参
大災害に巻き込まれた少年の両親は、その際に死んでいる。少年は、ユーラシア大陸のある国へ旅行に来ていた両親から、庇われるように抱きかかえられ、災害から生き延びた。その国の救助隊員に保護された際には、まだ赤子でしかなかった。
隊員が調べた両親の焼け残った荷物から、少年は日本人だろうと推測されたが、身分証明になる物は見つからなかった。正式な名前すら分からない少年は、かぶっていた毛糸の帽子に刻まれたAの文字から、そのままエーと呼ばれ続ける事となったのだ。不遇な少年は名前だけでなく、自分の正式な年齢や誕生日すら分かっていない。
「あ、あの、すみません」
ケイトは少年に嫌な事を思い出させたと感じ、申し訳なさそうに謝罪を口にした。自分が名乗るたびにこのやり取りが発生し、それを少年は面倒だと感じていた。少年の返答が詰まった一番の理由は、そこにある。
「物心つく前の話ですから、特に気にしていません」
少年は少しだけ明るくした表情を、ケイトに向けた。それを見て、ケイトは少しだけはにかみながら笑う。
「あ……優しい……んですね……」
ケイトはそれから少年に向かって、町へ来てからの苦労や嬉しかった事等の他愛もない話をする。少年は周囲への警戒を緩めていないが、ケイトの言葉に耳を傾けて質問された事に答えていく。
「若い様に見えますが、おいくつですか?」
ケイトは少年との会話が楽しいらしく、少しずつ声が大きくなり、思った事を全て口に出し始めていた。少年はケイトに目線を向けていないが、顔色を変えずに答えた。
「多分、十から十六ぐらいです」
少年の返答で、ケイトは自分が無神経な質問をしてしまったと分かったらしく、喋るのを中断した。そして、つい調子に乗り過ぎてしまった自分を、自分自身で戒める。
「本当にごめんなさい。私は……馬鹿です」
明るさの消えたケイトの声で、少年は顔を向けた。そして、自分の左隣で膝を抱えて座る女性が、再び顔を曇らせている事を確認する。
「あ、あの、さっきも言いましたが、気にしていませんから」
精一杯気を使った少年の言葉でも、ケイトの暗い顔は晴れない。少年は顔をしかめる。どのように説明すればケイトの気が済むのかが、すぐには思いつけないからだ。
気まずい雰囲気に、溜息をつきそうだった少年は、ケイトの理解できない行動でそれを飲み込む。ケイトは両膝の前で組んでいた両手を離し、右手を少年の左手にそっとのせたのだ。俯いていた顔を上げたケイトは、少年を潤んだ瞳で見つめる。
「へへっ」
声が聞こえ、教会の裏を見張っていた男性兵士は、正面へと気配を出来るだけ殺して回り込んでいた。そして、ケイト達のやり取りを見て少しだけ笑うと、自分の持ち場へと帰っていく。
兵士の顔は嬉しげであり、任務中に不適切な状況にある少年を責めるつもりは全くないらしい。少年と他四人の兵士が出会ったのは、一月ほど前の事だ。当初、若すぎる部隊長として着任した少年を、四人はあまり快く思っていなかった。
だが、戦闘の実力、作戦に対する実直な姿勢、的確な判断力等、今まで出会ったどの指揮官よりも優秀な少年を四人が受け入れるのに、時間はかからなかった。また、四人がファントムに襲われた際、少年は幾度も命懸けで救っており、命の恩人でもある少年を四人は心から信頼する様になっていた。
自分の持ち場へ戻って座り込んだ兵士は、笑ったまま月を見上げる。年上であるその兵士は、少年が現在置かれている状況が嬉しいようだが、それは当然なのかもしれない。その兵士だけでなく他の三人も、少年のある部分に対して不満というほどではないが、気になっている事があった。
そのある部分とは、少年の感情や思考についてだ。少年は若すぎるとも思える年齢から兵士として生きており、常識や感情に偏りがあるのだ。以前から四人は、移動中の車内で女性の話をする事が多かった。それに、少年は全く興味を示さなかった。
