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名無しのエース  作者: 慎之介
三章
25/82

 女性の甲高い叫び声が、商店街の中に響いた。その商店街で叫んでいるのは、その女性一人だけではない。老若男女問わず真っ黒い体を持つ人類の敵を見た人々は叫び、その場から逃げ出そうとしている。


 だが、夕方の商店街は人通りが多く、簡単にはその場から退避できない。その為、商店街を歩いていた大勢の人は焦りにより効率的とは程遠い動きしか出来ず、混乱がさらに混乱を招く。


「きゃあああぁぁぁ! いやああぁぁ!」


 将棋倒しになった人の塊に、一体のファントムが無骨で凶暴な腕を伸ばし、一人の女性を掴み上げてしまう。ファントムの大きな手で腕をつかまれた女性は、半狂乱になりながら暴れているが、人間ではその拘束から逃れることが出来ない。


「ひぐぅぅ! 嫌……やめ……助けて……」


 腕を掴まれた状態で力任せに暴れてしまったその女性は、肩を脱臼した。そして、目の前に迫る敵の大きく開かれた口に、恐怖が限界を超え、叫ぶ力すら失う。


「ギャウウ!」


 今まさにファントムが女性にかぶりつこうとした所で、空中に光が走る。奇妙な声を上げたファントムは、女性から距離を取るように後退った。それは、サイコキネシスの力で、女性を掴んでいた腕が弾け飛んだからだ。ファントムに人間の様な痛点があるのかは分かっていないが、大きなダメージを受けると怯みはする。


 尚もファントムに掌を向け、サイコキネシスを溜めている人物は、特務部隊の戦闘服を身に着けていた。もう一人、同じ姿をした者が、商店街の裏路地からとびだし、肩の痛みで動けない女性の腰を掴むと引き摺る様にファントムから離していく。


 商店街に出現したファントムは四体おり、二人に続いて一般兵を含めた増援が駆けつけ、殲滅する。


「はぁ! 間に合いましたね。よかったぁ」


 マフラーとゴーグルで顔を隠していたジェーンは、呼吸が苦しいのか指で口元のマフラーをずらし、綾香に声を掛けた。


「あ、人が多いですから、マフラーは取っちゃ駄目ですよ」


 綾香に注意されたジェーンは、指で引っ張っていたマフラーを口元に戻し、申し訳なさそうな目線で誤魔化す。その二人が特務部隊の戦闘服を着用しているのは、特務部隊預かりになっている為であり、本当の特務部隊員のように銃は所持していない。


「お疲れ様です。お二人とも、怪我はありませんか?」


 怪我人の手当てをする救急隊員を見つめる綾香とジェーンに、二人と同じように戦闘服を着た堀井とエマが駆け寄った。


「流石、セカンドねぇ。お手柄よ」


 状況を確認していたエマは、二人が超感覚と直感で走り出さなければ、犠牲者が出ていたであろう事が推測出来ているようだ。


「後は、こいつらに任せていい。撤収だ。車両に乗り込め」


 部下達への指示を終えたジェイコブは、商店街の入り口に遅れて到着した軍用車両を指さした。


 うなずいて歩き始めた四人の背中を見つめるジェイコブは、指揮する力でも省吾に自分が追いついていないと考えている。それは、省吾がその四人を組ませた理由が、現場に出て初めて分かったからだ。


「俺もまだまだってところだな……」


 セカンドの中でも、超感覚に優れた綾香とジェーンを組ませれば、長距離の索敵が出来る。そして、元々優秀な堀井はサイコキネシスの力に不安がある綾香を上手くフォローするだけでなく、的確に行動指示を出していた。


 また、最前線にも出ていたエマは、三人に不足している咄嗟の判断と、戦闘に関しての勘で作戦を危なげないものへと変える。


 本職だけで固めた特務部隊員のチームよりもいい働きをする四人を、ジェイコブ以外の特務部隊員達も称賛していた。そして、個別の能力を見抜き、そのチームを編成した省吾の底知れない勘の素晴らしさを、改めて思い知らされている。


 一兵士であれば、個人の戦闘力が優れているだけで十分なのかもしれない。だが、指揮権を持った士官は、判断力や統率力等、様々な能力が要求される。現在の省吾は、特出した個人の戦闘力だけでなく、兵士として必要な全てを大よそ備えているのだ。


「しかしまぁ、准尉が抜けると、結構厳しいな」


 四人と同じ軍用車両に向かって歩き出したジェイコブは、まるで世間話のようにファントムとの戦闘を語り始める。


「中尉よ。准尉は貴方じゃない」


 いまだに省吾を准尉と呼ぶジェイコブを注意したエマも、ファントムとの戦闘回数が増えている事は認識している。


「元々、中尉が来てからは、半数を中尉が対応していましたからね」


 夕日に照らされ、赤く染まった顔をジェイコブに向けた堀井は、眉を情けなく歪めた笑顔を浮かべている。


「どうしたのですか?」


 軍用車両に向かっていたジェーンが、不意に足を止めた為、綾香も立ち止まって問いかけた。


 ジェーンからの返事が戻ってくる前に、相手の目線を追って理由が分かった綾香は、顔をしかめた。そして、軍規に従わねばならない事を心の中で自分自身にもいい聞かせ、後輩に伝えるために口に出す。


