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名無しのエース  作者: 慎之介
四章
33/82

 人間が原始的な生活をすると、朝日と共に目を覚まして活動を開始し、日が沈むとねぐらに帰る事になる。それは、人間が夜行性ではない事の証拠であり、夜間に活動する動物達の様に特殊な視覚を持っていないし、聴覚や嗅覚を極端に発達させてもいない。


 それに対して、村の周辺を囲んだ森の中に生息する動物達は、夜行性のものもかなり多くいる。深夜になっても森は静かな訳ではなく、都会で暮らしていた者が安眠する為には慣れが必要だろう。当然ではあるが、省吾が身を寄せた村の住人は、その自然の喧騒に慣れており夜間は熟睡できる。


 だが、その日は深夜になっても数人が眠らずに起きており、その者達は息を潜めて柵に囲まれた畑を見張っていた。理由はごく簡単で、夜行性の動物に畑の作物が食い荒らされてしまい、その動物を駆除しようと考えていたのだ。


「おい……」


「ああ、あれだ」


 待ち伏せされているとは思っていないらしい大きな猪が、森の中から村へ入ってきた。人が介入していない森の中で過ごす動物達は、大自然の中でのびのびと暮らしており、食べ物に困る事は少ない。しかし、村を見つけたその猪は、人間の作った畑ならば森の中より楽に食事にありつける事を知ってしまったのだ。


 人間より原始的な思考を持った動物達は純粋ではあるが、その分人間にとっての善悪を考えずに、可能な限り安全で楽に生き延びる事を追及する。自分達が食べる以上に生き物を殺し、金儲けなどの欲で環境を好き勝手に変えてしまう人間よりも道徳的には、正しい生き方なのだろう。


 それでも大事な食料を奪われる人間側からすれば見過ごせるわけもなく、自分達が生きる為には猪を撃退する必要がある。太い木で作った畑の柵を、大きな猪は牙を使って容易く破壊し、食事を開始してしまった。


「今だ!」


「いけっ! 一気に囲め!」


 見張り用に作った小屋から、たいまつと木の棒を持った男達が飛び出し、その棒を打ち鳴らしながら畑へと走る。それに驚いた猪は、森の中に逃げ込もうと走り出し、村人達は音で驚かせながらそれを追いかけた。


「近づきすぎるなよ!」


「ああ、分かってる! おい! そっちにまわれ!」


 当然ではあるが、大型の猪は丸腰の人間よりも強い生き物であり、反撃を受ければ人間側が怪我人を出す。その為、村人達は動物が怖がる火や音で脅かし、罠を仕掛けた場所に猪が逃げるように追い込んでいるだけだ。


「よし! 落ちたぞ!」


 落とし穴に落ちた猪は、人間の悲鳴にも似た鳴き声を発し、穴から這い出そうともがいていた。その落とし穴の底には、木で作った杭が空に向かって伸びており、落ちる力と自重で猪の体に何本も食い込んでいる。


 それでも脂肪と筋肉の鎧を持っている猪は、致命傷を受けていないらしく、蹄で土をかいて顔を穴から出した。落とし穴を覗きに行こうとしていた村人達は、手負いの獣となった猪を恐れ、足を止める。


 その作戦は省吾が考えたものであり、落とし穴で止めがさせなかった場合の手立ては、準備されていた。


……そこだっ!


 畑から風下になる木の上で待機していた省吾は、身長と同じ長さがある木の杭を持ってその木から飛び降りる。そして、その省吾に貫通力を強化された木の杭で首筋を貫かれた猪は、断末魔の声を上げて崩れ落ちた。


「やったあぁ!」


「流石、エースだ! これで、肉が腹いっぱい食えるぞ!」


 残酷に見える行いではあるが、自然の一部として暮らしている村人達には自然な事であり、猪に食べられた食料をその猪で補てんするのだ。


……ぬう?


