弐
学園に隣接された研究所内の椅子や床で、徹夜が続いた研究員達がいびきをかいている。その研究員達に、堀井が仮眠室から持ってきた毛布をかけた。
「ふぁぁぁ……」
研究員達を気遣う堀井も、前日から眠っておらずあくびをする。涙を指で拭ったその堀井は、謎の金属を調べる研究員の警護を続けているのだ。研究員達と違い、する事の少ない状態で堀井は待機していた為、眠気がピークに達しているようだ。
「もう、こんな時間か」
堀井が腕時計を確認すると同時に、日本特区に朝日が差し込み始めた。
「ふぅ……。コーヒーのお替り!」
強く息を吐くと、マードックは部下の一人にコーヒー用のマグカップを勢いよく差し出した。その指示を受けた部下は、コップを掴み急いで給湯室へと向かう。視線を腕時計から白衣を着たマードックの背中にうつした堀井は、その見つめた相手の声に苛立ちがあると分かっている。
「まだ、切っ掛けが掴めていないようですね……」
堀井は軍用の携帯電話をポケットから取り出した。そして、それに転送しておいた警護の時間表から、自分が後何時間待機する必要があるかを逆算する。
「ねえ? 砂糖とミルクは?」
眠気で頭が回らなくなっているマードックの部下は、上司からの質問で給湯室へともう一度走る。
「そろそろ皆、限界かしら……」
覗いていた顕微鏡から顔を上げたマードックは、周囲へ目を向けて呟いた。蛍光灯により照らされた研究機材の並ぶ明るい室内で、大勢の研究員が眠ってしまっている。その者達は機材や資料にかじりついた状態で寝息を立てており、本当に限界を迎えて眠ってしまったのだろうと推測できる。
マードックが日本特区に来てから、研究員達は失われたデータをほぼ徹夜で作り直していたのだから、仕方のない事なのだろう。
「あら? 貴方も眠そうね」
部下から受け取ったコーヒーにミルクと砂糖を入れたマードックは、椅子を回転させて堀井を見つめていた。
「あ、申し訳ありません」
目を擦って日本人の癖である謝罪を口にした堀井に、マードックは返事をしない。ただ、表情から謝る必要はないと、マードックが考えているらしい事は分かる。
「あの……どうですか?」
堀井の何気ない問いかけで、コーヒーを飲んでいたマードックの眉間に深いしわが刻まれた。それを見た堀井は、自分が失言をしてしまったのかと考え自然と視線が逸れる。
「全然駄目ね。こんな硬い金属、初めてよ。分子解析も出来ないし……」
マードックが不機嫌になった理由の分かった堀井に、単純な疑問が浮かんだ。それは、優秀なマードックに解析できない物が、何故生徒に操れたかという事だ。解析の方法自体が間違えているのではないかと考え始めた堀井ではあったが、専門家に意見出来るほどの勇気はない。
「ああ! もう! 私は何を見落としてるの?」
マードックは、カップが割れるのではないかと思えるほどの勢いで机に置き、焦りを口に出した。その大きな音で、眠っていた研究員の何人かが体をびくりと反応させて、眠たそうな顔を上げる。
冷静に見えているマードックだが、内心は解析が進まない事で、追い詰められ始めているのだ。敵がファントムを再度使うまでに解析をする必要があると、マードック自身が一番分かっている。そして、解析が済めば省吾の危険がかなり減るとも、考えているのだろう。
「折角……折角、エースが頑張ったのに……」
悔しさから強く目蓋を閉じたマードックは、自分の目の前に答えがあると気が付けない。
「博士!」
「えっ? これは……」
堀井の声で目を開いたマードックは、ロザリオから微量に噴き出し始めた黒い霧を認識した。
「下がって!」
サイコキネシスの力を溜めた堀井は、マードックに向かって走り出そうとした。だが、その堀井に背を向けたままのマードックが、手を上げて焦らなくていいと知らせる。
「大丈夫みたいよ。この量ではファントム化しないようね」
黒い霧がすぐに霧散したことで、堀井も幾分か緊張を緩めた。白かったロザリオが微妙に黒くなった事に気が付いたマードックは、乾隆とイザベラの事を思いだした。そして、口角を上げる。
「なるほどねぇ……」
掌にサイコキネシスを溜めたまま身構える堀井に、マードックが顔を向けた。
「李乾隆から話が聞きたいわ」
「はい? あの……」