「ここは、皆さんにお任せしましょう」


 ジェーンが見ていたのは、混乱の中で親とはぐれたらしい子供だった。綾香自身も、母親を求めて泣いている子供を、助けたいとは思っている。


 だが、超能力者である彼女達は、次の出撃をする為に、待機状態へ逸早く戻らなければいけないのだ。泣いている子供の保護や、怪我人の搬送等、超能力者でなくとも可能な仕事は、他の者達に任せるしかない。


「すみません……」


 綾香の発した言葉の意味をジェーンもよく分かっており、短い間両目を強く閉じ、気持ちの整理をつけた。


「大丈夫よぉ。軍だけじゃなく、警察も出てきてるんだし」


「はい……」


 ジェイコブは、四人を組ませた戦闘面以外での理由と関係性に気が付き、驚いている。


「なるほどなぁ。流石、じゅ……中尉」


 経験の浅い綾香とジェーンの弱点は精神的な脆さなのだが、その面は大人の女性であるエマが支えているのだ。


「えっ!」


 なんとか歩き出した綾香とジェーンは、再び足を止めて振り返った。それは、背筋に悪寒が走ったからだ。先程まで二人が見ていた子供の足元にはマンホールがあり、その隙間から黒い霧が噴き出していた。


 省吾のように勘だけで敵を捕らえる事は、超能力者であっても難しい。そして、霧状の敵を超感覚では捉えきれない為、その状態で潜まれていると発見が遅れてしまうのだ。


 子供と綾香達は百メートル以上離れている上に、その場所まで障害物となる人々が大勢歩いている。誰よりも早く走り出した二人は、ルールを守り子供を助けに行かなかった自分を、後悔しているようだ。


 必死に通行人をかき分ける二人の目に、霧が実体へと変わっていくさまが映る。子供の近くには一般の兵士すらおらず、誰も守ろうとしない。


「くそおおぉぉ!」


 綾香達が動きき出したのを見て、後を追うように走り始めたジェイコブは、諦めた様に叫んでしまう。そのジェイコブだけでなく、綾香や堀井達も真っ赤な夕暮れの光に、小さな別の輝きが隠れていた事に気が付いていない。


 光に包まれた弾丸は、商店街の上空で角度を変化させ、そのままファントムを貫いて地面に突き刺さった。


「えっ? あっ……」


 ファントムが消滅した事で走る速度を緩めた綾香達は、何が起こったかすぐには理解できず、目を丸くしている。驚いた顔はしていたが、お互いの目を見て表情を緩めた堀井とエマには、何があったかが推測できているようだ。


「ああ? どこに行った?」


 敵の姿を探し、立ち止まった場所で首を左右に振るジェイコブの、携帯電話が鳴動し始めた。


「はい? あっ! ああ、はい。分かりました」


 省吾からジェイコブへの電話は、弾丸の処理をしておくようにとだけ伝える、短いものだった。


「あの……ジェイコブさん?」


 綾香は、携帯電話をポケットへしまったジェイコブへ、答えを求める為に視線を送っていた。


「ああ、準……中尉からだ。もう、敵はいないってよ」


 省吾の名を聞いた綾香は、ジェーンと急いで手を繋ぎ、能力を合成した。そして、省吾の姿を能力で探す。


「あっ! 私も、見る」


 綾香達の行動が理解できたエマは、急いで手を綾香の背中につけた。同様に、エマから少しだけ遅れたが、堀井とジェイコブも綾香の肩に触れる。


(居た! 居ました!)


 両目を閉じて頭部を発光させている綾香は、その特出した探索能力でビルの屋上にいる省吾を捉えた。


(何を?)


 商店街から、数百メートル離れたビルの屋上にいる省吾は、その屋上で全力疾走していた。


(あっ! 嘘!)


 省吾がいたビルの屋上には出入り口がなく、昇れない様になっているようで、フェンスが張られていない。その屋上から隣の建物の屋根へ飛び移った省吾は、そのまま全力の助走を再開し、また次の建物の屋上へと飛び移っていく。


 五つほど建物の屋根を移動した省吾は、そのまま壁と壁の隙間に両手を突っ張り、地上へと降りた。


(マジかよ。命綱もなしに……)