 村人が持つたいまつの光が、猪の連れていたらしい四匹の子供を照らしだしており、省吾がそれに逸早く気が付いた。


「おい、あれ、子供だ」


「子供を連れていたのか……あっ!」


 親を失った子供の猪達は固まって怯えていたが、村人が近付き過ぎた為、森に向かって走り出す。


……遅い!


 省吾の瞬発力と強靭な握力で、二匹の子供が捕獲され、もう一匹が村人達により捕まえられた。


「一匹は逃げられちまったな……」


「まあ、三匹いれば十分だろう。育てる小屋を作らないといけないな」


 その子供達を自然の一部と化した生きる事に懸命な人間は、食料としてしか見ておらず、育てて食べようとしか考えない。自分達が食べる以上に動物達の命を奪っている訳ではない為、それが自然な人間の姿なのだろう。


……かなり元気があるな。


 手の中で暴れる子供の猪達を見て、省吾は小屋が出来るまでの間も、閉じ込める箱は頑丈にする必要があると考えていた。


「子供はこっちに任せてくれ」


「分かった。逃げない様に気を付けてくれ」


 子供の猪を村人の男性に任せた省吾は、息絶えた親猪の元へ向かう。


「夜の間に、血抜きをしておこう。ただ、獣に持って行かれない様に、見張りは必要だろうな」


……解体は明日、日が出てからだな。


 省吾の言葉に、村人達はうなずいて素直に従い、大きな猪を移動させていく。それだけ、省吾は村人達から信頼を得ているのだ。既に省吾が村に居ついて三カ月の月日が流れており、怪我も全快して狩猟の要として地位が固まりつつある。


……思っていたよりも大物だ。子供達も喜ぶな。


 当初、体の回復と共に村を出ようと考えていた省吾だったが、情報を集めるにつれ迷いが生じた。ケイト達による三回目になる時間介入の影響で、未来の世界は違う状況になっていたのだ。


 第四次ともいえる大きな戦争は発生したのだが、かなり昔にその戦争は終結しており、ノアが勝ち残った。能力者以外の者を消そうとしていたノアの在り方は、ケイト達に省吾が聞いた通り変わっていない。そのせいで、能力の無い者達は省吾がいる村の様に隠れ住むしかない。


 村長は省吾に、同じような村は他にもあるだろうと教えた。その状況を知った省吾は、介入を途中でやめさせた自分が悪いのかとも悩んだ。だが、セーラの奥にいた黒幕が望んだ世界が今いる世界である可能性も捨てきれず、答えを出す事は出来ていない。


 ある意味平和になった世界で、当初の目的通りノアを潰そうとすれば、省吾自身が平和を乱す者になってしまう。怪我が回復するまでの間悩んだ省吾だが、結局結論を出せなかった。そして、村から出る事も出来なかったのだ。


 サラという自分を必要とする家族と、村の暮らしは省吾の鋭い目つきを徐々に和らげてしまった。近代的で便利な暮らしではないが、その自然の中で生きる平和な暮らしこそ、省吾が本当に望んでいたものだったのかもしれない。


 いくら省吾の意思が強くとも、目的もなくその生活に背を向けられる訳ではなく、惰性的な選択をしてしまう。マークと死に別れて以降、気が狂ってもおかしくないほどの人生を送ってきた省吾に、それを捨てろといえる者は多くないだろう。


 村で暮らしている省吾は、サラと同居を続けており、猪の処理を済ませてその家に戻った。眠っているであろうサラを起こさない様に、省吾は足音を立てない様に家に入り、ベッドへ目を向ける。


 月に照らされているわらが敷き詰められたベッドでは、サラが寝息を立てており、省吾はベッドに入らなかった。壁や床を怪我が治るまでに修復した省吾は、もう一つベッドを用意しようとしたが、サラがあまりにも嫌がる為、いまだに一つのベッドで寝ている。


