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名無しのエース  作者: 慎之介
四章
36/82

 低いうなり声をあげて、水かさの増した川が、色々なものを押し流していく。その川の水は茶色ではあるのだが、黄土色よりかなり赤みが強く、雨によって溶け出した赤土が流れ込んだのだろうと推測できる。


 前日から降り続いている雨の量を激しいとは言い難いが、横殴りの風が吹いており、顔に水滴が痛いほどの勢いでぶつかっていた。


……よし。


 トンネルだった場所の入り口付近で火をおこした省吾は、背嚢からタオルとして使っている布と、服を取り出す。


「体を拭いて、乾いた服に着替えよう。体温低下は、命に関わる」


「あっ……うん……えと」


 熱帯の森で育ったアリサは寒さにあまり強くないようで、少し震えながら差し出されたタオルを受け取って髪を拭く。


……うん? ああ。


 気持ち悪く肌に張り付く服を、アリサも脱ぎたいと思っている。だが、木の枝を使って焚き火の火力を調整している省吾の前で、裸になるのは恥ずかしいようだ。それに気が付いた省吾は乾いた枯れ木を火に差し込むと、座ったままアリサに背を向ける為、臀部を軸に回転する。


「あの、ありがとう」


「体から、しっかり水分を拭き取れ。背中も忘れるなよ」


 振り向かずに背嚢に手を伸ばした省吾は、もう一枚の布を取り出し、シャツを脱いで自分の体を拭き始めた。


「お兄ちゃん?」


「なんだ?」


 服を脱いで体を拭いていたアリサは、木の生え並ぶ斜面の下にある増水した川を見つめ、省吾に問いかける。


「こんなに川の近くで、危なくないかな?」


 増水した川の怖さを、父親達から教え込まれていたアリサは、自分達のいる場所まで水が迫ってこないかを気にしているようだ。


「えっ?」


 新しいシャツを着た省吾は、アリサに背中を向けたまま、右の人差し指でトンネルの天井を指さした。省吾が指さした先には、大きな蜘蛛の巣とその主が獲物を待ち構えている。


「蜘蛛が巣を作っているのは、ここまで水が来ない証拠だ。それに、斜面の木にも増水の痕跡が無い」


 国連軍に所属していた省吾はサバイバル訓練だけでなく、災害時の救助訓練も受けている。


 トンネルの先は災害か事故による土砂でふさがっていたが、壁を固めているコンクリートにはひびが入っていない事も省吾は確認している。そして、トンネルの奥でコウモリ達が巣を作っている為、有毒ガスが溜まっていないとまで分かっているのだ。


「土砂崩れや、想定外の事はあるかも知れないが、一晩ぐらいは問題ないはずだ。何かあれば、俺が対処する」


「うん。ここなら、人も来ないよね」


 省吾の事を信頼しきっているアリサはその説明だけで納得し、着ていた服を雑巾のように絞る。そして、服を広げて地面に置くと、両手を暖かい火の熱にかざし、省吾に声を掛けた。


「もう、いいよ」


 アリサからの許可を得た省吾は振り向きながら立ち上がり、乾かしたい物を火の回りに並べていく。そして、近くの木とトンネルの壊れた照明の枠を利用して縄を張り、そこに濡れている服をかけた。


「お兄ちゃんって、なんでもできるんだね」


「そうでもない」


 省吾がアリサの前で行っている事は、戦地では必要最低限の能力だ。その為、それが自慢になると、省吾は考えもしない。


「あっ……」


 お腹の虫が大きな声を出してしまったアリサは、恥ずかしさで顔を赤くして、省吾から顔を隠す為に俯いた。


「食事にしよう。後、これに座ってくれ」


 椅子として使えそうな、濡れていないブロックをトンネルの中から拾ってきた省吾は、アリサの隣にそれを置く。


……そろそろ、食料を確保しないといけないな。


 泥のついた手を雨水で洗った省吾は、背嚢の中にある干し肉と芋を取り出し、火を使って食べられるように準備を始めた。


 その双方ともに、村から出て以降に入手した食料ではあるが、金銭によって手に入れたわけではない。元々人が住んでいたらしい場所の畑から芋を掘り出し、山で動物を仕留めて干し肉にしたものだ。


