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名無しのエース  作者: 慎之介
四章
31/82

 上空から見下ろせば大きな緑色をしたじゅうたんにも見える、木々が生い茂った森があった。


 崖や滝だけでなく、山や谷まで飲み込んでいる深く広いその森は、人の手を借りずに自然の力だけで今も自身を肥大化させている。木や草の一本一本が、種を繁栄させる為に生息場所を広げようと、絶え間なく胞子や花粉を飛ばしている為、広がるのも早いのだろう。


 森が広がっていくのと比例して、その森をねぐらとしている昆虫や動物も種の個体数を増やしていた。複数の種が思い思いに生きているその森では、当然のように生存競争が発生しており、生物達に理想的な楽園であって楽園ではない。


 人間がエゴを反映させた植物園や動物園のように、争いもなく生き物同士が生きられる場所は自然界ではあり得ないのだ。仲良く地面で並んでいるように見える雑草も、根を伸ばして隣に生えている草から栄養を奪っている場合や、自分以外の成長を阻害する物質を出している植物までいる。


 動きの少ない植物でさえ争っている森の中では、動物達も食物連鎖と呼ばれる闘争を繰り返しており、多くの命が消え、新たに誕生していた。一歩足を進めるごとに違う臭いが鼻をつき、肌に何かが触れるその森には、今雨が降っていた。


 大きな森である為、雨が全域に降っている訳ではない。だが、森よりも大きく空に広がっている灰色の雲は、太陽の姿を森の動物達から長時間隠していた。


 雨の降り続く森の中では、水を好む両生類達の声だけでなく、虫や哺乳類も賑やかに騒ぎ続けており、雨音をかき消している。それだけ水を嫌う動物達が賑やかなのは、空から降ってくる水量が少ないせいだ。一気に雲が雨に変わらないせいで、小雨が長時間続いているのだ。


 日頃、人間が薄着をしたくなるほど温度が高い森は、二日間降り続くその小雨のせいで肌寒く感じる程の気温になっていた。


……くそっ。


 森の中にあるけもの道で、木に寄りかかる様な形で目を覚ました省吾は、悔しさで歯を食いしばろうとしたがそれが出来ない。省吾が目を覚ましたのは数時間前なのだが、タイムマシーンの自爆によるダメージは深刻で、全く体が動かないのだ。


 骨が完全に折れている箇所や、流れ出る血が止まらない傷口を見ても、省吾が重症だと一目でわかる。


……くそ。俺は、また守れなかったのか?


 悔しさで心が壊れそうな省吾の脳内には、フランソア達国連の仲間以外にもケイト達能力者の顔が浮かぶ。


……何が、信じろだ。何が、守るだ。くそっ! 俺は、なんて馬鹿なんだ。何も守れていないじゃないか。それどころか、俺のせいで。


 既に表情筋すら動かせない程衰弱しきった省吾だが、悔しさから痛みをかき消すほど脳内分泌物が大量に流れ出している。それでも、か弱い人間でしかない省吾は、その状態からは何も出来ない。


 それから数分後、体の限界を超える程のダメージを受けている省吾の虚ろな瞳がついに閉じられ、脳の活動と心臓の鼓動が弱まっていく。その血を流し続ける省吾から、まだ降りやまない雨は容赦なく体温を奪い続け、死を与えようとした。


……ちくしょう。俺は。


 意識を失った省吾は、夢を見た。とても暖かい夢だ。その夢の中では、死んだはずのマークや仲間が食卓を囲み、フランソアやケイト達も笑っていた。


 夢でしかいその光景を見た省吾は、しばらく泣き出しそうな情けない笑顔を浮かべていたが、その食卓へ背を向ける。そして、怒っていると思えるほど真剣な顔を作り、いつの間にか握っていた銃の安全装置を外した。


 その省吾は、泣きたくなるほど暖かい場所に、真っ黒な闇そのものといえる何かが迫っていると知っており、戦おうとしているのだ。


……うおおぉぉぉぉ!


