七
第一次産業とは、農業や漁業など人間が何らかの労力をかけて、自然から利益を手に入れる産業だ。鉱業や狩猟なども含まれると定義した者のいる第一次産業は、人間の生活に直結しており、なくてはならない物といえる。
人間の科学技術が魔法と呼べるほど進化しても、農業がなくなってしまう事は考えにくい。当たり前ではあるが、省吾達のいる未来でも人々が生きる為には、食事をする必要があり、第一次産業は科学技術と違って必要とされた。
農業や漁業は体力さえあれば出来る仕事であり、頭を使う必要が無いと考えてしまう者もいるが、全く違う。漁業でいえば、効率的かつ取り過ぎない方法が必要であり、潮の流れや天候、魚の習性など学ばねばいけない事が多い。
また、農業に関しても同じように、何も考えずに種や苗を植えただけで収穫する事は難しく、驚くほどの技術や知恵が必要だ。省吾が助けた老人はその農業の技術を一手にまとめ、ノアに自分達が必要だと思わせる事で生き残った。
ノアに奴隷として使われているファーストとセカンドの多くが、元々は都会で暮らしており、農業に従事した事の無い者達だ。更に、それを監督するフォースの人間も農業について知識がなく、安定した農作物を生産できなかった。そこで、老人はかなり無茶な量の農作物をノアに献上する代わりに、生き残る権利を勝ち取ったのだ。
だからといって、その老人に労働者として使われている生き残った能力の者達が幸せかと聞かれれば、ほとんどの者がいいえと答えるだろう。それは、ノアの人口に対して生き残らせてもらえた能力の無い者の人数が少なく、結果としてその者達は殺人的な労働をしなければいけないのだ。
人の少なくなった土地に作られた広大な田畑を、一人一人に分配した老人は、ノルマを作っている。農業に向いた土地で水源も近くにあるが、人一人が生産出来る量には限界があり、そのぎりぎりの量を労働者達は老人を介してノアに渡さなければいけない。
常に手を掛けなければいけないにも関わらず、手をかけ過ぎれば駄目になってしまう農作物と戦う労働者達は、睡眠もまともに取れない日が続くのだ。
そのぎりぎりの量しかない収穫物の中から、労働者達は自分達の食事も賄う為、空腹にも耐えなければいけない。その上、納める農作物の量が足りなければ、虫や病気の被害が原因だったとしても、罰を受け最悪殺される。
労働者達は、ファーストやセカンドの様に娯楽を与えられないのではなく、娯楽にいそしむ時間がない。そんな中で、支配者ともいえる老人だけが裕福な生活を送っており、恨み等で老人を狙う者は後を絶たないらしい。
「まあ、わしの置かれた状況はこんなもんだ」
「はぁ……」
包み隠さず全てを話してくれた老人に対して、嘘をつかれるよりはましだと思いながらも、省吾はどこか納得できない。仕方ない事なのだが、老人は人を虐げているのだから、そういった手合いが嫌いな省吾がいい顔をするはずもなかった。
……仕方ないか。でもなぁ。うっ!
「で、だっ!」
嬉しそうに顔を自分に近付けてきた老人に、省吾の顔が分かりやすく不快感を表現している。
「腕の立つ用心棒が欲しいわけだ。勿論、密告はせん。この意味は分かるな?」
老人がノアからの隠れ蓑を提供する代わりに、自分を守れといっている事は、省吾にもすぐに理解できた。だが、人を虐げている者を守る事に抵抗を感じた省吾は、すぐにうなずくことが出来ない。
「食事も着る物も、家も用意してやるぞ。悪くないだろう?」
アリサの事を一番に考えている省吾は、老人からの申し出をすぐには断れず、腕を組んで悩む。
……どうする?
いつもならこの手の事を、的確に教えてくる省吾の直感も、今回は危機を主に知らせて来ない。その老人の元へ行けば、アリサの危険が大幅に減るだけでなく、省吾の情報収集もすすむはずだ。
だが、万が一罠だった場合、省吾ではどうしようもない事態になるであろう事が誰にでも分かる。
……魅力的だが、リスクが大きいな。なんで、直感が働かないんだ?
