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名無しのエース  作者: 慎之介
二章
20/82

 国連が作り出した三つの特区は、超能力者である子供を守り育てる為、戦争が再発しても対応できるように要塞都市と呼べる構造をしていた。


 その中心となる学園は、軍拠点及び研究所を含め、有事の際に子供達や住民が立てこもることも想定されている。核による攻撃にも耐えるシェルターまで有した学園の敷地は、想定される様々なフェーズで速やかに防衛状態を変更することが出来る。


 省吾主導の敵能力者が仕掛けた何らかの罠を潰す作戦は、大規模な戦闘行為も想定された。その為、現在学園の一キロ以内には軍関係者、周辺数キロには国連職員及び生徒以外の立ち入りが許されていない。これにより、戦闘行為があった事すら隠ぺい可能で、運動場での特務部隊員達は生徒達が退避完了後、気兼ねなく動くことが出来る。


 省吾が運動場で大好きな趣味の友人を悲しげに見送っている頃、学園内に居残っていた生徒達は安全な退避路から既に寮へ帰宅済みだ。その退避路は学園と軍拠点を繋いでいる地下通路の一つではあるが、生徒達にも存在が知られている。


 また避難用経路だけあって、日頃省吾達が使っている特定の者しか通らないものとは比べ物にならない程大きく広い。当然ではあるが、その出入り口は施錠している代わりに隠されておらず、省吾達特務部隊員や一般の兵士も日頃使用する事はない。


 マードックだけでなく、部下であるエマや堀井にさえ知られるほど、省吾は趣味に関するプライベートな部分で隙が出来てしまう。腕を専用の拘束具で固定され、部下に連れられていく自分にネットマナーを教えてくれた友人を見送る省吾は、ゆっくりと建屋内から出てきた脅威に対して、いつもの勘が正常に働かない。


 戦場となった運動場でその気の緩みが危険だと、省吾だけでなく他の特務部隊達もよく知っている。だが、省吾の勘を皆が信頼しきっており、その瞳から強い意志が消えている事で安全だと思い込み、早々に後処理に取り掛かろうとしていた。


 人間の思い込みに、信頼が加わると厄介な状態になる事がある。もし信頼を集める人物が、見落としをした場合、周囲もその見落としに気が付けない場合があるのだ。日本特区にいる特務部隊員の中で、省吾に次いで地位が高いジェイコブは、大雑把な性格をしているがここぞという時にいい働きをするタイプの兵士だ。今回はそのジェイコブの性格が、災いしたといえるだろう。


「えっ? あれは……」


 異常事態を最初に感知したのは、省吾から渡されたコートを羽織ったジェーンだった。彼女は感知の能力が高く、気配を読む事にも長けている。


「どうしたの?」


 ジェーンの隣にいた綾香は、後輩が省吾達のいる運動場に背を向け、学園の建屋に目を向けた事に逸早く気が付いた。そして、自分も同じようジェーンの見つめる先に視線を向け、驚愕する。


「嘘……イザベラ?」


 図書館からふらふらと省吾達のいる方向へ歩き出してきていたのは、行方が分からなくなっていたはずのイザベラだ。


 軍がイザベラを発見できなかったのは、思い込みによる人為的なミスだ。一度図書館を出たイザベラだったが、特務部隊員達が来る前に舞い戻っていたのだ。そして、施錠もされていない図書館の荷物置き場で、膝を抱えて眠らずに一日中座り込んでいた。


 待機していた兵士達による図書館内の探索は、施錠が破られた場所を重点的に行われたせいで、その荷物置き場へ目を向けられていなかった。更に、翌日捜索の指揮をとった大雑把な性格のジェイコブが、ろくに図書館内を調べもしていないのに犯人は逃げたのだろうと思い込んでしまった。その結果、兵士達は学園の図書館以外へ捜索を注力してしまい、イザベラを発見できなかったのだ。


「えっ? ええ?」


 綾香に続いてぎこちなく歩くイザベラに気が付いたのは、エマだった。そのエマもイザベラの捜索については知っており、喜ぶべきかもしれない。だが、どこを見ているのか分からない虚ろな目をして、独り言をぶつぶつつぶやき続け、ぼろぼろの制服を身に纏ったイザベラを見て、表情が強張っていく。