 省吾には大きな誤算があり、一月以上旅を続けているが、アリサを預けられる場所はまだ見つかっていない。


 村を囲んでいた森は想像以上に広く、アリサを連れていない省吾でも抜け出すのには幾日かかかるほどだった。そのおかげで、省吾が身を寄せたあの村だけが、運よくノアの影響を受けていなかったのだ。


 ノアに支配された世界では明確な階級制度がある代わりに、貨幣制度が廃止されていた。支配者達は力を使い、弱い者から搾取するだけで生活に困らないようになっており、貨幣が必要ないのだ。


 能力者である為、狩りの対象ではない省吾は、能力者達の集落で働き食料を得られるのではないかと考えていた。だが、ノアの作った世界では、それが不可能だった。ノアの世界に生きる全ての人間が、ナンバリングされ管理されており、紛れ込めばすぐにばれてしまうのだ。


 数の多いファーストとセカンドは、奴隷として第一次産業に無理矢理従事させられており、必要なくなれば処分されている。そして、サードになって初めて多少の娯楽が与えられ、第二次と第三次産業の職に就く事が出来るのだ。


 ただし、いくらサードでも自由と呼べる環境にはおらず、管理された生活を送り、与えられたノルマが達成できない場合は罰まで用意されていた。


……社会主義どころか、完全に王権体制になっているとは、思わなかった。


「お兄ちゃん? 焦げるよ?」


「うん? ああ、もう十分だな」


 串に刺した干し肉を火から離した省吾は、それをアリサに差し出す。


「冷めないうちに食べろ」


「うん!」


……フォース以上で、管理側か。俺でも紛れ込めないしな。どうすればいい?


 木の棒を使って黒くなった芋を灰の中から取り出しつつ、省吾はアリサを安全な場所に預ける方法を考えている。


……何か、気持ちの悪さを感じるこの社会は、あの黒幕が考えたのか? なんで、なんの迷いもなく能力者達は、家族を踏みつけに出来るんだ?


 木の枝を二つ使って、黒く焦げた芋の表面を器用に剥がし、手であおぐように冷ましながら省吾は情報の整理を行った。村から出てから得た新たな情報は他に二つで、ノアを支配しているのはフォースではない事と、能力の無い人間も生き残っていた事だ。


 ノアの支配者である貴族は、フィフスと新しくカテゴライズされるほど能力が高く、人数も少ない。省吾が敗北したデビッドもフィフスであり、一人で世界を狂わせるほどの力を有している。


 また、生き残っている能力の無い人間とは、元々能力者達の家族だった人々だ。その者達は、奴隷であるファーストとセカンドの食料を生産する為だけに生かされており、かなり酷い生活をしている。


 生きられるとはいえ、アリサにその酷い生活をさせたくない省吾は、ノアの能力者達から隠れるように放浪生活を続けているのだ。


「あっ、私そのぐらいでいいよ」


「そうか」


 省吾が熱い食べ物を苦手としていると、アリサは共に生活している間に覚えた。その為、芋が自分でおいしいと思える所で省吾に知らせ、まだ湯気が出ている状態で受け取る。


「お兄ちゃんは、生の方がいいんじゃない? 熱くないし」


 暗くなりがちな二人の会話を、アリサは快く思っていないようで、冗談などを口にする事が増えていた。それを省吾も分かっており、何とか冗談に冗談を返そうとするが、ほとんど成功しないのが現状だ。


「俺でも流石に、でんぷんをアルファ化せずには、吸収できないぞ」


「アル……ファ?」


 聞き慣れない言葉にアリサが首を傾げてしまい、確かにその通りと返事をもらおうとした省吾の思惑は潰える。


……また、だめか。イリアには通じたんだが。


 渋い顔をして尚も芋を冷まし続ける省吾を見て、訳の分からないアリサは苦笑いで応えるしかない。


「お兄ちゃんって、物知りだけど……。元は、何をしていたの? ノアの奴隷?」


……どう答える?