 地上についてからも動きが鈍らない省吾は、そのまま建物の陰に隠れ、気配を消してしまった。


「んっ? これで終わりか?」


 頭の中に流れ込んでくる映像が消えた為、ジェイコブが綾香に質問した。それを、ジェーンとエマが回答する。


「私は望遠と暗視の能力なんです。すみません」


「透視の能力は私が持ってるけど、あんな分厚いコンクリートや壁は無理なのよ」


 綾香達に文句をいいたかったわけではないジェイコブは、エマから責められない様に誤魔化し、一般兵へ弾痕処理の指示をする。


「あっ! いいんだ。いいんだ。気にしないでくれ。えと、あっ、そこのお前。ちょっと来てくれ。頼みたい事がある」


 敵能力者を追いかけている省吾と、綾香達は一緒にいる時間がかなり減っていた。その為か、綾香の心を寂しさが締め付ける。


 綾香と同様に寂しいと感じているジェーンも表情は暗くなっていたが、車に乗り込むと同時にある事を思いだしてその表情を消した。


「あの、以前スーパーで同じ事があったような……」


 綾香と堀井から、スーパーで自分達を助けたのも省吾だと聞き、ジェーンは大きな息を吐きながら車の天井に目を向ける。ジェーンが考えているのは、特区の人間全てが省吾に、今も尚守られ続けているのだろうという事だ。


「貴方は……大きい人なんですね。井上先輩……」


 自分と想い人との距離が離れていると感じたジェーンは、綾香とは違う意味で胸が苦しくなっていく。綾香達二人の悲しげな表情を見つめる教師二人は、無責任な慰めを口にせず、考える時間を生徒達に与えた。


 だが、省吾とは別の意味で空気を読まないジェイコブは、いつもの様にその軽い口を開いた。


「いやぁ、あれだよな。あの人見てると、兵士としてどうこう以前に、あの人が人間かを疑いたくなるよなぁ」


 無粋な事を喋り始めたジェイコブに、堀井とエマが目を細める。


「でも、微妙に完璧じゃない所が、あの人らしいけどな。俺は、そんなあの人をリスペクトしてるぜ」


 移動中は同僚と冗談をいいあうのが当たり前なジェイコブは、二人の視線を全く気にしていない。


「私は中尉を完璧だと思いますが、何か不足でも?」


 ジェイコブの言葉に疑問を持った堀井が、問いかけた。


「なんだよ。お前は、分かってないのか? 隣のお嬢ちゃん達は、分かってるみたいだぞ」


「えっ?」


 堀井が振り向くと綾香とジェーンは、表情を誤魔化すように笑い。エマに至っては難しい顔で腕を組み、何度もうなずいていた。


「兵長。お前も、知ってるだろう? あの人に足りないのは、エロだ!」


「ちがっ! 恋愛感情ですぅ! エロってなんなのよ!」


 エマの大きな声にジェイコブは顔をしかめ、堀井は目を閉じて顔を逸らした。


「恋愛感情ってのは、結局エロに繋がるだろうがぁ!」


「中尉は、恋愛感情があっても、貴方みたいに汚れた考え方はしません! 貴方とは違うんですぅ!」


 上下関係が厳しい軍内で、下の人間から久しぶりに反論されたジェイコブは、顔を赤くしてむきになり始めていた。


 ハイスクールを卒業してすぐに軍へ入ったジェイコブは、エマと同い年である。その為か、お互いを良き友人として扱っており、作戦中以外の上下関係が少しあやふやなのだ。その事が、その場ではあだになった。


「なんだと、この野郎!」


「野郎じゃありません! ほら! 間違いだらけ!」


 口論を始めたエマとジェイコブを、綾香とジェーンが仲裁するが、ヒートアップした二人はなかなか止められない。


「揚げ足を取るなっ! 准尉がエロに目覚めれば、お前らも好都合だろうが!」


「准尉じゃなくて、中尉ですぅ! いい加減覚えてくださいぃ!」


 騒がしい車内で、目を閉じた堀井だけが気配を消して、一人で思考にふけり始めた。調和を好み、面倒事に必要以上に関わない、日本人らしい事なかれ主義である堀井はある意味で省吾に近い。


「やめっ! やめてください! エマさん!」


 禅を思わせるほど心を静かに保った堀井は、省吾の問題点が趣味の部分にもあるかもしれないと考えていた。そして、万が一大事な生徒が二次元の女性に初恋をしてしまった場合、どうするべきかを真剣に悩み始めている。


 五人は車両を運転している特務部隊員ではない兵士が、苦笑いを浮かべている事に気が付いていない。


 ジェイコブと堀井の都合により、五人は本部で待機する事になっている。その為、五人を乗せた車は、学園だけでなく寮の前も通り過ぎた。その車に搭載されている周囲の暗さを検知するセンサが信号を送り、ライトを自動で点灯させた。


「あっ……」


 軍用車両の後部座席にある窓は、車内側から外が見える。だが、その逆は見えないように加工が施されていた。エマを落ち着かせるために、ベルトを掴んで揺れる車内で立ち上がっていた綾香は、その窓越しに歩道を歩くイザベラを見つけた。


 一人で寮に帰ろうとしているイザベラからは、いつもの溢れ出す自信が消えており、俯き気味でとぼとぼと歩いていた。そのイザベラを見た綾香は、シートに座ってベルトを締めると、無言のまま眉間にしわを寄せる。


