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名無しのエース  作者: 慎之介
三章
23/82

 学園が二日の補修工事を終え、更に休日である日曜日を超えた朝、日本特区の空港に一台の旅客機が到着した。その旅客機は、軍用でも専用機でもない。国連の運営する会社が飛ばしている、ごく一般的な旅客機であり、ほとんどの利用者は一般人だ。


 朝早くからその旅客機に乗っていたのは、仕事で特区を訪れた社会人が大多数であり、その者達は男女問わず背広とコートを身に着けている。中には休日中に国外へ遊びに出ていた者や、特区への旅行客もいるが、私服を着たその者達が目立つほど背広姿の人間が多い。


 ゲートをくぐった搭乗客のほとんどが、特区へ入る申請が行われている窓口と、荷物を受け取る場所へと向かった。ただ、禁煙だった旅客機を降りた客の何人かは、荷物を受取りに向かわず、まず喫煙スペースへと向かう。そして、旅行客らしき子供の一人が、親らしき女性に空港内の店舗で玩具をねだっていた。


 そんな日常の一部でしかない光景の中に、国連軍内で英雄と呼ばれている男性が紛れ込んでいる。二人の部下と一緒に特区へその男性が降り立ったと、本人達以外に知る者はいない。


 もし知っていたとしてもその三人を人ごみの中から見つける事は、顔見知りでもなければ不可能だろう。何故なら、彼等は目立たないのだ。


 フィクションとして映画などで語られる諜報員は、美男美女で有能な力をひけらかし、敵にまで顔が割れるほど有名だったりする。だが、実際の諜報員は顔が敵に漏れた時点で、命を覚悟する必要があるほど繊細な仕事であり、周りに溶け込む為に極端なほど凡庸でなければいけない。


 入区手続きを済ませたミスター達は、その凡庸な顔で会社員達に紛れ込み、不自然な部分を何一つ表に出さない。その上で、念を入れたミスターと部下達は知人ではないと装う為に、席の位置さえ離しており、会話を交わすことなく別々に目的地へ向かっているのだ。


 ミスター達がその便に搭乗した事と顔を知っていなければ、勘の鋭い省吾でもミスターを見つけ出す事は出来ないだろう。当然ではあるが、ミスター達は搭乗する便をごく一部の者にしか伝えておらず、定期連絡をしなければ本部ですら三人がどこにいるか分からない状態だ。


 小さなバッグを持ち、コートと帽子をかぶった白人男性が人ごみから抜け出し、タクシー乗り場へと向かった。その男性は、白人で茶色い髪と瞳を持っている。それ以外に語れない外見をしたその男性こそ、ミスターなのだ。


 三十代前後に見えるミスターを、他人から評価させれば良くも悪くも普通と表現するだろう。体格や動きにもローガンや省吾達の様に特徴的な部分の無いミスターを、行き過ぎる通行人は覚えることが出来ないはずだ。それこそがミスターのずば抜けた諜報員としての資質であり、まねをしたくても出来るものではない。


「お仕事ですか?」


 タクシーの窓から外を見ていたミスターは、運転手に顔を向ける。


「はい。午後から会議なんですよ」


 下手に顔を隠せば相手の印象に残ってしまう為、ミスターはあくまでも自然にバックミラーから少し顔が隠れる位置に座りなおした。


「雨が降りそうですねぇ」


「午後から、降るそうですよ」


 窓の外へ再び目を向けるミスターは、タクシーの運転手と本当に当たり障りのない会話を続ける。無言を貫くわけでもなく、盛り上がる訳でもないそんな当たり前の会話だが、意識してそれをするにも訓練が必要だ。


 実際にホテルの前へミスターを下した運転手は、領収書を切る事もなく降りた、客の一人でしかないミスターの顔を、次の客を乗せる頃には忘れていた。


「あの、予約したスミスです」


「はい。スミス様ですね。ありがとうございます」


 ホテルの窓口に立っていた男性従業員は、予約リストを確認後、チェックインの処理を始めた。その男性従業員は、応対している相手が偽名を名乗っている事も、隣で先にチェックインを済ませた女性客がその客と知り合いだという事も気が付けない。


 万が一の場合、個別に始末される事を恐れたミスターは、部下二人も同じホテルに宿泊させるが、部屋も階層も別にしてある。


「では、これがお部屋の鍵です」


「ありがとう」


 鍵を受け取り、エレベーターに向かうミスターは、何の変哲もない会社員に見える。だが、エレベーターに乗り込むまでに、カメラの位置やその場にいた人物を全て記憶していた。


 それは省吾の警戒と同じミスターの癖であり、危険を感じて行っている訳ではない。自然にふるまいながらも、より多くの情報を収集する必要がある諜報員達は、省吾と別の意味で全く隙が無い。


 ミスターが部屋に入り、部屋に監視カメラや盗聴器が仕掛けられていないかを調べ始める頃、登校中の綾香はごくりと喉を鳴らした。それは通学路の先に、彰がいると気が付いたからだ。彰はいつものように綾香の姿を見て、挨拶をしてくれるだろうと歩き出した。


「どうしよう……」


 綾香は、休日中に幾度もかかってきた彰からの電話と送られてきたメールを思いだし、顔をしかめていた。忙しいと断ってもしつこく綾香を誘った彰は、イザベラとの事で心にもやもやが残っており、それを綾香とのデートで晴らそうと考えていたのだ。


