八
どこまでも続くかに思える先の見えない闇の中に、定期的な水滴の地面へ落ちる音が響いていた。その場所は地下であり、十分な換気が出来ていない為、かび臭く淀んだ空気に支配されている。
地下に伸びたその長い通路は、自然の偶然が作り出したものではない。天井はコンクリートで固められ、壁には金属で出来たパイプだった物が固定され、地面には線路が伸びている。つまりその場所は、文明が退化する前に人間によって作られた、地下鉄の通り道だったものだ。
当然ではあるが、人間がほとんど使わなくなったその場所は、時間と自然災害によって劣化している。コンクリートやタイルは、いたるところにひびがはいるだけでなく砕けており、パイプや線路の金属も腐食が進んでいた。地表からしみ出した水が、人間にとって気持ちの悪い湿気をその空間にもたらし、日光をあまり必要としない動植物の世界に変わっている。
地上すら持て余しているほど数の減っているノアに支配された人々は、その場所をほとんどの者が覚えていないだろう。もう二度と人間が踏み入る事が無いのではないかと思えるその地下通路だが、ある種の人間はまだ使用している。地下に潜るという言葉通りに、後ろめたい事をしているせいで、人の目を避けたい者がまだ利用しているのだ。
アリサがグレースから与えられた宿題を済ませている頃、地下通路にランタンを持った人物の足音が反響していた。その二人分の足音に、カツンカツンと少し高い音が交じっている。その音を出しているのは、ニコラス老人の杖であり、ランタンを持って暗闇を照らしているのは秘書のグレースだ。
二人はその地下通路に通い慣れているようで、ネズミ達が出す多少の物音には全く動じず、迷いなく進んでいく。かなりの高齢であるニコラス老人の移動速度は遅く、それに合わせているグレースが息切れをするはずもない。
元々地下鉄の駅だった場所に到着した二人は、その駅内部に向かおうとしている。駅のホームだった位置には、老人では上るのに苦労しそうな段差がある。しかし、人の手で作られた階段らしきものがあり、その苦労はしなくてよさそうだ。
「必要ない……」
その階段の段差すら思うように上れないニコラス老人に、前を歩いていたグレースが手を差しのべたが払い除けられる。上司から冷たい仕打ちを受けたグレースだが、顔色を変えずにニコラス老人の足元を照らし続けた。
二人にはそれだけで壊れない信頼関係があるのか、単に仕事だけのドライな付き合いなのかは、見ているだけでは分からない。
「ふぅぅ、ふぅぅ、ふぅぅ……」
ニコラス老人は、ホームにある劣化したプラスチック製の椅子には座らず、両手で持った杖に体重を預けて立ったまま呼吸を整える。
その光景を無言で見つめていたグレースの目には、アリサと相対するときの様な感情らしい感情がなく、冷たく思えた。そして、グレースは呼吸の落ち着いたニコラス老人を見て、一言も喋らないままゆっくりと奥にある扉を目指す。
地下鉄が地下鉄として機能していた時代に、その駅はかなり使用頻度の高い場所だっただろう事が、ホームの長さや設備でうかがい知れる。
ホームの端までたどり着いたグレースは、金属製の扉を五回続けてノックし、その内側にいる人間の反応を待つ。中にいた分厚い胸板を持つ黒人の男性は、何の躊躇もなく扉を開き、二人を中へ招き入れる。
地下通路に目的なく来る人物がいない為、男性は注意を怠ったようにも見えるが、実はそうではない。鍵が内側からかけられた金属製の扉を開いたその男性は、超能力を持っており、扉を開ける事なく外が確認できるのだ。
男性により扉を開かれた瞬間に、室内から風が吹き出し、グレースの肩まで伸びた茶色い髪がなびいた。その事で、内部に地上と繋がっている通風孔等があるのだろうと、容易に推測できる。