腕を組んでうんうん唸っている省吾を見て、老人は何本も歯の抜けた口を歪ませて笑顔を作っていた。
「ふふっ……。悩め、悩め」
……なんだ?
省吾が疑いの滲み出している細めた目を向けても、老人は不気味な笑顔を崩さずに見つめ返している。
「疑って当たり前だ。ただ、このまま逃げれば、わしはノアに連絡をするかも知れんなぁ? お前はどう答えを出す?」
……こいつ。
省吾がいくら視線に殺気をこめようが怯みもしない老人は、煽るような言葉を吐き出し続けた。
……俺はどうすればいい?
「さて、どうする? 小僧?」
……ええい! くそっ!
アリサの命が何よりも大事な省吾は、目の前に出された能力者から隠れなくていい生活の誘惑を断れない。
「あんたに、家族はいるか?」
「とっくに死んじまった。そこにいるのも、秘書と使用人だ」
自分を孤独であるといった老人だが、月に照らされた気味悪い笑顔は変わらず、目の奥に怪しい光があった。
「俺には、一人連れがいる。その子は、働かないでもいいか?」
省吾の言葉に老人は少し驚いた顔をしたが、何かを考え始め、質問を質問で返す。
「それは、お前の家族か?」
「そうだ」
にやりと笑った老人は、自分の中で何か答えを出したようだ。
「その家族には、能力が無くて逃げているってところか。なるほどな。一人ぐらいなら、かまわん」
……アリサ。あの子だけでも、安全にしてやる義務が、俺にはある。
「分かった。その依頼を受けよう。いや、受けさせてください」
「いい答えだ、小僧」
まだ色々悩んでいる為、笑う事の出来ない省吾だが、差し出された老人のしみだらけの手は握り返した。
「あの馬車は、後二人なら乗せられる。待っていてやるから、その家族を連れてこい」
「分かっ……分かりました」
老人が指さした馬車をちらりと見た省吾は、うなずいた後トンネルの中にいるアリサの元へ走り出す。二人のやり取りを少し離れた位置で見つめていた秘書の女性は、省吾が居なくなると同時に老人の隣へ向かう。
「彼が、そうなんですか?」
「ああ、間違いない。あの小僧だ。ふふふっ……」
月夜の作る陰影で余計に不気味になっている老人の顔は、怪しく歪み、瞳には黒い何かが光っている。
「お兄ちゃん! よかったあぁ!」
「いいか、アリサ。少し落ち着いて聞いてくれ。実は……」
契約をした老人の禍禍しい瞳に、トンネルの中にいる省吾は気が付けず、アリサへと説明を始めた。そして、説明を終えた省吾は、アリサと一緒に荷物を持って、馬車と老人の前に戻る。
「ほう、それが家族か」
自分を見つめる老人が怖いらしいアリサは、省吾の背中に隠れてシャツにしがみ付く。
「かわいい妹さんですね。お名前は?」
ほとんど無表情だったはずの眼鏡をかけた女性は、アリサの目線にあわせて座り、笑顔を作る。
「ア……アリサです」
「そう、アリサちゃん。私は、グレース。よろしくね」
グレースに頭を撫でられたアリサは、顔を赤くして省吾の体で、その赤い顔を半分隠しながらもうなずく。村での惨劇以降、他人を恐れるようになったアリサだが、元は人懐っこい性格をしているのだ。
「おっと、そういえば、わしも名乗ってなかったな。ニコラスだ」
「あっ、井う……エースです。よろしくお願いします」
礼儀として名乗りながら、省吾は頭を下げた。それを見たアリサも、急いで自分の頭を下げる。老人は頭を下げた二人を見つめ、考えを巡らせて笑い、瞳の奥にある何かを滾らせていく。
「では、我が家に招待しよう。今日からそこが、お前達の家になる」
「あ、お荷物は、後ろに結び付けましょう」
グレースから指示で、中年の男性は省吾達の荷物を馬車に結びつけると、運転席に戻って鞭をふるった。
怪しい月に照らされて、省吾達を乗せた馬車が山岳部を抜けていく。
ニコラス老人の家は、山と森に囲まれた平地を使って作られている広大な農園の端に建っていた。その家は、中世の貴族でも住んでいるのではないかと思えるほど、巨大で豪華な建物ではある。だが、農園があまりにも広すぎて、上空から見下ろせばぽつんと小さな建物がある様にも見えた。