 イザベラを傷つけた彰だが、恋愛に関しての経験不足からか、彼自身も心に小さな傷が出来ており、彼なりにもがいていたようだ。


 だが、それどころではなかった綾香からすると、彰は身勝手に見えてしまい、かつての省吾より好感度が下がっている。


 外気の低さで白くなった息を少しだけ多く吐いた綾香は、省吾の言葉を思い出した。それは、勇気ある撤退も時には必要だという、先輩軍人としての教えだ。


 コンビニに一時退避した綾香は、省吾に逃げ癖がある事にまだ気が付いていない。省吾は大事な場面で命を投げ出せる代わりに、大事ではないと判断した部分をあえて放り投げる。全てを真面目に取り組んでは生きていけない程様々な事が起こる現実で、処世術として身に付けた省吾のそれは、唯一残った人間らしい部分といえるのかもしれない。


「あっ、綾香先輩」


 コンビニ内の飲み物が陳列されている大型冷蔵庫の前で、先に気が付いたジェーンが綾香に声を掛けた。


「あら? おはよう」


 ジェーンは綾香が日頃コンビニをあまり使わないと知っていた。そして、すぐに校門前に彰がいた事を思い出したジェーンは、確認をしようとした。


「おはようございます。あの……もしかして神山先輩の……」


 綾香はそれ以上ジェーンが喋らない様に、相手の口元に指を立てた。


「そんな事より、今日は早いのね、ジェーン」


 綾香は、誤魔化すように話題を変えた。


「あ、昨日訓練で疲れて、早く眠っちゃいまして……」


 コンビニ内で喋り始めた二人は、玄関に到着しても綾香に挨拶をされなかった彰が、動揺している事を知らない。


……目立たない恰好でか。なるほど。


 彰よりも一足先に教室へついていた省吾は、自分の席で携帯電話の画面を見ていた。その携帯電話には、ミスターからの返信不可メールが届いている。


 打ち合わせを行う場所と時間が書かれたメールを読み終えた省吾は、速やかにそのメールを削除した。そこまで、ミスターは指示をしてきたのだ。


 ミスターの用心深さをよく知っている省吾は、素直に指示に従いメールを削除した。そして、自分のスケジュールを確認する。


……まるで、知っていたような指定時刻だな。いや、知っていたのか。


 スケジュールを携帯電話の画面に表示させた省吾は、ミスターとの打ち合わせ時間に何も予定がない事に気が付き、少しだけ目を細めた。


……流石は、英雄といったところだな。さて。


 バッグを机に置いた省吾は、一度腕時計を見た後に、一階へと向かう。どうやら省吾は、乾いている空気のせいでアイスコーヒーが飲みたくなったらしい。


 いつもの様に冷たいコーヒーを、人気の少ない場所にある自動販売機で購入した省吾は、眉間にしわを寄せた。そして、ゆっくりと後ろを振り返る。


「おはよう。いつも、ここで買ってるのね」


「あ、ああ。おはよう」


 リアに話し掛けられた省吾の顔は、無表情ではなくなっているが、笑顔ではない。


……なんだ? ここは、リア・グリーンもよく使っているのか? いや、そんなはずはない。


 心の扉を閉めた省吾のサイコガードが、無意識に日頃よりも強く展開される。飲み物を買わずに自分を見るリアに、省吾が警戒するのは当然なのだろう。


「あの……一つ聞いてもいい?」


……なんだ? 何が狙いだ?


「なんだ?」


 もじもじとしていたリアが、勇気を振り絞って質問をする。


「井上君って、意味もなく人を刺す癖ってあるの? 後、刺したことある?」


……質問が二つになっているな。それに、もしそうだった場合は、刺されてもおかしくない質問だな。まあ、いい。


 目を閉じた省吾は、生徒達の間でささやかれる噂を思いだし、返答内容を考えた。


「いや。ない」


……本当は、任務で嫌になるほど刺しているが、いうべきではないだろう。


 省吾の返答で、リアの顔が何故か明るくなり、その顔が省吾にかえって不信感を抱かせる。


「そう……そうよねぇ。やっぱり、噂って嘘よね」


……何が狙いだ?


「まあ、犯罪者はこの学園に通えないんじゃないか?」


 省吾は自分の言葉で、隔離施設へ一時的に送られた乾隆を思い出していた。


「じゃあ、私が少しずつ周りの誤解を消してあげるね!」


「えっ? いや、ちょっ……」


 飲み物を購入せずにその場から走り出した笑顔のリアは、一度振り返ると省吾に手を振った。


「友達が悪くいわれるのは、私も嫌だから! 気にしないで!」


……友達? だと? 飲み物を購入しに来たのではないのか? なんだ? 何が狙いなんだ? あれは、なんだ?