 アリサから出た不意の質問に、省吾は渋い顔を止めて考え始める。


 タイムマシーンで過去からきた事を、アリサに喋る事自体は問題ではないと省吾も答えを出していた。しかし、アリサが能力の無い者達の中で暮らし始めた場合、問題が出てくる可能性があるのだ。


 万が一、アリサが悪気なく口をすべらせた場合、ノアに苦しめられた能力の無い者達がどう思うかがポイントになる。場合によっては悪い解釈をされ、狂った世界を作った仲間だと思われるのではないかと、省吾は考えているのだ。


「まあ、そんなところだ」


 必要であれば嘘をつく事に罪悪感さえ覚えない省吾は、表情や声の雰囲気を全く変えずに返答した。


……嘘もつき通してしまえば、真実だ。


「ふぅぅぅん……」


 アリサには森の外を全く知らないにも関わらず、色々な知識を持っている省吾が、嘘をついたと分かったらしい。だが、嘘をつかれたアリサは省吾を問い詰めず、火を見つめながら、湯気を立ち上らせている芋を頬張った。


 旅を続けている間に十一才になったアリサには既に女性特有の勘があり、省吾が自分の為に嘘をついたのだと理解したようだ。


……さあ、もう大丈夫だろう。ぬっ!


「ふふふふっ。まだ、熱かったんでしょ」


 冷やした芋にかぶりついた瞬間、省吾の眉間に深いしわが入り、動きが止まった事で全てが理解できたアリサが笑う。


……ぬううう!


 歯型のついた芋を地面に置いた省吾は、急いで背嚢に結び付けていた竹製の水筒をとり、水で口内の温度を下げる。


「あははっ! お兄ちゃん、子供みたい」


……子供も大人も、関係ないと思う。


「ふぅ……」


 不満を表情に出した省吾は鼻から息を吐いたが、その光景すらおかしいと感じたアリサは笑い続けた。トンネルの奥にいたコウモリの何匹かがその声に驚き、トンネルから飛び立った事にアリサは気が付かない。


……遅いな。


 直感で飛行物体の位置を捕えた省吾は、驚きながら羽ばたいたせいで自分にぶつかる軌道で飛んでいたコウモリを、首の動きだけで回避する。一月以上周囲を警戒し続ける生活を送った省吾は、鈍らせていた勘が戻っており、隙が消えていた。


「あれ? 雨が止んできたね」


「そうだな」


 再度冷やした芋を食べ始めた省吾は、アリサの声で空へ目を向け、風の勢いもおさまった事を認識する。そして、出発しようかとも考え始めたが、数日間ほとんど寝ずに歩いた為、アリサを休ませようと考えを改めた。


「ここは、安全だろうし、休んでいこう」


「うん。分かった」


 疲れを感じていたアリサは省吾からの申し出を快諾し、座ったまま両腕を伸ばしてあくびをし始める。それを見た省吾は、背嚢にくるんで縛り付けていた布団代わりの布を、アリサに差し出した。


「えっ? いいの?」


 眠気は感じているが、昼間から眠っていいのかと疑問を持ったアリサは、省吾に確認をする。


「眠れる時に眠るのも、次に動く為だ」


 省吾の返事を聞いたアリサは布を受け取り、壁にもたれ掛りながら目を閉じた。


……何か方法はあるか? 網はないし。


 食事を終えた省吾は増水した赤茶色の川を見つめ、魚を収穫できないかと頭をひねり始める。そして、重みのある木製のもりを作り、そのモリに縄を結び付けて投げ込めばと思いつく。


「勘頼みか……。厳しいな。キノコは知識が無いから、危ないし……」


 自分で考え付いた漁の方法が、あまりにも確率が低いと分かっている省吾は、頬を指で掻きながら息を吐いた。


 不測の事態に備えて、眠っているアリサから距離を取りたくない省吾は、動物の狩りにも出られない。それでも食料を確保したい省吾は、十五分ほど腕を組んで悩み続けた。そして、周辺に川魚以外の食料がない事も、半時間を掛けて調べつくしてしまう。