 トリガーを引きながら闇へと単身で突撃した省吾の夢は、そこで中断され、現実の肉体が目蓋を開いた。


……夢か。ここはどこだ?


 きちんと開けたのは左目だけで、右目は目蓋がほとんど開けず、無理に開こうとすると刺す様な痛みが走った。状況が理解できない省吾は、天井ではないかと思える眼前を、ぼんやりと眺めている。


 その天井は木材で出来ているらしく、暖炉の火から発せられた揺らぐ光が、橙色に染めていた。


「ぐっ! あがっ!」


 体を動かそうとした省吾だったが、体中のいたる箇所から壮絶な痛みが走り、顔を歪ませた。


「はぁはぁはぁ……」


 省吾は頭を持ち上げようとしたのだが、数センチ浮き上がらせただけで、痛みから冷たい汗が噴き出している。痛みによりはっきりし始めた頭で、省吾はタイムマシーンの事を思いだし、先程とは違う精神的な苦痛を表情に出した。


 タイムマシーンの自爆により、ある意味で省吾は過去を守る目的は達成したといえるだろう。だが、苦しんでいたケイト達を救いたいとも本気で考えており、自分が映像を見ようといったせいで皆が死んでしまったかもしれないと歯を食いしばる。


「くそっ……」


 歯を食いしばるだけでも、激痛に耐えなければいけない省吾だが、体よりも胸の方が苦しいようだ。痛みを発しながらも何とか動く右手を持ち上げた省吾は、胸に空いた穴をふさごうとしたかのように心臓の上へ置いた。


 肉体的にも精神的にもぼろぼろになっている省吾は、目蓋を強く閉じて、痛みに耐える事しか出来ない。


……くそっ。


 あまりにも苦しい状況で、省吾の脳はその生存本能からか眠る事を選択し、主人を強制的に深い眠りへと落とした。再び寝息を立て始めた省吾は、胸に置いた自分の右手に怪我の手当てがされていた事に気が付かない。


 瀕死のダメージを受けている省吾の体内では、いつもの様に活発な肉体修復が行われており、徐々に炎症した個所が膨らみをなくしていった。しかし、眠っている間の呼吸が穏やかになると同時に、省吾の眉間には深いしわが刻まれ、寝汗の量も増える。


……また、守れなかった。


 レム睡眠へと移行した省吾の脳は、戦時中の記憶を整理し始め、主の見たくない光景を脳内で広げていた。戦闘機の落とした爆弾で建物が吹き飛び、炎に包まれた町で、その爆弾の影響を受けずに省吾は一人で佇んでいる。


 町の住人達は、伸びる手が生えた炎に足を掴まれ、どんどん炎の大きな口に飲み込まれていく。それを見た省吾は、なんとか人々を助けようと考えたようだが、手を伸ばすどころか体が全く動かない。その為、泣きながら助けを求める人々が、炎の中に消えていく光景をただ見つめることしか出来なかった。


 炎が生物の様に動くその光景は夢であり、現実が元になっているとはいえ、現実とは全く違うものだ。幼かった省吾は戦火の中で死んでいく人々を、炎に食べられたと感じた事があり、それが夢に反映されているのだろう。


……んっ? なんだ?


 鼻をひくひくと動かした省吾は、閉じていた目蓋を開く。そして、何かが焼けるにおいのする方向に首を回した。眠る前までほとんど動かなかった首は、多少の痛みを発しながらも動き、右の目蓋は八割ほど開く様になっている。


……誰だ?


 石で造られた暖炉の火を使い、黒く長い髪をもつ女性が、串に刺した魚らしき物を焼いていた。その煙が省吾に悪夢を見せたのだが、魚を焼く女性も、起きると同時に夢を忘れた省吾も分かっていない。


 声を掛けようかと考えた省吾だが、いつもの癖で周囲の状況や女性の観察を先に行い始めた。食事の準備をしているのではないかと推測できる女性は、省吾が目覚めた事に気が付いていない。


……あの肌は、東洋人か? 体毛が薄い。多分女性で間違いない。


 自分と同じ東洋人だけでなく、白人の肌も常日頃から見ていた省吾は、その女性を自分と同じ東洋人だろうと予測した。


……しかし、ここはなんだ? 床板の隙間から草?