 コーヒーを飲みながら廊下を歩きだそうとした省吾の頭には、リアに対する不信感が充満していた。そして、省吾の顔が険しくなっていく。


……なんの嫌がらせだ? くそ。


 省吾の顔が険しくなったのは、リアのせいだけではなく、別の理由により廊下で身を隠さねばいけなくなったからだ。


「そんな……」


 イザベラから付き合えないと返事をされたケビンは、真っ青な顔で目に涙を浮かべ、頭を抱えた。


「悪いんだけど、私……あんたを好きになる自信ないのよ。あ、顔は嫌いじゃないわよ」


……人格否定か。顔が嫌いじゃないは、この場合褒め言葉にすらなってないな。


 廊下の曲がり角で息を潜めた省吾は、カップを持っていない方の手で眉間をつまんだ。


「もしかして、まだ彰を?」


「あ、違う、違う。あいつの事は、整理をつけた。で、それと関係なく付き合いたくないの」


……きついな。頑張れ、ベーカー。


 両膝をその場について肩を落とすケビンを千里眼で見た省吾は、教室に戻れない苦痛を忘れて同情から表情を歪ませた。どうしてもイザベラと付き合いたいケビンは、床に向けていた顔を上げ、縋るような目線を送った。


「イザ……ベラ? もしかして、他に気になる奴でもいるのか?」


 イザベラを見続けていたケビンだからこそ気が付いたのだろうが、彼女はいつの間にか誰かの事を思い出すように目線を上に向けていた。


「えっ? そんなんじゃないわよ。勘違いしないでよ」


 顔を赤くしたイザベラは、顔を左右に振りながら、狼狽えた。それは、ケビンの質問に対する十分な答えになっている。


「ほら、あんた、もてるし。別にいい子探しなさいって。ね? もてるんだし」


……もてる以外の理由は無しか。ベーカーがかわいそうだ。


 音を立てない様にコーヒーを一口飲んだ省吾は、目を細めて鼻から息を吐き出す。そして、目線を自動販売機へと向けた。


……もしや、この場所はよくない事の切っ掛けになりやすいのか?


 イザベラに続いてケビンがその場をさり、低い音を立てている自動販売機を見つめていた省吾も、廊下を歩き始めた。


……兵長へ、報告は。いや、まあ、いいだろう。


 堀井への報告内容について考える事すら投げ捨てた省吾だったが、顔の険しさは消えていない。その顔を見た、まだ誤解が解けていない生徒達は省吾に道を譲り、小さな声で陰口を呟いていた。


「おはようございます。急な休みでしたが、皆さんは十分な休息がとれましたか?」


 チャイムと共に教室を訪れた堀井は、生徒達へ晴れやかな顔で挨拶を返し、やる気を出させようとしている。だが、不穏な空気が漂っている教室では、生徒達が顔をひきつらせていた。


 唯一、堀井に笑顔を向けた綾香も、表情筋が微妙に痙攣している。


……うん?


 急いで無表情な上官に顔を向けた堀井に対して、省吾はいつも通り凄い速さで目を逸らした。


「はぁ……では、ホームルームを始めますね。あっ……失礼。先に出席を取ります」


 省吾の目を逸らす癖が分かり始めた堀井は、色々な事を諦め、出席簿に書かれた生徒の名前を上から読み上げていく。


……なにやら、兵長が誤解した可能性があるな。


 省吾は出席の返事を済ませ、少しだけ顔を赤くしている彰へ目を向けた。その彰は肩を震わせ、怒りからか歯を食いしばっている。


 堀井が教室へ来る十五分ほど前に、勇気を出した彰はイザベラに謝罪をした。それに対して、イザベラは目も合わせずに、どうでもいいと返事をしたのだ。


 怒っているならば、まだ脈があるのではないかと勘違いした彰は、お詫びをしたいといい始めイザベラを食事に誘った。その彰の言動が、我慢しようとしていたイザベラの導火線に火をつけてしまい、彰はケビンとは比べ物にならない程きつい言葉を浴びた。


 教室にいる者達は、二人の事情を大よそ知っており、クラスメイトの前で恥をかいた彰に同情する者は少なかった。立場を向上させるには時間が必要だが、転落させるのに時間は必要ない。


 また、一度転落を始めると、それを止める事は難しく、彰よりも先に転落してしまっている省吾はいまだに苦労している。教室内で省吾だけが彰に同情し、二人のやり取りを見てケビンの元気が戻った事だけは救いかなどと考えているが、顔には出さなかったせいで誰にも気付かれていない。


……今回は、報告する時間すらなかったんだがな。俺のせいか?


 ホームルームが始まってからも顔の赤みが引かない彰は、脳内でイザベラに対して酷い言葉をぶつけ続けていた。そして、どのようにすれば自分の恥が誤魔化せるかと、言い訳を幾通りも考えている。その場で、その恥が払拭できるものではないと冷静になれば彰にも分かるだろうが、頭に血が上っている為に気が付けない。


 個人差はあるが女性に比べ、男性の精神的な成熟には時間が必要であり、彰にはまだその時間と経験が不足しているらしい。


「では、これで……」


……なんだ?


