五
森の中では人の手が介入されなくとも、人間が歩くのに適した道らしき物が形成される事はある。それは獣の群れがテリトリー内で繰り返し同じ場所を踏みしめる事で作られる場合や、単純に雨が降って水の通り道だった場所がそうなる場合だ。
当然ではあるがその二つに該当しない天然の道と呼ばれる場所も、偶然がいくつか重なれば簡単に作られる。村を襲ったデビッド達が訪れる使い、今省吾が全力疾走している道も、そのように出来た様に見えなくもない。
だが、道の端にほぼ朽ちてしまったガードレールの支柱や、地面に転がっている石の中にアスファルトらしき物が散見される。その道は、元々人間達が車を走らせる為に作った道なのだ。
一見すると人工物があるとも思えない深いその森は、戦争中に何らかの理由で破棄された人の住んでいた場所だった。村の周りを調べた事のある省吾や、人が暮らす町を知っている村長達は、そこが長い年月で朽ち果てた都市だったのだろうと気付いていたようだ。つまり、その道の先には現在も人工の道がつながっており、常に警戒を怠ってはいけなかった。
生い茂った森の木々等がその道を何か所も分断しており、村は偶然発見されずに平和が保たれていただけなのだ。超感覚を持った高レベルの能力者が気まぐれで調べてしまった為、村は壊滅してしまった。
その一連の流れ全てが偶然でしかなく、少しでも偶然が足りなければ現在には至らなかっただろう。しかし、それをどうする事も出来ないのが人間であり、故に人はその一連の偶然を運命と呼ぶ。
「はぁ! はぁ! はぁ!」
大昔はアスファルトで固められていた森の道を、苦しそうな呼吸を続ける省吾は全力疾走している。
「なんだ? 移動系の能力はないのか?」
よく揺れる馬車の上で、振り落とされない様に手すりを握ったデビッドは、省吾の力が弱そうだと考えた。そして、もしサード以下の能力者であれば十分に遊べないと考え、徐々に表情を曇らせる。
「はぁ! はぁ! はぁ!」
森の中で暮らす間も、省吾は十分に体を動かし続けており、勘と違って体力などは全く衰えていない。その上で、肉体の限界値をゆっくりではあるが解除しており、競技大会で一位を取れるほど速く走っていた。
多くの生徒を持つローガンに化け物と認定されたその省吾は確かに人間離れしているが、根本的に人間の体では走る事で馬には勝てない。道が曲がりくねっており、木の根や岩などの障害物があったからこそ、距離を保ち続けられただけだった。
……くそっ!
目の前に続く長い直線を見て、村からかなり離れられた事もあり、省吾は森の中へ方向を変える。そうしなければ確実に追いつかれるほど、馬車と省吾の距離は詰まってきていたのだ。
「デビッド様。馬車でこれ以上は無理でね?」
デビッドにどうするかを問いかけたらしい部下の男性だが、喋り方からは敬意が感じられない。その事を全く気にしていないデビッドは部下の物言いではなく、森の中へ入らなければいけない事で愚痴をこぼす。
「うわっ、めんどくせぇ」
本当に嫌そうに顔を歪めていたデビッドは、仕方なく停車した馬車から降り、自分の周りに光の膜を作った。その地面まで固めた光の膜は村を囲んだ物と同様に、球状ではなく立方体だ。
当然ではあるが、その小さな立方体も、第三世代のフォースが作ったものと比べて放つ光が強い。
「おや? 警戒されてますか?」
「ちげぇよ。虫とか触りたくねぇぇんだよ」
デビッドが作り出した膜は半透明だが強い光を発しており、夜間であればデビッドの嫌いな虫が逆に寄ってくるだろう。両目を閉じて息を吐き出した部下の男性は、どんどんと森の中へ進んでいくデビッドの後に続く。
「うっわ。きもいなぁ」
デビッドの作った膜に触れた木は、いともあっさり薙ぎ倒され、草は押し花のように変わり、虫は絶命していく。
「おい。そろそろ、感知で探してくれよ」
サイコキネシス側が特出しているらしいデビッドは、振り返って部下の男性に催促をした。
……行けっ!