 省吾は部屋の中を眼球運動だけで見回したのだが、ほぼ木材のみで作られており、壁や床は隙間だらけでプロが作った物だとは思えない。その建物を簡単に表現すれば、手才の不器用な人物が慣れない日曜大工で作ったのではないかと感じられる、みすぼらしい部屋なのだ。


……うん? あの服は。


 焼けていく魚を見ている女性は、ベッドに背中を向けて座っている。その為、横たわったままの省吾には長い黒髪が遮蔽物となり、女性の腕以外が見えなかった。


 しかし、女性が首筋に手を這わせることにより、遮蔽物となっていた髪に隙間が出来る。その隙間から、女性が身に着けた服を確認した省吾は、目を細めた。


 その女性は上半身にTシャツを着ているのだが、そのシャツは裾や襟がよれているだけでなく、何か所もほつれていた。また、肩と背中の部分には穴が開いており、全体が黄ばんでいる。


……あれは、元々白いシャツだった、のか?


 部屋の天井に電灯がついていない為、省吾は異次元から過去にでも飛ばされたのかと考えていた。だが、女性のシャツにかすれてはいるが科学的な印刷の後を見つけた省吾は、それほど昔にはいないのだろうと推測を修正する。


……山か森の中か? 好んで、自給自足をする者もいるしな。


 壁の隙間から見えた光景が、省吾に今いる場所を大よそ理解させ、ホームレスに助けられたのではないかという考えも捨てさせた。


「ふぅ……」


 周囲の確認を終えた省吾だが、動けない状況は変わらず、寝たふりをするか声を掛けるかという選択をしなければいけない。


……うん? これは、包帯か?


 悩んでいた省吾は無意識に右手を口元へ運び、その右手に包帯替わりらしい植物の葉が巻きつけられている事に気が付いた。そして、助けてくれた相手を恐れるのは失礼だと考えを纏めた省吾は、思考を次の段階へと移行する。


……東洋人か。中国語は喋れないしな。日本語? いや、英語がいいのか?


「あの……」


 省吾の声を聞いた女性は、首を痛めるのではないかという勢いで振り返り、大きく目を見開いていた。かわいい大きさの目と鼻を持っていたその女性は、少しだけ人よりも厚い唇の両端を限界まで引き上げ、両頬にえくぼを作る。


……なんだ? あれ? あれぇ?


 勘の鋭い省吾は、振り返って省吾を見つめる女性に、普通ではない何かを感じていた。


「えへっ……えへへへへっ!」


 床についた両膝だけで、気持ち悪いほど素早くベッドに近付いてきた女性を見ている省吾の眉間には、しわが出来ていた。


「起きた! 起きたあぁぁ! えへへへっ」


……この子。もしかして。


 女性は目を糸の様に細くして笑いながら、横たわる省吾の頬を指でつつき続ける。


「起きたぁぁ……いへへっ! 起きたぁ!」


 省吾の耳元でも、女性は声の音量を下げない。その為、省吾は耳の痛みで顔を歪めた。


……ぐっ! 英語は通じるようだな。


「痛い? どこ? 痛いどこ?」


 顔をしかめた省吾を見て、表情を悲しそうに変化させた女性は、勢いよく立ち上がり、部屋の隅に生えていた草を引きちぎる。そして、ベッドの前に滑り込む様に座ると、その草を省吾の口元に近付けていく。


「んっ! 薬! 痛くないになる」


……えっ? この雑草を食べろと? 食べても死にはしないだろうが、これは絶対薬じゃないぞ。


 顔をしかめたままの省吾を救ったのは、先程悪夢の引き金となった魚の煙だった。


「おい。焦げてるぞ?」


「あ……ああっ! ああああっ!」


 省吾が動かした指の先を追った女性は、持っていた雑草を投げ捨て、慌てて暖炉の前に戻る。そして、急いで火から離した、半分以上が炭化している魚のにおいを嗅いでいた。


……なるほど。こういう子なんだな。


 顔面に投げつけられた雑草を手で払った省吾は、串に刺さって焦げている魚を一本一本嗅いでいる女性を見つめていた。


……先に全部、取った方が良いんじゃないか?