 ホームルームが終了する少し前に、彰が突然顔を上げた。そして、省吾に輝いた目を向ける。その視線に気が付いた省吾だったが、目を向けずに気配だけを探った。


「えっ……はい? なんでしょうか? 神山君」


 手を挙げた彰が立ち上がり、自分の地位を守る為に動き出した。それは、あまりにも幼稚で情けない手段だといえるだろう。


「実は、木曜の夜なんですが、僕はある現場を目撃しました」


 省吾が学園で戦った夜の事を喋り始めた彰のせいで、省吾だけでなく堀井や綾香の顔にも緊張が走る。


「このクラスの、ある男子が下級生に暴力をふるい。金を奪おうとしていたんです!」


 一度安心した堀井だったが、聞き流せない事をいい出した彰に、真剣な目を向け、相手の名前を明かさないように注意しようとした。だが、堀井が止める前に、どうしてもその場で相手の名前をいいたかった彰が、大きな声で発表した。


「それは、そこにいる井上省吾です! 僕が止めなければ……」


 クラスメイトの目が、一斉に省吾へと向かった。


……また、俺か。何故俺は、犯人にされやすいんだ?


 人を貶め、自分の地位を向上させようとした彰の考えが手に取る様に分かった省吾は、堀井からの目線に気が付いた。そして、目を閉じた省吾は、必要なら謝ると無言で伝えるつもりで、表情を緩める。


 その省吾は、堀井の顔に怒りが浮かんでいる事を見逃した。温厚な堀井でも、命懸けで戦った省吾に濡れ衣を着せようとした彰に怒りを隠せないらしい。


 また、省吾が命懸けの代償として病院で生死の境を彷徨ったとよく知っている綾香も、先程の彰以上に顔を赤くして怒っていた。


「神山君? 君は何をいってるんですか?」


 省吾が言い訳をしても、クラスメイトは自分を信じるだろうと考え、彰はクラスでヒーローになれると笑顔を浮かべていた。


「はい?」


「何故、そんな嘘をついたか……訳をいいなさい」


 目つきが鋭くなり、声が低くなった堀井を見た彰の顔から、血の気がどんどん引いていく。


……うん? 兵長?


 一目でわかるほど怒っている堀井を見て、彰以外の生徒も驚いていた。それほど、堀井は怒らないと思われていたのだ。


「あの……先生……俺……僕は……その……」


 彰を下手にかばうことも出来ない省吾は、顔をしかめて堀井と彰を交互に見ていた。


「井上君は、木曜日の夜。私達と一緒にいました」


……兵長?


 隠さなければいけない事を部下が喋り始めたと思えた省吾が、顔色を変える。


「学園から逃げ出したファントムから、偶然通り掛かった井上君は人を守りました。その彼に、何故君は濡れ衣を着せようとするんですか?」


……俺に合わせろと?


 立ち上がろうとした省吾は踏みとどまったが、代わりに綾香が立ち上がる。


「私もその場にいました! 神山君! 貴方は最低です!」


……うわっ。高梨さんまで。


「嘘つき……信じられない……」


 彰に向かって怒りをぶつけた綾香は、怒ったまま椅子に勢いよく座り、彰から分かりやすく顔をそむけた。


 堀井の怒った姿に呆然としている生徒達だが、彰が嘘をついたのだとは理解しているらしい。省吾には誰も目線を向けていない。


 綾香の言葉で力なく座った彰は、俯いたまま何も喋れなくなっていた。


「神山君。昼休みに、生徒指導室に来なさい。いいですね?」


「はい……」


 今にも消えそうな声で返事をした彰は、顔を上げることが出来ず、そのまま小刻みに体を震わせた。


「おはようございますぅぅ。あらぁぁ?」


 長引いたホームルームが終了し、堀井と交代で教室に入ってきたエマは、教室の空気で首を傾げた。そして、急いで上官に目を向けるが、その上官は再び目線を教壇から逸らした。


 省吾は授業中に携帯電話を握った手を机で隠し、堀井宛てのメールを作成した。それに気が付いた者は、教師であるエマを含め数人いたが誰も注意しない。


……さて、これでいいだろう。


 堀井宛てのメールに彰の状況を入力し終えた省吾は、文面を一度読み返した後に送信ボタンを押した。


 そのメールに、省吾は自分が読み取った彰の心の動きについて記載しなかった。それは、堀井ならばそれに近い答えへ、自分でたどり着くだろうと予測しての事だ。堀井から個人的に色々な事を教えてもらっている省吾は、それだけ部下である堀井の内面も信頼しているのだ。


「はぁぁい、皆さぁぁん。では、プリントを配りますねぇ」


……なんだ?


 机の前列へ後ろに回す分を含めたプリントを配るエマは、省吾に数回目線を投げかけていた。


「では、あの時計で五十分まで、一度自分で答えを書き込んでみてくださぁい。いいですかぁ?」


 壁に掛けられた時計を指さしたエマは、もう一度省吾へ少しわかりやすい目線を送った。


「はぁ……」


 エマが自分に向ける視線の意味が分かった省吾は、プリントを後ろの席へ回すと同時に溜息をついた。そして、少し前にポケットへ戻した自分の携帯電話を再度取り出し、堀井へ送ったメールをエマへも転送する。


「ふふっ……あら?」


 黒板の隣に置かれたパイプ椅子に座ったエマは、ポケットの中にあるマナーモードにした携帯電話が振動した事で笑った。そして、その振動がおさまるともう一度携帯電話が振動し始めた為、緊急の連絡の可能性も考え、素早くポケットに手を差し込んだ。