……まあ、確率はゼロじゃない。


 アリサが眠り始めて一時間ほど過ぎた頃、木製のモリを握った省吾は川に向かってそれを構えていた。


……目や耳に頼っても、無理だろうな。


 目を閉じた省吾はモリに能力の光を付加し、直感だけに頼って川の中へ投げ込んだ。


「ふっ! っと……」


……そんな、馬鹿な。


 モリに巻きつけておいた縄を引っ張った省吾は、自分の目を疑いつつ、頭を少し強く掻いた。省吾自身も驚いているが、モリの先にエラ部分を貫かれた魚が暴れており、漁が成功したのだ。


 それがあまりにも信じられない省吾は、その魚を少しの間見つめ続けたが、食料が手に入るのであればと割り切る。


……食料を手に入れる事が重要だな。方法にこだわる事はないか。


 しゃがんで魚をモリから外した省吾は、地面に置いた折り畳みが可能なかごに入れると、立ち上がった。


「はっ!」


 再び先程の様に目を閉じた省吾は、モリに能力を付加したまま構え、水面に突き刺すように力いっぱい投げ込む。


……まあ、百パーセントとはいかないか。


 もう一度省吾が縄で引き戻した木製のモリは、魚に刺さっていなかった。その漁が難しいと分かっている省吾は、表情を変えずにもう一度モリを構える。


……勘だ。勘を研ぎ澄ませ。


「はぁっ!」


 それからも川に能力をこめたモリを投げ込み続けた省吾は、もっとも重要な部分を失念していた。省吾が行っている漁でもっとも重要なのは、勘でも能力でもなく運であり、最初の収穫は運が良かっただけなのだ。


「くっ! このっ!」


 優れた勘を持つ省吾は、魚がいるおおよその位置を察知できるが、濁った水のせいでいつもの様に誘導は出来ない。その為、省吾はもりに貫通力を上昇させる能力を付加するしかなく、魚に刺さるかどうかは運頼みなのだ。


「はぁはぁはぁ……。当たれっ!」


 それでも一度成功してしまった為、別の方法を考える事をしなくなってしまい、体力を浪費していった。そして、能力を付加し続けたせいで、目の前が真っ白になり気を失う寸前まで、能力残量を消費してしまったのだ。


「んんっ? あれ?」


 かなり疲労がたまっていたアリサは、昼過ぎから眠り始め、空に星が輝く時間まで目を覚まさなかった。


「お魚とれたの? よかっ……どうしたの?」


 いい匂いにつられて目を覚ましたアリサは、背伸びをして目を擦り、串に刺さって焼かれている魚から省吾に目を向けて問いかける。


「なんでもない」


 数時間かけて三匹の収穫しか得られなかった省吾は、顔に出してしまうほど疲労しており、肩を落としていた。


……馬鹿な事で、体力を浪費してしまった。情けない。


「はぁぁぁ……」


「何かあったよね? 凄く疲れてるよ? シャツもドロドロだし」


 情けなさすぎる自分の失敗を語れるほど元気がない省吾は、アリサから目線を逸らして空に向ける。


「なんでもないんだ。なんでも……」


 相手が全身から醸し出す珍しい雰囲気に、問い詰めたいとアリサは考えてしまうが、省吾は最後まで教えなかった。見栄を張ったりはしない省吾だが、恥になる事を自分から進んで喋りたいとは思わないのだろう。


「もおぉぉぉ……。教えてよぉぉ」


「ノーだ」


 魚だけでなく、一緒に焼いた芋を食べ終えた省吾は、腕を組んで背中を壁につけた。そして、珍しくアリサよりも先に目を閉じる。それだけ、能力の使い過ぎで疲れていたのだ。


「はぁ……」


 省吾の呼吸が睡眠中のそれに変わっても、アリサはぼんやりと勢いを失っていく火を眺めていた。かなり長時間眠ったアリサだが、まだ十分に疲労が回復できておらず、眠れないわけではない。