 女性は一本目の魚は急いで火から離したが、二本目を抜く事よりも嗅ぐ事を優先しており、三本目の魚を抜く頃には、四本目と五本目の炭化が最終段階に達していく。更に、嗅ぎ終えた魚は床に無造作に置かれており、その光景を見た省吾は、魚の衛生的な面を心配していた。


……まあ、人それぞれだ。俺が口にするわけじゃないしな。


 重症の人間に焦げた魚は持ってこないだろうと考えた省吾の思い込みは、笑顔の女性により良くない形で解消される。


「ひへへっ! んっ! ごはん!」


……えっ? これは、俺の分ですか?


 五本の炭化した魚全てを省吾に差し出した女性は、屈託のない笑顔で省吾にゆっくりと歩み寄っていた。省吾も女性に悪気が無さそうな事は分かっているが、顔がみるみる引きつっていく。


……どうする?


 頭を急速に回転させた省吾は、突破口を探した。そして、苦し紛れに喉を指さして、声を出す。


「喉が渇いたんだが……」


 省吾の言葉が理解できなかったらしい女性は、魚を持ったまま首を傾げ、不思議そうにしていた。


……えと、なんていえばいいんだ?


「あの、水をもらえないか? 喉が……」


 水という言葉に反応して笑顔に戻った女性は、魚を床に投げ捨てると省吾の視界から消える。そして、両手を器にして、水を省吾に差し出した。


……えっ? このまま飲めと?


「水ぅ! 飲んで!」


 体が動かないかを再確認した省吾は、溜息をつく。あまりにも屈託なく笑う恩人らしい女性に、省吾は文句をいえない。


「なるほど……」


……覚悟を決めるしかないようだな。


「えへへぇ……」


「うっ! えほっ! ごほっ!」


……ぐっ! こんなもの!


 女性の手から直接飲んでいた水が、気管と鼻にまで入った省吾は激しく咳き込む。それは、省吾を手助けしようとしたらしい女性が、自分の手を急激に傾けたせいだ。


「あっ……ああ……ああう」


 咳き込んだ振動で、省吾の全身に激しい痛みが走った。苦しむ省吾を見た女性は、今にも泣き出しそうに狼狽し始めてしまう。


「大丈夫……大丈夫だ。ありがとう」


 叫び出したいほどの痛みを、省吾はその強い意志で無理矢理抑え込み、女性にうなずいて見せる。


「大丈夫? 大丈夫ぅ! いへへっ!」


……ああ。大丈夫だ。こんな痛み、なんでもない。


 笑っては顔を覗き込む行動を何度も続ける女性に、省吾は首の痛みを気にせず、何回でもうなずいて見せた。


「あっ! あっ! ごはん!」


「頂こう」


 女性は、思い出したように床に落としていた魚を拾い、省吾へ差し出した。その苦い墨に変わった魚を、省吾は目を閉じて咀嚼し、喉の奥へと流し込んだ。


……あ? あれ? 目蓋が?


 体の回復に血流の大半を向けていた省吾の体は、食事により胃腸周辺にもそれを回してしまう。それにより、脳へ向かわせる血が少なくなった省吾は、急激な眠気に襲われて目を開いていられなかった。


……俺は、なんて弱いんだ。誰も守れない。誰も。


 全身のダメージで発熱した省吾は、再び悪夢を見てしまい、寝顔が苦痛にゆがむ。だが、そんな省吾の寝顔が、徐々に安らかなものへと変化し、寝息も安定し始めた。


……なんだ?