力量の差を大よそ勘で感じ取っている省吾は、本来自分の得意な森の中で逃げに徹するべきだ。しかし、村での惨劇を見て怒りが抑えられない為、気配を消して息をひそめるだけでなく矢をつがえてしまう。
「なんだよ。やっぱ、雑魚か」
光の膜にぶつかった矢の威力を感じたデビッドは、つまらなそうに肩を落とした。
「奴隷決定ですね」
飛んでくるもう一本の矢を、容易く手で受け止めてしまった部下の男性は、デビッドとは逆に楽が出来ると考えたのか表情が少し明るくなる。
省吾が放った二本の矢は、超能力でそれぞれ威力を高めたものと、軌道を変更するものになっていた。しかし、かなり高レベルの能力者らしい敵二人には、どちらも全く効果が無い。
「逃げるなよ。めんどくせぇからぁぁ」
傍若無人に森の中を歩くデビッドから省吾は距離を取るが、矢を放つ事を止めようとはしない。
……頼む! 貫いてくれ! くそおぉ!
無駄だと省吾にも分かっているのだろうが、何度も何度も激しい憎しみをこめた矢を放ってしまう。
「あっちか。すばしっこい奴だな」
省吾がくり返し能力で威力を高めながら放っている矢は、相手に自分の位置を教えてしまっていた。だが、怒りで感情のコントロールがうまくいっていない省吾は、攻撃する手を自分では止められなくなっている。
省吾は、ローガンから地獄の特訓で叩き込まれた冷静な思考を、体力と違って鈍らせてしまっていたようだ。今の感情に身を任せてしまっている省吾は、完璧な兵士から程遠く、伝説と呼ばれた姿は見る影もない。
……くそっ! なら!
デビッド達の視線が自分へ向く前に、省吾は気配を消し、ほとんど音も立てずに移動を開始した。
「ああ? どこ行った? 面倒くせぇな」
「あっ、デビッド様」
声を掛けられる前にデビッドは立ち止まっており、部下に顔を向ける。
「分かってるって」
デビッドが立ち止った場所の前には太い木が生えており、先には地面が無い為、そのまま進めば落ちてしまうだろう。勿論、能力の底が知れないデビッドがもし落ちたとしても、ダメージを受けるかは分からない。
……駄目か! どうする?
デビッドが、うまく断崖絶壁の崖から落ちてくれる事を祈るしかなかった省吾は、両目を強く閉じた。木の上で気配を消している省吾の矢は尽きており、武器はもうモリしか残っていない為、策など立てようもない。
……どうすればいい?
「おいってぇぇ。面倒くせぇから出てこいよぉ」
省吾の中にある警告ランプは既に真っ赤に変わっており、逃げろと本能が叫び続けていた。
「あのゴミ虫どもみたいになりたいのかぁ? おいってぇ」
デビッドのその言葉で、怒りの炎が轟音と共に燃え上がり、警告と本能を飲み込んでしまった。
「うおおぉぉぉぉ!」
先端が光を放つモリを下方に構えた省吾は、膜につつまれたデビッドではなく隣にいる部下に向かって落下した。
「ぐがっ!」
モリで狙われた部下は情けない声を上げるが、それは省吾の攻撃がヒットしたからではない。デビッドを覆っていた膜が素早く倍以上の大きさに広がり、部下の男を押しのけたからだ。
「くそおおおぉぉぉ!」
省吾の持つモリの先端が膜に触れた瞬間、体ごと空中で固定されてしまった。
「お前。死刑ね」
……なっ!
省吾の視界に口角を上げたデビッドが映ると同時に、人間の五体全てが弾け飛んでもおかしくないと思えるほどの力が発生する。
壊れたディスプレイのように、省吾の見る景色は一瞬で真っ暗になった。その凄まじすぎる衝撃は、省吾の全感覚を正常に動作させない程であり、痛みさえ伝えない。
……なんだ? どうなった? 苦しいのか? これは?