ある時、兵士の一人が同性への興味があるのかと茶化しても、真顔で無いと返事をした少年に四人は恋愛について思いつく限りの質問をした。結果として少年は初恋どころか、異性をそのような目で見た事すら無いと分かった。
人としても好意を持っていた少年に、四人は色々と異性に興味が出るよう知識を与えたが、その努力は実らなかった。そんな少年が女性といい雰囲気なのは、兵士達にとって喜ぶべき事らしい。他の三人にこの出来事を報告し、どんな顔をするかを想像してその男性兵士は声を出さずに笑う。
「私の両親も、私がまだ小さい頃に天へ召されました」
心を躍らせる教会裏の男性兵士と違い、少年の顔色は良くなかった。経験不足による動揺ではない。女性への興味が無い少年は、手を握られても心境の変化が全くなかった。
「小さい子供や弱い人が犠牲になるなんて、間違えているとは思いませんか?」
少年の顔色が優れないのは、機会を逸したからだ。ケイトが不機嫌にならないタイミングを見計らい、教会の中へ戻るように指示しようと少年は考えていた。だが、一度口を閉じた後に、重い話を始めてしまったケイトにそれが出来ないでいた。敵がいつ襲って来てもおかしくない状況で、空気を無視して中に戻れといい出すべきか少年は悩んでいるのだ。
「悲しみが溢れる世界なんて、誰も望んでいません。誰も……」
ケイトは今にも泣き出しそうなほど悲しく真剣な視線を、少年にぶつける。それを眉毛がハの字に変わり、眉間に皺を寄せた少年が見つめ返す。いつの間にかケイトは、少年の手を強く握っていた。
傍から見ればいい雰囲気に見えるかもしれないが、少年は色気のある事を考えている訳でも、ケイトに共感して悲しくなっている訳ではない。中に戻ってほしい胸中を願い出るきっかけを掴めずに、ただただ困っているのだ。
「えっ?」
少年に手を少しだけ強く握り返され、ケイトは全身をびくりと反応させた。そして、手に目線を落とし、高鳴る胸に空いている掌を添えた。
「え? え?」
頬を赤くしたケイトが少年の顔へと目線を戻すと、状況が掴めなくなる。少年の顔からは先程までの情けない表情が消え、目はよく研がれたナイフのように鋭くなっていた。
ケイトの手を引っ張るようにして二人で立ち上がった少年は、教会から続く道の先を睨みつけていた。光源が月しかなく、視覚の限界は低いが、少年には関係ないらしい。
「シスター。中へ」
「あの?」
「昼間の指示通りにお願いします」
無線で仲間に敵襲の知らせを出した少年を見て、ケイトもやっと状況が飲み込めたらしく、教会内へ急いで戻る。
「俺が先行で偵察に向かう。四人は、教会の四方を固めろ」
仲間からの返事を聞くと同時に、少年は敵の気配がする方向へ走り出した。本来、一キロ以上先にいる敵を正確に察知する事は、人間には難しい。だが、少年は超能力者であり、感覚が人のそれとは根本的に違う。
超能力は大別すると、テレパシー等の感覚器官を超えた超感覚と、サイコキネシスと呼ばれる物体に力を及ぼす二つに分かれる。少年は、その二つを強いとはいえないが同等程度に扱えた。そして、その超感覚を使い、既に敵の位置をほぼ正確に捉えていたのだ。大災害前に、その力が千里眼などと呼ばれていた事を、少年は知らない。
「ちっ! 誰も、いねぇなぁ」
「飯にありつけると思ったのによぅ」
三人の兵士らしき男達が、町の大通りを堂々と歩き、つばを吐き捨てる。
敵は国連以上に物資が不足しており、服装や装備が十分に整えられていない事が多い。三人がばらばらの服装である事から、国連軍ではないと判断できる。また、怪我をしている箇所が放置されており、戦場から逃げ延びたのだろうとも推測が出来た。