「いい子……いい子……」


 眠りの浅くなった省吾はうっすらと目蓋を開き、自分の頭を胸に抱え、あやすように撫でている女性の姿を見た。戦場での経験から、眠っている間の外部刺激には敏感な省吾だが、何故かその女性に抗議する気にはなれなかった。


 日頃は不快に感じるかもしれないその女性がとった行動に、胸の奥がじんわりと暖かくなった省吾はもう一度目を閉じた。そして、人生の中で経験した事が無いのではないかと思えるほど、満たされた眠りに全てを委ねる。


……マーク。俺は、弱い。でも、まだ諦めない。人を、守りたいんだ。


「絶対だぞ? 楽しみにしている」


 省吾の脳に、親代わりだったイギリス人男性に続いて、少しだけ若いフランソアが現れた。


「人間は、誰しもが幸せになる為に生まれてきたの。苦しむためじゃない」


……先生。俺は、まだこんなにも弱くて、情けないです。


「貴方の出来る限りでいいの。やってみなさい。見ててあげるから」


……はい。貴方達に恥じない俺になって見せます。必ず。必ず。必ず。


 打ちひしがれていた省吾の心が立ち上がると同時に、ただでさえ早い回復速度が、更に増していく。それに伴って、活性化した細胞がエネルギーを変換する際に出す熱も、上昇していった。


「いい子……いい子……暖かい……」


 気温の低下が一切防げない家の中で、省吾を抱きかかえていた女性も、頭を撫でていた手が止まり、寝息を立て始める。


 静かな雨音と生き物の騒がしい声の中で、限界まで傷ついていた省吾の体は、主が活動可能なレベルまで回復していった。


 夜が明け、省吾の体が急激な回復を一時的に停止したところで、深い森を覆っていた雨雲に変化が起こる。雨が降りやみ、しばらくして雲間から差し込んだ朝日は、自然の神秘的な景色を作り出していく。


「サラ姉ちゃん? 本当に目を覚ましたの?」


「いへへぇぇ」


……俺はどれだけ眠っていた?


 誰かの喋る声が耳に届いた省吾は、目蓋を開いた。そして、声の聞こえた方向へ、顔を向ける。


「うわぁ!」


 ベッドを覗き込んでいた白人の少年が、突然活動を再開した省吾を見て、その場にしりもちをついた。


「ああっ! ああああっ! いへへへっ!」


……かなり回復できたか。


 腰を抜かしている少年と、恩人である女性を危険ではないと判断した省吾は、体の状態を確かめる事に集中する。


……右腕は無事か。下半身まで感覚は正常。左腕は、駄目だな。指は動くが折れている。


「起きたあぁぁ! 起きた! 起きたああぁぁ!」


 ゆっくりと上半身を持ち上げた省吾は、ひびのはいった肋骨の痛みで顔を険しくする。


……内部的なダメージは、分からないな。右足は、折れている? 亀裂か? 左足は打撲だけだな。


「痛い? どこぉ?」


……近いな。


「大丈夫だ」


 心配そうに顔を近づけてきた女性に、もう草を差し出されたくない省吾は、素早く返事をした。


「えへぇぇ! 大丈夫ぅ!」


 その返事を聞いた女性は、歯が見えるほどの笑顔を作り、腰を抜かしていた少年の手を取ってぐるぐると回転を始める。


「あはははっ!」


「姉ちゃん! うわっ! 危ないって!」


 足を取られる場所の多い床の上で、少年と女性は両手を握り合い、遊園地のコーヒーカップを思い出させるようにまわり続けた。


「あはははっ! ジョン! 大丈夫、なに?」


……意味が分かってなかったのか?


「うわああぁぁ!」


 床の隙間で転んだ女性に引っ張られたジョンという名の少年は、そのまま女性の上に倒れ込んだ。


「あははははっ!」


……うん? 裸足?