 定期的に自分を襲う、孤独から来る寂しさや悲しみといった感情と、一人で戦っているのだ。


「お父さん……お母さん……ジョン……」


 まだ小さなアリサが、たかだか数か月で惨劇の刻んだトラウマを消せるはずもなく、恐怖による震えを我慢していた。


 アリサの脳裏には、デビッドから受けた苦痛だけでなく、真っ赤に染まった村や墓標の並ぶ光景が鮮明に焼き付いている。今も泣き叫びながら走って逃げ出したいほどの痛みが、アリサの小さな胸を強く痛めつけていた。


「お……兄……ちゃん……」


 苦しみから逃れたいアリサは涙により歪んだ視界を、座ったまま眠っている省吾に向ける。助けてほしいと口に出しそうになったアリサは、自分の口を両手で塞ぎ、声を殺して涙をこぼす。


 自分が気持ちをさらけ出してしまえば、唯一残った家族といえる省吾を苦しめると、アリサは理解できているらしい。だからこそ、省吾の前で精一杯明るく振る舞い、誰も見ていない所で涙を流して戦っているのだ。


 だが、健気ともいえるそのアリサの行動は、実は恐怖に後押しされている事を、本人も認識していない。口には出さないが、いつか省吾は自分の前から消えてしまうのではないかと、アリサは勘付いている。その事がひどく傷ついたアリサの心を更に締め付けてしまっているのだが、省吾はその部分に気が付けていない。


 省吾が分かっているのは、アリサはまだ惨劇のトラウマで苦しんでいるが、自分にそれを見せない様に頑張っているという事だけだ。


「あっ」


 苦しみから手を伸ばしたアリサは、急いでその手を戻し、省吾の眉間に瞬間的に深く刻まれたしわが消えるのを歪んだ視界のまま見つめた。


 ヨーロッパの最前線で戦い続けていた時と同じほど神経を緊張状態に置き、感覚を研ぎ澄ませている省吾は、眠った状態でも隙を作っていないのだ。それが自分の為だと分かっていながらも、悲しくて仕方がないアリサは、両目を強く閉じて震えを堪える。


「えっ?」


 震えを抑え込んだアリサがうとうとし始め、あくびをした所で、眠っていたはずの省吾が両目を見開いた。


……なんだ?


 声を出しそうになったアリサに向かって、月明かりに照らされた省吾は、喋るなと手信号を送る。そして、コンクリートで出来たトンネルに耳をつけ、目を閉じる。


……これは、蹄? 馬車か? 上の道を走っている? 速度を落としているのか?


 自分達がいるトンネルの近くで馬と人の気配を察知した省吾は、疲れてはいるが体を臨戦態勢に変えた。恐怖を感じたアリサは、口を押えて省吾の背中に隠れる。そして、省吾のシャツを掴んでしゃがみ込んだ。


……うん? 馬車が横転した音? なんだ? こっちへは来ないな。


 ノアの能力者に見つかったのかと思っていた省吾は、自分の中にある警戒のレベルが一段下がったと感じた。


……どうする?


 自分達に近い位置で何かがおこっている以上、呑気に眠る事も出来ない省吾は背嚢に荷物を素早く詰め込んで、アリサの前に置く。そして、アリサの頬に残った涙の通り道を親指でぐいっとこすり、頭を抱えると、耳元に口を近づけて囁く。


「奥に隠れるんだ。もし、俺が日の出までに帰らなければ、逃げてくれ」


 必ず戻るなどと無責任な事を口走れない省吾を、冷たく気の利かない人物だと感じる者もいるかもしれない。だが、数か月をかけて自分なりに、苦しい現実を受け入れようとしていたアリサは、別の受け取り方をしたようだ。


 悲しさで心が引き裂けそうなアリサは、シャツの胸元を掴みながらも、目を閉じて省吾にうなずいて見せる。それを見た省吾も心苦しく感じているが、自分が不測の事態からアリサを守るのだと言い聞かせ、まだ濡れて滑りやすい斜面を駆け上がった。