 省吾はサラを起こさない様にと考えたのか、壁にもたれ掛る様に座り、自分で作った窓から月をぼんやりと眺めた。


……これで、よかったのかもしれないな。


 過去となった自分のいた時代を思い出していた省吾は、目蓋を閉じて眠っている時独特の呼吸に変わる。


「あっ……いへへっ」


 省吾が眠ってしばらくたった頃、サラが目を覚まして笑い、ベッドから起き上がった。そして、省吾の隣に座り、そこでもう一度眠り始める。数か月の生活で、サラと眠る事が当たり前になってしまった省吾は、全く反応せずに朝日が出るまで目を覚まさない。


 人間にとっての幸せとは、その顔が違うように千差万別であり、電気もガスも水道もない生活を、幸せに感じられない者もいるだろう。また、農業だけでなく狩猟を行わなければ生きていけない、限りなくその日暮しに近い生活に不安を持つ者もいるかもしれない。


 それでも、お金や権力ではなく、人の心を重要だと考える省吾にとって最高といっても過言ではないほどの、幸せの時間だった。強い意志で前に進む事の出来る省吾ではあるが、元来の気質は優しいものであり、村で暮らすその姿こそ真実の一つなのだろう。


 だが、人の心を理解しようともしない残酷な現実は、運命の歯車を静かに回し続けていた。


 その歯車は動力から受け取った力を次の歯車へと伝え、大きな文字盤の前にある針を動かしていく。そして、三つある針の中で、一番長い針が三百六十度の回転を終え、太く短い針がゆっくりと動く頃、隙を見せた馬鹿な人間に絶望が手を伸ばす。


……んっ? もう、朝か。


 森の生い茂る葉の隙間から差し込んだ、朝日の光と熱で目を覚ました省吾は、絶望が世界に響かせている含みのある笑い声に気が付いていない。


「うん? あれ?」


 自分の隣でサラが眠っている事に気が付いた省吾は、自分の勘が鈍りつつあるのではないかと息を吐く。その省吾の肩に頭を預けて眠っていたサラは、振動により目を覚まし、顔を手で擦ってからすぐに笑顔を作る。


「おはようっ! へへっ! おはよう!」


 朝から耳元で叫ばれた省吾は、眉間にしわを寄せながら返事をしないと、サラが叫び続けるのだろうと考えていた。


「お、は、よ、うっ! お! はっ! よっ……」


「分かった。おはよう。もういいから」


 省吾の声を聞いたサラは、いつもの様に屈託のない顔で笑い、大好きな家族に抱き着く。


「えへへへへぇぇ!」


 自分の胸元にある頭を撫でている省吾は、それをしないとサラが朝の活動を開始しないと知っており、黙って相手の気が済むまで待っていた。


「エース! ちゅう!」


 サラの知能レベルはあまり高くないが、肉体的には成人していてもおかしくない程成長しており、遺伝子を残したいという本能もあるらしい。その為か、アリサ達の話を聞き、胸を押し付けてキスをねだる等、サラなりのアピールを省吾に続けていた。


 ごく普通の健康な男性であれば、特別な理由でもない限り、そのサラに喜んで応えただろう。しかし、そこにいるのはその本能があるのかさえ微妙といえる、ちょっと馬鹿な省吾であり、サラの願いは叶わない。


「ほら、朝食にしよう」


 サラのおでこに軽い口づけをした省吾は、サラの腕を掴み、自分だけでなく相手も立たせた。


「いぃやぁぁ! くぅぅちぃぃぃ!」


「顔を洗ってこい」


 省吾に背中を押されたサラは、渋々水の溜めてある大きな桶へ向かい、教えられた通りに顔を洗う。そして、猫や犬の様に首を左右に激しく振って水気をきると、朝食を食べる為に暖炉のある部屋に戻って椅子に座った。