 壁の隙間から差し込んでいる日光で、省吾は建物内や女性の姿がはっきりと見えた。


 眠る前の省吾は怪我のせいもあり、朦朧としていた為気が付いていなかったようだが、ベッドも布団ではなくわらが敷き詰められている。女性はぼろぼろのTシャツと、膝までのズボンをはいており、靴は履いていなかった。


 その地域に靴が無いわけではない事が、少年の履いている木製のサンダルで分かる。また、少年が身に着けているシャツやパンツは、簡素で近代的なものではないが、女性の身に着けているもののようにぼろぼろでサイズが合っていない訳ではない。


……手作りの服か? やはり、あの女性の服が特別なのか。


 省吾が見回した六畳ほどの広さがある建物は、大きな木の葉で扉が作られており、奥にもう一部屋あるようだ。


……あっ。そういえば、雨は降りこんでこなかったな。


 ベッドから天井を見上げた省吾には、その天井の板も隙間だらけである事が分かった。


……日光も差し込んでいないな。屋根には、特別な加工がしてあるのか?


「もう! サラ姉ちゃん!」


「えへへぇ!」


……サラ? 彼女はサラというのか。


 省吾がベッドからどう降りるか悩み始めた頃、大きな葉で塞がれていた建物の出入り口が開き、少女が入ってきた。その少女は、少年と同じ白人種ではあるが浅黒い肌と黒く濃い体毛を持っており、祖先は中東地区かインド付近にいたであろう事が分かる。


「何してるの? 二人とも?」


 起き上がろうとするジョンに、転んだままのサラがちょっかいを出し続けており、二人とも立ち上がれていない。


「ひへっ。あぁぁ、アリサ」


 かごをもって入ってきたアリサという名の少女を見て、サラが勢いよく立ち上がり、省吾を指さす。


「えっ? 嘘っ! あの怪我で?」


 アリサは省吾の怪我がどれほど深刻だったかを知っていたらしく、起き上がっている事を驚いているようだ。


……サラは明らかに、黄色人種だし。英語圏? 環境は亜熱帯か? 駄目だ。地域の見当がつかない。


 建物の扉や包帯として使われている植物を、バナナの葉ではないかと推測している省吾は、首を傾げていた。人種や気候がちぐはぐ過ぎて、自分が地球上のどの付近にいるのかすら、分からないようだ。


「あの、大丈夫? えと、これ食べる?」


 アリサは、かごに入ったオレンジ色の果物を省吾に差し出した。


……臆さないか。


 大怪我をした相手を助ける事と、怪しむ事は別であり、よく分からない人間を少女が恐れてもおかしな話ではない。だが、アリサの目に恐怖がないと省吾は読み取り、比較的争いの無い平和な場所にいるのだろうと考えた。


「ありがたい。頂こう」


……パパイア? いや、なんだこれは?


 省吾が喉の渇きからかぶりついた果物は、パパイアに酷似しているが、種の形が違うものだった。その果物の名前を、省吾は知らない。


……うん?


「どうかしたか?」


 果物を食べる省吾を、アリサは口をぽかんとあけて眺めていた為、問いかける。


「あっ! ああ、ごめんなさい。お姉ちゃんが引き摺って来たときと、印象が違ったもので」


……まあ、瀕死だったからな。


「そうか。もう一つ貰っても、いいだろうか?」


「ああ、はい。どうぞ」


 回復により水分と体内の栄養素が不足していた省吾の体は、果物の糖分と水分を吸収し、潤っていく。


「ふっ! ぐっ……」


 果物を食べ終えた省吾は、三人の見ている前で、何とかベッドから起き出そうとしていた。だが、左腕と右足を痛めている為、ベッドの端に座るのが精いっぱいだった。


……さて、どうする? 立ち上がるのも難しいとはな。


「あはぁ! 遊ぶ? 何する?」


 サラは悩んでいる省吾の隣に座り、顔を近づけて笑う。


「悪いが、また後でな」


 省吾のいった言葉がよく分かっていないらしいサラは、笑顔で省吾が立ち上がるのを今か今かと待っている。だが、右足だけでなく肋骨や腰も痛めている省吾が、すぐに立ち上がれるはずもない。