 イザベラの元気がない理由を綾香は知っており、省吾がファントム化したイザベラと戦った日の事を思い出してしまったのだ。


 敵能力者を見つける為に、省吾はミスターと会った翌日から、授業中以外は教室にいない。またそれだけではなく、軍務をもっとも優先する省吾は、授業の出席率自体もかなり下がっていた。結果的に省吾の多忙さは、食事に誘う時間すらイザベラから奪ってしまう事になり、彼女は元気をなくしていった。


 その日は、イザベラを心配したリアから食事に誘われて出かけたはずだが、気分は晴れなかったようだ。イザベラが元気をなくせばなくすほど、どれだけ省吾に気持ちを傾けてしまったかが、綾香には推測できるらしい。


 それを考えるたび、綾香の脳裏にあの幻のような光景がよみがえり、黒い気持ちが湧き出してくる。自分の中でいくら消しても湧き出してくる嫉妬心と、正しくありたいと思う気持ちは、綾香の心を押し潰すほどせめぎ合っていた。


 イザベラの心に向けられたあの日の手が、どこからきているかを綾香はどうしても知りたいと考えている。自分の命を危険にさらしてまで、普通の人間は他人に尽くそうとはしない。その為、省吾の自己犠牲精神の根底にイザベラへの愛が無いかを、綾香は勘ぐっているのだ。


 綾香が求めているのは、省吾の心。自分だけを見て、受け入れてほしいという気持ちが、綾香の中で日増しに膨らんでいく。


 恋は人の心を掻き乱し、愛は人を狂わせると昔の詩人が、書き残した。それは、人の背負った性についての詩であり、綾香もその呪縛からは逃れられない。毎日自分の中で沸き起こり、溢れ出しそうになる黒い感情を、気持ち悪いと否定しても、綾香はそれを消すことが出来ないでいる。


 良家で生まれ、幼い頃から叩き込まれた綾香の正義は、綺麗事だけでは済まされない現実と相反しているようだ。もしかすると綾香には、恋などせず見合いによる結婚が、もっとも理想的な人生を歩む方法だったかもしれない。


 だが、もう彼女は心がどうにかなってしまうほどの恋を知ってしまった。故に、それから逃れる事は出来ないだろう。自分の醜さを他人に見せまいとする綾香の本心が発する悲鳴を、周囲にいる者は誰も気が付いてはいない。


 軍用車両の後部座席から綾香が見上げた月は、半分が夜に飲み込まれていた。それを見た綾香は、その月がまるで自分の心を表しているように感じたらしく、表情の陰を深めていった。


 同じように偽装車両内からカメラ越しに月を見ている省吾は、毎晩徐々に欠けていくその月に目を細めた。


……かなり欠けてきたな。だが、まだ大丈夫なはずだ。


 省吾が月を真剣に見つめていたのは、暗視の出来ない千里眼能力が月の明るさに左右されるからだ。真剣に任務に取り組んでいる省吾は、綾香のように感傷に浸っているほど暇ではないらしい。


「中尉。照合結果が出ました」


 省吾が乗り込んでいる、引っ越し会社のトラックに偽装された軍用の車両内は、索敵に特化した機器が並んでいる。


「うん……。やはり、白か……」


 省吾と兵士が画面を見ているコンピューターは、省吾の携帯電話と同様に専用無線を通して、本部のサーバと通信が可能だ。そのコンピューターを使い、省吾がカメラで写した数人を照合した結果、敵能力者とは関係ないと答えが出た。


……やっと半分か。まだ時間が必要だな。


「次のポイントまで、どれぐらいだ?」


 省吾に問いかけられた運転をしている兵士は、デジタル表示の車載時計に目を落とし、返事をした。


「後、十五分ほどです」


 現在移動中であるその偽装車両は、省吾や諜報部員の簡易拠点として使用されている。


「借りるぞ」


 省吾からコンピューターの使用権を要求された兵士は、ログアウトすると床に固定された椅子から立ち上がった。そのコンピューターにログインし直した省吾は、ミスターが指揮をする諜報部員達からもたらされた情報に目を通す。


……早いな。流石だ。


 敵能力者達は、省吾により外堀がうめられ始めている事に、まだ気が付いてはいないだろう。省吾が敵能力者を追い詰める為に考えたのは、正式に入区している全ての住民の行動を把握し、それ以外の者をあぶりだす作戦だ。


 敵がどれほど恐ろしい力を持っていたとしても、人間である事に変わりはなく、衣食住をどこかで満たさなければいけない。住民達の行動を把握すれば、一般人にまぎれた敵のその生理的な部分につけ込み、尻尾を掴めると省吾は考えたのだ。食料や服を、特区外からテレポートなどを使って仕入れている場合や、他の武装勢力から手に入れている場合まで、その作戦には組み込まれていた。