 その椅子と、四角い机は、省吾が全て手作りで組み立てた物で、既製品ほど綺麗な作りではないが強度は十分にある。


「先に食べてていいぞ」


 サラが椅子に座ったのを見て、省吾は桶のある奥の部屋へと向かい、自分も朝の準備を済ませた。


「ふぅ……」


 暖炉とベッドのある部屋へ省吾が戻ると、サラはよだれを口いっぱいに溜めながら葉っぱに乗せた食事を見ていた。本能に従って生きているサラではあるが、何も分からない訳ではなく、省吾と一緒に食事を取った方がおいしいと知っている。


……先に食べてもいいんだがな。


「じゃあ、食べよう」


 省吾の合図を聞いたサラは、待っていましたとばかりに干物になっている魚を手で掴み、勢いよく頬張る。


「やけどするなよぉ」


「うぅぅっ!」


 日持ちのする干物にしたその魚は、省吾が暖炉の火であぶってあり、骨まで噛み砕く事が可能だ。サラはその魚に頭から噛みついており、十分な咀嚼もせずに飲み込んでいく。


……さて、どうするかな。


 前日に作っておいたマッシュポテトを、木製のフォークで口に運んでいる省吾は、目を細めていた。それは、食事をぼろぼろとこぼすサラについて考えている訳ではなく、暖炉について悩んでいるのだ。


……流石に知らないしな。


 暖炉に火をつける方法について、省吾は悩んでいる。ライター等が無い為、村で火を起こすには毎回それなりの手間がかかっていた。省吾はその部分を、自分の持っている知恵で解消できないかと考えており、食事の速度が遅くなっている。


 戦場で数えるのも面倒なほど色々な経験をした省吾は、ヘリや戦闘機の操縦も可能であり、潜水艦や空母でもすぐに乗員として働けるほどだ。その経験は省吾を兵士としてスキルアップさせただけでなく、空軍や海軍所属の友人を増やし、その友人達から無駄ともいえる知識を教わる結果となった。


 堀井もそうだったが、何かを教わる場合の省吾は素直で飲み込みも早く、教えたいと思わせるタイプの生徒になる。どんな小さな事でも感心して身に付けてくれようとする省吾に、所属の違う友人である兵士達は我先にと雑学等を披露したのだ。


 その兵士達の中に料理を得意とする者がおらず、省吾は料理を作る事があまり出来ないが、干物の製造法などは知っている。かなり偏った知識をではあるが、省吾からもたらされたその知識により、村の生活をかなり向上していた。


 元々村人達は、ノアに狩り立てられて仕方なく森で暮らすようになった、都会に住んでいた者達だ。その為、森の中で代々生活をしてきた民族程は、生きる術を知らず、なんとか幾つかの農作物の育成を成功させるのが限界だった。


 省吾が持っていた知識は、森で昔から暮らしていた者ならば、知っていて当然の事がほとんどだったがそういった背景で役に立ったのだ。


……たいまつは作れるが、効率が悪い。日本の炭なんて、全く作り方が分からないしな。もっと本を読んでおくべきだった。


「あうぅぅ」


……うん?


 情けない声をサラが出した為、省吾は視線を暖炉から移す。そこには、一度くわえた魚を、ゆっくりと口から出すサラの姿があった。


……ああ。


 省吾があまりにものんびりと食べていたせいで、葉っぱで出来た皿の上には、魚が無くなっていたのだ。最後になる干物を口にくわえてから、サラはその事に気が付き、食べたいという欲求を我慢したようだ。