……駄目だ、右足は完全に折れてる。


 それを察したらしいアリサは、少し待てと省吾に告げると、建物から走って出て行った。


「あの、これ使ってください」


 杖として使えそうな長い木の棒をアリサから受け取った省吾は、鍛え上げた右腕の腕力だけで、立ち上がる事に成功する。


「あはぁ! 立ったぁぁ! 立ったぁ!」


「おお、すげぇ」


 立つだけで拍手された省吾は、居心地の悪そうな表情を作り、ゆっくりと建物の外へと向かった。大きな葉で出来た扉をくぐると、日光の眩しさで目を細めた省吾だが、すぐにその光にも目が順応する。


 目をしっかりと開いた省吾は、自分が密林の中にある集落らしき場所にいると分かり、大きな溜め息を吐き出した。


……ここはどこで、いつなんだ?


「はぁぁぁ」


 サラが住んでいる家よりはしっかりと作られているが、その集落の家は全て木造だった。


……電気はきていないか。うん? 水道もなさそうだな。


 集落の中に井戸を見つけた省吾は、その地域の文化レベルがかなり低いらしいと考えている。


「おおっ! あんた! もう、いいのか?」


 集落の中にある畑で作業をしていた住民達が、タオルらしき布で汗を拭きながら、笑顔で省吾に近付いてきた。


「あ……ええ。ありがとうございます。助かりました」


「そうかぁ! よかったなぁ」


 中年の男性や女性は、省吾の回復を本当に喜んでいるようで、裏表のない笑顔を作っていた。


「ふんっ! 働けそうもないじゃないか」


 住民から暖かい歓迎を受ける中で、初老の女性だけが、省吾にきつい言葉を投げかけた。


「ゾーイさん。そんないい方……」


 中年の女性に反論されたゾーイという名の女性は、怒りで顔を赤くして省吾を睨みながら叫び始める。


「無駄飯食らいを増やしてどうすんのさ! この村には、余裕なんてないんだよ!」


……ぐっ! これは。ちょっと、きつい。


 省吾に続いて建物から出てきたサラは、ゾーイを睨み返して頬を膨らませた。そして、省吾の体調を無視して、両手で力いっぱい抱きしめる。


「いいのぉ! サラ、働くの! これ、サラの家族!」


「ふんっ! まったく……」


 サラの言葉を受け、住民達の冷たくなっていく視線を見て、ゾーイはその場から逃げ出すように歩き出した。


「あの、ごめんなさい。ゾーイさんも、悪い人じゃないんですけど……」


「いや。問題ない」


 アリサから謝られた省吾は、尚も自分に抱き着いているサラに目を向けて、口を開く。


「サラ?」


「何? 遊ぶ?」


 柔らかい口調ではあるが、省吾の眉間には深いしわが出来ており、額には冷たい汗が噴き出している。


「はなしてくれ。痛いんだ」


 信じられない程回復した省吾ではあったが、まだ重症と呼べる状態であり、余裕は全くない。


「へへぇ。いやぁ」


……なっ! 予想外だ。ぐうっ!


 サラは太陽の光に負けないほどの笑顔を作り、省吾の言葉で更に強く抱き着いてしまった。サラが腕に力を入れれば入れるだけ、目蓋を強く閉じた省吾は、顔を青くしていった。


「お姉ちゃん! お兄ちゃん、まだ痛いんだよ。ね?」


……ふぐっ! あがぁ!


 省吾の異常に気が付いたアリサが、サラを引きはがす。だが、その動作すら今の省吾には苦痛を与えてしまい、汗を流しながら背中を壁につけた。


「ああ……あううぅぅ」


 そこで初めて省吾の苦しみが分かったらしいサラは、両目に涙を溜めておろおろとし始める。感情がそのまま行動に出てしまうサラは、髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら、省吾から離れては近づく事を繰り返した。