「誰だ!」
物音に反応した三人は、そちらへ銃を向けた。
「ふん! 犬か」
銃口の先には、痩せて肋骨の浮き上がった犬がいる。餌を求めて、町中をさまよっているのだろう。
二人は銃をすぐに下したが、一人だけ銃を構えたまま気持ちの悪い笑みを浮かべた。そして、引き金を引き三発の銃弾を発射した。銃声に混じり、犬の悲しそうな声が夜の闇に消えた。三人は命の尽きた犬を見て、にやにやと笑う。
かなりの距離を走ったにも関わらず息切れすらしていない少年は、気配を消して物陰からその光景をただ観察した。そして、三人の練度が低いと即座に判断する。そう判断した理由は簡単で、逃げている最中に辺りを警戒せず移動している事と、消音装置もなしに自分の居場所を知られる可能性がある発砲を、不必要に行ったからだ。
自分よりも弱い命を奪い、荒くれ者気分で笑う三人を、兵士である少年が脅威とは考えない。だが、子供達もいる教会へ、三人を捕虜としてでも近づけるべきではないと決断した少年は、迷いなく行動を開始した。
「ちょっと、待ってろ」
「うん? お、おう」
敵の一人が、路地裏へと向かった。そして、仲間達から隠れた場所で、ズボンのチャックを下す。羞恥心のある人間としては当たり前の行動だが、敗走中にそれがどれほど愚かな事かを、男は理解していない。
「うっ! うぐっ……」
背後から少年に口を押えられ、ナイフで喉を掻き切られた男はその場に崩れ落ち、小水の混じった血だまりを作る。
少年は手早く敵から武装を奪い、絶命したのを確認する。そして、呑気に煙草に火をつけた残り二人を建物の陰から見つめる。敵は二人とも警戒が薄く、遮蔽物の全くない道の中央に立っていた。
拳銃に少年が取り付けた消音装置から、空気の抜けるような音が二回鳴った。そして、道に立っていた二人は倒れ、そのまま動かなくなる。
少年は頭を的確に撃ち抜かれて倒れたその二人に近付き、死んでいる事を確認した。そして、素早く建物の陰へと死体を引き摺り、武装を奪う。
熟練兵士である少年は、まだ気を抜かない。周囲に敵が残存していないかを、常に建物に隠れながら確認する。少年はその人間離れした感覚で、すでに敵はいないだろうと分かっていた。だが、奢りからの慢心はしない。それがどれほど愚かであるかを、戦場で幾度も味わったからだ。
「ふぅ」
周囲の確認を終えた少年が、やっと体の緊張を少しだけ緩め、無線で仲間に報告をする。そして、周囲への警戒と見回りを続けながら教会へと向かう。
建物の陰に身を隠しながら移動する少年の速度は、道を真っ直ぐ歩くよりも少し速い程度だった。その移動速度が、徐々に速くなっていく。それは、言い知れない不安が少年を襲ったからだ。少年はその不安を、過去にも感じた事がある。
忘れる事の出来ない人物がいってきますといいながら扉を笑顔でくぐる姿が、少年の脳裏には蘇っていた。
孤児となった少年を育てたのは、救助隊員だった独身の男性だ。災害で家族を亡くしていたその男性は、少年に惜しみない愛情を注ぎ、我が子同然に育てた。少年に銃の扱い方や護身術の基礎を教えていたのも、元軍人だったその男性だ。少年にとって、大事な物の一つといえるのが、その男性とすごした時間だろう。
残念な事にその男性は、ファントムに殺されている。そして、その時に少年は超能力を覚醒させたのだ。少年が走り出した理由である不安は、父親と呼べる男性が最後に仕事へ出かけた時に感じたものと同じだった。
その時の幼い少年には、大丈夫といった男性を止められる力がなく、家の車庫で襲われた育ての親を守ることが出来なかった。しかし、今の少年には十分な力がある。だからこそ、全力で走り出したのだ。