「んっ! あげうっ!」


 口からだし、歯型と唾液のついた魚の干物を、よだれをたらしたサラは省吾に突き出した。


……いや、もう一度焼けばいいだけなんだが。


「もう一度焼くから、食べていいぞ」


 省吾の言葉を聞いても、サラは首を左右に激しく振るだけで、魚を掴んだ手を引かない。


「んんっ! これぇぇ!」


……純粋な分、頑固なんだよな。


 仕方なく干物を受け取った省吾は、それをくわえながら桶のある部屋に向かい、熟成させようとしていた果物を二つ掴む。


「ほら、これでも食べろ」


「あはあぁぁ!」


……早く済ませよう。


 サラが果物にかじりついている間に、省吾は最高速度で食事を噛み砕いて、胃に流し込んだ。そして、片づけを済ませると、村人達が集まっている開けた場所にサラと向かった。


「あっ! 兄ちゃん! あれ、兄ちゃんがやったんだろ!」


 開けた場所では、夜に省吾が仕留めた猪の解体作業が進められており、肉のブロックが配られていた。


「運が良かっただけだ」


 悪戯をしてしまいそうなサラを後ろから捕まえている省吾は、駆け寄ってきたジョンに返事をする。


「やっぱ、兄ちゃん、すげぇなぁ。僕にも狩り教えてよ」


「この間、罠の作り方は教えただろう?」


 省吾の狩猟は、原始的な仕組みの罠を使い、風の流れや音を立てない様に気を付けただけの基本的なものでしかない。その基本でしかない狩猟の成功率が高いのは、単純に省吾の気配を消すレベルや、身体能力が高いだけだ。


 隠す理由が無い省吾は、それをすでに教えているのだが、まだ幼いジョンは納得していないらしい。


「あんなのじゃなくて、あの……こう……。もっと、凄いの! 教えてよ!」


「そんなものはない」


 自分の腕の中で暴れるサラと、駄々をこねるジョンを前に、どうしようもない省吾は遠い目であさっての方向を見る。


「なあ、兄ちゃんってぇ! 頼むよぉ。誰にもいわないからぁぁ」


……そんな方法があれば、俺が聞きたい。


「もうっ! また、お兄ちゃんを困らせてる!」


 省吾達のやり取りに気が付いたアリサは、三人に近付いて少し不機嫌な顔を作り、ジョンを睨んだ。


「もおぉぉ、なんだよぉ。もおぉぉ……」


 年齢が一つ上であるアリサは、日頃からジョンが本当の弟であるかのようにふるまっていた。そのような態度をとるアリサを、ジョンは煩わしく感じており、説教を始められる前に省吾にからむのを止める。


 だが、不機嫌な顔をしていた二人は、すぐに表情を明るくすると、昼食に肉が食べられると喋り始めていた。


……仲がいいのか、悪いのか。


 薬や医療が整っていない村では、死産や赤子の病死も多く、十五才未満の子供はアリサとジョンの二人だけで、親友とも姉弟ともいえる関係なのだ。その絆が簡単には切れない二人の間に、恋愛感情があるのではないかと考える村人もいるが、ジョンの思考が幼すぎる為、そういった関係にはなっていない。


 ジョン以外に大人しかいない環境で育ったアリサは、十才にしては早熟な恋愛の知識を持っているらしいが、それを披露する場は村にはないのだ。省吾が村に来た当初、アリサは意識していたようだが、サラとの関係を毎日見せられて気持ちを整理した。その事を知っているのは当人のアリサだけであり、省吾だけでなく村人の誰一人として気が付いていない。


「あれぇ! あれぇぇ!」


「ああ、猪だ」


 サラは省吾に後ろから強い力でつかまれているが、不快には思っていないらしく、解体されている猪を指さして嬉しそうに笑っていた。


「でへへへっ! いしししっ!」


「違う、猪だ。い、の、し、し」


……今、食べ終わったばかりなのにな。


 焼いていない血の滴る肉も、サラには食料として認識できるらしく、口によだれを溜め始めている。サラは、自分を掴む省吾を引っ張ってでも、猪に近付こうとしていた。省吾にもし腕力が無ければ、振りほどかれていただろう。