状況が全く理解できない堀井は、身構えたまま動かない。その堀井を、マードックは急かした。
「急いで! 早急に手続きを! 李乾隆が寝てるなら、叩き起こしなさい!」
「はっ! はい!」
閃きによりマードックが目を輝かせ始めたのと同時刻、病室のイザベラが上半身を起こした。そして、ベッドの上できょろきょろと周囲を見回している。
「イザベラ? 大丈夫ですか?」
ジェーンと交代で見張りをしていた綾香が、目を覚ましたイザベラに気が付き、恐る恐る声を掛けた。ジェーンはまだ、ソファーで眠ったままだ。
「綾香……」
自分を見るイザベラを見つめ返す綾香は、尚も緊張した顔を維持している。
「ここどこ? 何があったの?」
ぱちくりと何度も瞬きをするイザベラは、綾香に軽く首を傾げて見せた。
「あの……もしかして、覚えてないです?」
イザベラが何も覚えていない可能性は、既に考慮されており、その場合の対処方法まで綾香は指示されている。ただ、その対応を間違えれば、更に面倒になる事は間違いない為、イザベラからの返事を待たなければいけなかった。
「覚えてる? えと……彰と喧嘩して……図書館で眠って……あれ?」
演技ではなくイザベラが何も覚えていないと確信した綾香は、友人の無事を喜び、抱き着いていた。
「よかったです! イザベラ!」
「ちょっ! 何よ!」
イザベラの声でジェーンも目を覚まし、少しだけ泣きそうな笑顔を作った。
「イザベラ先輩! よかったぁぁ!」
訳の分からないまま二人に抱き着かれたイザベラは、どうしていいかも分からず、なすがままにベッドへと倒れ込んだ。友人の無事を喜ぶあまり抱き着いてしまった綾香が、任務を思いだして相手の胸元から顔を上げた。
「図書室で、ファントムに襲撃されたんですよ。その時に、棚が貴女に倒れてきたらしいです」
ファントムの事を思い出せないイザベラは、首を傾げたまま綾香の説明を黙って聞いている。
「ファントムは、特務部隊の方が処理したそうです。ただ、貴女は打ち所が良くなかったようで、目を覚ましませんでした」
綾香の冷静な説明で、ジェーンも自分の台詞を思い出す。
「学校を休まれたと聞いて、私達が確認したら入院してると教えられて、心配しました」
二人の事を疑う材料が無いイザベラは、素直に納得したらしく、綾香に説明された事を思い出そうとしているようだ。
「駄目ね。覚えてないわ……痛っ!」
イザベラの声で、ジェーンが急いで相手の体から手を離す。
「えっと……本棚と床に挟まれたんだっけ? 頭じゃなくて、手首と胸が痛いわ」
痛めたのが頭ではない理由がよく分かっている綾香とジェーンは、お互いに見合わせて誤魔化すような笑顔を作る。
「あっ……」
胸元に痣が出来ていないかを確認していたイザベラは、何かを思いだして顔を綾香に向けた。そして、質問する。
「綾香? 彰が自分に気があるって分かってた?」
イザベラからの言葉に驚いた綾香だが、軍務ではなく友人としては嘘をつきたくないと考える。
「いえ、知りません。間違い……ではないんですね?」
綾香は真剣な目をしたイザベラが、嘘をついているとは思っていないのだろう。
「神山君は、誰にでもいい顔をしますし……その……」
申し訳なさそうに目線を泳がせる綾香を、イザベラは手招きして顔を近づけさせた。
「ひぐっ!」
顔を近づけた綾香の目に、火花が散った。それは、イザベラからお見舞いされた頭突きのせいだ。
「気付きなさいよ。鈍感」
涙目でおでこを擦る綾香は、潤んだ瞳をイザベラに向けて無言で抗議する。
「もう! それを知ってれば、無駄な時間を費やさなかったのにぃ……」
自分は悪くないといわんばかりに胸をはったイザベラへ、綾香だけでなくジェーンも呆れた目線を向けていた。
「えっ?」
胸を張っていたイザベラは、少しだけ力なく笑うと綾香に頭を下げる。そして、初めてかも知れない本音を漏らした。
「ごめんなさい。綾香は悪くない。分かってるの。でも、どうしても納得できなくて……。ごめんなさい」
イザベラが頭を下げる姿を初めて見た綾香は、それにどれほどの意味があるかが分かっている。
「よくわかりました。イザベラ……頭を上げてください」
綾香の声で素早く頭を上げたイザベラの表情は、晴れやかになっていた。そして、笑いながら友人に冗談を飛ばす。
「殴り返すなら、一発だけね。倍返しは無しだから」