 日頃、諜報部員達が行っている怪しい人物を探しだすのとは、真逆にあたるその作戦には、時間、予算、人員が大量に必要だ。その上で、情報を適切に処理し、現場の指揮がとれる、とびぬけて優秀な指揮官も必要であり、思いついたとして諜報部からは安易に発案できるものでは無い。その為、諜報部員達がそれを考え付かなかったのではなく、決行する許可が省吾でなければおりなかったといえるだろう。


 現在の日本特区内では、ミスターの指揮下で、他の地区から呼び寄せた大勢の諜報部員が、民間人の情報を収集する為に動いている。本部にあるデータ蓄積用のサーバには、既に膨大な量の情報が集まっており、不正に入区した武装勢力のいくつかは、アジトや構成員まで確認が済んでいた。


 ただ、真の目的は敵武装勢力自体ではなく、その中にいる能力者達である為、能力者の居ない武装勢力は泳がせている状態だ。


「うん? これは……」


 一人の諜報部員から敵能力者らしき男性が、公園のトイレを使ったと新しい情報が入っており、省吾は写真データに目を凝らした。


「マスク着用で、顔が隠れていますね。尾行は、途中で不可能と判断ですか……」


 隣に立っていた兵士が画面を覗き、省吾と無言でうなずき合う。


……照合データもなし。これは、黒に限りなく近い灰色だな。


 男が発見された場所の、重点チェックを依頼しようとした省吾の手が止まった。


「もう、ミスターが包囲網まで指示済みですね」


……あいつを呼んで正解だったな。


 省吾が満足げに息を吐くと、運転をしていた兵士が目的の場所に到着した事を、声で知らせた。


「あ、すまないが、深追いするなとだけ、全員が見えるように指示ボードに残しておいてくれ。攻めるのはまだだ」


 省吾がどいた自分の席に戻った兵士は、無言の敬礼による返事をして、キーボードを叩き始める。


 一般人に紛れる為に黒いロングコートを羽織った省吾は、武器の詰まったバッグを背負った。偽装車両内には、省吾だけでなく他の諜報員が使う服が大量に用意されており、車内に乗り込むたびに全員が着替えている。


 その用意された防弾繊維製のカメラが仕込まれた服は全員で着まわしているが、ライフル銃や手榴弾の詰まったバックだけは省吾専用のものだ。


……うん? 非通知?


 着替えが済み、マナーモード中である携帯電話が震えた為、省吾は車内にいる間に電話に出る。


「はい。うん? ああ……ああ……分かった。お前が正しい。すまない」


 ミスターからお叱りを受けた省吾は、眉間にしわを寄せた。そして、コンピューターの前に座る兵士へ、新たな指示を出す。


……これは、俺がうかつだったな。


「今の指示を消してくれ」


 不思議そうに首を傾けた兵士に、省吾は理由を説明した。


「指揮権を二人がもつと、現場が混乱するそうだ。ミスターから、指示がしたいなら、俺は降りると怒られたよ」


 省吾の説明に納得できた兵士は、目線をコンピューターの画面に戻し、先程入力した文字を消去する。それを確認した省吾は、周囲を監視するカメラのモニターへ目を向けた。


 千里眼も使い、車両の周囲に人がいない事を確認した省吾は、車から降りる。そして、手に持っていた帽子をかぶり、裏路地から人通りの多い商店街の中へと消えていく。


「中尉が怒られるなんてなぁ。指令に怒られたところすら、俺は見たことがないぞ」


「珍しいですよね。でも、それだけミスターが凄いって事じゃないですか?」


 車両内に残った二人の兵士は、軽く笑いあい、自分の仕事に戻る。


……見つけた。あれだ。


 人ごみの中からターゲットを発見した省吾は、そのまま尾行を開始した。諜報部員ではない省吾だが、勘が鋭く気配をかなり自在に消せる為、本職の人間よりいい働きをしている。


 その省吾について、ミスターは可愛げがないと部下に漏らす。ミスターのそれが、最大限の褒め言葉だと知っている直属の部下二人は、返事をせずに愛想笑いで誤魔化していた。


 フランソア、コリント、ランドン、郭、省吾、マードック、ミスターを含めた国連の指揮権を持つ者達は、部下から慕われている者が多い。しかし、それぞれの個性や能力が違うように、慕われる形も違い、ついてくる人員の種類も別のようだ。


「待ってください」


 堀井達を乗せた偽装していない軍用車両が、本部へと到着していた。その為、ジェイコブに続いてジェーンが降りようとしたのだが、それを堀井が腕を掴んで止める。


「あれは、先輩?」


 堀井が車内から指さした方向に宗仁を見つけたジェーンは、急いで車内のシートへと戻った。駐車場はすでに暗闇になっているが、玄関には外灯ついており、離れた位置からでも堀井達には宗仁の姿が見えたのだ。