「このロザリオを調べれば……」


 地面から、乾隆の持っていたロザリオを拾い上げるマードックに、省吾が注意を促す。


「それが、研究に大事なのも分かるが、ファントムが発生する可能性がある。調べる際には、超能力者を常に同伴させるべきだ」


 省吾と同じ事を考えているマードックは、探究心からか目を輝かせているが、素直にうなずく。


「分かってるわ。特務部隊員のスケジュール調整は、任せていいのよね?」


「ああ」


 マードックも研究で死にたいとまでは、思っていないのだろう。


……生徒を使って生徒を襲わせる。これが敵の狙い? やはり、間接的すぎるな。


「中尉! ハリスさんです! いましたあぁ!」


 省吾がマードックとの会話で、やっと趣味の悲しみを一時的に忘れると同時に、エマが上ずった声でイザベラの事を知らせる。


……何?


 振り向いた堀井の顔から、笑顔が一瞬で消えた。


 その堀井は兵士としてだけでなく担任として素直に喜ぶ気持ちがある為、戦闘を見られたのがまずいと思い笑顔を消したわけではない。生徒の異常としか思えない姿に、驚いているのだ。


……なんだ? あれは?


 目を向けることで初めて、背筋に今まで感じた事の無い悪寒が走った省吾は、堀井以上に顔を険しくして叫んだ。


「離れろおぉ! 近づくなっ!」


 エマの声で振り向いた兵士達は、ただの女性であるイザベラに警戒をせずに近寄ろうとしていた。しかし、上官の鬼気迫る声で、その足を止め反射的に銃を構える。


……敵じゃない。だが!


「撃つな! 生徒だ! 警戒体制のまま距離をとれ!」


 省吾の指示で、銃を構えてイザベラを取り囲もうとしていた幾人かの兵士達は、相手に顔を向けたまま後ろに下がっていく。


「なっ!」


……速い!


 兵士達に取り囲まれる前に、イザベラは地面を軽く蹴った。その靴下しかはいていない足で蹴られた地面に、ひびがはいる。兵士達を軽々と飛び越えたその想定外の動きを、捉えられた兵士は少ない。


 イザベラの近くにいた兵士達に至っては、彼女が眼前から突然消えた様にしか見えていないだろう。


……どうなっているんだ?


「きゃっ!」


 隣にいたマードックを突き飛ばした省吾は、自分も飛び掛かってくるイザベラの着地地点から背を向けずに飛び退いた。


……なんだ? これは?


「嘘! 何? あれ?」


 綾香や省吾だけでなく、その場にいた全員が己の目を疑う。省吾に殴りかかったらしいイザベラの爪が、地面をあり得ない程えぐったのだ。


「井上えぇぇぇ……井上えぇぇぇ!」


 四つんばいの状態で省吾に首だけを向けたイザベラが、正気ではない事は誰の目から見ても分かる。


「あ……ああうっ……いぎぃ! ひぐっ!」


……狙いは、俺?


 勢いよく立ち上がり、全身を痙攣させはじめたイザベラは、顔を空に向けて歪ませ始めてる。その隙に、マードックを立ち上がらせた省吾は、手信号で仲間に距離を取る様に指示を出した。


「うぐっ! あ……あああああぁぁぁぁ!」


 省吾を見て、何かが心の中ではじけ飛んだらしいイザベラは、空に向かって咆哮する。そして、そのイザベラの体から乾隆同様に黒い霧が噴き出していた。だが、その黒い霧はファントムに変じない。代わりに、イザベラの体を包み込み、黒く固まっていく。


「グルオオオォォォ!」


……馬鹿な! これが、ファントムの答えなのか?


「嫌……嫌ああああぁぁぁ!」


 ばきばきと何かが折れるような音をたて、姿を変える仲の良かった先輩を前に、ジェーンは叫んでいた。その目からは、涙がこぼれている。


「これは……夢?」


 信じられない事の連続に、綾香はその場で放心状態になる。だが、真っ黒で醜悪な形に変わる友人から、目を離せないでいる。


「嘘だ……なんだよこれ……」


 驚きから動きを止めただけの兵士達とは違い、覚悟も何もない乾隆は角や牙を尖らせていくイザベラを見て、へたり込んでいた。


……生徒をファントムに変える。これが、敵の本当の狙いか?