「危ないから、手を出すなよ」


「うんっ!」


……やっぱり、心配だ。


 根負けした省吾は、腕の拘束から解放されて走り出したサラの後を追った。そして、猪の前に座り込んだサラが、余計な事をして怪我をしない様に隣で中腰の姿勢を取る。


「ふんっ! こんな脂っこい物……。あたしに早死にしろってのかい?」


……相変わらずだな。


 列に割り込みをして、解体作業をしていた男性から肉を奪い取ったゾーイは、いつもの様に文句をいっていた。それに慣れ始めた省吾は、顔色を変えずにサラの監視を再開する。


「おっ! 待ってたよ。ほいっ!」


 猪を解体していた上半身裸の男性が、葉っぱと草のひもで持ち運べるようにした肉を、省吾に差し出した。それは、適度な脂肪がのり肉質が軟らかい部位で、気を使った村人が省吾の為に取っておいたものだ。


「気を遣わなくても、よかったんだがな」


 少し困った表情になった省吾に、満面の笑みで汗を腕で拭った男性は首を横に振って見せる。


「あんたが仕留めた獲物だろ? それに、サラちゃんも喜ぶって」


「へへぇぇ。いしししぃ!」


……ありがたい。


 剥ぎ落した猪の毛皮を指でつつくサラを見て、省吾は作業をする男性達に、無言のまま頭を下げた。それを見た村人の男性達は、何故か顔を赤くして、照れ笑いを浮かべながら手を左右に振る。


「おっ! おいおい。止めてくれよ」


「礼をいいたいのは、こっちだぜ?」


 肉の配分を待っていた列を作っている他の村人達は、割り込みをしたゾーイを見て顔をしかめていた。しかし、作業をしていた男性達と同じように、表情を笑顔に変えて省吾に向ける。


 狩猟による食料だけでなく、知恵による色々な恩恵を村にもたらした省吾が頭を下げた事は、それだけの効果があるらしい。


「なんだい……。ずいぶん多く貰えるんだねぇ。ああ、羨ましい」


 村人達が笑顔浮かべた和やかなムードは、ある女性の発言により一瞬でひびが入り、頭を上げた省吾は眉間にしわを寄せた。


「おいっ、ゾーイさんよぉ……」


「二人分と一人分の違いだろうが。それに……」


 ついに文句が噴き出し始めた村人達と、ゾーイの間に立った省吾は、無言のまま首を左右に振った。


 猪の肉は村人全員で均等に分けており、一人分はお世辞にも多いと表現出来る量ではない。その為、省吾が獲物をしとめた権利を主張しない事を、村人達は本当にありがたいと思っていた。


「まあ、あんたがいいなら……」


「私達は……。ねえ?」


 貧乏くじを常に自分から引き受ける省吾の意思表示に、村人達は怒りを飲み込んだ。そして、もう一度省吾が頭を下げた事で、その場は穏便に収まった。


……争いなんて、無いに越した事はない。


「えへぇ! お肉? お肉、食べる?」


 溜息をついた省吾に座ったまましがみ付いたサラは、屈託のない笑顔で葉っぱに包まれた肉のにおいを嗅いだ。


「まだだ。これは、後で食べるんだ」


「いつ? いつ、食べる? いつ?」


 野菜や果物よりも魚や肉を好むサラと、省吾はそのやり取りを毎回行っていた。その為か、省吾はサラのあしらい方が慣れ始めている。


「これは、昼に食べよう。おいしく焼いてやるから、生のまま食べるなよ」


「うん! サラ、食べる! いへへっ!」


 省吾は恋愛的な意味で人を好きになった事がなく、自分に寄せられる女性からの好意を正確に把握出来ない場合が多い。それでも、本当の馬鹿では無い為、人々が醸し出す雰囲気を省吾なりに読み取っており、気を使う事も出来る。


 村人達の表情から申し訳ないといった感情を読み解いた省吾は、猪が解体されている開けた場所から、家へと戻った。そして、肉を奥の部屋に置いて、仕事の準備をする。


「遊ぶ? どこ? どこ行く?」


 省吾が竹で作ったかご等を用意し始めた為、サラは落ち着きなく家の中をうろうろと歩き始めた。サラは省吾と一時でも離れたくないらしく、仕事に向かおうとする雰囲気を察知すると、その行動に出てしまうのだ。