省吾の体は、重力を無視して地面と水平方向に吹っ飛ばされていた。その省吾は体中から血が噴き出しており、体のどこを探しても力が入っている場所がなく、糸の切れた操り人形にしか見えない。
だが、感覚が全てオフになってしまった省吾は、その状態を正確に知る事が出来ず、負けたらしいとしか認識できない。
……化け物だ。あれは、俺の勝てる相手じゃない。
フォースでも不可能だった攻防一体の能力を見せたデビッドに、省吾の強い意志がボキリと音を立ててへし折られた。あの世へ一直線に向かっている省吾の脳は、すでに時間の感覚がなくなっており、走馬灯すら映し出さない。
真っ暗でつめたい孤独な闇の中に落ちていく感覚だけが、はっきりと省吾の全身を包み込んだ。
……これで、終わりなのか。情けない。俺は、誰も守れなかった。誰も。
吹っ飛ばされていく省吾が、崖下に転落していくのを見て、デビッドはわざとらしく全く悪気のない声を出す。
「あっ、力加減を間違えたなぁ。失敗、失敗」
そのデビッドの嫌味で悪魔的な声も、省吾には届かない。
……俺は、なんて弱いんだ。情けない。誰も、守れない。俺は。
(エース……)
省吾の真っ暗だった視界に、ぼんやりと光る人型が現れた。
(エース、好きぃ! えへへへっ!)
崖下へ転落している省吾の前に現れたサラは、全身を眩しいほど発光させており、いつものように笑っていた。そして、全身から力を失い、目の光を失った省吾を愛しそうに抱え、口づけをする。
(ひへへっ! エース! エース!)
省吾の脳内に、サラの裏も表もない全てを照らし出すほど明るい笑い声が、大きく響いた。
……まだ。まだあああああぁぁぁぁ!
今もまわり続けていた運命の歯車は、ピンチだけでなくチャンスも均等に用意していたらしい。
崖下は川原になっており、省吾が何もせず落下すれば岩にぶつかって、確実に絶命していただろう。だが、落下し続けている省吾は、信じられない程光を放ち始めた拳で、意識を失っていながらも崖の岩壁を殴りつけ軌道を変える。
それにより、省吾の体は川の中へ向かい、水面と体が接触した瞬間に水の柱が空に向かって突き出した。デビッドの攻撃によりすでに瀕死へと追い込まれている省吾は、そのまま川底に体をぶつけ、下流へと流される。
「ふぅ……。これを、助けられたといっていいものだろうか?」
省吾が水流に飲み込まれると同時に、光の膜で弾き飛ばされていた兵士が、草むらから立ち上がった。そして、デビッドが覗き込んでいる崖に向かって、その男性も痛む腕を押さえて歩き出す。
「落ちたんですか?」
「ああ。川に落ちて、流された」
心臓を矢で射ぬかれた男性よりも、デビッドを恐れていない腕を押さえた男性は、呆れたように問いかけた。
「いいんですか? 多分、死んでますよ? 奴隷は連れ帰らないと……」
部下の男性は、吹っ飛ばされたことの抗議はしない。
「ああ? 貴族である僕に刃向ったんだ。殺されて当然だろ? この言い訳で、十分だ」
その男性には、デビッドが省吾を殺す為にわざと膜を広げてモリを当てさせた事が分かっている。だが、それを指摘するつもりはないようだ。
「では、帰りますか?」
「ああ。こんな臭い場所に、後十分もいたら、病気になるしなぁ」
馬車へと戻り始めたデビッドは、満足げに笑っている。
「なんか、すかっとした。そうだっ! 気分が良いから、帰ったら特別に奴隷の女達を虐めてやろう。ふふっ……」
物騒な事を口走っているデビッドを乗せたノアの馬車は、そのまま森を後にした。
……あっ? ぐっ!