「あらぁぁ……」


……どうしたものかな。


 省吾のメールだけでは足りていない情報を、綾香からのメールで補足されたエマは顔上げた。その顔は笑っている。だが、目が笑っていない。


 エマに怪しい笑顔を返す綾香を見た省吾は、頭を無造作に掻きむしる。彰がこれ以上追い込まれては能力に影響が出るかもしれないと心配した省吾は、仕方なく上官の命令として何もするなとメールを送った。


「はぁ……」


 プリントの空欄を全て埋めた省吾は、エマと綾香からの視線を確認し、眉間にしわをよせて溜息を吐く。年は若いが、国連軍内で中間管理職にあたる省吾の心労は、少なくない。


……居たたまれないとはこの事だな。


 一時限目の休憩時間に続いて、二時限目の休憩時間も自分の席で俯き続け、小刻みに体を震わせている彰を見た省吾は自分の席から立ち上がった。そして、時間潰しの意味も込めて、一階にある自動販売機へと向かう。


……次から次に、忙しいクラスだ。


 携帯電話のメール機能を使って部下とやり取りをする省吾は勘が少し鈍っており、自分への視線に気が付けなかった。


……駄目だ。この自動販売機は駄目だ。


 小銭を自動販売機に入れ、コーヒーのボタンを押した省吾は、人の気配がした廊下の先へと目を向けた。そして、その自動販売機の利用について、本気で検討を始める。


「あんたにいいたい事があるの」


「な……なんでしょうか?」


 怪訝な顔をした省吾は、自分の前で胸を張って仁王立ちするイザベラに少し気圧され、仕方なく返事をした。


「前に、私の誘いを断ったわよね?」


「はぁ……」


 プラスチックの透明な扉を開き、紙カップに入ったコーヒーを取り出した省吾は、困った顔をしたまま返答する。


「私は今でも、あれがムカついてるの。だから、殴らせなさい」


……あの時の記憶はないはずだ。なら、うん、無茶苦茶だな、こいつ。


「遠慮します」


 笑いながらこめかみに青筋を浮き上がらせたイザベラは、脇を締めて腕を引いた。


……なるほど、拳か。遅い!


 省吾はコップのコーヒーをこぼす事なく廊下を蹴り、滑る様にイザベラの攻撃を回避していく。


「なんで、避けるのよ! このっ! こらぁ!」


……怪我が回復していないからな。遅い!


 半日ほどで活動を再開した省吾ではあるが、怪我の回復はまだ七割に満たなく、完治とは言い難い。その為、イザベラだけでなく、マードックや綾香にも体に触れるなといっているほどなのだ。


「ちょっとくらい! いいじゃないのぉ!」


……昨日、抜糸したばかりなんでな。甘い!


 相手の死角へ体を滑り込ませる省吾の姿は、ファントム化したイザベラとの戦いを思い出させるが、その時とは違い避けながらコーヒーを飲むほど省吾に余裕がある。


「もうっ! 何よ! 殴っていいんじゃないの?」


……何?


 イザベラの記憶が無くなっていると思っていた省吾の動きが、そのイザベラからの言葉で止まった。


「えい! これで許してあげるわよ! 感謝しなさいよね」


 イザベラからのデコピンをうけた省吾は、目を少しだけ細め、記憶について確認する為に問いかけた。


「俺は、そんな事いったか?」


「何いってるのよぉ。頭悪いんじゃないの? あの時、はっきりいったじゃない。あの……あれ? えっと、あの時よ……あの……」


 必死に思い出そうとするイザベラが、芝居をしている訳ではないと省吾にもわかった。しかし、眉間にしわを寄せた。そして、その思い出そうとするイザベラを止める為に、謝罪を口にする。


「すまなかった。勘弁してほしい」


 自分がイザベラの記憶を戻す切っ掛けになってしまうかも知れないと考えた省吾は、心の中にある警戒レベルを一つ引き上げた。


……どうする? 高梨さんかロスさんに見張ってもらうか?


「わっ……分かればいいのよ! じゃあ、デートは今度ね」


……うん? あれ? えっ?


 その場を足早に離れるイザベラは笑顔だが、省吾は瞬きを繰り返している。そして、イザベラには空想と現実の区別がついていないのではないかと、省吾は本気で疑った。


……取り敢えず、昼休みにでも高梨さんと相談するか。


 コーヒーを飲み終え、氷だけになったコップをゴミ箱に捨てた省吾は、頭を掻きながら教室へと戻っていく。


「はぁ……」


 三時限目の授業を終え、いつも通り趣味の雑誌をバッグから取り出した省吾だったが、浮かない表情をしていた。そして、ちらりと視線を教室の中央へ向ける。


 教室には尚も俯いたまま動かない彰がおり、喋り辛いと思えたクラスメイト達は全員部屋から出て行った。その為、教室にいるのは省吾と彰だけなのだが、流石の省吾でも無言のプレッシャーを感じてしまい、読書に集中できない。


……兵長に任せるしかないが、これはかなりまずいな。俺が犯人になった方が、よかったんじゃないか?


「ふぅ……」


 省吾が少し強く息を吐き出すと、雨音だけが聞こえていた教室で、彰がびくりと体を反応させた。


……なるほど。無理だ。


 判断が早い省吾は開いていた雑誌を閉じて、その場にとどまる事を諦めた。そして、バッグに素早く雑誌をしまい、教室を出る。


……神山を立ち直らせる方法か。どうすればいいんだ?