労働者達が地獄の様な生活を送っている理由が、農園を見た省吾には、すぐに理解できたようだ。農園は、百人未満の人間で維持できるとは思えないほどの広さがあり、トラクター等の近代的な農機具もない。一人に与えられた土地ですら、手で草を除去するには一日以上かかる可能性があるのだから、苦しくないわけがないだろう。
夜中ですら働き続けている人々を馬車の窓から見て、省吾は大昔の奴隷でもそこまで酷い生活はしていなかったのではないかと考えた。そして、ニコラス老人が恨まれても仕方ないと思え、用心棒を引き受けた事は間違いだったかもしれないと悩む。
それでも、自分の隣に座っておどおどしているアリサを見て、受けざるを得なかったと自分に言い聞かせた。アリサもアリサで、自分も奴隷の様に扱われるのではないかと恐れ、月明かりの中働く労働者を見つめている。
床についた杖の先に両手と自分の顎を置いたニコラス老人は、その外を見る二人を眺め、不敵に笑い続けていた。
省吾達を乗せた馬車は、農園を突き抜けた真っ直ぐな道を進み、やがて森の中へと入って行く。ニコラス老人の住んでいる大きな館は、森の中心部をくり抜いた場所に作られているからだ。その森こそがニコラス老人の館を守る自然の壁になっていると、省吾が気付くのは到着して数日が過ぎてからだった。
館に到着した省吾達は、ニコラス老人とグレースに連れられて、大勢の使用人に迎えられる。その光景に、きらびやかな建物へ初めて入るアリサだけでなく、省吾も驚きを隠せなかった。
省吾とアリサそれぞれに、豪華な客室があてがわれたが、ニコラス老人を信じきれない二人は、同じ部屋にして欲しいと願い出る。それを承知したニコラス老人は使用人に二人を案内させ、説明は翌日からだと省吾に伝えた。
客室についた省吾は、ホテルなどでの生活にも慣れており、アリサを守る為にベッドの隣に座って早々に眠り始める。しかし、シャワーや綺麗な寝間着だけでなく、ふかふかのベッドすら初体験なアリサは、興奮して朝方まで眠れなかった。
ニコラス老人の巨大な館に、夜の闇にまぎれて息を潜めた複数の人影が、ゆっくりと近付いている。その人影の正体は、よく焼けた肌と質素な服を着た労働者の若い男性三人で、館に向かう理由はニコラス老人の命以外にないだろう。
労働者に恨まれているニコラス老人が狙われる事は、日常茶飯事であり、老人の眠る部屋へは使用人でも容易に侵入できなくなっている。使用人達ではニコラス老人を守りきれない為、部屋に鍵のかかる金属製の分厚い扉を何重にも作っているのだ。
ただ金属の壁や扉で守られていても、ニコラス老人が安心出来たわけではなく、寝不足になっていた。それを解消する為に、省吾は雇われたのだ。
「おい。大丈夫なんだろうな?」
「ああ、任せてくれ」
今日もまたニコラス老人の安眠を妨害しようとしている男性達は、縄とそれに結びつけた金属製のフックを持っていた。
一階や裏口は木製の扉で出来ている為、侵入するのは容易で、邪魔をしようとする使用人達も出てこない。だが、老人の部屋がある扉や壁がどうしても壊すことが出来ず、いつも作戦は失敗に終わった。
それを解決するために、二階の端にあるニコラス老人の部屋に、男達は直接窓から侵入しようと考えたのだ。
「奴の部屋は分かってるんだ。これで、上れる」
「ああ。今日こそは……」
木の葉が隠した空の隙間から降り注ぐ月光の下で、瞳に怒りを灯した三人の男性はうなずき合う。そして、フック付きの縄とくわを持ってニコラス老人の眠る部屋の窓がある、館の裏へ走り出す。
「ひっ!」
「うっ! うわあああぁぁ!」
館が見えた所で、三人の男性のうち二人が、悲鳴を上げて宙づりになった。その男性二人の片足には、いつの間にか縄が巻き付いており、逆さづりにされた男性達は、目を白黒させている。
「なっ! これは……うわああ!」
振り向きながら後退って仲間を見上げた男性に、気持ちの悪い浮遊感と衝撃が襲いかかった。
「いてぇぇ……。何だこれ?」
「落とし穴だ」
落とし穴に落ちた男性は、痛みを感じる背中と頭を押さえながら、声のした方向を見上げる。
「くそっ……。また、お前か」
「仕事なんでね」