「うっ! がああぁ!」
それからかなりの時間が経過して、川の岩に引っかかっていた省吾は目を覚まし、全身の痛みで叫んでしまう。興奮状態ではない為、痛みを麻痺させる物質が脳から出ていないようだ。
「うぐぅぅぅ……」
気を失ってもおかしくないほどの痛みを感じながらも、省吾は一人で川から這い出して立ち上がる。そして、ぼろぼろの体で歩き出した。
……帰るんだ。あそこへ。戻るんだ。あの幸せに。
重症の体を引き摺り、省吾はずぶ濡れのままゆっくりと歩を進めた。その省吾が脳に描いているのは、生きていたアリサとサラの顔だ。
二人にもう一度会い、守りたいと思う気持ちだけが、瀕死の省吾を支えている。そして、死んでいったジョン達を思い出すたびに止まりそうにある足を、無理矢理前に進めた。
……そんな。
数時間後、省吾のやっとたどり着いた村は、血だけでなく夕焼けで真っ赤に染まっていた。
「嘘だろ? おい。おいって!」
呼吸の落ち着いたアリサとは違い、サラの体は冷たくなっている。省吾がいくら揺さぶろうが、サラは二度と動かない。
「頼むよぉぉ! なんでだよ! なんで……」
脈や瞳孔を省吾がいくら必死に確認しても、残酷な現実は変わらないのだ。残念な事に、即死は免れたとしても、内臓が破裂した状態で生き続けられる人間はいない。
少しだけ笑ったように見える表情をしたまま動かないサラを、省吾は力いっぱい抱きしめた。
……また。また、守れなかった。大事な人を。
空で急激に動いていた雲は黒く固まり、熱帯地域特有のスコールを壊滅した村に降り注がせる。
「サラ……俺も……好きだ。大好きだよ。俺……何も、してやれなかった。なにも……」
激しい雨が降る森の中で、二度と動いてくれないサラを抱きしめていた省吾は、優しく唇を重ねる。
(えへへへぇぇぇ)
省吾の脳内に、もう二度と聞く事の出来ない、サラの笑い声が響いた。
村中に広がっていた人々の血が、冷やされて黒ずんでいく。そして、スコールは省吾の幸せも、その血と共に洗い流してしまった。
「うう……うああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
獣の様な叫び声が、大きな雨音を切り裂き、森中に響き渡った。
心が引き裂け、胸に穴が開き、精神が砕け散るといった言葉は、空に向かって咆哮した省吾を表現する言葉として、正解であって正解ではない。省吾の内面で発生した目に見えない壮絶な爆発を、一つ一つ分解して表現すれば、その言葉で正解なのだが、全体を表せてはいないのだ。
爆発の原因はごく単純で、大好きな人と共に二度と手に入らない幸せが失われてしまった、怒りと悲しみだ。ただし、その爆発で発生した感情は、敵に対する憎悪や愛しい人への想い等、一言で語れる訳ではない。正と負のように、人間は自分達で理解する為に単純化した表現を使いたがるが、人の心は複雑怪奇なのだ。
サラや村人達へ省吾が向けた好意は、敵への憎悪や怒りを発生させるが、元々の想いも消えたわけではない。真っ黒に見える爆発には、驚くほど純粋で白い想いも確かに内在されており、負の感情と表現するよりは混沌といった方が正解に近いだろう。
……苦しい。苦しんだ。もう嫌だ。もう見たくない。何も知りたくない。
人間の記憶とは数珠つなぎになっており、何かの出来事が起これば、それに類似した過去の記憶がよみがえってしまう。
土砂降りの雨の中でサラを抱いた省吾が思い出すのは、マーク達守りたかった人々の死と、自分が無力である事だ。省吾が見たくもないであろう、心に深く刻まれた傷から鮮血が飛び散り、主を内面から壊そうとする。
……苦しい。もう嫌だ。こんなに苦しいなら、一人でいい。孤独でいい。もう、人を好きになりたくない。愛なんていらない。
比類がないほど強い意志を持った省吾は、自分自身の純粋な優しい想いのせいで、苦しめられてしまう。
この世で一番大事な家族だったマークを失った省吾が一人で生きたのは、人を好きになる事を誰よりも恐れたからだ。残酷な世界に永遠が無い以上、その選択肢は間違いではないが、人が一人で生きていけないという現実も揺るがない。
死ぬまで一人で過ごそうと考えていた省吾だが、孤独の中で長生きしたいなどと考えるはずもなかった。そして、選び出したのはなんの価値もなくなってしまった自分の命で、幸せな人を増やし、その幸せを守る事だったのだ。
その選択肢自体が色々な矛盾をはらんでいるのは省吾も自覚していたが、結果的に死ぬだけの命で幸せが増えればいいと結論を出した。それにより国連へ所属する事になり、フランソアやマードック達家族と呼べるほど大事な存在が、再び出来てしまう。
大事な者達を守る為に、省吾は命を掛けて戦う事で、絶望に隙を見せない様にしていた。そんな省吾だったが、タイムリープにより死ぬ事なく大事な世界から離れ、人生の目的が消える。何もする事が無くなった世界で、完璧ではない人間の省吾は、気を緩め、隙を作ってしまった。
常に世界を見渡していた絶望が、その省吾の隙を見逃すはずもなく、もっとも最悪のタイミングで手を伸ばしたのだ。
……こんな現実、嫌だ。なんで俺は弱いんだ? もう、嫌だ。もう、もう、もう、もう、生きていたくない。
短い時間で大量の水を降り注がせるスコールが止み、それと同時に強張っていた省吾の体が脱力した。叫ぶ気力すら失った省吾は、腕からも力が抜け、抱きしめていたいはずのサラがゆっくりとすべり落ちていく。
「ううっ……」
意思と想いが折れ、廃人寸前だった省吾の耳に、苦しそうに表情を歪めたアリサの小さな声が届いた。
「アリ……サ……」
最後に残った家族といっていいアリサに視線を向けた時、省吾の生気を欠いた瞳に、涙を流したくなるほど愛しい者達が姿を見せる。
全てを失ったと思い込んでいた省吾の中では、二つの選択肢のみが作られ、どちらかを選ぶ段階だった。だが、省吾の前に現れたマークは不敵に笑うと、吸っていた煙草を投げ捨てその選択肢の一つを握りつぶす。
(こいつはクールじゃねぇな。分かるだろ?)