三人はその冗談で、声を出して笑う。愛想ではなく、本当におかしいと思えたからだ。ただ、綾香の心にはイザベラと省吾の事がしこりのように残っている。そして、ジェーンの心にも前日の事で綾香とエマに対する不信感が残っていた。
綾香とジェーンがそれぞれの思いを飲み込んだのは、調和を望んだからではあるが、その行為が正しいといえるのかは疑問が残る。
「ふふふっ! ああ……えと、喉が渇いたんだけど……」
ファントム化した際にストレスが発散された為か、イザベラが一番晴れやかな気持ちになっていた。
「あの、これでいいですか?」
「ありがとう、ジェーン」
ジェーンが冷蔵庫から取り出した、紙パック入りの飲み物をイザベラは笑顔で受け取り、無意識に胸を撫でる。
「あっ! そうです。看護師さん」
綾香からの目配せに気が付いたジェーンは、無言でうなずいた。
「すぐ呼んできますね?」
「あ、よろしくぅ」
綾香は急いで病室から出ると看護師の常駐室に向かわず、配給された軍用の携帯電話で連絡を始めた。
「あっ……でも、井上君との事も忘れてる?」
イザベラが省吾と急接近するはずがないと、発信ボタンを押した瞬間に答えが出た綾香は、顔が明るくなった。そして、友人の回復と記憶について、隠す事なく軍本部へと報告を行う。
「嘘っ! 先生! 先生を起こして!」
「今、呼び出してます!」
軍本部への連絡を終えた綾香は、ナースステーションで騒ぎが起こっている事を知らない。そして、目を覚ました中尉の階級を持つ男性は、体に付けられていた電極を無断で外すと、アラームが上がる事を知らない。
省吾が命を掛けて戦った翌日の午前中は、夜通し働き昼夜が逆転した多くの者達に休息の時間として使われた。
「ふぁぁぁ……」
戦士達と同様に昼前にベッドから起き出した彰は、枕元に置いた携帯電話をまず確認した。そして、ぼんやりと部屋を見渡す。
彰が見回した部屋は、省吾の部屋よりも倍の広さがあり、有名デザイナーの作った鑑賞物としても見る事が出来る家具が並んでいる。また、カーテンや小物に至るまで、彰にはこだわりがあるのだろうと推測が出来るほど統一されていた。ただ、その部屋をおしゃれと感じるかは、見た人間それぞれで違うだろう。
「やっべ、切り忘れた」
一晩中電源を入れていた暖房を切った彰は、給湯器の電源を入れると風呂場へと向かう。
「あっ……あっ! あっあっ! 喉いてぇ……」
シャワーを浴びる彰は、シャワーの最中何度もうがいをして、喉の調子を戻そうとしていた。その彰は、自分の歌声に自信を持っており、誰かとカラオケに行きたいと考えていた。
「イザベラは……誘い辛いしなぁ。綾香に? うん、それがいいな。へへっ」
体をタオルでふき取り、髪をドライヤーで乾かした彰は、新しい下着を袋から取り出して身に付けた。そして、どれを着ようかと複数の服をじゅうたんの上に並べながら、携帯電話を手に取る。
「あれ? まだ、寝てるか? いや、綾香に限ってそれはないよな。トイレか?」
電話に出ない綾香の事を色々と想像している彰は、服を何度も着替え、鏡の前に立ってポーズをとり続けていた。
「かけなおしてくれるはずだし……ちょっと、待つか」
一人ファッションショーを続けると決めたらしい彰は、何度も携帯電話へと目線を送っている。だが、その携帯電話が鳴動することはない。
「カラオケが駄目でも、食事は付き合ってくれるだろうな。あっ……映画……は駄目だな。喋れない」
彰がすでに起きているはずだと勝手に思い込んでいる綾香は、イザベラの病室でジェーンと交代して眠っていた。突然の休日に浮かれている彰は、自分の着信がイザベラとジェーンに見られていた事を知らない。
「ね? こいつ、最悪でしょ」
イザベラから彰の事を聞かされたジェーンは、バスケ部での事を思い出していた。そして、自分へ向けられた優しい言葉にも下心があったのかと思い出して顔をしかめる。
ジェーンはすぐに彰の事を頭から消し、省吾に助けられた事を思い出しているが、大事な部分に気が付いていない。何の見返りも求めずに人を助ける省吾の行動は、一見すると素晴らしい様に見えるが、人間味があまりにもないともいえる。まだ、考えの読み取れる彰の方が、幼く不純ではあるが、人間らしいといえるだろう。
「えっ? ベーカー先輩に? ですか?」