「フシュルルル……」


 運動場の中心で人工の光に照らされながら、荒く呼吸を吐き出すイザベラには、先程までの美しい容姿が残っていなかった。漆黒の歪な筋肉で出来た鎧のような体と、二本の角、鋭く硬そうな爪、口からとび出した牙、全てが赤く染まった眼球を持つ、完全なファントムに変わってしまったのだ。


 三メートル近くにまで体を膨らませたそれは、黒い霧を纏っている。後頭部に少しだけ残る金色の髪が、イザベラであった唯一の名残だろう。その光景を見た全ての者によぎったのは、ファントムが人間を素材に発生したのかという疑問だ。生態のほぼ全てが謎であるファントムは、幼生体が発見されておらず、イザベラのように人間が変わったのだとすれば辻褄が合う。


 自分達は今まで、人間を殺していたのかもしれないと気が付いてしまった綾香とジェーンは、唾液を飲み込み震え始めていた。精神的な訓練を受けている特務部隊員達よりも未熟な二人が、友人の変わり果てた姿と事実に動揺するのは当然だろう。


 また、二人より少ないとはいえ、特務部隊員達も十分すぎるほど動揺していた。皆銃を握っていた手から力が抜け、サイコキネシスを溜めようとはしていない。その場にいる者の中で、思考力を失っていないのは、マードックと省吾の二人だけだ。


……違う。惑わされるな。


 二人は別々の思考で、イザベラの変化を見極めようとしていた。


 マードックは今まで数え切れないほど消滅させたファントムから、元になった人間が骨すら見つかっていない事を思い出していた、そして、乾隆が人間を元にしない完全なファントムを出現させた事から、人間がファントムに変わったのかを疑っていた。


 省吾はもっと単純に、今まで対峙してきた数多くのファントムと、今のイザベラが別のものだと経験や勘から感じているらしい。


……そうだ。違う。あんな霧を纏った個体は、見た事が無い。


 発生したばかりのファントムが黒い霧を纏っている可能性がぬぐいきれない省吾は、拳銃をイザベラに向けて安全装置を外す。


……生徒を守る事が、俺の仕事だ!


「やめっ! 止めてえぇぇ!」


 銃を構えた省吾を見て、綾香はつい叫んでしまう。どうしようもないと、綾香も分かっているのかもしれないが、叫ばずにはいられなかったのだろう。


「エース! ちょっと待っ……」


 真っ直ぐにまだ動き出さないイザベラを見つめた省吾は、綾香とマードックの言葉を無視して引き金を引いた。そして、銃声と共に省吾の握った拳銃から、サイコキネシスの力を纏った弾丸が、目にも留まらぬ速さで飛び出す。


……今だ!


 真っ直ぐにイザベラへ向かっていた光る弾丸は、角度を変えて相手の腕だけを掠めて闇の中へ消える。


……やはりそうか。


 省吾の放った弾丸が触れた部分のみ、イザベラの腕は黒い筋肉が弾け飛び、その下にあった綺麗な白い腕を露出した。その一部が削れた黒い腕に、纏っていた黒い霧が吸い込まれて行き、無骨な筋肉が見る間に補われていく。


「確定って訳じゃないのよ?」


 イザベラの腕から自分へ目線を移した省吾の考えが、マードックには分かっているのだろう。その為、気遣う様な言葉を口に出していた。


「グルルルァァ……アアァァ」


 省吾がもう一度視線を戻すと、ファントムに変わってしまったはずのイザベラが、両目から涙を零した。それを見た省吾の心が、恐怖を抱えた弱い自分を噛み殺す。


「ふぅぅぅ……」


……覚悟を決めろ! 怖がるな!