「あっ、井上君」


 取り敢えずではあるが、トイレへと向かっていた省吾を、前方から歩いてきたリアが呼び止めた。


「なんだ?」


 リアの取り巻きらしきSPの女生徒二人は、リアの背中に隠れるように省吾と距離を取っていた。


「五時限目の選択授業だけど、私達は視聴覚室だって」


「そうか。ありがとう」


 返事を聞いたリアは、そのまま何事もなく取り巻きを連れて省吾から離れて行った。リアの後ろについていく女生徒達は、怯えながら省吾の事をちらちらと振り返りながら見ているが、リアが何かを喋るとそれを止めた。


 聴覚系の超能力を持たない省吾には、大勢の生徒達が雑談する廊下で、それを聞き取る事は出来ないようだ。眉をひそめて腕を組んだ省吾は、そのままリアの背中を見送った。


「あっと……」


 トイレに向かっている途中だった事を思い出した省吾が振り向くと、そこには自分と同じように難しい顔をしたイザベラがいた。


……うん?


「あんた。その、顔がいけないのよぉ。特に目付きが」


 イザベラに何か注意をされたらしい省吾だったが、脳が上手く回転せず、瞬きが自然と増える。


「ほら、もっと笑いなさって」


 笑えと省吾にいったイザベラは、そのまま返事も聞かずに歩き出した。


……なんだ? どうなってるんだ?


 空気が読めないわけではない省吾には、今の異常事態が誰よりも分かっていた。休日前は休み時間に女生徒から話し掛けられる事など有り得なかったのだから、省吾でなくとも分かりはするだろう。


……いや、悪い事ではないが。なんだ? いったい?


 相変わらず生徒達から廊下で避けられる省吾だが、何かの歯車が回転を始めてしまったらしい事は感じていた。運命の歯車は、人間の意思に関係なく回り始めるのだから、仕方のない事なのだろう。


……学生達は、同性の友人をどうやって作っているんだ? 何故、女性ばかりなんだ? これではゲームが。


 省吾は四時限目の授業を、友人関係の事について考察する時間にあてた。


「ふぅ」


 昼休みになっても机から動かない彰を見た省吾は、息を吐きながら教室を出た。それは、彰のせいではなく別室に元々用があったからだ。人気が少ない場所で別室への隠し扉をくぐった省吾は、昼食を買わずにまず堀井がいるであろう部屋へと向かった。


 省吾の予想通り、別室には弁当を食べる堀井がおり、省吾はその鼻息を荒くした担任へと近づいていく。


「あの、堀井先生?」


 兵長ではなく先生と呼ばれた堀井は、教師としての顔を省吾に向けた。


「あの、神山の事ですが……。出来れば穏便に……」


 渋い顔をした省吾は、上官としてではなくクラスメイトとして彰をかばいたいらしいが、立場上強気には出ない。


「いいえ! 神山君には、ここではっきりといっておくべきです! おっと、失礼」


 堀井の口からとんだ米粒を難なく躱した省吾だったが、いいたい事が上手くまとまらず、眉が歪んだままだ。


「いいですか? 中尉」


 お茶で口の中に残った物を胃に流し込んだ堀井は、ペーパータオルで口を拭い、教師としての意見を省吾に説明した。


 大人である堀井には、彰が以前から恰好をつける癖があると分かっていた。それは、なんら問題ではないといった堀井だったが、嘘と強い英雄願望が良くないとも口に出した。


「学生時代の男子特有のそれと、嘘が重なると、人生を狂わせる切っ掛けになります」


「はぁ……」


 椅子に座らされた省吾は、少し小さくなって部下からの話を聞く。


「英雄願望に至っては、彼が兵士になった場合に、自分だけでなく周りも危険にさらしてしまう事は、中尉もよくご存じじゃないですか」


「はぁ……」


 椅子に座って俯いている省吾を見て、周りの職員や兵士達は珍しく怒られているのかと勘違いして、足を止めていた。


「自分の分を自分で理解するまで、生徒が道を踏み外さない様にするのが、我々教師の仕事です! それから……」


 堀井は自分が調子に乗ってしまっていると気が付き、自制する為に急いで口を押える。そのおかげで、次の言葉を飲み込むことが出来た。


 堀井は、命を真っ先に投げ出そうとする省吾の事まで注意しそうになったのだが、それは部下としていってはいけない。何よりも、省吾がそれを選ぶのは英雄願望ではない。ただ、必要な場合に自分の命すら投げ出せるだけだと、堀井も理解している。