「そうなのよ……でも、あいつ性格が私好みじゃないのよぉ……」
鼻歌混じりに髪をセットし始めた彰と違い、イザベラを心配して食事の量が減っているケビンは、自分が噂されているとは考えていない。
「そうですか? 女性には優しいですよ? 変な事もしないって、食事に行った友達もいってましたし……」
ジェーンの言葉で、イザベラは眉間にしわを作る。
「そこが嫌いなのよ……。付き合った後の、浮気とか……。絶対、悩まされそうでしょ?」
ケビンが自分を取り巻く女性達に優しくしている光景を、何度も目撃しているジェーンは、少し考えてうなずく。
真面目なケビンが、もしイザベラと付き合えば、浮気はしないだろう。だが、ナルシストである以上、自分の容姿を褒める女生徒達をむげにはしない。その事をパートナーが我慢するには、独占欲をなくすか、心を広くする必要がある。
綾香がベッドの脇机に置き忘れた軍用ではない携帯電話が、再び震え始めた。そして、サブディスプレイに神山の文字を表示する。
「神山先輩も、悪い人じゃないんでしょうけど……」
「ここまで来ると、悪いでいいのよ」
ジェーンの前置きを、イザベラはばっさりと切り捨てる。
「えと、えぇぇぇ……ちょっと、気持ち悪いですかね」
一時間以上かけて万全の準備を済ませた彰は、携帯を握ったまま部屋で百面相をしていた。その彰は鏡で自分の顔を映している訳ではなく、電話が返ってこない綾香について一人であれこれ考え、それが顔に出ているのだ。
「腹減ったぁ……ケビンでも誘って……いや、連絡があったら……くそっ、早く連絡して来いよぉ」
何度もリダイヤルとメール送信を繰り返した彰は、徐々に顔を暗くして行き、そのまま部屋で大の字に寝転んだ。
既に外出準備が整っている彰の部屋は暖房が切られ、明かりが消されている為、カーテンの隙間から日光だけが差し込んでいる。一見すると綺麗に見える彰の部屋だが、差し込んだ日光が大量の埃を浮かび上がらせており、掃除が行き届いているとは言い難い。
その光を寝転んだまま、ぼんやりと眺めていた彰の目蓋がだんだんと重くなる。そして、彰はついに寝息を立て始めた。外出用のジャケットを既に羽織っていた事で、寒さから体温が守られたのは、彰の運が良かっただけなのだろう。
彰が眠りについて数時間後、イザベラの病室がノックされた。
「あらぁ? どうかしたの?」
学園の補修作業が長引き、翌日も休みになったと病室まで知らせに来たエマは、三人の生徒が顔を曇らせている事に気が付いた。
その中で一番顔を青くした綾香は、エマへ顔を向けずに私用の携帯電話を操作している。そして、ジェーンとイザベラだけが、エマに愛想笑いを向ける。
「あの……綾ちゃ……高梨さん? 大丈夫ぅ?」
「あっ、すみません。大丈夫です」
名を呼ばれた綾香はなんとか引きつった笑顔をエマに向け、すぐに携帯電話へと視線を戻した。
「無視でも……いいんじゃない?」
顔を青くしている綾香は、彰へ向けてのメールを作成しており、迷いから文字を入力しては何度も消している。流石の綾香も彰からのおびただしい着信とメールはかなり気持ちが悪かったらしく、返信の内容が上手く考えられていないようだ。
「友人と遊んでいるので……で、どうでしょう?」
ジェーンに弱弱しくうなずいた綾香は、登校した際に話を聞くという一文をつけたした。だが、すぐに消してしまう。どうやら、潔癖症のけがある綾香は一時の省吾と同じように、彰と学園で喋るのも気が進まないらしい。
「何々? どうしたのぉ」
「ちょっと、神山君にお誘いを受けてまして……。その……しつこく……それで、断ろうかと……」
エマに隠し事をしない程仲が良くなっている綾香は、状況を隠さずに喋っていた。
「えい!」
「あっ!」
綾香に背後から近づいていたエマは、携帯電話を奪い取り素早く文字を入力した。
「ちょっ! エ……リベラ先生!」
携帯電話を綾香に返したエマは、まだメールを彰に送信していない。そして、入力が済んだ画面のみを綾香に見せる。
「忙しいのでごめんなさい。これでいいのよぉ。変に気を持たせても良くないって」
眉をハの字に歪ませたまま、綾香はしばらく携帯電話の画面を見つめた。そして、両目を閉じて送信のボタンを押した。