「待たせたな」
グレースよりも先に扉をくぐったニコラス老人は部屋の中にいた者達に声を掛け、所定の椅子に向かった。その部屋は、元々地下鉄の職員が使う場所だったようで、かなり劣化しているが壊れたコンピューターや棚が並んでいる。当然のことながら、その部屋に電気は通っておらず、中にいた者達を照らしているのはたいまつとろうそくだ。
劣化して大きな音で軋むパイプ椅子に座ったニコラス老人は、目の前にある机の先にいる目的の人物に目を向けた。
「お待ちしていました。どうでしたか?」
ニコラス老人が会話をしたかったらしい相手は、まだ子供で帽子を逆向きにかぶり、パイプ椅子に胡坐をかいて座っている。その綺麗な碧眼を持った白人である少年の問いかけに、ニコラス老人はホラー映画に出てきそうな気味の悪い笑顔で答える。
「お前のいった通り、現れた。流石、フィフスといったところか?」
不気味に笑うニコラス老人の顔に怯まない少年は、謙遜する為か首を左右に振った後、口を開いた。
「これも運命なんですよ。僕の力じゃありません」
少年の作ったしたり顔に思うところのあったらしいニコラス老人は、声を出さずに肩だけを震わせて笑う。ニコラス老人がとった不気味な行動に、少年の連れらしき者達は顔をしかめたが、グレースだけはぴくりとも反応しない。
「いや、いや、すまん、すまん。情報を貰おうか。こっちもそっちも、長居は嬉しくないだろう?」
「はい。では、そうしましょう」
変声期前の少年は女性のような高い声で、ニコラス老人に返事をすると、机に広げている地図を使って説明を始める。その少年からの説明を、瞳から真っ黒な感情が滲みだしているニコラス老人は、にやつきながら聞いていた。
それから半時間ほどたった森の前で、馬の毛並みを手入れしていた中年の男性は、主人の姿を見て頭を下げる。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「うん」
中年の男性は馬車の扉を開き、ニコラス老人が乗り込み易い様に、折り畳み式の階段を引き出した。その小太りな男性は主人に媚を売ろうとしているらしく、あからさまな作り笑顔でニコラス老人に話し掛ける。
「いい土地はありましたか?」
馬車を操る使用人の男性をニコラス老人は信用しておらず、必然的に本当の事を教えていない。その為、中年の男性は主人が館から離れる理由を、新たな畑になる土地探しだと思い込んでいるのだ。
「お前には関係あるまい?」
「しっ! 失礼しました!」
中年の男性は深く頭を下げ、ニコラス老人が乗り込んだ事を音だけで確認し、次にグレースが乗り込むだろうと考えた。頭を下げたままグレースに気付かれない様に視線だけを上に向けた男性は、女性の綺麗な足と腰を見つめてにやりと笑う。
先程まで無表情を貫いていたグレースは、その男性の視線に気が付いているようで、眉間にしわが出来た。だが、文句としての言葉も男性と交わしたくないグレースは、黙って馬車に乗り込み、眉間に出来た谷間を消す。
「発車しますっ!」
グレースの足をちらちらと見ながら、折り畳み式の階段を押し込んだ中年男性は、扉を閉めて運転席に戻り、声で主人に合図を送った。使用人の男性は、主人からの返事が来ない事を知っており、合図を送り終えるとすぐに鞭を振り下ろす。
「おっとっと……」
発車すると同時に馬車は大きく揺れ、手綱を握っている男性を、右腕だけを少し強く引いた。馬車が走っているのは、悪路としか呼べない劣化した古い道で、大きな揺れを感じてもニコラス老人は怒らない。少年と会う事をニコラス老人は、誰にも知れたくないようで、ほぼ誰も使わない地下通路にはそのような古い道を使わなければたどり着けないのだ。