 大きく息を吐いた省吾は、強い意志を瞳に灯した。そして、持っていた銃とナイフを近くにいたジェイコブに投げ渡す。


「俺からの指示は、待機だ。いいな!」


 銃とナイフを投げ渡されたジェイコブは、訳も分からず困惑した表情を省吾に向ける。


「俺がいなくなれば、指揮権はお前に移る。その時は、どうするかをお前が決めろ!」


「准尉……」


 省吾のその言葉で、上官が命を掛けて何かをするつもりなのだと、ジェイコブにも分かったらしい。


「中尉だ……。いいな! 任せたぞ! ジェイコブ!」


「はっ……はい!」


 上官として発した省吾の強い言葉に、投げ渡された武器を片手で抱えたジェイコブは敬礼で答える。


「来い! 俺はここだっ!」


 ゆっくりと動き始めたイザベラに、省吾が叫ぶ。それを聞いたイザベラは、全力で駆け出した。


「ガアアアァァァ!」


 自分に向かって走り出したイザベラに合わせるように、省吾も丸腰で走り出していた。


「おおおおぉぉぉ!」


 超能力者だったとしても、自然界で類を見ない程の力を持ち、驚異的な速度で動くファントムに接近戦を挑むのは自殺行為でしかない。その事を学園に来てからの実戦でよく知っている綾香とジェーンは、省吾の選択に驚きから絶句していた。


「グガアアァァ!」


 鋭い牙の並んだ大きな口を開いたイザベラを見て、ジェーンを含めた幾人かがサイコキネシスを放つ為に掌を向ける。


「手を出すなぁ! 命令だ!」


 ジェイコブが仲間を制止するよりも少しだけ早く、地面を蹴った省吾の体が浮きあげる。そして、そのまま省吾の膝がイザベラの顎を下から突き上げていた。


 省吾は嫌になるほどファントムと戦い、その攻撃を身に浴びる事で、敵の身体能力を誰よりも把握しているのだろう。ファントムも体の構造上、大型の肉食動物に近い動きと性質を持っている。噛む力は岩をも砕くほど強いが、開く力は省吾のとび膝蹴りで閉じさせる事が可能なのだ。


 また、噛みつきを行いながら腕を振るえないと省吾は知っており、無謀な賭けで正面から向かって行った訳ではない。


「ガアアァァ!」


 イザベラの口を閉じさせる事に成功した省吾だったが、相手は既に人間とは違う次元の体を持っており、転倒させるまでには至らない。イザベラは足の指で地面をしっかりとつかみ、顎だけで膝を押し返した。そして、着地した省吾に鋭い爪を向かわせる。


……来た!


 省吾は蹴りつけたイザベラの体がねじれる兆しを見逃してはおらず、現在凄まじい速度で振るわれているイザベラの左腕が、動き出す前から来ると分かっていた。着地と同時に低い姿勢で地面を蹴った省吾は、振るわれた相手の腕をくぐる様にイザベラの攻撃を回避した。その際にイザベラの爪が少しだけ掠った省吾の額は、いともたやすく裂け、血を噴き出す。


 しかし、その事を気にも留めようとしない省吾は、上手くイザベラの背後に体を滑り込ませた。そして、微弱に発光させた掌で、イザベラの背中を優しく撫でる。それにより、ファント化した黒い体の一部分が消滅した。


 すぐに周囲の霧が、イザベラの無くなった黒い体を補ってしまうが、省吾の表情に変化はなくそれを想定済みである事が分かる。


……上!


 自分の背後にいる省吾を排除しようと、イザベラは太い右腕を振りかぶる様に地面へ向けて叩きつける。


 勿論、イザベラが振り返り、爪を突き刺した場所に、もう省吾はいなくなっていた。そして、イザベラの体が回転するのに合わせて、背中を取り続けている省吾は、先程と同様に光る手でイザベラの醜く変わった背中を撫でる。


「ギュイイィィィ!」


 自分の背後に省吾がいると分かったイザベラは、地面に突き刺さった爪をそのまま薙ぐように背後へ向ける。地面を豆腐のように引き裂いて進んだイザベラの爪は、相手の脇からすり抜けて再び背後に立った省吾を捉える事は出来ない。


「グギィィィ!」


 省吾に黒い体の一部を消され続けるイザベラは、狂ったように両腕を振るい、牙をむいて噛みつこうとした。だが、そのイザベラの攻撃は、省吾の体に傷は作るものの直撃する事はない。