いびきと歯ぎしりで忙しい彰は、その着信を外が暗くなってから気が付いた。そして、携帯電話をベッドに投げ捨てる事になる。
その彰が無駄にしてしまった一日を、特区の危機について知っている者達は無為に過ごしてはいない。今まで以上に敵能力者を捕える為の作戦を練り、下準備を進めていく。
正午前から始められたビデオ会議システムを利用した話し合いは、人々が寝静まる時間でも続けられていた。勿論、同じ会議をしているのではなく、約二時間ごとに議題や出席者を変えて、様々な事が話し合われているのだ。
ほぼ全ての最終決定権を持つフランソア達三人は、出席しなければいけない会議が多く、疲労から顔色が悪くなり始めていた。だが、実作業は兵士や事務官達が行うと分かっている為、自分の体に鞭を打ち、なんとか会議を続けている。
その会議の一つに出席する為、マードックが日本特区の司令本部へ来ていた。
「貴方、本当に優秀だわ」
「いえ、私はただの兵士にすぎません」
マードックの後ろをついて行く資料を抱えた堀井は、謙遜する。ハイヒールの足音を通路に響かせているマードックは、振り向かずに笑顔で会話を続ける。
「事務能力や補助能力だけでも、へたな研究員よりいい働きしてるわよ、貴方」
「恐縮です」
持っている資料の重さで少しだけバランスを崩しながらも、堀井はマードックに頭を下げる。
「エースが気に入ってなければ、直属のボディーガードに欲しいくらいよ」
マードックから最高の褒め言葉を受けた堀井は、笑いながらも省吾の事を思い出している。当然ではあるが、堀井が省吾の事を悪く思っているはずもなく、省吾と仕事が続けられないのはあまり嬉しくないと考えているのだ。
「さぁ、入って」
「あっ、すみません」
資料を抱えた堀井の代わりに、会議室の扉をマードックが開いた為、堀井は反射的に謝りながら扉をくぐった。その日本人特有である謝罪癖をマードックは良く思えないらしく、顔から笑顔を消した。
「あら? 遅れましたか?」
既に会議室内の明かりは落とされ、フランソア達が大きな画面に映し出されていた。その為、自分が遅れたのかと勘違いしたマードックは、少し驚いている。
「いえ。まだ、この会議が終わってないだけよ、イリア。後ろで少し待ってなさい」
フランソアに優しく注意されたマードックは、何食わぬ顔で部屋の隅に向かう。
「では、これにて終了ですね。お疲れ様」
マードックが椅子に座って足を組み、事務員に持ってこさせたコーヒーを飲み始めた頃、フランソアが会議を終了させた。
座ったままフランソアに頭を下げた特区の役職を持った面々が、立ち上がり扉の前で敬礼か一礼すると静かに部屋を出て行く。その者達も優秀であり、次の会議をすぐ始めなければいけないのだろうと判断し、速やかに退室したのだ。
「入りなさい」
フランソア達同様に会議に連続で出席する司令官は扉から顔だけを出し、会議室の外で待っていた者を呼び寄せる。そのマードックも出席する会議は、敵能力者の対策について話し合われる会議であり、特務部隊員のジェイコブ達も部屋に入っていく。
「先生? 顔色が良くないですよ? 休んでくださいね」
「ふふっ、ありがとう」
カメラの前に立ったマードックは、会議の準備が整うまで、恩師のフランソアと個人的な会話をしていた。その二人は薄暗い中で会話に集中していたせいで、注意が不十分だった。それにより、気付くべき事に気が付いていない。
「では、敵能力者、対策会議を始める」
席を外していたランドンが本部自室にあるカメラの前に戻り、司令官が会議の開始を宣言した。
「ちょ……ストップ」
司令官から無言の合図を受け、会議を進めようとしたリンダだったがフランソアの言葉を聞き、不思議そうに室内を見回した。
「どうかされましたか? 事務総長? ん? ムーアくん?」
会議を進めるべきリンダは、司令官のように首を傾げず、フランソアと同様に口と目を大きく開いていた。二人は自分の見た光景が信じられないのか、目を何度か擦り、細めた。そして、コップの水を飲み干したフランソアが、やっと言葉を発する。
「何故、貴方がいるの?」
……ぬう?
「嘘おぉぉ! エース! なんでここにいるのよ!」
やっと気が付いたマードックが勢いよく立ち上がると同時に叫び、省吾が会議に出席していると知らなかった者達も、椅子に座った省吾に視線を送る、
……なんだ? 俺か?