怒りに身を任せて、デビッドにかなわないと分かりながら特攻をする選択肢は、省吾の中から消えた。
(だめ。エース? だめぇ。いへへっ)
次に自殺の選択肢が、屈託のない笑顔を浮かべたサラに、抱きかかえられるように潰される。
(もう自分を責めるのは、これで十分だろう? 立ち上がってくれ。それが、俺達の望みだ)
(兄ちゃんは、すげぇもん。だから、信じてる)
省吾の視界に死んでいった者達が現れ、今まで存在しなかった選択肢を少しずつ作り上げていく。
(あんたが、あんたらしくってのはこれだろ?)
最後にジャックを筆頭にした省吾の死んでいった戦友達が、光の文字で作られた選択肢を差し出した。
……ああ、そうか。そうだ。俺は、まだ死んでない。なら。
心が粉々に砕け散ったなら拾い集めればいいだけで、意思が折れたというなら繋ぎ合わせればいいだけだ。
……俺はまだ戦える。この命が尽きるまで!
震える手で目の前に出現した選択肢をしっかりとつかんだ省吾は、一度目蓋を閉じ、再び開く。もうその時には、省吾の瞳に、強さが舞い戻っていた。
……今のは?
省吾の前からいつのまにか、先程まで笑っていたこの世にはもういない者達の姿は消えている。雨の止んだ森の草むらの中で動いているのは、全身がずぶ濡れで右拳を突き出した省吾だけだ。
その死んだはずの者達は、自分を守ろうとした省吾の精神が作り出した、都合のいい幻かも知れない。だが、心に熱の戻ってきた省吾は絶望を跳ね除け、立ち上がるだけの力を得た。
それにより、深い森の中に舌打ちと、小さな笑い声が聞こえる。舌打ちをしたのは勿論絶望だが、笑っているのは隣に並んだ運命だった。
どこまで行っても運命は運命でしかなく、似ていたとしても絶望とは別物であり、あらゆる存在に中立を保つのだ。その運命の笑いが意味しているのは、明るい未来かも知れないが、さらなる絶望の可能性も十分にある。
ただ、どちらが選ばれるにしても、歯車の一つである省吾が動かなければ、何一つして進まないだけだ。
……アリサが幸せを手に入れる為に、俺の命が使えるじゃないか。
「うっ! ぐううぅぅ!」
ぼろぼろの全身を無理矢理立ち上がらせた省吾は、鉛のように重くなった足でしっかりと地面を踏みしめる。
……答えは最初から決まっていたんだ。足りなかったのは、俺の覚悟だけだ。
「はぁはぁ……。いっ! こ……のっ!」
アリサを抱き上げた省吾は、両足共に引き摺る様に歩き、村の奥にある村長の家を目指していた。
……今は成すべき事を成そう。死ぬのはその後でいい。
「ぐっ! はぁぁ……。まだ、まだ……」
激しい激痛の中で、切れてしまいそうな意識を無理矢理つなぎとめた省吾は、村長から学んだ薬草を調合し、アリサの手当てをする。不幸中の幸いではあるが、村長が家から逃げ出していた為、省吾がアリサを手当てしている家に亡骸はない。
「ふぅぅ、ふぅぅ、ふぅぅ……」
……今、俺に出来るのはここまでだ。後は、待つしかない。
アリサの手当てをするだけで、幾度も気を失いそうになっていた省吾だが、自分の体を休息させようとはしなかった。
……まだ、倒れるには早すぎる。次だ。
「はぁはぁはぁはぁ……。ぐううっ!」
村長の家を出て、地面に転がっていた農機具を拾った省吾は、そのまま半分が更地に変わった村に穴を掘る。それは、無念のうちにあの世へ旅立った村人達を、一刻も早く優しい大地の中で眠らせる為だ。
瀕死の体で苦痛にうめきながら、見渡す限りの土地に省吾は夜通し穴を掘り続ける。
……それは、お前達の餌じゃない!