「なっ……どうなってるんだ? ファントムが回ってる?」


 動体視力が優れていない乾隆には、イザベラが黒い霧を減らしながらぐるぐると同じ場所を回っているだけにしか見えていない。まるで自分の尻尾を追いかけて回る、滑稽な犬にしか見えないファントムになったイザベラを、乾隆は座ったまま呆然と見つめる。


「えっ? あの……」


「友達を助けたいんでしょ? なら、あそこで命を掛けてる馬鹿を信じなさい」


 サイコキネシスの力を溜めたまま、イザベラに向かって掌を向け続けていたジェーンの腕を、マードックが下げさせた。


「サイコキネシスにはね。人を殺せるだけの力があるの。もし、遠距離で黒い霧が晴れるまでそれをぶつければ、中の子も確実に死ぬわ」


 省吾だけでなくイザベラも助けたいと思っていたジェーンは、マードックの言葉に何をいえばいいかも分からず口をつぐんだ。


「大丈夫……大丈夫よぉ。中尉はいつだって、期待に応えてくれるもの……」


 省吾の戦いを不安げに見つめる綾香の肩に、エマが手を置いた。そして、綾香同様に視線を闘いから逸らさず、喋りかける。その自分自身を安心させようとしているように聞こえるエマの言葉と、微かに震える手の感触から綾香にも恐怖が伝染してしまう。


「井上君……お願い……お願い!」


 特務部隊員達にも、省吾がどれほど危険な選択をしたかが分かっているようで、焦りや歯痒さ等様々な思いがそれぞれの表情に現れている。そして、呼吸する事すら苦しいほどの緊迫感に包まれた一同は、無謀とも思える省吾の戦いをただ凝視していた。


……集中しろ。兆しを捉えるんだ。


 人間の命を容易く奪える膂力を持ったファントムが、ほとんど止まる事なく省吾の眼前で暴れ狂っている。それも、人間の反射神経では、対応できないのではないかと思えるほどの速度でだ。


 人間は生物の頂点を極めたといえる存在ではあるが、それは繁殖力や環境適応能力により数を増やし、道具を使うことで成し得た事だ。人間単体の純粋な戦う力を弱いとはいい切れないが、決して頂点を極めることが出来るほどのポテンシャルは持っていない。銃や槍といった武器を手にして初めて、大型の肉食獣等に戦いを挑める程度の力しかなく、丸腰での戦闘力は愛玩動物の猫や犬にすら劣る者も少なくない。


 だが、丸腰の人間にも知恵という最大の武器は残されており、鍛え上げた体と知恵による理を使い、天敵になりえる存在を倒す事も出来ない訳ではない。それを達成できる者が多く存在しないのは確かだが、存在している事も事実であり、現実を否定できる者はいないだろう。


 省吾が過去に存在したその者達と同じ力を持っているかは、現時点では誰にも分からない。それについて省吾自身も試した事が無いのだから、仕方のない事だ。何よりも、ファントムは虎や熊等よりも能力が高く、正確に比較できるはずもない。


 超能力というファントムへ確実にダメージを与えられる武器を省吾は持っているが、イザベラ本体にダメージを与えない為に無理な使い方はほとんど出来ない。それでも、直撃すれば死が避けられないイザベラの攻撃を掻い潜りながら、省吾は黒い霧を少しずつ削り落としていく。


 イザベラが動き始めるわずかな兆しを見極め、爪と牙の射程範囲から自分の体を移動させる必要のある省吾だが、相手から離れることは出来ない。下手に距離を取れば相手の方がリーチが長く、自分の攻撃が届かない事もあり、省吾は今以上に不利になるのだ。


 勘による予測と運動量に頼った、無謀な精密作業を続ける省吾は、イザベラを助けると決めた強い意志だけで途切れそうになる集中力を繋ぎとめる。それは、プロのバッターがバッターボックスに立ち、飛んでくる球の縫い目すらはっきりと見ることが出来るほどの状態を、長時間維持する事と同じだ。


 一般人だけでなく、プロの選手にもほぼ不可能といえる作業かも知れない。そういった感覚の中で人間は、平常時よりも時間を長く感じる。その長くなった時間の中で省吾は、ファントムの攻撃による恐怖にさらされ続けていた。