「イリ……博士? 何故かと問われれば、会議に出席する為ですが、何か?」
……悪い事をした覚えはないんだがな。
冷静に質問を質問で返した省吾に対して、フランソア達は指をさして泡を食っている。
「怪我はどうしたんですかあぁ! 中尉!」
会議室にいた者達が、耳を押さえてリンダを睨んだ。司会用のマイクに向かって叫んでしまった事に気が付いたリンダは、急いで口を手で押さえた。
……なるほど。司令は、連絡をしてくれていないようだな。
「正午過ぎから、活動可能になったので、仕事を再開しました」
椅子に行儀正しく座っていた省吾は、顔色を変えずに答えた。だが、すぐに、体を強張らせ、額に冷たい汗を作る。それは、画面に映し出されたフランソアのこめかみに、青筋が出来ているからだ。
……まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずいぞ。何がいけなかったんだ?
納豆以上にフランソアからの説教が苦手である省吾は、冷や汗の量を増やし、目線を泳がせる。
「ふぅぅぅぅぅ。そう、大丈夫なのね?」
「はっ、はい」
会議の事も考え、何とか怒りを抑え込んだフランソアに、省吾は目を合わせず身を縮めて返事をした。
「あの親子は、相変わらずだな」
「あれも、准尉のチャームポイントってやつじゃないですか?」
呆れたように腕を組んだローガンに、笑いをこらえたジェイコブが答える。
「え、ええ……では、まず……敵の情報についてですね。マードック博士から、お願いします」
何とか平常心を取り戻したリンダは、会議の進行を行った。
「スライドの電子資料は間に合いませんでしたが、今から写真付きの資料をお配りします。兵長……お願い」
立ち上がったマードックの指示で、堀井は会議に出席した全員に持っていた資料を配る。そして、それが終了した所でマードックはフランソア達に目を向ける。
「そちらにも、資料は届いていますね?」
フランソアとランドンは、会議室の兵士達が見ているようなカラーではなく白黒ではあるが、資料を持っていた。
「ああ、専用回線FAXで受け取っている」
フランソア達にうなずいて見せたマードックは、説明を再開した。それは、謎の金属について現時点で分かっている事についてだ。
「端的に……あれは、ファントムを生み出します。それも、人間が持つ負の感情がその原料になっています」
声を出さないが、司令を含めた兵士達が表情を変えた。皆、マードック自体は信頼しているようだが、訝しげな顔をした者も少なくない。おおよその見当をつけていた省吾だけが、顔色を変えずに薄暗い室内で資料を眺めていた。
「その金属が、全てのファントムを生み出しているのか。また、その金属自体がどこから来たのかは、全く分かっていません」
兵士達の反応も想定済みだったマードックは、一度息を吸い込み、はっきりと断言する。
「ですが、あれがファントムを生み、それを生み出した人間が操れるという事は間違いありません」
資料には、半日でマードックが行った、怒ったふりでは反応しないが、本当に怒った人間が持つと黒い霧を発生させる等実験の結果が記載されている。科学者であるマードックは、資料の信頼性を数字で表現して見せたのだ。
……この件数を、兵長は付き合わされたのか。疲れるはずだな。
金属の正体よりもメカニズム解明を急ぐべきと判断したマードックが、実験を半日で百件以上行った事が資料から読み取れる。
徹夜をしたうえで実験に付き合い続けた堀井は、目の下に隈が出来ており、それに気が付いた省吾が苦笑いをする。そして、昔実験に付き合わされた事を省吾が思い出していると、マードックの報告が終了した。
「では、敵の能力者については……准尉。お願いします」
省吾ではなく、客観的に敵を確認したジェイコブは立ち上がり、マスクとコートの男について説明を開始した。それと同時にプロジェクタの映し出す映像が、フランソア達の顔ではなく、学園のカメラが撮影した男の画像に切り替わる。
リンダが手元のノート型コンピューターで、フランソア達にも見えるように、ジェイコブの話にあわせて素早く切り替えているのだ。
……敵。
切り替わる大きな画面を見る無表情な省吾の目に、強い意志が灯っている事に、その時気が付いている者は少ない。ローガンと他数人だけが、省吾から微弱に漏れ出す殺気を感じ取り、目を細めていた。
……あいつらが、ジャック達を。
敵がファントムを操作出来た事実は、年末の山中が全て仕組まれた事だと省吾に教えた。それにより、省吾の中で戦友の顔がよみがえり、同時に怒りが体温を上昇させていく。
「以上です!」
ジェイコブが前日の事を喋り終え、切り替わった画面に映ったフランソアとランドンに敬礼をした。
「ご苦労、准尉。では、対策について……」
リンダよりも先に口を開いたランドンは、言葉を途中で止めた。それは、省吾が手を挙げたせいだ。
「中尉? その目は……」
ノート型コンピューターの小さな画面からでも、省吾の鋭い視線はランドンに伝わった。昔から省吾を知っているランドンは鼻から息を吐き、困ったような笑顔を作る。