狭い落とし穴の中で体勢を変えられない男性は、差し出された手を怖がらずに握り、引っ張り出された。
「おぉぉぉい。こっちも、助けてくれぇぇ」
「頭に血が上って……。気持ち悪い。苦しい」
岩と木に縛り付けられた縄をほどくと、男性が宙づりの状態から解放され、地面に座って深呼吸をしていた。
……また、こいつらか。こりないな。
「はぁぁ……」
月明かりに照らされた省吾は、侵入者達の顔を確認し、呆れたように息を吐き出して頬を指で掻く。
「これは、没収する」
フック付きの縄だけを回収した省吾は、地面に座っている三人の男性に、農作業で必要になるくわを返す。それを受け取りながら、男性達三人は恨みがましい目を、省吾に向けた。
「なんだ、この罠は? 初めて見たぞ。お前が考えたのか?」
「いや、古典的な罠だ。前からあったぞ」
木の枝に引っ掛けた縄の先に輪を作って地面に隠し、その輪の中心部にあるロックを踏んだ瞬間に、縄の先に結んだ岩が落下する事で敵を捕縛する罠を作ったのは、省吾だ。
「とっ、取り敢えず、今日は引き上げる。だが、次はこうはいかないぞ」
「いや、もう来るな」
三人の男性を森の外まで送った省吾は、本当に嫌そうに顔をしかめて、空に浮かぶ月を見上げた。
……また来そうだな。
「はぁ」
溜め息をついた省吾は、館の出入り口となる道に木材で作った、見張り小屋へと戻っていく。
「くそおぉ。また、あいつのせいで……」
「どうする? 俺、あいつに勝てる気がしないぞ?」
とぼとぼと家に帰っていく三人の男性は、省吾に組み伏せられた事を思いだし、肩を落とす。
「あいつ、強すぎるんだ。最悪だ」
館に招かれて一カ月ほど経過した省吾は、労働者達からもよく知られる存在となっている。毎日のように館を襲ってくる労働者達を、一人一人締め落とす事が非効率的だと感じた省吾は、仕事を始めて一週間ほどで罠を作成した。それにより、館周辺の森は罠の位置を知っている省吾以外、侵入できない区域に変わっている。
「ふふふっ……。やりおる」
森からの悲鳴が聞こえたニコラス老人は、窓のカーテンを少しだけずらし、一部始終を見ていた。そして、もう一度自分のベッドへ戻り、満足そうに穏やかな眠りにつく。
省吾を雇ってから、ほぼ部屋の前にある金属製の扉や壁が誰にも叩かれなくなった事が、ニコラス老人は嬉しいのだろう。
「ふぅぅ……」
見張り小屋で、ニコラス老人からもらったソファーに座った省吾は、そのまま横になって息を吐き出した。
……出て行くに、出て行けないな。どうする?
自分がニコラス老人の元から居なくなれば、アリサがろくな目に合わないと分かっている省吾は、眉間にしわが出来る。
館に来てからのアリサは、使用人達に可愛がられ、グレースから勉強を教わっていた。そして、毎日贅沢な食事を与えられ、遊ぶ時間や遊具も渡されており、幸せな時間を送っている。
その対価として、省吾が昼間は農作業を手伝いに出て、夜は監視の仕事を続けているのだ。対価が支払われなければ、アリサは奴隷になるしかないだろうと、省吾でなくても想像は簡単にできるだろう。
……アリサに命の危険はない。それだけが救いか。
どうにか今の状況を変えようと、省吾は労働者達とも積極的に会話をして、ニコラス老人への憎しみを消そうとした。だが、家族を殺された者もいる労働者達は、仕事を手伝う省吾に心は開きつつあるが、憎しみを消そうとはしない。
ニコラス老人よりも労働者達に感情移入をしてしまっている省吾は、悲しそうな表情をする者達に強くもいえず、身動きが取れなくなっていた。
……ノアが無くなれば、状況は改善される。しかし、俺一人では、限界もあるしな。
見張り小屋で眠る以外の時間を、省吾は状況を変える方法について考えているが、答えはまだ出ていない。
……そういえば、館の使用人は皆年齢が高いのは、何故だ? それに。
煮詰まった頭で色々と考え事をしていた省吾は、重くなっていく目蓋に逆らえず、ゆっくりと眠りに落ちていく。そして、もう二度と会えないかもしれない、懐かしい顔が省吾の夢に出てきた。
「エース。人間にとって本当の負けとは、なんだと思う?」
……先生?