また、幾つか存在する地下通路への入り口も、毎回ランダムで変更しており、使用人の男性ではニコラス老人の意図が読み取れないだろう。その為か、使用人の小太りな男性は、下衆な勘繰りにしわの多くない脳を使っていた。
「どんどんいい女になっていくよなぁ……。羨ましい」
よれた服を着ている使用人の男性は、グレースの事をニコラス老人の愛人ではないかと考えている。その為、館の外で新しい土地探しと言い訳をして、ニコラス老人がグレースと逢引きをしているのだろうと考えていた。そのような事ばかり考えている使用人の男性は、グレースから必要以上に嫌われる下卑た視線を送ってしまう。
自身の見た目や性格に起因するのだが、女性との縁がない使用人である男性は、馬車を操ること以上に妄想を膨らませる事に忙しいらしい。少し悲しくも見えるが、それが彼の唯一といっていい慰みであり、本人が幸せならばとニコラス老人も勘付いていながら注意をしないのだ。
「ああ……。眼鏡を外した顔を、じっくり見たいよなぁ……」
馬車を操る男性が呟く声は届いていないが、悪寒が走ったグレースは身震いをして、身をすくめる。使用人である男性の声は届いていないのだから、グレースが身をすくめた原因は彼ではない。
目の前で中空をぎらぎらとした目線で見つめ、肩を揺らしながら怪しく笑っているニコラス老人を前に、グレースは顔をしかめているのだ。
「ふふふっ……。これで、やっとわしは、恨みを晴らせる。憎しみから解放されるんだ……。ひひっ……」
馬車の中で一人笑い続けているニコラス老人を、言葉で表現すれば狂人であり、グレースが怖がっても不思議はない。
「うおっとっ! こらこら、そっちじゃない」
先程とは違い、手綱を握っている左腕を強く引いた使用人の男性は、馬車の横転を防ぐ事に成功した。その男性が操る馬車は舗装されていない道を、ニコラス老人の住まいである館へ戻る為に走っていく。
……かなりの量だな。
「これで全部か?」
「はい。あの……」
ニコラス老人の農場では、水路の掃除を中断した省吾が、申し訳なさそうな顔をした労働者達に囲まれていた。
「本当に、すみません。助かります。本当に……」
腕を組んで立っている省吾の前には、大量の壊れた農機具が積み上げられている。
「いや、水路はかなりましになった。農機具が壊れている事の方が、問題だ」
労働者達が使う農機具はニコラス老人からの配給になっており、偶発的な事故で壊しても次の配給まで補われないのだ。その為、くわを壊した者は木の棒や手で土を耕すしかなく、桶を壊した者は人から借りるしかない。
畑の中で涙ぐみながら土を手で掘っていた女性を見て、省吾が農機具の修理をすると申し出たのだ。
「礼はいい。これも、俺の仕事だ。ただ、修理している間は我慢してくれよ」
「はい、はい、はい……」
農機具が修理される事が心底嬉しい労働者達は、ついに省吾を拝み始めてしまう。
……大した事じゃないんだけどな。修理したほうが効率的だし、ニコラスさんの利益にもつながるし。
収穫用の手押し荷車に農機具をのせながら、無表情の省吾はいつも通り短絡的な思考しか巡らせていない。戦闘に関してのイメージは誰よりも鮮明に思い浮かべる事が可能な省吾だが、それ以外にはあまり働かないのだろう。
……ぬっ!
自分の背後から伸びた手に、直感が優れている省吾は反応し、避けると同時に振り向いた。
「あっ……あの……」
「なんだ?」
省吾のシャツを掴もうとしたのは、先程涙を溜めて土を手で掘り返していた女性の労働者だ。その女性はまだ若く、省吾から差しのべられた手に心が激しく反応してしまい、無意識的に手を伸ばしていた。
そんな状況の女性労働者は、省吾からの質問に明確な答えを持っておらず、俯いて引き下がる。
……なんだ? 何か他に頼みたい事でも?