「いいわ。立ちなさい。エース」
「うん。発言を許可しよう」
トップ二人から許可を得た省吾は立ち上がり、敵の対策について喋り出した。
「敵は恐るべき能力を有しています。その上で、目的も読めません。ですが、素人です」
敵を素人と言い切った省吾を、フランソアはそのまま真剣に見つめていた。
「超能力の面では、向こうが上手ですが……。プロとして戦略的に動けば、付け入る事も可能なはずです」
省吾が何かを要求するのだろうと勘で先読みしたフランソアが、口を開く。
「エース? 何が必要?」
先程のおどおどとした気配が微塵も残っていない兵士モードの省吾は、真っ直ぐにフランソアを見てある人物の名を口にした。
「ミスターを招集させてください。あいつなら、敵に届くはずです」
フランソア達だけでなく、その場の全員がミスターという人物の名を聞いて、省吾に目を向けていた。ミスターとはある人物を指す、省吾のアルファフォーと同じコードネームだ。そして、ミスターの名は、兵士達の間でアルファフォーよりも有名だ。
諜報部に所属し、超能力者でもあるミスターは、省吾同様に大戦で影の英雄と呼ばれる一人なのだ。矢面に立つ事が少ない諜報員であるミスターの姿を知っている者は少ない。だが、名前の定まっていなかった省吾より、名前のみではあるがミスターの方が有名なのだ。
「ふぅぅん。情報戦……か?」
ランドンの言葉に、省吾はうなずいた。その省吾の反応を見て、しばらく考えていたフランソアが返事をする。
「いいでしょう。すぐに本部から、彼をそちらに向かわせます」
フランソアに感謝の気持ちとして敬礼をした省吾に、ランドンが作戦の詳細説明を求めた。
「奴らの目的を、今の情報だけで読み解くのは不可能でしょう。ですが、それを読み解く必要が無い搦め手ならば……」
人間は睡眠をとる事で、体を休息させるだけでなく、脳内の情報を整理することが出来る。短い時間ではあったが、ダウンしていた省吾にはその時間があったのだ。
敵が間接的な作戦を続ける理由を、省吾は既に推測出来ていた。その推測とは、敵能力者達が人命を直接奪いたいと思っていないだろうという事だ。
ただし、人命を奪う事を最小限に抑えようと動いている訳ではなく、武装集団の人間に奪わせようとしていた。ならば、敵能力者が恐れているのは、自分達が罪を重ねる事になるのだろうと省吾は考えている。
敵は、仕方ない、自分は悪くないと、言い訳を口にだし、十分な覚悟があるとも思えない状態で、力を振るおうとしていた。災害と戦争を生き抜いた省吾は、よく似た人間を見てきた為、それがどれほど危険か理解しており、推測を立てる事が出来たのだ。
よく似た者達とは、正義と呼ばれるものに固執した狂信者達の事だ。
戦時中幾人も現れた国連に敵対する武装勢力の指導者達は、自分達を悪としていた訳ではなく、それぞれがそれぞれの理念の元で正義の旗を振っていたのだ。
弱い者達を虐げ、自分達のプライドや欲求を満たす為だけに正義を振りかざした国連の敵は、フランソア達とは違う平和を目指した。ごく一部の人間だけが平和に暮らせるだけのその未来に、何故賛同者が出たかといえば、指導者達がすでに大きさの違いはあったが戦力を持っていたからだ。
その指導者達の持つ力を見せつけられ、正義という甘い言葉に惑わされた者は、力がある者へこうべを垂れ、自分達よりも大きな力に従うしかなかった。その大きな力に取り込まれた者達は、兵士として戦場に送られ、他人の命を奪わなければいけない状況まで追い込まれる。
そこで弱い者達は、その罪から逃れる為に、正義の狂信者となってしまう。その正義が間違えていれば、自分達がただの罪人になると知っているからだ。
省吾は敵の男が、自分達に何も理解していないといった事を、直感で重要だと感じていた。国連側が掴んでいない、何らかの情報を得て敵が動いていると仮定した場合、それを妨げるべきではないのかもしれない。
だが、世界中が苦しみぬいて手に入れた平和の中で、話し合う事をせず、力を振るおうとした敵を省吾は容認しない。敵にどうしようもない事情があったとしても、話し合いや交渉をしようともせず、命を奪おうとするならば戦う覚悟が省吾にはある。
会議の場で敵を追い詰める為の戦略を淡々と説明する省吾に、兵士達が真剣な目を向けていた。そして、兵士達は自分の範疇を超えた作戦を喋っている省吾に、ある確信を持った。英雄と呼ばれている人物が、覚悟を決めたのだと。
省吾が規則を守り、大人しくしているのは、フランソアが怖いという理由ではなく、稼いだポイントを必要な時に使う為だ。中尉では指揮をとることが許されないほど大きな作戦を省吾は提案しているが、明らかに自分が指揮をとりたいといっていた。
「エース。自分でいっている事の意味は、分かっているな?」
ランドンが省吾を睨みつけ、階級ではない呼び方をした。それに対して、省吾も眼光を緩めはしない。
……もう、覚悟は出来ている!