「痛い……嫌……薬……痛い……ううぅぅ」


 それを見ていた村人達は、表情を変化させず、日頃からサラは同じような行動をしているのだろうと省吾にも分かる。


「大丈夫だから、落ち着いてくれ」


「ううぅぅ……」


 今にも涙がこぼれ出しそうなサラに、省吾は首の痛みをこらえて何度もうなずいて見せ、落ち着かせた。


「痛い?」


……この場合は。


「痛い……ないだ。大丈夫」


 省吾の言葉を聞いたサラは再び笑顔を作り、大声で笑いながら両手をいっぱいに広げて走り出す。


「あははははっ! 痛いない! 大丈夫! ひへへへっ!」


「ふぅ……」


 天真爛漫を全身で表現し、眩しい太陽光の元で走るサラを見て、省吾は溜息をつきながらも嫌な気持ちにはならなかった。優しい視線をサラに向ける省吾を見て、村人達も自然と笑顔になっており、暖かな雰囲気が周囲を包む。


……恩を受けた以上、何かを返さねばいけないが。状況の把握が先だな。


 省吾の心から不安が薄らいだところで、建物の陰から杖をついた老婆が、歩み寄ってくる。その老婆は、灰色と白が混じった髪を三つ編みにし、他の住人と同じ様にTシャツと少しサイズの大きな、丈の短いズボンを身に着けていた。


「あらぁ……。もう、立てるのかい?」


……うん? 誰だ?


「は……はぁ、まあ」


「あ、このおばあちゃんが、お兄さんの手当てをしたの。後、村長なのよ。ね? おばあちゃん」


……なるほど。彼女が最高責任者か。


 アリサに説明を受けた省吾は、何とか首だけではあるが頭を下げた。


「ああ、無理せんでええよ。本当に、回復したんだねぇ」


 省吾は、気遣ってくれる村長に、痛みをこらえて何とか礼の言葉を述べた。


「危ない所でした。貴女方は、命の恩人です。ありがとうございます」


「なに、気にせんでええよぉ」


……うん? なんだ?


 もじもじとしていたアリサは、少し照れくさそうに俯いたまま口を開く。


「あの……お兄さんの、お名前は?」


……この場合は。


「エースだ」


 省吾は敢えて戸籍上の名を隠し、国連軍等の説明をしなかった。その顔色を変えない省吾の、嘘ではない嘘に、気が付ける者はいない。


「エースお兄ちゃんか……。私、アリサ。よろしくね」


 照れながら笑ったアリサの自己紹介を聞いて、サラをぼんやり眺めていたジョンも省吾に顔を向けた。


「あ、僕、ジョン!」


 子供達に挨拶をされた省吾は、首以外がほとんど動かせない為、声のみで挨拶を返す。


「ああ。よろしく」


 サラを見つめていた村人達は、誰からともなく農作業へと戻って行った。それを確認した少し腰の曲がった村長は、省吾の顔を見上げて問いかける。


「さて、怪我の具合を見ようかね。歩けるかい?」


 走り続けていたサラが、子供達二人と遊び始めたのを見て、省吾は村長へ返事をした。


「はい」


 村長に誘われるままに、省吾は村の奥へと進んだ。


……俺はいったい、いつに飛ばされたんだ? どうなっている?


 いつもの様に歩きながらも周囲の状況を確認した省吾は、村の文明が驚くほどちぐはぐな事で首を傾げる。


 村の中には、近代的な柄が印刷されたシャツを着ている者や、ステンレス製ではないかと思える調理器具がちらほらと見えた。そして、プラスチック製品や、コンクリートではないかと思える壁も目に入る。


 しかし、ほとんどの建物が竹や木材で、ログハウスよりも簡素に作られており、ガラスの窓がある家も一件もない。また、建物の数がそれなりにあり、住人もそれに比例していそうな雰囲気は感じるが、店舗が全くないのだ。


 その驚くほど原始的な村の生活に、近代的な人工物が混じった環境を、省吾は正確には理解できず、混乱していた。


「さあ、ここだよ。遠慮せずに、入ってきなさい」


 村長の後を片足でひょこひょことついて行った省吾は、周りよりも少しだけ大きな建物の中へと入る。


 その省吾は、大きな運命の小さな歯車として、自分が巻き込まれているとまだ理解できていない。ただ、訳も分からない状況で、何かを掴もうともがき続ける。

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