血の臭いに誘われて村に来た獣達は、省吾の殺気にあてられ、そそくさと退散するしかない。眠ることを忘れた省吾は、村人達を一人一人愛おしそうに抱きかかえ、自分が掘った穴へと埋葬する。
その作業は、丸二日間以上をかけて省吾一人で続けられた。
「お……兄ちゃん?」
惨劇から三日後の昼過ぎにアリサは目を覚まし、一人で村長の家からふらふらと外へ出た。外へ出たアリサが見たのは、墓標となる石が百以上並べられた光景と、サラが眠る墓の隣で座ったまま目を閉じた省吾だ。
眠っていたはずの省吾は、かなり離れた位置にいたアリサの気配を察知し、ゆっくりと隈ができ鋭くなった目を開く。
「起きたか……」
自分の見た光景が現実なのだと理解したアリサは、顔をぐしゃぐしゃに歪め、省吾の胸に飛び込んで号泣した。泣き続けるアリサに言葉を掛ける代わりに、省吾は優しく頭を撫で、目を細めて嫌になるほど青い空を見つめる。
その空に浮かぶ白い雲はゆっくりと風に流され、まるでライフル銃の様に形が変化した。
……俺は馬鹿だ。こんな大事な事まで忘れてたなんて。
最初に省吾が自分で銃を握ったのは、自分が生き残る為だった。だが、災害や戦争の辛い時間を生き抜き、その目的は苦しみを背負う事へと変化する。
どんな理由があったとしても、殺す側も殺される側も苦しまなければいけないのが、人の命を奪うという事だ。そして、人の苦しみが見たくない省吾は、自分の手がどれほど汚れても銃を握り続けると決めた。
……ありがとう。思い出す事が出来た。
幸せに浸かり低い方向へと心が流された省吾は、自分自身で選び出した大事な覚悟を忘れてしまっていたらしい。
マニラアサの葉で防水処理された屋根に、スコールの激しい水滴が打ち付けられ、大きな音が家の中まで届いていた。
……あの日も、こんな雨だったか?
