは、兄弟による心労が原因かもしれない。


 王からの命令により、デビッドが首都に配置転換になった事で、リアムが補佐をする人数は減った。だが、弟であるデビッドが先に首都勤務になった事が気に入らないディランは、荒れ続けている。それによって、尻拭いをしなければいけないリアムは、顔をしかめて重たい息を吐き出すしかないらしい。


 ノアの貴族階級を与えられたフィフスには、四つの階級があり、デビッドはアリサ達の村を殲滅した後すぐに一番上の階級へ昇進した。


 フィフスの階級で一番下に当たるのが、高齢により隠居したフィフスがなる事が多い、首都の各ブロックの管理者だ。の階級は首都に住むフォースの平民達を統治する役職だが、実質の業務は部下が行う為、ほとんどこなさなくてもいい。


 次は首都を専任防衛する特別な兵士の階級になるのだが、その任はフィフスのレベルがあれば、十五才以降誰でも任につける。ノアの中でも特別な者としての優遇は受けるフィフスが、引退する年齢に達していない年齢でつく実質一番低い階級だ。


 その階級から昇進して初めて、ディランの様に首都以外の各都市を支配する職が与えられる。奴隷であるファーストやセカンドの住む都市はフォースが支配し、サードの住む都市は抑止力としてフィフスが監視者になる事が多い。監視者となったフィフスの中でも優秀な者は、同じ階級のままだが自分がいる都市だけでなく、フォースが支配している都市もまとめて統治する事になる。


 戦闘力が高いディラン達兄弟は、抑止力としてうまく機能しており、支配した都市から反逆者が全く出なかった。その為、二人ともがそれぞれに王に変わって、複数の都市を統治する立場にあったのだが、デビッドのみがフィフスの最高位に昇進してしまったのだ。


 フィフスにとって最高位とは、王直属の側近兼兵士達であり、階級の低いフィフスに命令する権限まで持っている。今回なぜデビッドが昇進したかというと、側近の一人が高齢で引退した為であり、アリサ達の村を殲滅した功績ではない。


 フォースとフィフスは金属生命体が細胞にまで融合している為、親や兄弟で発現する能力が似通っている。ディラン達兄弟の力も光の壁等を出す点では同じだが、兄は一撃の破壊力が大きい代わりに、弟の方がバランスよく攻防を使いこなせる。気性の荒い兄弟に昇進速度の違いが出たのはその点で、弟の方がまだ御しやすいと考えられたからだ。


「少し考えれば、分かるだろうが……。あの、馬鹿は……」


 屋敷の新しい使用人を部屋に戻ってリストから探していたリアムは、ディランへの不満を吐きながら使用人ではなく部下を呼ぶ鈴を鳴らした。ガラスではなく金属で出来た鈴の音を聞いた部下は、急いでリアムの部屋に向かい指示を受ける。


「この三人を、明後日にでもこの部屋に連れてきてくれ」


「はっ!」


 指示をした部下が敬礼をして部屋を出ると同時に、リアムは自分の席から立ち上がり、窓から夜空を見上げた。


「弟の方がまだましだ……。はぁ、私がフィフスなら、こんな苦労もないんだろうがな……」


 星の輝く夜空に向かって嘆いたリアムの声は、誰にも届かないが、発した本人も聞かれたいとは思っていないのだろう。


……あっ? えっ? 


「おっと……なんだ?」


 館の前に設置した小屋の中で、風によって火が消えたろうそくに再点火しようとしていた省吾は、窓から差し込む光でリアムと同じように空を見上げていた。ぼんやりと月を眺めていた省吾は、ある異変によりぐらついてしまい、壁に手をついて体を支えたのだ。


「あれ?」


……熱射病か? 帽子はかぶったんだがな。


 自分を襲った突然の目まいと視界の歪みを、省吾は疲労か熱射病だろうと推測し、壁に背をつけて座り込む。そして、目を閉じて手首の脈を計りつつ、体に異常が無いかを問いかけた。


……おかしいな。今日は食事をいつもより取ったし、睡眠時間も足りているはずだ。


 爆弾でもある左腕につけた時計で心拍数が正常だと確認した省吾は、首を傾げたまま立ち上がり異常の原因を考えている。


……まあ、疲れただけだろう。


 原因が思い当たらない省吾は、深く考えるのを止め、ろうそくに火をつけるとソファーに座って目を閉じた。


 体を早く休めようとして目を閉じた省吾は気付かなかったが、月のちょうど真下付近を星が流れ、それを机に座って見ていたアリサは願い事をする。


「どうか、お願いします。お兄ちゃんと……」


 取り組んでいた宿題を中断したアリサは、両目を閉じ両手を顔の前で組むと、流れ星に祈りを捧げた。家族であり、淡い想いを抱く相手である省吾と、アリサはもっと一緒に過ごしたいと願ったのだ。


 わがままを口に出さない様に我慢しているアリサだが、寂しいと思う気持ちは膨らんでしまっており、願わずにはいられなかったらしい。星が流れきる前に三度唱える事が出来なかったアリサだが、一回にこめられた願いの強さはかなりのものだ。


 ただし、人がいくら強い願望を持っていたとしても、何も行動しなければ結果は伴うはずもなく、祈りだけで現実は変わらない。


「はあぁぁ……」


 寂しさが限界に近付きつつあるアリサは、祈る事さえむなしくなり、溜息をついてから勉強を再開した。省吾と旅をしている間に十一才になったアリサは、すでに現実を理解して受け止め始めており、祈る事しか出来ない悲しさも知っているのだろう。


 そのアリサは、自分のささやかな願いが神や流れ星でなく、息を潜めて様子をうかがっていた絶望に聞かれたと気が付いていない。そして、ソファーで腕を組み寝息を立て始めた省吾も、運命の歯車がまわしていた長針が盤面を一周した事を知らないようだ。


 苦し過ぎる現実を懸命に生きる人間をあざ笑うかのように、短針は次の数字を指してしまう。それにより、省吾を取り巻いていたステージが変化していく。

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