「おかしいですね。彼が何故、敷地内に?」


 本部内は国連の機密が溢れており、学園の別室以上に学生が入っていい場所ではない。それが、たとえ司令官の息子だったとしても同じだ。


 本部から出ていく為に門へ向かっていた宗仁は、隣を通り過ぎた車のライトで堀井に気付き、進行方向を変えた


「先生。こんばんは。遅くまで大変ですね」


 堂々と挨拶をした宗仁の胸に、本部への正式な入館許可プレートを見た堀井は、笑顔を作り挨拶を返す。


「その顔は……。今日はどうしたんですか?」


 駐車スペースに来た車両の光で、腫れあがった宗仁の顔が見えた堀井は、裏表なく疑問をそのまま口に出した。


「実は、ローガンさんに指導してもらいまして……」


 顔が腫れあがっているにも関わらず、嬉しそうに笑っている宗仁は、本部へ来た理由を堀井に話した。


「特別顧問と……ですか?」


 自分の顔は、ローガンとの練習の結果だと嬉々として語る宗仁は、腫れあがった頬を自分の手で擦る。


「はい。去年末から、申請していたんですよ。あっ。親父のコネじゃないですからね。兵士志願者の一人として、正式に申請したんですよ」


 堀井には宗仁のその言葉だけで、相手が機密事項の溢れている本部に入り、忙しいはずのローガンと会った理由が分かったようだ。


 国連軍は日本の役所のように、一度通った申請を拒否できない不合理な規則は作っていない。だが、敵能力者の存在が分かる前に通ってしまった申請を直前で覆せば、宗仁に疑われると司令が判断したのだ。


 純血の軍属である郭日本特区司令は、家族であっても注意を払っており、情報を漏らすような愚行を犯さない。


「その顔は、特別顧問からきつい愛の鞭をもらった結果なんですね」


 照れくさそうに目線を逸らした宗仁だったが、顔は笑顔のままだ。一度はローガンと手合せしたいという願いが叶った宗仁は、怪我を負ったが満足している。


「いやぁ、やっぱり死神っていわれるだけの人ですね。手も足も出ませんでした」


 興奮覚めやらぬ宗仁は、嬉しそうにローガンとのスパーリングの事を堀井に喋っていた。それに対して、待っている綾香達の事を気にした堀井は、余計な事を聞いた自分に後悔している。