「それはね。諦めた時よ。よく覚えておきなさい」
……はい。
フランシアに会い、寝顔が緩んだ省吾の体中で、超回復が起こっている。怪我をしたわけではない為、ごく普通の人間にも起こる超回復だが、それは省吾の肉体をより強固で実戦向きに作り変えていく。
昼間は労働者と変わらない働きをし、日が沈んでから警備の仕事を続ける省吾は、自分の食事を必要に応じて労働者に分け与えていた。明らかに労働者達よりも苦しいはずの生活を続けている省吾だが、その負荷は肉体を成長させているのだ。
「エース! いひぃ! えへへぇぇ!」
「准尉! 今度こそ上手くいきますって! 任せてください!」
朝日が山の裾から顔を出すと同時に、眠りが浅くなった省吾は死んでいった大事な者達の夢を見る。そして、その夢を見た胸の痛みでゆっくりと目蓋を開き、何事もなかったかのように小屋から出て仕事に向かう。
「さて、今日はマウアー達の地区だな」
首にタオルをかけた省吾は、竹製の水筒とくわをもち、帽子をかぶると長い道を歩き出した。太陽が完全に空へ出ていない早朝だが、省吾以外にも大勢の労働者達が既に働き始めている。
「あっ! エースさん!」
くわを担いで歩く省吾を、労働者の一人が泣きそうな顔で呼び止め、助けてほしいと口に出した。
「どうしたんだ?」
「畑に水が来ないんだ! このままじゃ、野菜が枯れちまう」
水路にほとんど水が流れていない事を確認した省吾は、泣きそうになった労働者の男性を待たせて、水路を遡っていく。労働者の男性には時間の余裕がなく、水が来ない事で顔を歪ませながらも、草抜きを再開した。
しなければいけない事が山積みになっている労働者達は、その様なトラブルに対応するだけでノルマをクリアできなくなる場合もある。その為、自由に動ける省吾を本当に重宝しており、忍び込もうとして撃退されても文句をいわなくなっていた。
……これか。
「どうしました?」
ため池の水路が、大量の水草で狭くなっているのを確認した省吾は、手を水に突っ込んだ。
「水草だ。これのせいで、下の方に水がいってない」
引き抜いた水草を労働者に見せた省吾は、水路の清掃をする必要があると、目の前にいる男性に説明した。
「そうですね。ですが……」
「ああ、俺がやる。周りの者に水量が変わる事だけ伝えてくれ」
省吾の言葉を聞いた男性は、笑いながらうなずき、自分の仕事へと戻っていく。
……マウアーの仕事を、済ませてからだな。これは、今日中には終わらないか?