 一人の友人として自分を大事にして欲しと頼む場面ではないと、頭のいい堀井は分かっているのだろう。


「あ……ええぇ。まあ、その、一度教師として諭すべきだと思います」


「はぁ……。ただ、大事なセカンドの生徒なので、出来れば立ち直れる方向で、お願いします」


 弱弱しく堀井に頼み込んだ省吾は、笑い声がした方向へ顔を向けた。笑っていたのは、省吾より立場の低い兵士や職員達ではなく、好きな人の顔を見に来たマードックだ。


「あの子。能力も隠すし、私も気になってたのよ。ちょうどいい機会ね」


「余計な事をいうな。イリ……博士」


 省吾の視線が鋭くなり、マードックは笑顔を崩さずに顔を逸らした。そして、近くにあった木製のハンガーに持っていた白衣を掛ける。


「まあ、生徒を潰したいなんて考えていません。ここは、任せてください」


 マードックに水を差され、頭から少しだけ血が下がった堀井は食事を再開した。


「はぁ……」


……もう、任せるしかないか。


 諦めて立ち上がった省吾は、空腹を感じて腹部を撫でた。そして、マードックに目を向ける。


「お前、また昼は食べないつもりか?」


 省吾の気遣いが嬉しかったマードックは、先程までとは比べ物にならない笑顔を作り、想い人へ顔を向ける。


「何? 心配してくれるの?」


 マードックの返事にむっとした省吾は、軍拠点へと繋がる扉を指さしていた。


「当たり前だ。これから俺も買いに行くから、行くぞ」


 飛び跳ねるように省吾に近付いたマードックは、自分の口に出した言葉を後悔する事になった。


「あら? おごってくれるのかしら?」


「俺より給金が高いお前にか? そんな不合理な事はしない」


 笑顔が陰ったマードックだが、扉を開いて待つ省吾に従う事にしたらしく、素直に地下通路へと向かった。


 冬の雨による影響で、全面が金属で出来た通路は、地下にあるにもかかわらず驚くほど気温が低下していた。暖房で適温が保たれていた別室から、その地下通路へ出た足音を響かせる二人の息が白くなる。


 研究所よりも温度が高かった別室内で、暑いと感じた為白衣を脱いだマードックは、その事を後悔した。そして、身震いと共に顔をしかめ、早く地下通路を抜けようと足を速める。


「えっ……」


 マードックは不意に寒さが緩和され、自分の状況を理解すると、珍しく顔を紅潮させて足を止めた。


「んっ? 立ち止まるな」


 省吾からかけられた黒い制服の上着が、落ちない様に手で掴んだマードックは、苦しいほど鼓動を高鳴らせて笑顔を作る。


「何よ。貴方にしては、気が利いてるじゃない」


……寒いくせに足を止めるお前は、珍しく理にかなってないがな。


 笑顔すら浮かべていない目を細めた省吾は、マードックに自分なりの理由を淡々と説明した。


「女性より、基礎代謝が高い男性の方が体温を維持できる。それにお前は、皮下脂肪が少なすぎるんだ」


 予期せず訪れた二人だけの空間で、頭が科学者ではなく女性になってしまっているマードックは、省吾の説明で不安を感じてしまう。


「もしかしてエースって、ふくよかな体格の女性が好みなの?」


 不安を表情に出しているマードックは、省吾の目がどんどん細くなっている理由が、空腹のせいだと分かっていない。


……早く昼食をとりたいんだがな。


「いや。外見に好みはない。お前が、明らかに平均値よりも皮下脂肪が少ないといいたかっただけだ」


 好みがないと言い切った省吾に、色気のある会話を求めるのは間違いだと思いつつも、ついマードックは二人だけの時間に期待してしまう。


 だが、脳からのある信号が届いている省吾は、マードックの出す空気を読めない訳ではないが、敢えて無視する。寒い場所にマードックを長居させたくない気遣いも含まれてはいるが、主な理由は空腹だ。


「エース……あのね……私……えっ?」


「腹が減った。早く昼食にしたい」


 通路の先を指さした省吾に雰囲気を壊されたマードックは、白く変わる息を大きく吐き出した。


「ああ……はいはい……ポテト食べたいのね」


……何か険があるな。まあ、いい。それよりも飯だ。食える時に食っておく。これが、兵士の鉄則だ。


 省吾から借りた上着に両腕を通したマードックは、ヒールの先を床にぶつけて歩みを進める。


「ああ、後で返せよ。今日は替えを持っていないからな」


 脳内が通路の空気並に冷えていくのを感じたマードックだが、頬の赤みは少しだけ残っている。色気の欠片もない省吾に不満はあるようだが、優しい気遣いをマードックは素直に嬉しいと感じているようだ。


「あらぁ? 中尉」


「あっ! 先……輩?」


 省吾達よりも一足先に軍拠点へ来ていた綾香達三人は、ストア内で省吾の上着を着たマードックを見て動きが止まる。


……リベラ伍長は、二人と仲良くやっているようだな。良い事だ。


「お疲れ様」


「あっ、はい。お疲れ様です」


 買い物かごを取った省吾に、綾香だけが返事をした。エマとジェーンは、マードックを凝視したまま動かない。


「うふふっ……羨ましい?」


 エマ達三人に近づいたマードックは、好戦的な性格からか煽るような言葉を呟いた。


「べっ! 別に!」


 分かりやすく青筋を立てたエマに、マードックの呟きが聞こえなかったはずの省吾は目を細めていた。


 省吾はマードックの呟いた内容を推測している訳ではなく、白人特有の白い肌で目立ちやすい青筋に注目しているのだ。フランソアのせいで、いつの間にか省吾は怒った女性が不得意になっているのかもしれない。


「通路が寒かったからじゃありませんか? 井上君は誰にでも優しいですし」


「うっ……」


 エマを煽っていたマードックは、綾香から的確に見破られ、言葉を失った。


「何よ。その顔は……」


 三人の笑顔を見たマードックは不機嫌な表情を作り、買い物かごを乱暴につかむ。


「ほら。早くしないと、エースは勝手に食べ終わっちゃうわよ」


 肉とフライドポテトを四パックかごに入れた省吾は、中身を確認するとそのままレジカウンターへと向かう。そして、そのまま支払いを終えると、ストアの出口へと向かった。


「ちょっと! 待ってください。中尉!」


「あの、先輩! すぐ買いますから!」


……待つ? 何故、待つ必要があるんだ?