 そのサラは、毎回省吾に説得されるとうなずいて留守番をするが、表情をあからさまに暗くする。


……今日は、大丈夫か。


 その日も置いて行かれるのだろうかと、不安を全身で表現していたサラに、省吾は顔を向けた。


「今日は、一緒に行こう。ただ、仕事の邪魔はするなよ」


 森へ入っての狩猟ではなく、川へ魚を捕獲する為に向かおうとしていた省吾は、サラを連れて行っても問題ないだろうと考えたのだ。


「行くぅぅぅ! サラ! 行くっ!」


 省吾から予想外に嬉しい言葉を聞いたサラは、家の中でとびはね、喜びも全身を使って表現している。


「うおわぁ!」


「どうしたの? お姉ちゃん?」


 省吾がいる家に入ってきたジョンは、慌ただしく動いていたサラとぶつかり、それを見たアリサは首を傾げていた。


「えへへぇぇ。一緒! 行く!」


 サラからの説明を聞いたアリサは、その意味が解読できず、首の角度をさらに大きくしていく。


……分からないだろうな。もし俺がアリサの立場でも、分からない。


「川へ漁に行くんだが、サラに水浴びもさせたくてな。連れて行こうと考えている」


 首の傾きをなくしたアリサは、首を縦に数回振った。そして、抱えてきた果物を、省吾に差し出す。


「あっ、そうだ。あの、これ。お父さんから」


「助かる。いつもすまないな」


 木製のもりを壁に立てかけた省吾は、アリサから果物を受け取り、奥の部屋へと置きに向かった。アリサの父親は、農業をしている村人達の纏め役をしており、それが肉の礼なのだろうと省吾はすぐに理解したらしい。


 大事な子供であるアリサとジョンに、村の住人は重労働をさせようとはしない。だが、厳しい環境の中で遊ばせ続ける事も出来ず、二人は森の中で薪拾いや食べ物を採るか、大人達からのお使いをこなしていた。つまり、省吾とサラに農作物等を届けるのは、アリサとジョンに与えられた仕事なのだ。


……うん? ああ、なるほど。


「サラの遊び相手として、二人ともついて来てくれるか?」


 ジョンとアリサが、もじもじと何かをいいたげにしている事に気が付いた省吾は、川に行こうと誘った。川は子供達だけで向かうには危険が多く、村には井戸が掘られている事もあり、二人は気軽に川へ向かえないと省吾は知っている。


「いいの? やったあぁ!」


……二人なら、サラを見張ってくれるだろう。


 遊ぶ事しか考えられなくなった省吾以外の三人は、家から勢いよく飛び出した。


「あ、あの! お父さん達にいってくるね! ちょっと待ってて!」


「あっ! 僕も! 待っててね!」


 家を出た所で、少しだけ冷静さが残っていたアリサは畑へと走り出し、ジョンもそれに続く。


「いへぇ! どこ? どこ行く?」


「止めろ。かごが壊れる」


 省吾の背負ったかごの網目を掴んだサラは、そのかごにぶら下がる様に座りこんだ為、仕方なく省吾は注意する。


「あいっ! えへへぇぇ!」


 少し強い口調で注意されたサラだったが、省吾と一緒にいられることがよほどうれしいのか、笑顔を崩さない。そして、今度はかごではなく省吾の腕に絡みつき、頬ずりをし始めた。


「いっぱい! いっぱい、遊ぶ! サラ! 遊ぶ!」


……まあ、俺は仕事で、遊ぶ暇はないんだがな。


 サラの精一杯である気持ちのこもった愛情表現を、省吾はあっさりと心の中で斬って捨てる。ただ、馬鹿であって馬鹿ではない省吾は、空気を読んで考えを口に出さないが、それが正しいとは言い切れない。


「エース! ちゅう!」


 腕を力いっぱい抱いて口を尖らせたサラを引き摺りながら、省吾はいつもの様に力強く歩き始める。それは、笑顔のアリサとジョンが視界に入ったからであり、省吾は既に仕事の事しか考えなくなっていた。