広大な土地に張り巡らされた水路を眺めた省吾は、抜き取った水草を抱えて、畦道を歩いていく。その省吾を見た労働者達は、苦しそうな顔を上げると同時に笑顔を作り、声を掛けた。
「おはよう! エースさん!」
「今日も、頼むよ!」
無言で手を上げるだけの省吾を見慣れ始めた労働者達は、挨拶を終えると、笑顔を消してそのまま過酷な仕事を続ける。いつの間にかそれが、ニコラス老人が営む農園の日常になっていた。
何も知らない労働者達は、その日常が死ぬまで続くと考えているだろう。だが、永遠に不変なものは、この世に存在しない。
「あ、エースさん。お待ちしていました」
「待たせたな」
……広いな。これを三つか。早く終わらせよう。
収穫を終え荒れている大きな畑を見て息を吐き出した省吾だが、悩む時間を惜しんだのかすぐに畑の中へ足を踏み入れる。そして、担いでいたくわを両手で握ると、勢いよく振り上げ、荒れた畑の土に突き立てていく。
「どうですか?」
省吾がくわだけで広い畑を二つほど耕し終えた頃、かなり遅れて朝食を食べているアリサは、恐る恐るグレースに問いかけた。アリサが朝食をとっている間に、前日いい渡した宿題を椅子に足を組んで座っているグレースが、チェックしているのだ。
省吾の寝泊まりしている急作りの見張り小屋と違い、アリサが寝泊まりしている部屋は高級に見える家具が並び、絨毯や壁紙まで品がいい。アリサに与えられたのは、その高級感漂う自室だけでなく、年配ではあるが専属の使用人もだ。
服装も村にいた時と違い、水色の清楚な雰囲気が感じ取れるワンピースに変わっており、スカートに慣れていないアリサは、時折太もも部分を押さえる癖が出来ていた。
スクランブルエッグやサラダといった、労働者達とは比較にならない豪華な朝食をアリサは食べている。だが、グレースの採点を待っている不安の為か、先割れスプーンを噛んだままのアリサは食事が進んでいない。
「はい。よく出来ていますね」
「あ、あの、ありがとうございます!」
グレースからの返事を聞いたアリサは笑顔を作り、皿からすくい取ったスクランブルエッグを口に運ぶ。アリサの行動は一見、教師に対して失礼な事をしているように思えるが、時間を無駄にしてはいけないとグレースに勧められている為に食事を続けているだけだ。
「二問ほど不正解がありますが、そこは朝食後に復習しましょう」
「はい!」
省吾と同等かそれ以上に素直なアリサは、グレースに元気のいい返事をして、食事を続ける。その光景を、出入り口である扉の隣に立っていた、使用人の老婆も笑顔で見つめており、朝日の差し込む部屋の空気は悪くない。
「あの、どこが間違えていましたか?」
アリサの問いかけに、穏やかな表情をしていたグレースは少しだけ目を細め、苦笑いを浮かべる。
「それは、食べ終えてからにしましょう。一つ一つやるべき事をこなすのも、大事なんですよ?」
優しくたしなめてくれたグレースにうなずいたアリサは、いつの間にか減っていた噛む回数を元に戻し、食事に専念した。
グレースの持ったアリサのノートには、簡単な三ケタの足し算と引き算の問題が書かれている。今まで生活の知恵は学んだが、まともな教育を受けた事の無いアリサには、一月でそこに到着するのが限界だったのだ。
だが、義務付けられた教育ではない為か、アリサはグレースから与えられる知識を楽しいと感じており、勉強する事が嫌いではない。グレースのメイン業務がニコラス老人の秘書である為、限られた時間しか教育を受けられないのを、不満に感じるほどだ。
「ごちそうさまでした」
アリサが食事を早々に済ませたのを確認した使用人の女性は、食事用の小さな机から食器を片づける。それを手伝わなくていいと分かっていながらも、貧乏性なアリサは申し訳なさそうに、使用人に頭を下げた。
そのアリサに気が付いた使用人の老婆は笑顔で一礼をすると、食器を乗せたトレイを持って部屋を出て行く。
「あ、あの……」
「はい。始めましょうか」
使用人の女性が出て行くまで頭を下げていたアリサは、グレースに顔を向けて勉強がしたい事を表情で伝えた。その事が分かっているグレースは、優しく笑いながら、勉強をする為の机にノートを置き、椅子を引いてアリサを待つ。
「間違えていたのは、こことここです。繰り上げる数値を間違えていますよ」
「あ、はい。えと……」
毎朝一時間ほど行われているグレースからの教育に、アリサは真剣に取り組み、着実に知恵をつけていく。