 それぞれが自由に選べばいいとしか考えてしかいない省吾は、首を傾げながらも四人の女性を待つことにした。


 それから戻った別室で同時に食事を始めた五人だったが、量が多いはずの省吾が一番早く食事を終えた。その理由はごく単純で、省吾は会話が少なく、食事を噛み砕くのが早いからだ。


「高梨さん。食べながらでいいから、聞いてくれるか?」


 省吾から唐突に話し掛けられた綾香は、動揺しながらも噛んでいた物を急いで飲み込んだ。


「イザベラ・ハリスについてだが……。記憶が戻っていないか。もしくは、戻る兆候が無いかを見張って欲しい。今日なんだが……」


 綾香だけでなくマードック達も、省吾の説明で顔色を変えた。四人は特区の秘密について心配している訳ではなく、イザベラが省吾にちょっかいを出している事が気になったのだ。


「殴っていいといったのは……。本来、彼女は覚えていないはずだ……」


 ジェーンは、考え事を初めた省吾を見つめていた。そして、マードックとエマも、省吾から発せられるであろう次の言葉を待っている。その為、三人は綾香の表情が変化した事と、瞳から漏れ出した黒い感情に気が付けなかった。


 テレパシーの影響だと思われる光景を見た綾香だけが、省吾の呟いた言葉を正確に理解した。そして、嫉妬の感情を抱いたのだ。


 胸が苦しくなった綾香はシャツの胸元を右手で掴み、呼吸を早めていく。綾香にも、省吾が分け隔てない性格だと分かってはいるようだが、恋は人の感情を狂わせ、心を縛り付けてしまう。


「記憶は……イザベラの記憶は、戻ったのですか?」


 胸を掴んだまま歪んだ笑顔を作った綾香は、省吾に問いかけた。その綾香は心の中で、イザベラの記憶が戻っていて欲しくないと、本気で願っている。


……また、表情がおかしいな。


 綾香の変化に気が付いた省吾だったが、その事を口には出さなかった。それは、心を縛られた綾香が、省吾の前でいままで奇行を続けたせいだ。


「多分、戻っていないはずだ。俺のせいで記憶が戻っても厄介だから、問い詰めてはいないがな」


 省吾の返事を聞き、綾香の表情が緩まった。そして、その綾香は急いで次の質問を省吾に投げかける。


「あの、井上君は、イザベラの記憶が戻って欲しくないんですよね?」


 その質問には、省吾だけでなく他の三人も疑問を感じて、綾香に顔を向けた。


「当然だ。俺の事はともかく、敵能力者の事を思い出されては特区の危機にもつながる。高梨さんとロスさんのように、彼女が聞き分けてくれるとも思えないしな」


……何よりも、異性ではなく同性の友人が欲しい。対戦がしたい。


 腕を組んで鼻から息を吐き出した省吾は、目線を綾香から逸らし、忙しくて遊ぶ回数が減っている趣味の事へ思いを巡らせる。綾香の頭が悪くないと思っているエマは、あまりにも馬鹿げた質問に、首を傾げたまま問いかけた。


「当たり前でしょ? どうしたの? 綾ちゃん」


「あっ! ああ、あの! 念の為です! ほらっ! 確認は大事じゃないですか!」


 省吾の返事で心の平穏を取り戻した綾香は、顔を赤くして必死に自分の真意を誤魔化した。


「綾香? 貴女、変よ」


「先輩、大丈夫ですか? 真っ赤ですよ。顔が」


 自分は大丈夫だと顔を赤くしたまま誤魔化そうとしていた綾香は、咄嗟に話を逸らした。


「えと、あっ! イザベラの事は、私とジェーンが監視します。いいわよね? ジェーン?」


「あ、はい。頑張ります。あっ! 危ない!」


「きゃあぁ!」


 膝の上に置いていたカップ入りのグリーンサラダを、立ち上がった勢いで床に散乱させた綾香は、パニックに陥った。


「もう! 何してんのよ!」


「ほらぁ。しみになるから、先にシャツを……」


 それぞれが持っていた食事を机に置いたエマ、マードック、ジェーンは、急いで綾香の片づけを手伝う。高い声で騒ぐ四人は、椅子に座って腕を組んだまま目を閉じた一人の男性が、考え事をしていると気が付かない。


……イザベラ・ハリスの監視も必要なら、いよいよ厳しいな。


 四人の騒ぎが落ち着くまで、省吾は自分のスケジュールを真剣に頭の中で調整する。


……まだ、ストーリーが半分も終わっていないんだがな。残念だ。とても、残念だ。


 忙しくなる事が事前に分かっている省吾は、趣味にあてる時間について、誰にも悟られずに一人で嘆く。情けない姿を見られて涙目の綾香に、趣味の事を考える省吾は気を回さない。


 悲しそうに天井を見つめる省吾が、ゲームを進めるのは、まだ先の事になるのだろう。

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