敵を円滑に殲滅する為に行った少年の単独行動を、責める者は誰一人としていないだろう。未来が予知できる者は超能力者の中でも限られており、自分の望んだ先を見る力が発現している者に至ってはいないからだ。だが、結果から考えると、少年の作戦は失敗だったともいえる。超能力者は部隊に少年一人だけであり、敵への対応を仲間の四人に任せ、少年は教会に留まるべきだったのだ。
少年がいない間に、教会へファントムが侵入していた。天井の隙間から煙のように教会内部へ侵入した三体のファントムは、餌である人間に手を伸ばす。それに気が付いた者から悲鳴を上げ、逃れようと部屋の隅へ走った。悲鳴を聞いた兵士達が教会内へ入り銃弾を放つが、ファントムはそれを意に介さない。
五人の犠牲者が出た所でファントム達は、身を寄せ合って泣きながら震えている子供達に手を伸ばした。それを見た子供達の悲鳴にも似た泣き声が、より一層大きくなる。
それを見て真っ先に動いたのは、兵士達ではなかった。驚く事に、体の自由がきかなくなり始めていた町の老人達が、子供とファントムの間に両手を広げて立ちふさがる。
その老人達には自殺願望があるわけでも、怖くない訳でもない。中には、年のせいもあり小便を漏らしてしまう者も出るほどだ。だが、自分達の命よりも子供達を守れるだけの正しさと強さを、その者達は持っていた。そして、自分でも認識できるほどしかない老い先を、子供達の為に使う事を決断したのだ。
老人達の生気を吸うだけで、ファントムは満足しなかった。動かなくなった老人達の体を投げ捨て、他の人間へと手を伸ばす。だが、その命が稼いだ時間は、無駄ではない。大きな衝撃音と共に、少年の履いた軍用の鉄板が仕込まれているブーツが、教会の扉を蹴破っていた。
音に反応して出入り口を見た兵士や住民達の幾人かが、涙が流れるほどの喜びを感じた。それとは逆に、厳しい表情をした少年は持っていた機関銃を投げ捨て、敵に向かって真っすぐに走って行く。
その時無我夢中になった少年は、自分自身の変化に気が付いていなかった。それまでの少年が使うサイコキネシスには、数メートルの射程があるだけでなく、発光するほどの強い力はなかった。
それは、少年一人で三体と真っ向から勝負すると、勝率が半分以下になる程度の力だ。しかし、今少年の固く握られた右拳は、眩しいほどに輝きを放っていた。
「このおぉぉ!」
光を放つ少年の右拳が背中から直撃したファントムの一体が、原生林にすむ猿の遠吠えを思わせる奇怪な声を上げ霧散した。それを聞いたもう一体が、少年に向かって腕を振り上げる。
素早く脇を引き締め、両拳を構えた少年は、自分に振り下ろされる鋭い爪をギリギリで躱した。そして、目の前にあるファントムの脇腹に向かい、光る拳を振るった。
「くそっ!」
少年はファントムのとった予想外の行動に声を漏らし、すぐに歯を食いしばる。
知性があるらしいとしか分かっていなかったファントムだが、この時は兵士達が驚くほど的確に動いて見せた。自分の左腕を犠牲にして、少年の拳を止めたのだ。
そのファントムは、左肩部分までが霧に変わって消えた。だが、活動不能にすらならなかった。少年の体を薙ぐように振るわれたファントムの右腕は、人間の避けられる反応速度を超えていた。それでも少年が腕でガードできたのは、戦場で生き抜いて手に入れた非凡な力があったおかげだろう。
「こ……の……」
ファントムが人間に外傷を与えないのは、その力が無いからではなく、その必要が無いだけだ。肩を掴まれた人間が、どんなにもがいても振りほどけないほど凄まじい握力を持ち合わせている。
壁まで吹っ飛ばされた少年は頭から血を流し、ひびのはいった壁に背中をついたままずるずると崩れ落ちた。それを見たファントムは、少年に向かって歩き出していた。もうその少年を、恐れる事はないと感じているのだろう。仲間の兵士が、ファントムに向かって銃の引き金を引くが、止められるはずもない。