「いいぃぃやああぁぁん!」


「お姉ちゃんどうしたの?」


 サラは腕を掴んだまま両足で踏ん張っているが、限界を超えなくても脚力が一般人の比ではない省吾を止められない。


……本当は知っているが。


 省吾は自分を見上げるアリサから目を逸らし、緑がまぶしい木の枝を見つめた。


「さあ、知らないな」


「ふぅん。そうなんだ……」


 基本的に真面目である省吾だが、面倒事は避けたいと考えるタイプの人間であり、自分の納得できる理由さえあれば、平気で嘘をつく。何事にも表があれば裏がある様に、自然な人間の姿ともいえるのだが、日頃は真面目な面しか見せない省吾のそれに気が付いている人間は元の時代でも少なかった。


「いいいいっ! うぅぅん!」


 服だけでなく靴も省吾により新調されたサラは、裸足ではない為、以前よりも踏ん張って抵抗する力が強くなっている。それでも、いくら顔を赤くしようが、全身をつかおうが、脳が仕事モードの省吾を止める事は出来ない。


「お? 今日は川かい? 頼んだよ」


 畑仕事をしていた村人達が顔を上げ、省吾に声を掛けた。背負っているかごで、省吾が川に向かう事が、その村人達にも分かったようだ。


「はい」


「日干しにする時は、声掛けとくれぇ。手伝うからぁ」


 省吾が子供達を連れ、その隣でサラが戯れる事が当たり前の微笑ましい光景としか感じなくなった村人達は、四人を笑顔で送り出す。


「エース! いぃぃやぁぁ!」


……今日は粘るな。まあ、関係ない。


「兄ちゃんって、姉ちゃんに容赦ないよな」


 呆れ顔のジョンが呟いた言葉に、アリサは含みのある笑顔を作り、わざとらしい言葉を吐いた。


「やっぱりジョンは、子供ねぇ。お互いに心を許してるって、事じゃない」


 子ども扱いされた事にジョンは気分を害したが、口論になればアリサに全く歯が立たない為、むすっとした顔にはなったが反論はしない。


「あぅぅあっ! ちょちょっ!」


……ぬう? 蝶じゃないな。


「あれは、蛾だ。勝手に、森の奥に行こうとするな」


 省吾によって荷物であるかのように左肩で担がれたサラは、笑ったまま手足をばたつかせる。


「あははははっ! いひぃ!」


 事情を知らない者が見れば異様ともとれる光景ではあるが、それもれっきとした幸せの形だ。


 川に到着した省吾は、魚が逃げないように、サラを子供達に任せて距離を取る。当然ではあるが、三人が遊ぶのは底の浅い場所で、省吾が入ったのは足がつかないほど深い個所だ。


 木製のもりだけでなく、岩や縄を利用する省吾は、かごいっぱいの川魚を捕獲した。戦場とは違う勘の使い方ではあるが、人より感覚が優れている省吾は、魚を捕える事も得意らしい。


 驚くほど短い時間で漁を終えた省吾は、体温が低くなった三人を連れて岩塩を収集した。そして、川原で火をおこし、昼食ではなくおやつとしての魚を三人と食べる。


 省吾はいまだにうまく笑えないが、戦場にいた頃とは別人のように穏やかな顔になっていた。村へ帰り着き、昼食を済ませ、省吾にとっては漁よりも苦手な、干物作りに村人達と取り掛かる。


 のんびりと暖かい空気の流れる村の中で、日が沈むと同時に仕事を終えた省吾は服を脱ぎ、井戸の水で自分とサラの体についた汚れを落とす。そして、体を乾かしつつ夕食を済ませ、暖炉の火が消えると同時に月明かりの中で、ベッドへと向かう。


 虫の鳴き声を子守唄にして同じベッドで眠る二人は、これからの事を何も知らない。

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