「あっ……」


 月の光により映し出された省吾の背中を見て、アリサは反射的に自分の手を伸ばしてしまう。しかし、アリサから視線を外した瞬間、脳が兵士モードに切り替わった省吾の動きは素早く、少女の手は届かない。


 月と星の光に輝いたアリサの涙は、複雑に色を変えながら、大昔歩道だったコンクリートの上に落ちる。


……あれは? そうか、この感覚か。


 省吾達がいた場所の上には、斜面を削り取って作った今も使われている道があり、そこで馬車が横転していた。


 その馬車に、ベルトと金具で繋ぎとめられた目隠しをされている馬は、抜け出せずにいなないている。そして、馬車の隣で腰を抜かしている運転手らしき男性と、客室から這い出そうとしている人影が月のおかげで省吾にも確認できた。


……客室は二人? あの男には目もくれていないな。どうする?


 省吾が見たのは馬車転倒の原因を作ったらしいファントムの姿で、自分に直感が知らせたのはその気配だったのだと理解する。


 未来の世界に来てからファントムが居なくなっている事を、省吾は村長達から聞いていた。だが、過去の世界で数日置きにファントムと戦っていた省吾は、その光景を当たり前の様に受け入れる。その事にどれほどの意味があるかを、考えるよりも先に、省吾は身を伏せていた斜面から走り出す。


 何故か運転手らしい男性を襲わないそのファントムの動きは緩慢で、客室から出てきた老人と女性だけを狙おうとしていた。そして、ファントムに狙われたその二人は、必死に逃げようとしている事から能力者ではないと省吾は判断したのだ。


……近くに他の気配はない。助けないと。


 握った拳を微弱に発光させ始めた省吾は、腰を抜かしたまま目を見開いている小太りな男性の前を通り過ぎ、ファントムの背後を取った。


「はっ!」


 亀の様にゆっくりとしか動かなかったファントムは、省吾の拳により、一撃で霧となって消える。


 杖を突いている老人は肩で息をしており、隣にいるメガネをかけた若い女性は、その老人を気遣っていた。その光景を見た省吾は、初めて自分が考えなく動いてしまった事に気が付き、首を傾げる。


……俺は、何をしている? 多分、こいつらもノアの関係者だぞ?


 緊急時に理性よりも直感を優先する省吾は、自分が行動した事の意味を後々考える事が少なくない。その原動力となった直感が掴んだのは、運命の流れであり、人間である省吾が読み解くのは難しいのだろう。


……俺は、逃げるべきじゃないのか? もう、ほとんど能力も使えないし。


 握った自分の拳を見つめる省吾の隣を、頭頂部に毛が生えていない老人が通り過ぎ、いまだに立てない中年男性の前に向かう。


「このっ! 恩知らずが! そんなに、わしが憎いか!」


……えっ? なんだ?


 スーツを着た老人は、自分の持っていた杖を振り上げると、座っている男性目掛けて力いっぱい振り下ろした。


「すみません! ご勘弁を! そんな事は、決して! お許しください、旦那様!」


 明らかに老人よりも肉体的優位にいるはずの男性は、何故か老人から振り下ろされる杖を受け続ける。


「この! 恩知らずが! このっ! このっ!」


 鬼の様な形相をした老人は、手で致命傷を避けようとする男性を殴り続け、馬車の前に立った女性もそれを止めようとはしない。


「あがあぁ! ご勘弁を! ご勘弁を!」


……急所に入ったな。杖の先は、金属か。殺す気か?


 省吾は脳内で、目の前にいる三人に自分が遅れを取らないと答えを出すと同時に、杖の先を老人の背後から掴んだ。


……さすがに、見過ごせないしな。


「ぬあっ! このっ!」


 握力が弱っているらしい老人は省吾に杖を掴まれた事で、握っていた杖が手からすっぽ抜け、よろけてしまう。


「ふぅ」


 自分を睨む老人に、省吾が奪い取る形になった杖を差し出すと、老人は乱暴にそれを掴みとった。


「なんだ? お前は?」


……やめておけばよかったか?