省吾は道に積まれた農機具を荷車にのせながら、幾度か女性に視線を送ったが、相手からの返答はなかった。
……目も合わせてくれないな。まあ、何かあればいってくるだろう。
「じゃあ、修理は館の庭でする。何かあれば、呼んでくれ」
手押しの荷車を引いて館に歩き出した省吾を、集まっていた労働者達は深く頭を下げて送り出す。その省吾が労働者達から感謝される姿も、農場では当たり前の事になっており、疑問を抱く者はいない。だが、別の疑問を持った者はいたようだ。
「なんであんないい人が、業突く爺の所にいるんだろうな」
「こんな世の中だ。仕方ないんだろうさ」
省吾は労働者達から自分に送られている多くの視線に気付きながらも、いちいち反応せず黙々と仕事を続ける。
「これで、よろしいでしょうか?」
「はい。助かります」
館の使用人である男性から工具や木材などを受け取った省吾は、木の大きな影により暗くなっている場所に向かう。
……風もあって、適温だな。
タオルで汗を拭った省吾は、地面に直接座り込み、種類分けした農機具に手を伸ばして構造を確認していく。
銃等の武器について省吾は構造全てを理解しているが、農機具についての知識は少ないのだ。その為、構造の解析から始めるが、原始的な農機具の作りを理解するのに、省吾はさほど時間を必要とはしなかった。
……これは一度分解したほうが、早そうだな。
剪定用の刃が小さなハサミを分解した省吾は、歪みを木槌で修正し、組み立てようとした。工具を持ってきた使用人の男性もそれを見ており、素人である省吾に助言を与える。
「それは、組み立てる前に、刃を研ぐべきですな。無理な力が加わったせいで、刃が痛んでいます」
……なるほど。確かにそうだ。
使用人の年老いている男性から与えられた的確な助言に、刃を見つめた省吾も納得してうなずく。
「今、砥石を持ってまいりますので、しばしお待ちを」
「あ、ああ。お願いします」
ハサミの修理を中断した省吾は、底の抜けた木製の手持ち桶に手を伸ばし、解体していった。
「あらあら、その向きでは駄目ですよ。木は水を吸えば、膨らむんです」
桶を組み立て直し始めた省吾の隣には、使用人である老婆が立っており、桶を組み立てるコツを指示している。
……ああ。それで切れ込みが入っているのか。
「こうですか?」
「はい。それで、水が漏れません」
自分よりも経験が深い女性からの意見を省吾は素直に受け入れ、農機具の仕組みを理解していく。
「あ、それは、くさびを打ち込むだけで、大丈夫でございますよ」
「なるほど。くさびは木ではなく、鉄ですね?」
真面目に修理を続けている省吾は、使用人である大勢の老人に囲まれており、様々な知識を獲得していた。
「おお。素晴らしい」
「これは、恐れ入りますな」
年長者達から与えられたコツをどんどん吸収していく省吾は、見る間に農機具を修復していく。集中した省吾の動きに、使用人達も笑顔ではあるが驚きの声を上げ、見惚れて助言を忘れる。
……さて、これで最後か。かなり、早く終わったな。
「いやいや。お見事ですなぁ」
拍手をして称える使用人達に目線を向けた省吾は、疑問を感じてそのまま口に出す。
「あの、皆さん。お仕事はいいんですか?」
笑ったまま顔を見合わせた使用人達は、縦に首を振ってから返答する。
「私共の仕事は、庭を含めた館の管理と維持です。それほど、忙しいものではありません」
省吾の頭は使用人達からの返答に納得しているが、直感が何かに反応してしまい、眉間にしわを作った。
「一服されては如何ですか? お茶とお食事を、ご用意しましょう」
「あ、じゃあ。少しだけ……」
省吾が首と腕をまわし始めたのを見て、使用人達は休憩を提案する。その好意を、少し疲労と空腹を感じ始めていた省吾も、素直に受け入れた。
「アリサお嬢様は、お昼寝をしておいでですが……。起こしてまいりましょうか?」
「いや、寝かせておいてください」
いつの間にか全身からじわりと滲み出していた汗をタオルでふき取った省吾は、使用人達と館の中へと入っていく。
館の一階端には大きな鍋や調理器具が並んだ広い台所があり、裏口はその台所に作られていた。省吾が雇われるまで労働者達の侵入が日常だったせいか、水や香辛料は置いてあるが、食料自体は台所以外の場所に保管されている。
……レストランの厨房は、こんな感じだろうか。
自身で好んで料理をしない省吾は、警備の為に確認をした事はあったが、じっくりと台所を見たことがなく、きょろきょろと首を振っていた。その少し落ち着きをなくした省吾を、年を重ねた使用人達は笑顔を絶やさずに見つめ、思いを口には出さない。
「こちらです」
台所と直接繋がっている扉を誘導に沿って抜けると、二部屋か三部屋分の広さがある食堂らしき場所になっていた。その部屋は、それぞれ六脚の椅子とセットになっている、横に長い木製の机が等間隔で並んでいる。