壁に叩きつけられた衝撃で、少年は全身を打撲し、脳震盪の症状に陥っていた。ぼやけた視界の中、少年にもファントムの接近は分かっていた。
だが、意識を繋ぎとめるのが限界で、足が反応せず、動き出す事が出来ない。さらに、意識が朦朧とし始めており、判断能力も低下していた。
そんな少年が、動く手で行ったのは、腰のホルスターから拳銃を抜く事だった。敵に銃を向けるのが少年にとって基本であり、正常ではない意識下でファントムに効果がないという事実が抜け落ちていた。乾いた一発の銃声と共に、少年の握っていた拳銃が教会の床を転がる。少年には、発砲の衝撃に耐えられるだけの握力すら残っていなかったのだ。
少年をかばう為に走り出そうとした兵士達の足が止まる。少年に眉間を撃ち抜かれたファントムが、苦しそうな声を上げて消滅したのだ。ファントムに銃の効果が無いと知っている兵士達は、混乱してしまう。
四人に高速で動く銃弾を目視できるはずもなく、少年の放った銃弾の変化に気付けるはずもない。四人の認識としては、発砲した際の光が少しいつもより強かったかもしれないという事だけだろう。
少年の拳に宿っていたサイコキネシスの光が、銃弾に移った事は少年すら分かっていない。だが、結果としてファントムを撃退する事に成功した。
事態が理解できず棒立ちになった四人の兵士は、少年を見つめていた。そして、もう一体ファントムが残っている事を、一時的に忘れてしまっていた。ファントムに捕まった子供の悲鳴でその事を思いだし、少年から視線を外した。
「ぐっ! ぐうっ!」
奥歯が欠けるほど歯を食いしばった少年は、前のめりに床へ倒れ込み、不自由なままの体を弱弱しくではあるが、むりやり動かしていた。震えながら伸ばした手の先には、先程落とした拳銃とファントムに捕まった子供が見えている。
少年はその子供を助ける為に、全ての力と思いで体を動かそうとした。だが、無情にも少年の思いに、体は応えてくれない。伸ばしていた腕すら力を失い、床へと落ちた。そんな少年に出来た事は、這いつくばったまま殺気を乗せた視線で敵を睨む事だけだった。
サイコキネシスの力を一段階レベルアップさせるという奇跡はもう使用済みであり、少年には何も残されていない。体中に激痛が走る中で意識を保っている事すら、驚くほどの精神力だといえるだろう。
徐々に薄れていく意識の中で、少年はファントムの腕を掴むケイトの姿を見た。そのケイトは、触れないはずのファントムの腕をしっかりと握っていた。そして、全身を眩しく発光させた。
ケイトの力でファントムが消滅したと分かった少年は、緊張の糸が切れてしまい、頭が床にごとりと落ちる。それが、少年の限界だった。少年は、そのまま夢も見ないほど深い眠りに落ちた。
「う……ん?」
日光による眩しさで目を覚ました少年は、ゆっくりと目蓋を開き、ぼんやりとした頭で状況を整理する。そして、ファントムとの戦いを思い出した少年は、大きく目を見開いた。
「えっ?」
「頭を強く打っているのよ。じっとしてなさい」
起き上がろうとした少年を、女性が押さえつける。少年は、その女性をよく知っていた。少年を抑えているのは、国連軍の制服を着た黒人女性だ。彼女は衛生兵であり、少年も幾度となくお世話になった間柄だ。
「あの、状況は? 皆は無事?」
頭に包帯を巻いた状態でも人の心配をする少年を、女性兵士が呆れたように笑う。その女性兵士は、少年の性分をよく知っているらしい。
「二時間前に、輸送用車両と私達援軍が到着したわ。ファントム三体以降の戦闘行為はなし。任務完了よ。今回も貴方のおかげで、被害は最小限になったわね」
「被害……」
「ファントムの犠牲は、全部で十一人。でも、それは仕方がなかったのよ」