「でも、あの人より、強い人がいると聞きましたが……。先生はご存知ですか? そんなに、凄いんですか?」


 目線も逸らさない堀井は、笑顔を崩さずにさらりと省吾の事を誤魔化す。


「軍規で詳しくは喋れませんが、知っていますよ。その人は若いので、貴方が順当に軍へ所属すれば、いずれ会えるんじゃないでしょうか」


 軍規を出されては、軍人の一族である宗仁はそれ以上の質問が出来なくなる。


「あっ! 電車の時間……。すみません! これで!」


 言葉を詰まらせた宗仁は、反射的に自分の腕時計を確認し、長話をしてしまった事が分かったようだ。


「はい。車に気を付けて」


 堀井に頭を下げて走り出した宗仁は、本部へ出入りする何台もの軍用車両を避けながら、門へと向かう。


「ふぅ……」


 宗仁が門を出たところまで見届けた堀井は、軍用車両で待っていたジェーン達に合図を送る。


「あれが、司令のガキ?」


 ジェイコブは宗仁の事をエマから聞き、もう少し顔を見ておくべきだったと後悔している。


「ガキじゃなくて、息子さん……。せめて、息子っていいなさいよ」


「うっせぇ」


 エマ達の口論を見て付き合えないと感じた堀井は、綾香とジェーンを司令本部内へと誘導し始めた。


「この中に入るの……初めてで、緊張が……」


 あがり症のジェーンが、綾香に顔を向けた。そのジェーンに見つめられた綾香も、笑顔が引きつっており、余裕があるとはいえない。


 軍に所属して一月ほど経過した綾香だったが、今までは別室での待機のみだった。その為、綾香自身も本部へ足を踏み入れるのは初めてであり、緊張しているのだ。


「大丈夫ですよ。内部は、別室とほぼ同じかんじですから」


 後輩の前でぼろを出しそうだった綾香を、堀井がさりげなくフォローする。


「どうしますか? 食堂でも、休憩室でも、トレーニングルームでも、好きに使用できますよ。別室のように狭くないので、予約も必要ありません」


 堀井の質問を考える事で緊張が少しだけ緩和された二人は、ちらちらとお互いの表情を伺いながら玄関へと向かう。


「あら?」


「手加減はしなくていいといったが、人の息子を……」


 防弾のすりガラスで出来た扉を三人がくぐると、司令とローガンが立ち話をしていた。


「お前の息子が、素晴らしかったって事だ。手を出さざるを得なかったんだ」


「あ、そこのサンダルに履き替えて下さいね」


 二人が宗仁の見送りに出ていたのだろうと即座に判断した堀井は、ローガン達に反応せず、下足棚を指さした。


「ん? おお。今日は、こっちで仕事か? お嬢ちゃん」


 靴を履きかえる三人に気が付いたローガンが、綾香に声を掛けた。そして、ローガンに話を中断された司令も、三人を見つめる。


「はっ……はい。頑張ります」


「あっ! あ……あの……あの、頑張ります」


 知り合いに声を掛けられた綾香が、緊張しながらも挨拶をすると、その倍以上緊張したジェーンもなんとか後に続いた。


「ふぅむ……。あ、これから食事でも一緒にどうですか? お嬢さん達?」


 二人の緊張が分かった司令は、優しく笑うと、ローガンと向かう予定だった食堂へ二人を誘う。


「はっ、はい」


 司令官からの誘いを断れるはずもない綾香は、背筋を伸ばして返事をした。


「ふふっ。そう、緊張するな。取って食ったりはしない。おい、お前も来い」


 ローガンに声を掛けられた堀井も、笑顔でうなずいた。


「了解しました」


 本部内を知らない綾香とジェーンは、ローガン達に先導され、本部の廊下を食堂に向けて歩く。そのジェーンは緊張からか呼吸が早くなり、小刻みに震えながら、綾香が着ている服の袖を掴んでいた。


「大丈夫ですよ。お二人とも優しいですから」


 緊張のほぐれ始めた綾香は、後輩に優しく話し掛けているローガンだけでなく指令とも、綾香はすでに飲み会で会話を交わしており、その事が緊張をほぐす切っ掛けになった。


 綾香が落ち着きを取り戻した事を、何度が振り返りながら歩いていた堀井は認識し、それ以上振り返る必要が無いと判断した。


「さて、好きな物をいくらでも」


 食券を発行する自動販売機へ高額の紙幣を入れた司令官は、綾香達におどけた様に両手を広げて見せた。


 その日本では当たり前の食券システムは、海外であまり馴染みがない。だが、日本の大学に留学していたフランソアが、利便性に目をつけて人員不足を解消する為に国連内で普及させたのだ。


 学園と同じシステムであるその食券販売機のボタンを、よく理解しているはずの綾香はすぐに押す事が出来なかった。それは綾香が、緊張したジェーンにしがみ付かれてしまい、身動きが取れないからだ。


「おい! お前は、自分で買え!」


 隙をついてビールのボタンを押そうとしたローガンだったが、指令に腕を掴まれてしまった。


「いいじゃないか……」


「私がいいというとでも思っているのか? お前は?」


 ローガンと指令は、漫才のようにも見えるやり取りをそれから少しだけ続けた。そのジェーンを和ませようとした、国連軍の重鎮二人は、相手の笑顔を確認して優しく笑いかける。


「さあ、遠慮せずに」


 司令から再び勧められたジェーンは、綾香にしがみ付くのを止め、笑顔でボタンへと手を伸ばした。


「ここからは、入らないで欲しい。悪いが、規則が厳しくてね」


 重鎮二人による努力の甲斐あって、和やかな雰囲気で食事を楽しんでいる綾香とジェーンに、司令自らが本部の説明していた。


「では、こちらは使ってもよろしいのですか?」


 テーブルに広げられた本部内の見取り図に、箸を一度置いた綾香が手を伸ばす。そして、司令に顔を向けて問いかけた。


「ん? ああ。そこは問題ない」


 本部の説明を終えた司令は、その見取り図を折り畳み、もう一部同じものを取り出して綾香とジェーンに手渡した。


「あの……。ありがたいのですが。よろしいのですか?」


 見取り図を重要ではないかと感じた綾香は、受け取りながらも確認を行う。綾香のいいたい事が一番早く理解できた堀井は、渡した見取り図について説明をする。


「それは、軍にとって大事な部分が書かれていない、見学者用の見取り図です。国連の役員をされている方が来られた際などに使うものなんですよ」


 綾香なら心配ないと思いながらも、堀井は注意点も伝える。


「勿論、だれかれ構わず見せる事は許されていませんが、一般の人にさえ見られなければ、なんの問題もありませんよ。必要がなくなれば、焼却処分してください」


「はい。分かりました」


 説明に納得した綾香とは、八つ折りになったカラーの見取り図をポケットにしまい、水の入ったピッチャーへと手を伸ばす。


「あ、先輩。私が注ぎます」


 水ではなく湯呑に入ったお茶を飲んだ堀井は、顔を腫らした宗仁の事を思いだし、何気なくローガンに話題を振る。


「そういえば、郭君……ええぇ……宗仁君は、どうでした?」


「この馬鹿。息子をぼこぼこにしやがった。親の前で」


 堀井の話に、ローガンではなく顔をしかめた司令が返事をした。


「お前は、しつこいな。あれは、お前の息子が優秀過ぎるんだ」


 学園最強といわれている宗仁の事をよく知る綾香とジェーンは、その話題に興味を持ったようで、自分達の会話を中断した。


「特別顧問にそこまでいわせるとは、宗仁君は本当に優秀なんですね」


 目を閉じて宗仁とのスパーを思い出すローガンは、腕を組んで眉間にしわを寄せた。


「もう一般兵と遜色ないレベルだな。実戦を経験すれば、特務部隊員の中でもすぐに頭角を現すだろう」


 省吾や堀井からローガンがいかに優れているかを聞いていた綾香は、一度自分の中で結論付けた事を問いかけていた。綾香は信頼できる人物から、自分の出した結論に、お墨付きをもらいたかったのだろう。