使用人達が使う食堂は、アリサやニコラス老人が使っている部屋の様に高級感は漂ってはいない。だが、掃除が行き届き、簡単な作りながらも品のある机や壁紙が使われているおかげで、趣味がいいと感じる者も多いだろう。
「どうぞ。お好きな席へ」
辺りを見回している省吾が、癖になっているその部屋で戦闘になった場合のイメージを広げていると、使用人達から座る様にと促された。
「あ、はい」
自分が座るまで使用人達が席につこうとしないのを見て、省吾は少し足早に机に近付いていく。省吾が席へ着くと同時に、半数の使用人達も座り、残り半分の給仕を担当する者達が飲み物を部屋に運び入れた。
既に担当者を決めるだけでなく、飲み物などを用意していた使用人達の手際に、省吾は目を見開いている。使用人達の全てが高齢者であり、動きが速いわけもないのだが、手際でそのマイナス部分を消した事は人に指示をする立場にあった省吾は驚く事しか出来ないのだろう。
……俺よりも、この人達は指揮官に向いているかも知れないな。
「ふっ……」
苦笑いを浮かべた省吾は肩をすくめ、鼻で息を吐き出したが、自分の前に並べられた皿を見て伸ばそうとした手を止める。
「あの……。これは?」
省吾の前にはパンや野菜料理だけでなく、肉料理や魚料理等が並べられており、量もかなり多い。
ニコラス老人は、労働者達に見つからない様に森の中に家畜小屋を作っており、肉料理が出た事自体に不思議はなかった。だが、その家畜小屋はかなり小規模な物で、卵や乳製品ならば毎日消費できるが、肉自体はニコラス老人も限られた日にしか口に出来ない。
そのような事情を把握している省吾が、目の前に出された食事に躊躇するのは、ごく自然な事だろう。
「どうぞ。お召し上がりください」
「いや、しかし……」
……うっ!
使用人達は給仕中の者も含め、全員が省吾に向かって深く頭を下げており、百戦錬磨の中尉も気圧されてしまった。頭を下げたまま、一人の使用人である男性が代表して、省吾に自分達の気持ちを喋り始める。
「貴方様は、皆によくして頂いております。本当にいくら感謝しても、し足りないほどにです。このような形ですか返せない私共を、どうかお許しください」
……これは。
代表となった男性の声は大きくなかったが、相手に反論する余地を与えない迫力があり、省吾は諦めた様に息を吐き出した。
「はぁ……。ありがたく頂きます。ですから、どうか頭を上げてください」
省吾の返事と共に頭を上げた使用人達は、笑顔を消しておらず、給仕をしている者達は何事もなかったように仕事を再開する。
「はぁぁぁ……」
なんともいえない敗北感に見舞われた省吾は、もう一度大きく息を吐きだし、自分用のコップへと止めていた手を伸ばす。そして、自分以外のコップから湯気が上っているのを見て、使用人達の隙の無さにまた別の敗北感を覚えた。
……氷も無いのに、冷やされているとはな。これは、完敗だ。
「では、頂きます」
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
使用人達は省吾と違い、熱い茶と手頃なサイズの素朴な茶菓子を楽しみ、それぞれで他愛の無い雑談を始める。
……なんだか、申し訳ないな。
ナイフとフォークで肉を雑に切り刻んだ省吾は、それを口に運んで味わいつつも素早く噛み砕く。省吾なりに使用人達の気持ちを考えて、ゆっくりと堪能しようとはしているのだろうが、身に付いてしまった食事の速さは抑えられていない。
元々国連に入らず一人で過ごしていた時代の省吾は、いつ敵が来ても対応できるように食糧をほとんど噛まずに飲み込んでいた。それをよく噛む様にとフランソアはしつけようとしたが、引き算の発想が出来なかった省吾は、食事の速度を落とさずに噛む速度を引き上げたのだ。
その事自体もただの偶然だが、常人よりも鍛えられた省吾の顎は、強靭な肉体を支える土台になっていた。
「子供の時分は、チョコレートなんて物もあったなぁ」
「ああ、そうだな。昔は、よかった……」
食事を半分ほど済ませた省吾はフォークを止め、昔の話を始めた使用人達の会話に耳を傾ける。アリサ達のいた村の村長よりも歳を重ねているらしい使用人達が、自分の必要としている情報を持っていると省吾は気付いたのだ。
「あの、聞きたい事があるんですが。いいですか?」
食事の速度を落とした省吾に、使用人達は笑顔でうなずき、自分達の目で見てきた生の歴史を語り始める。
省吾はそれまでにも情報収集を行ったが、労働者達のほぼ全員が農園の中で産まれた者達であり、外の情報はほとんど持っていなかった。その労働者達が語る多くは、仕事のできなくなった者を処分までしてしまう、ニコラス老人への不平不満ないし、憎しみや怒りばかりだ。
その中で役に立ちそうな情報は、農園で産まれた者でも超能力者はノアに連れて行かれる事と、ファントムという存在自体を皆が知らなかった事だけだろう。
……最初から、この人達に聞いた方が早かったんじゃないか?