家の中で荷物を背嚢に結び付けていた省吾は、少しだけ手を止めて、雨音に耳を澄ませている。村での惨劇から三カ月ほどの時間は流れているが、その事を思い出すたびに省吾の胸には痛みが走った。
それでもその痛みから逃げないと決めた省吾は、痛みを受け入れるだけでなく、瞳の火を強くする。
「お兄ちゃん。出来たよぉ」
炊事をする部屋は、省吾がいる部屋の奥にあるのだが、そちら側からアリサは省吾に声を掛けた。
「分かった」
手の汚れていた省吾は屋根から落ちてくる雨水で手を洗い、アリサが食事を並べる机の席につく。
「いただききまぁぁすっ」
「いただきます」
木製のスプーンを持ったまま手を合わせ、元気よく声を出したアリサに続いて、省吾も礼儀として手を合わせる。
「どうかな?」
「ああ。うまい」
アリサの作った野菜スープを一口食べた省吾は、素直な感想を述べ、歯型のついた自分のスプーンを見つめる。そのスプーンに二度と消えない程の歯形をつけたのはサラであり、省吾の胸にある傷は今も血を流していた。
それだけでなく省吾達が食事を取っている家は、サラと過ごした思い出の場所であり、どこを見ても彼女が生きていた痕跡が残っている。
……痛かろうが辛かろうが、この傷は消さない。消しちゃいけない。
「どうしたの?」
「ん? なんでもない」
目を閉じて物思いにふけっていた省吾は、アリサの問いかけで食事を再開し、明るい声に耳を傾ける。
「でね! その時ジョンが……」
村での思い出を昨日の事であるかのように笑いながら喋るアリサは、悲しみでおかしくなっているわけではない。翌日に生まれ育った故郷である村から、出て行く事が悲しくて仕方が無い事を隠そうと、空元気を出しているのだ。
それが分かっている省吾は、声を出さずにアリサの言葉を聞いて、分かり易い様にうなずいて見せる。
村を二人が出て行く理由は、その村と同じように能力が無い者の平和に暮らせる場所を探そうとしているのだ。省吾がいればその二人だけになった村でも生きていけなくはないが、何かよくない事があった場合や、年老いた場合、どうしようもなくなってしまう。
出て行く事は、三か月前に二人で一週間ほど話し合って決めた事で、悲しいとは思っているようだが、アリサも納得している。
「その時も、ゾーイさんったら自分は悪くないっていうの。流石に、お父さんも怒っちゃって……」
アリサの落ち着ける場所を見つけ、一人でノアに抗うか能力の無い者を安全な場所へ逃がそうと省吾は考えていた。その事に関しては、省吾が一人で決めた事で、アリサは知らない。
一週間ほどで重傷だった怪我を六割以上回復させた省吾は、一刻も早く旅立ちたい気持ちがあった。だが、超能力者ではないアリサの怪我が回復するまでに、三か月の時間が必要であり、体を鍛えながら待ったのだ。
「それで、それでね……。それ……で……」
食事を口に運ばず喋り続けていたアリサだったが、言葉を詰まらせると同時に俯いてしまった。それを見ていたすでに食料を食べ終えている省吾は、両肘を机につき、両手を口元で組んだ。
「これからは、泣いている時間もあまりないかもしれない。だから、いいんじゃないか? 今日ぐらいは」
「ううっ……あああぁぁぁ」
省吾の言葉を聞いたアリサは、我慢する事を止め、村中に響き渡る大きな声を出して泣き始めた。そのアリサが泣き止むまで、目を閉じた省吾は席から立ち上がらず、黙って耳を傾け続ける。
……俺は、本当に情けない。情けないよ。
泣き声を受け止め続ける省吾が考えているのは、アリサに子供でいられる時間を与えられない自分についてだ。それを仕方ないと省吾は自分の中で答えを出してはいるが、アリサの泣き声は心の傷によく響くらしい。
……この子が、子供でいられるように、命を使うんだ。情けない俺には、それしか出来ない。今は立ち止れないんだ。
その日のうちに準備をすべて終えた省吾は、翌日の早朝から身支度を整えている。省吾とアリサは、外の世界でも目立たない様にと用意した、既製品を模している服を身に付けた。
その服は過去の豊かだった時代をよく知っている省吾がデザインし、裁縫の得意なアリサが縫ったものだ。
「さあ、行こう」
「うん……」
保存のきく食料などを詰め込んだ背嚢を背負った省吾は、鞄を肩から下げたアリサの手を引いて村を出る。
アリサは省吾の何倍も村に未練が残っており、いまだにあの惨劇が嘘ではないかと考えてしまう。その為、省吾が手をひかなければ、村から出られないのだ。
……うん?
デビッド達が村へ入ってきた道まで歩いたところで、アリサは立ち止って村を振り返った。省吾は立ち止ったが振り向かず、目を閉じてアリサの鼻をすする音に耳を傾け、サラ達の顔を思い浮かべる。
……行ってくる。
省吾のある女性に向けられた心の声に、屈託のない笑い声は返ってこない。そして、省吾が出かけようとする事を、阻止しようとする女性の姿はどこにも見当たらない。
「ごめんなさい。行こう、お兄ちゃん」
「もういいのか?」
……さよならだ。
アリサがうなずくのを見て手を取った省吾は、幸せだった村に別れを告げ、ゆっくりと道を進み始めた。
森の先には、高レベルの能力者達が幅を利かせる、狂った未来の世界が待っている。それでも手を取り合った二人は、前に進む。