「あの……井上君よりも……ですか?」


 予期せぬ問いかけに目を開いたローガンは、自分の考えを隠さずに喋り出す。


「そうだな。ポテンシャルで言えば、エース以上だ。だが、郭の倅があいつの域に達するのは、正直難しいだろうな」


 潜在能力が高い宗仁が、省吾に劣るといったローガンの言葉を、綾香は考え込んでしまう。


「やっぱり、経験ですか?」


「うん。それも、正解だ。だが、大事な部分が抜けているな。おい。ちょっと、立ってみろ」


 綾香に分かり易い様に解説を始めたローガンは、堀井を立たせると隣に並んだ。


「お前は、日本人の中でも、身長は高い方だったな」


「はい。百八十を超える日本人は、少ないですからね」


 ローガンの説明しようとした事が先に推測できた綾香は、省吾が堀井よりも背が低い事を思い出す。


「お前達が劣っているなどと、私が考えていないのは、先に断っておく」


 ローガンが差別的な偏見を持っていないと知っている堀井と綾香は、その言葉にうなずいた。


「技や状況を考慮せずに、肉体的な性能だけでいえば、遺伝的に差がある。それが、最高レベルの戦いに近付けば近付くほど、顕著になってくる」


 ローガンが椅子に座るのを見て、堀井も席につく。


「それでも、郭の倅や他の兵士達より、エースは優れている。エースはな……。経験、直感、技が他よりも勝っているだけでなく、肉体のリミッターを外しているんだ」


 思い当たる節しかない綾香とジェーンは、目を見開いてお互いを見つめる。


「何故、あそこまで出来るのかは、私にも分からない。だが、あの馬鹿の覚悟は、比喩などではなく本当に命懸けなんだ。それが、あいつの強さの秘密だ」


 省吾を超人ではないかと考えて、ただ憧れていたジェーンは言わずもがな、安易に聞いてしまった綾香も黙り込んだ。


「お前は、喋るのが本当に下手だな。見ろ。お嬢さん達が、暗くなったぞ」


 司令に非難されたローガンは、毛の無い頭を撫で上げながら、どう取り繕うかを必死に模索する。


「火のついた中尉は、誰にも止められません。それは、国連事務総長でもです。貴女方が気に病む事ではありませんよ」


 その言葉に、俯いていた二人が顔を上げ、訴えかけるような目を堀井に向けた。だが、その二人からは、言葉が発せられない。何をいえばいいのかが、ローガンと同様に思いつかないらしい。


「まず、兵士になろうという貴女達がするべきは、訓練を積み、中尉の負担を減らす事です。そして、もっと実力をつけて、中尉の背中を預かれるようなっては如何ですか?」


 教師らしく生徒二人を導き始めた堀井に、ローガンだけでなく司令も驚きながら笑顔を作る。


「貴女達が自分自身の力だけで、危機から逃れる事が出来れば、それだけ中尉を助ける事になるんですよ。これは、分かって頂けますね?」


 それから十分ほど、教師の口調に戻った堀井の講義は続き、綾香とジェーンは元気を取り戻した。そして、その二人の目には、やる気が漲っている。


「先生! 私! 頑張ります! 自分の為にも! 井上君の為にも!」


「あ、あの! 私も!」


 講義を終えた堀井はお茶をすすり、ローガン達に目配せを送った。そこまではよかったのだが、移動中の車内で考えた事を、つい口に出してしまう。


「貴女達が、中尉のいい人になって……死にたくないと思わせてくれれば、こちらとしてはもっとありがたいですけどねぇ」


 省吾が二次元の女性に恋をする前に、現実の女性と結ばれて欲しいと、堀井は考えている。そうすれば、恋人の元へ帰る為に、省吾があまり無茶をしなくなるのではと、堀井は本気で思っているようだ。


「はい! あの、トレーニングルームに行ってきます!」


「あっ! 先輩! 私も!」


 堀井の不用意な言葉で、目からやる気があふれ出してしまった綾香とジェーンは、食器を片づけるのも忘れて食堂から出て行ってしまう。


「まあ、あれだ。落ち込ませた私がいうのもなんだが……。最後の言葉は余計だったな」


 綾香達に発破をかけ過ぎたと感じ、顔をしかめた堀井に、ローガンが止めをさした。


「失敗には罰だな。全部片付けておけ」


 食堂を出るローガンと司令を見送った堀井は、黙々と五人分の食器を片づける。そして、大きな溜め息をついた。


「はぁぁぁぁ……」


 ちょっと馬鹿とエマに評された国連軍で英雄と呼ばれる男性の恋愛事情は、堀井すらも苦しめる。


 だがその出来事を、偽装した車内でポテトを貪り食う省吾が、知る事はないだろう。

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