「これは、私の祖父から聞いた話ですが……。ノアはテンペストという、もう一つの組織を吸収してしまったそうです」
オーブリー達から得た情報と、年老いた使用人達からの情報はうまく合致し、省吾は未来であって過去でもある流れを掴み始めた。
国連、ノア、テンペストの戦争は、省吾の今居る世界ではケイト達がいた未来と違い、大昔に終結されている。能力者以外を全て排除しようとしたノアと、排除は積極的に行わないが、能力者を至高の存在としたテンペストが結びついたからだ。
能力者に対して最も有効な通常兵器を多く有していた国連は、別々だった二つの組織と同等の戦力を有していた。だが、同等の組織が結びついてしまった新生ノアには、あらゆる面で劣勢であり、勝てるはずもなかったのだ。
「ノアの指導者……。現在は王として玉座におられる一族の方々は、代々とても強い求心力を持っておられるそうです」
……代々? そんな事があり得るのか?
「同じ血族だけが、王に?」
「はい。親から子へ、玉座が世襲されていると聞き及んでいます」
優れた指導者により作られた組織の大昔からアキレス腱とされたのは、後継者の問題だと省吾は知っている。王となる人間がどんなに優れていても、子供や子孫がそれと同等かそれ以上である事は難しい。
人類の歴史上で、巨大な国が一人の無能な王や皇帝により傾くか滅びた例も、少なくはないのだ。その上で世襲が発生する都度、権力を争って内乱なども発生しやすく、ノアのある意味で健全な国の維持は、異常ともいえる。
……血生臭い内部での権力闘争は、隠されたか? いや、思い込みはよくない。まだ情報が不足しているな。
使用人達の話を中断させてまで、答えの出ない可能性がある質問を省吾はその場で口に出すべきではないと考えた。
「話は変わりますが、ファントムという存在をご存知ですか? それと、超能力の源についても」
「えっ? ああ、はい。金属生命体についてですよね?」
……ファントムを知っている者もいるのか。これは、想像以上の収穫があるかも知れないな。
「私も直接見たわけではありませんが……」
人間にとって天敵であるファントムを封じ込めたのは、戦いに敗れる前の国連だと、使用人は語り始める。
超能力者がほとんどを占めるノアとテンペストにとって、ファントムはさほど脅威ではなかった。しかし、能力の無い者を一番多く抱えていた国連には、ファントムの存在が大問題であり、排除しなければいけなかったのだ。
国連が開発した、超能力者である敵の接近を捕えるレーダーは、そのまま金属生命体を探索する事が可能であり、ファントムを排除する事に成功した。人間との共存を拒んだ金属生命体達は、世界中から国連により回収され、人の手が届かない場所へと封印されたと使用人達は語る。
……あっ! なるほど。これが時間介入か。
カーン達から聞いた世界にはまだファントムが存在しており、金属生命体の位置を捕えるレーダーは開発されていなかったのだろうと、省吾は気が付いた。その未来の誤差は、学園で手に入れた白い金属製のロザリオとしおりにあるのではないかと、省吾には察しが付く。
……調査に取り掛かるのが早ければ早いだけ、結果は早く出るはずだ。しかし、ケイト達は回収しようとしていた。黒幕の狙いと、その部分はずれたのかもしれないな。
「全て、回収されたんですか……。なるほど」
「あ、いえ。人との共存をしない、ある一定量以上の金属だけです」
使用人の女性が発した補足が理解できなかった省吾は、敢えて首を傾げて相手に意思を伝える。
「回収不能なほど微細な金属は、今も空気中を漂っています。まあ、こちらはファントムを生み出しませんからな」
……ああ。そうなのか。
「あ、そうです。数十年ほど前までは、この世界は違った姿をしていました」
「それは? えと、どのようなものでしたか?」
戦争終了後も、高レベルのノアと違う思想を持った超能力者が代表となり、能力の無い者を守る自治区を作った。だが、その自治区は数十年前のある時期を境に次々と潰れ、能力のない者は生きていく場所を失う。
その自治区が潰された理由は、高レベルの能力者達がある日突然自治区を裏切り、ノアに寝返ったからだ。
……村長達は、その時に森に逃げ込んだのか? しかし、何故心変わりを? 生活が苦しかったのか?