グレースからの説明に何度もうなずくアリサは、素直さでは省吾と同等かも知れないが、元気のいい返事をする事で生徒としての省吾を上回っているかもしれない。生徒である前に兵士である省吾は、真剣に教えを聞けば聞くだけ、寡黙になって眼光がきつくなるからだ。
「はい。正解です。次から、見直しをもう一度するようにしてくださいね」
「はい!」
優秀な生徒を教える事が楽しいらしいグレースも、アリサの頭を撫で、次に何を教えるかを悩むことを不快に感じない。
「次は、分数……。いえ、掛け算の方が役に立つかしら」
「かけ……ざん?」
ノートにリンゴの絵を描き始めたグレースは、掛け算の数式だけを教えるのではなく、理論そのものを理解させようとしていた。そのグレースがアリサに教えたいのは、テストでいい点を取る方法ではなく、実生活で役に立つ知識なのだろう。
「つまり、二個のリンゴが、三セット。これを覚えれば、計算を早く済ませる事が出来るの」
算数を面白そうとしか感じないアリサは、目を輝かせてノートを見つめ、ゆっくりとではあるが理解を深めていく。
「えと、四セットで八個ですか?」
「はい。正解よ」
頭を撫でられて嬉しいと感じたアリサは、満面の笑みをグレースに向け、再びノートへと目線を戻す。日に三時間しか与えてもらえないグレースとの時間を、アリサは大事にしようとしているようだ。
「それも、正解。じゃあ、次は絵じゃなくて、式で書きますね」
「はい!」
アリサが勉強に熱心なのは、楽しいからではあるのだが、それ以上に寂しさに後押しされているとグレースは気が付いていない。
労働者達に不公平だと思われ、襲われる危険のあるアリサは、ニコラス老人と省吾に館を出ない様にと言い渡されている。その為、アリサは勉強をするか、一人で玩具を使って遊ぶか、使用人達の手伝いをする程度の事しか出来ない。
ジョンや省吾のおかげで一人になる事の無かったアリサには、その孤独が何よりも苦痛だった。しかし、自分の為に頑張ってくれている省吾の手前、不平を口にするわけにもいかず、我慢しているのだ。
その光景を離れた畑の中から千里眼で見ていた省吾も、アリサの苦痛を理解する事は出来ていない。
……アリサに変化はないな。よし、次は水路の掃除だ。
畑を耕し終えた省吾は、額の汗をタオルでふくと、くわをかついで畑を出る。
「あの人は、力も体力もすげぇなぁ。用心棒に雇われるわけだ」
「俺達の一日仕事を、たったこれだけの時間で終わらせちまうんだもんな」
くわを近くにあった木に立てかけて、肩を回している省吾を見て、労働者達は溜め息交じりの言葉を口に出していた。
……さて、水草を入れる、ざるかかごを借りに。うん?
「どうかしたか?」
周りをきょろきょろと気にしながら、労働者の女性が自分に近付いてくるのを見て、省吾は声を掛ける。おどおどとしながらも素早く移動した女性は、笑顔を自分より背の高い省吾に向け、手を取った。
……うん? これは。
「これは、貴女の分だろう? 受け取れないな」
省吾の手を取って女性が手渡したのは、茹でられた芋で、労働者達にとって貴重な食料だ。
「エースさん。これだけ働いて、ほとんど、食べてないじゃないですか。これだけでも、どうか……」
例外である省吾を除いて、労働者達は食料を家族以外に渡す事や、物々交換を禁じられていた。それは、労働者達だけでの市場が出来る事をニコラス老人が嫌って作られた、農園内の法であり、破れば罰則がある。
その女性労働者は罰則の事を知っていながらも、栄養失調で倒れそうになった自分を助けた省吾に何かをしたかったようだ。現在、労働者達の中に省吾を悪く思っている者は少なく、その女性の行動に気付いた者もいたが、見て見ぬふりをした。
禁を破ってまで自分に向けられた女性からの好意を、省吾もむげには出来ず、仕方なく受け取る。そして、半分をかじり取った省吾は素早くその芋を咀嚼し、残りの半分を女性の手に握らせた。
「共犯なので、半分ずつって所でどうだろうか?」
首を少しだけ傾げながら問いかけた省吾に、泣き出しそうな笑顔を向けた女性は、静かにうなずく。そして、その女性労働者は、省吾の歯形が付いた芋を走り去りながら、嬉しそうに食べていた。
……ゆっくり家で食べればいいのに。あ、かごを借りればよかったな。失敗だ。
竹で作った水筒の水を飲みながら、女性を見つめた省吾が、実は身も蓋もない事を考えていると、誰も気が付かない。