「はい。失敗すれば、銃殺刑だろうと受け入れます」
省吾とカメラ越しににらみ合うランドンと違い、フランソアは俯いていた。
我が子のようにかわいい省吾の、命を捨てても人々を守ろうとする気持ちが分かり、胸が締め付けられているのだ。 部下の前で情けない顔を見せる訳にはいけないフランソアは、懸命にその気持ちを抑え込み、国連事務総長としての顔を作ろうとしている。
フランソアには、省吾の提案した作戦が必要な事も、火のついた教え子が止まらない事も分かっているのだろう。実際に省吾は、作戦が否決された際は、国連から抜けて単独でも動こうと決めていた。
「これが、友人として最後の警告だ。いいんだな? エース?」
……俺は、俺の命を使う為に、ここに立っている! 後悔などしない!
「はい! 俺に戦わせてください!」
自分の命を差し出そうとする省吾を見て、無言ではあるが兵士達の体温が上昇し、瞳の中に省吾と似た炎が宿る。
「いいだろう」
ランドンに続いて、やっと顔を上げたフランソアも口を開く。
「敵殲滅が主目的ではないと、忘れてはいけませんよ」
無言の省吾は、フランソアにうなずいて見せる。
「私の名のもとに、全ての権限を与えます! やり遂げて見せなさい、エース!」
「はっ!」
省吾がフランソアに敬礼をすると、周りの兵士達も一斉に立ち上がり、同じように敬礼をしていた。ローガンとマードックは複雑な表情でその省吾を見つめ、大きな溜息を吐きだしている。
省吾達が席に座り、もう何も話し合う事が無い会議はそのまま連絡事項のみを伝えて終了した。
「イリア。ちょっと、待って」
兵士に続いて部屋を出ようとしたマードックを、フランソアは呼び止めた。
「出来るだけでいいの。あの子……支えてあげてくれる?」
「はい。分かっています、先生」
フランソアに笑いながら返事をして部屋を出たマードックだが、目の奥に悲しみがあり、本当の笑顔ではない付き合いが長ければ長いだけ、覚悟を決めた省吾が止められないと、分かっていくのだろう。
……なんとか、なったな。
廊下で部下達に簡単な指示を出した省吾は息を吐きだし、壁に背中をもたれ掛ける。省吾の事を心配して少し離れた位置から見ていたリンダは、省吾が眉間に深いしわを作った事に気が付いた。
「あの、中尉? 大じょ……あっ……」
声を掛けようとしたリンダに気が付かなかったマードックが、省吾の前に歩み寄ってしまい、リンダの言葉はその背中に遮られてしまった。
……うん? イリア?
「やっぱり、無理してるのね。私の車で送ってあげるから、少し休みなさい」
省吾が痛みに耐えていると分かったマードックは、車のキーを省吾に見せ、顔を近づけた。
……なるほどな。
「結構だ」
素直に自分の行為を受けない省吾に、マードックは顔をしかめた。
「何? まだ、働く気? 死ぬわよ。本当に」
マードックの背後で、リンダも心配そうに眉を歪める。
「いや、流石に限界だ。これから、病院に戻る」
「じゃあ、送って……」
マードックに嘘をつく気もない省吾は、真っ直ぐに相手の目を見て素直な言葉を吐く。
「結構だ。何故なら、お前は運転が下手だからだ。お前の急ブレーキは、傷によくない」
マードックの運転で本部へ来た堀井が苦笑いを浮かべ、リンダの目が点になる。勿論、マードックは顔を赤くしていた。
……ぬう? ここは、戦略的にいくべきだな。
「エース!」
両こぶしを握り、目を閉じて体を震わせていたマードックは、怒りを声に乗せて目蓋を開いた。しかし、戦略的撤退を選択していた省吾は、既にその場から早足で逃げ出しており、廊下の角を曲がった瞬間に気配を消す。
「あああぁぁ! こらああぁ!」
「夫婦喧嘩? いえ、兄弟喧嘩が、適切なんでしょうかねぇ。はぁぁ……」
目を細めて呟いた堀井は、走り出したマードックを追いかけていく。