省吾の表情から考えを読み解いた使用人の一人が、答えのきっかけとなる言葉を口に出した。
「それまで大事にしていた家族すら裏切った者も、多くいました。あれは、本当に苦い思い出です」
それからも使用人達は、省吾の必要としていた情報をほとんど無駄なく的確に喋り続ける。
……黒幕がいるのは、ほぼ間違いない。くそ。まだ、狙いが見えない。
使用人達のそれぞれが別々の重要な情報を喋っており、申し合わせているとしか思えない。だが、新しい情報の整理に追われた省吾は、そのあからさまな裏の意図に脳を働かせることが出来ていないようだ。
……黒幕が能力者であるならば、第一世代じゃないはずだ。だが、介入の逆算が出来て、タイムマシーンの存在を知っている者? 誰だ? うん?
話を聞きながらも腕を組んで難しい顔をしていた省吾は、使用人達の雰囲気が変わった事に気が付いた。
「あの……。どうかしましたか?」
省吾の問いかけに、先程使用人を代表して省吾に食事を取らせた男性が、真剣な眼差しで重くなっていた口を開く。
「これは、昔話……といっても、共通の知人についての話です」
勘が他の者より鋭い省吾は、共通の知人で思い当たる人間が限られた事もあり、話の先を推測した。
「ニコラスさんのことですか?」
「はい。とても、後味の悪い話で……。お耳を汚しとなりますが、よろしいでしょうか?」
短い間だけ天井を見つめた省吾だったが、情報は可能なだけ集めようと考え、うなずく事で返事をする。
「では……。我らが主、ニコラス・ハイデマンの過去をお聞きください」
ニコラス老人はノアの支配が強くなる前、ある自治区で雑貨店を母親と営む、ごく普通の男性だった。使用人達の中にはその頃のニコラス老人を知っている者もおり、気さくで明るいごく普通の青年だったと評する。
……印象が今と全く違うな。
眉間にしわを作った省吾が、疑問を声に出す前に、問おうかと考えた答えは、使用人達から聞かされた。明るかった青年の心に狂気が宿ったのには、明確な理由があり、その責任の一端は自分達にもあると使用人達は説明する。
その時ニコラス老人や使用人達が住んでいた自治区は、ノアの許可を取って自治区とした訳ではない。能力の無い者を無理やりにでも排除したいノアが、自治区を許すはずもなく、自治区の代表者達が勝手に名乗っていただけだ。
容認されない自治区は、高レベルの能力者が守っていたとはいえ、ノアの兵士から幾度も攻撃を受けていた戦争はとうの昔に集結していたが、自治区内は戦時中と変わらない状況が、ノアに強制されていたといっても過言ではない。
ニコラス老人の父親は、自警団の一員として息子が十年の歳月を生きる前に、共同墓地へと埋葬された。そして、ニコラス老人を立派な青年に育てた母親も、拡大した戦渦に巻き込まれ、悲しい形で息子と再会する。
意気消沈してしまったニコラス老人を支えたのは、隣人兼幼馴染でもあった美しい黒髪の女性だった。二人はそれが当たり前であるかのように恋をして、友人を集めて式を執り行い、神に永遠の愛を誓った。
「その人は、貴方様と似た特徴の外見を持っていました……。本当に美しい方でした」
「両親を早くに亡くしたあの方は、まだ幼かった三人の弟妹を一人で育ておいででした」