 びくびくと震えながら、自分を助けようとしない中年男性を見て、省吾は何も喋らずに立ち去ろうと考える。


……新しいねぐらも探さないといけないしな。


「なっ! これは、わしのものだ! ノアの王も認めているんだ! 触るな!」


……馬車を俺が盗むとでも?


 スカートタイプのスーツを着ている女性が、怪我をしていないか気になった省吾はそちらに目を向けただけだ。


 だが、運悪くその女性が馬車の前におり、その馬車には老人にとって何か重要な物が入っていたらしい。馬車と荷物を守りたいらしい老人は、焦りながら馬車と省吾の間に入り、両手を左右に伸ばす。


……面倒な事になる前に、退散しよう。


「待て! 力を貸せ!」


 その老人と喋りたいと思えなかった省吾は、その場から斜面に向けて歩き出したが、老人の声で足を止める。


……逃げたいんだが。あれは、この三人じゃ無理だよな。どうする?


 困っている人をつい助けてしまう部分では、女性に対する彰と同じように、省吾も優柔不断な部分があるのだ。


「あの、お願いできませんか?」


 老人と違い、眼鏡をかけた女性は丁寧に頭を下げ、省吾に依頼した。それにより、省吾の天秤が傾いてしまい、逃げなければいけないと思いつつも、近くにあったまだ葉のついた丸太を握ってしまう。


 省吾は女性に対して不純な気持ちを抱いたわけではなく、眼前の困っている人と依頼の言葉で折れてしまったのだ。


……仕方ない。早く終わらせよう。


 馬車と地面の間に丸太を差し込んだ省吾は、それを指さして立ち上がった運転手らしき男性に言葉をかけた。


「これを上から、思い切り押してくれ」


「えっ? あ、はぁ」


 中年の男性が押した丸太はてこの原理で馬車を浮かせ、その馬車の屋根にある枠を掴んだ省吾は、全身に力を込める。立ち上がろうともがいていた馬も、省吾たちの助けになった。そして、倒れていた馬車は見事に起き上がり、歪んでしまった個所もあるが走行可能な状態に戻った。


……これでいいだろう。


「ふぅぅ……」


 お礼すら口にしない中年男性と女性を気にせず、省吾はアリサのいるトンネルへと歩き出す。しかし、老人がその省吾の前に立ちはだかり、にやりと気持ち悪く笑う。


「お前、ノアの能力者じゃないな? 軍服も制服も着ていない。それに、馬車を能力なしで持ち上げられない所を見ると、サードって事はないな。ファーストかセカンドだろう?」


 省吾は老人の言葉で顔をしかめたが、相手が敵意を発していない老人だった為、暴力をふるう事はない。


「てこを知るほどの教育は、奴隷に与えられん。なら、ノアじゃないって事だな? 違うか?」


……これは、大失敗だったか?


 老人の脇を通り過ぎようとした省吾は、その老人から伸びた自分を掴もうとする手を避け、鋭い目を向ける。


「なるほど。本物の殺気だな。なかなかの面構えだ」


……こいつは、いったいなんだ? 的確に読んでくる。


「追って来れば、容赦はしない」


 警告をして立ち去ろうとした省吾は、老人からの予想外な言葉に足を止め、困惑した表情を浮かべた。


「この世界は、生き難いだろう? わしの所にこんか? 悪いようにはしないぞ?」


……あれ? もしかして、この人もノアじゃないのか? いや、ノアの王っていったしな。どういう事だ?


 アリサをどこかへ預けたい省吾は、危険ではないかと考えつつも、老人からの申し出に悩んでしまう。それほど未来の世界について、省吾は困り果てていたのだ。


 老人の言葉と共に、数か月間動きの遅くなっていた運命の歯車は、回転する速さを増していく。その事に、頭を抱えた省吾も、トンネルの中で震えるアリサも気が付かない。

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