女性兵士は、隠さずに少年へ犠牲者の数を告げた。少年には事実を受け止められるだけの強さがあり、隠すべきではないと考えたのだ。そして、眉間にしわを寄せて顔をしかめた少年の髪をなでる。
「仕方なかったのよ。貴方は、十分すぎるほど頑張った。だから、これだけで済んだの。私達は神でも悪魔でもなく人間なの。限界なんて知れているのよ。仕方なかったの」
少年を諭すように優しい声をかける女性兵士に、少年は反論をしない。ただ、気遣いに対するお礼の言葉を口にできるほどは心に余裕がなく、目と同時に口を閉じた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、よかった。神よ……」
女性兵士の声で少年の目が覚めたと分かり、駆け寄った同じ部隊の四人がその顔を覗き込んだ。声と気配でそれに気が付いた少年は、目を開き力なく息を吐く。まだ、自分の不甲斐なさに納得はできていないらしいが、仲間の気持ちは嬉しいようだ。
「シスターに助けられたな」
「はい?」
少年の言葉に、四人が眉をひそめる。
「いや、シスターケイトの超能力が覚醒したんじゃ……」
四人はお互いの顔を見合わせ、誰か意味の分かる者がいないかを確認していた。だが、誰一人として少年の言葉を理解できなかった。
「あの、ケイトって誰ですか?」
少年を見る四人の目は、少年を騙そうとしているようにはとらえられない。それどころか、一人は少年は正気なのかと女性兵士に本気で聞いている。
「一時的な記憶の混乱だと思うけど……。頭の精密検査が、必要かもしれないわね」
町の墓地へ犠牲者達が埋葬され、町の住人達により簡易な葬式が行われた。少年を含む国連軍は、その間の護衛任務を終え、輸送車両で撤退を開始した。
少年はその間中、女性兵士の制止を振り切り、町の住人にケイトの事を聞いて回った。だが、ケイトを覚えている人物は誰一人としていなかった。
「どうなってるんだ?」
住人と仲間の記憶は、ファントム三体を全て少年が倒した事になっていた。意識を失う前のケイトが力を発現した出来事は少年の意識もはっきりしておらず、記憶違いの可能性もあった。だが、シスターは最初から二人しかおらず、ケイトの存在が無かった事になっている点が少年には理解できなかった。
「俺の頭は、大丈夫なのか?」
教会内にすら物証がなく、少年は移動中の車内で頭を抱える。記憶とは元来曖昧な物であり、論理的に考えれば大多数の人間が持つ記憶を信じざるを得ない。
「あの。本当に大丈夫ですか?」
部下である車を運転中の兵士が、頭を抱えて助手席に座る少年に声をかけた。その問いかけに、少年は言葉が出てこなかった。自分の正常性を、自分でも疑い始めているからだ。
「帰ったら、精密検査を受けます」
「そうしてください」
溜息をついた少年の頬を、少しだけ開かれた車の窓から吹き込む乾いた風が撫でる。頭を乱暴に掻き毟った少年は、部下である運転中の兵士へある依頼をした。その部下も年上であり、少年が信頼する人物だったからだ。
「俺の頭が、本格的におかしくなって暴走し始めたら、迷わず撃ってくださいね」
少年の真剣な声に、兵士は動揺からハンドルを少し揺らしてしまい、そのせいで車全体がぐらついた。
「いや、あの。勘弁してください」
しかめたままの顔を上げた少年は、真っ直ぐに舗装されてない道の先を無言で見つめた。目線と同じ高さまで上げた少年の左手は、ケイトの柔らかく暖かい感触をまだはっきりと覚えている。少年はそのまま何度も左手を握っては開き、自分の記憶をたどった。
「はぁぁ」
生態系の回復しつつある森から飛び立った野鳥の群れが、溜息をついた少年の視界に入る。腕を下した少年は、そのまま飛び去っていく鳥達を見つめ続けた。