幸せの絶頂期にあったニコラス老人と、隣家を吸収して大きくなった雑貨店を、残酷な現実は無慈悲に突き放す。ノアの襲撃により軌道に乗り始めた雑貨店は炎に包まれ、ニコラス老人の妻とお腹の中に宿った新しい命を握りつぶしてしまったのだ。
「それでも、旦那様は踏みとどまりました。ですが……」
炎に包まれた自分の家を見て、涙を流して叫んだニコラス老人は、自殺の道を選ばなかった。それは、自分のシャツを掴んで同じように炎を見つめる、愛した女性の幼い家族が居たからだ。
女性の弟妹である三人を、ニコラス老人は弟や妹ではなく、本当の子供として妻の分まで愛を注ぐことになった。その結果を絶望が納得しなかったせいか、四人には更なる悲しい出来事が待ち構えていたのだ。
ニコラス老人の住んでいた自治区にも、能力者達が次々と寝返り始めたと情報が流れたのが、その切っ掛けだった。自分達の自治区にいる能力者達に不信感を持ち始めた能力のない者は、疑いの目を向けてしまう。能力のある者達も、自分達は自治区を命がけで守ってやっているというおごりがあり、持つ者と持たざる者の溝は深まって行ったのだ。
能力者達の裏切った情報が自治区に伝わって一カ月ほどたった日に、疑心暗鬼に囚われた持たざる者は暴挙に出てしまう。始まりは単純なもので、酒を飲んだ能力の無い者が、同じ酒場にいた能力者に絡んだ事からだ。
その絡まれた能力者は冷静に対処していたが、酒瓶で相手に殴りかかられ、誤って能力の無い者を殺してしまった。事故としかいえないその出来事が、自治区全体を二分する争いになり、仲間であった者達が殺し合ってしまったのだ。
本来、家の中に弟妹と隠れた能力の無いニコラス老人は、この事件に関わるはずではなかった。しかし、妻がファーストの力を有し、弟妹のうち二人が能力を発現させていた事で、悲劇が若かったニコラス老人に絡みつく。
暴徒と化した能力の無い者達は、人数の少ない能力者達を殺害するか、自治区から追い出してしまったのだ。まだ幼かったニコラス老人の弟妹達は、扉を斧で破り侵入してきた人々にまともな抵抗などできるはずもない。
全ての支えを失ったニコラス老人の毛細血管が切れた左目から、真っ赤な涙が流れ出ると同時に、狂気が心を支配したのだ。
「私共には、何も出来ませんでした。いや……。違いますね。これは言い訳です」
「あの時、私達は努力する事も忘れ、震えていただけです。謝る事すら許されないほどの罪を、私共は犯してしまいました」
ニコラス老人が今の様に弱い者を虐げる性格になった事が、自分達の責任だといった使用人達は涙を堪えて俯いた。
……なるほど。なるほどなぁ。
「ふぅ……」
下手な慰めしか口に出来ない自分が踏み込んでいい領分ではないと、省吾は判断したようで息を吐き出しただけで声を出さない。
……自分が生き残る為に、人を犠牲にするのをいとわない。いや、労働者達に復讐しているのか? あれ? そうなのか?
情報が整理しきれない省吾は、腕を組んで目蓋を閉じ、椅子を前後に揺らしながら悩み始めた。その省吾に、大勢の老人達が意味ありげな視線を向けている。
「おや? 旦那様がお帰りになったようですね」
馬車の音を聞いた使用人達が立ち上がり、省吾が残りの食事を口に詰め込んだ事で、その場は解散となった。
勘のいい省吾だが、情報処理能力に長けている訳ではなく、まだ老人達の用意したパズルの答えには辿り着いていない。