 常人であれば発狂してもおかしくない時間を自分から選んだ省吾を、もしかすると正常とはいえないのかもしれない。戦場という名の地獄で培われたそれを、危険だと否定する人間もいるだろう。


 だが、その無謀な決断と狂気こそ人を魅了する可能性を秘めており、英雄に不可欠なものなのかもしれない。筋肉や関節が悲鳴を上げ、骨がきしみ、肺が十分に酸素を取り込めず、心臓が爆発しそうなほど脈打つ限界状態でも、省吾の目から意思の炎は消えない。


「ガアアァァ……あああぁぁ……」


 見ている者達にまで凄まじい緊張を強いる時間は、どれほど続いたか分からない。そして、その間に省吾の命が何度危険にさらされたかを、数え切れた者はいない。それでも、物事には終わりが必ず来る。省吾の死かイザベラを包む黒い霧が全て消えるかの、どちらかを迎えるはずだ。


 イザベラを取り巻いていた黒い体の大半が消え、それを補う黒い霧がほぼ無くなった頃、省吾の限界も近づいていた。省吾はイザベラの攻撃を回避する為に、動き続けており、血中の酸素が命に係わるほど不足し始めているのだ。


 普通の人間であれば、酸素がそこまで不足する前に動けなるのだが、省吾は無理矢理体を動かし続けている。そうしなければ死んでいたともいえるが、賢い選択だったとはいえないだろう。


「あああぁぁ!」


 省吾でも触れる事の出来なかった両腕のみ、ファントムのままではあるが、イザベラはほぼ元の姿に戻っていた。その速度は、既に人間のレベルに戻りつつある。だが、イザベラの爪には十分な殺傷能力が残っており、眼球は真っ赤に変色したままだ。


「ぜぇ! ぜぇ! ぜぇ!」


……まだ! まだあぁぁ!


 酸素欠乏状態が深刻な省吾の顔は既に青から紫に変色しているが、動きは止まらない。振るわれたイザベラの手をいなすと同時に、省吾はサイコキネシスの力を送り込み、腕に残ったファントムの力を消していく。


「井上君……」


 省吾を見つめる綾香の中で、一つの答えが出たらしい。そして、見返りなど求めずに命を掛ける省吾に対して、そんな事しか考えられない自分を綾香は申し訳なく思ったようだ。


 その綾香が出した答えとは、学園最強についての考察だ。学園で最強だと噂されている宗仁は、綾香から見ても確かに学生のレベルを超えており、プロとも既に渡り合えるだろう。しかし、省吾は既にそのステージにはいない事が、綾香には分かってしまったのだ。


 戦場で弾丸を避け続けた省吾に、いくら速くても人間の拳では当てる事さえ難しい。そして、動き続けるファントムにさえ触れることが出来る省吾の拳を、避けられる人間はいるかどうかも疑わなければいけないだろう。


 伊達や酔狂で英雄や伝説などと噂されている訳ではない省吾が立っているのは、前人未到といって差し支えはないのかもしれない場所なのだ。


「サイコキネシスの準備! 早く!」


 マードックの声で、兵士達が首を傾げた。


「エースはもう限界なのよ! 私は、中尉より権限を持っているわ! 準備しなさい!」


 省吾がいつ倒れてもおかしくない状態だと、正確に分かっているのはマードックと衛生兵のエマだけだった。マードックの指示に、兵士達だけでなくジェーンも掌をかざし、サイコキネシスの力を溜め始めた。


「ぐがあああぁぁぁ!」


 イザベラは叫びながら、右腕を大きく振り上げた。そのイザベラは、右腕のみがファントムの黒い肉体を残している状態だ。


……ここだ!


 自身の限界を認識している省吾は、その大きな隙を見逃さない。省吾は左足を踏み出すと同時に、悲鳴を上げた体からの信号を意思の力で無視する。そして、真っ白になっていく視界を、無理矢理抑え込んだ。


 自分に残された少ない力を、省吾は爆発させる。下半身からの捻転が伝わった上半身を回転させ、ほとんど損失なく勢いを左腕に伝える。イザベラの腕が振り下ろされる前に、省吾は振り絞った力で輝く左の掌打をその腕に向かって放った。


「よっしゃああぁぁ!」


 イザベラと省吾が戦う音だけが聞こえていた運動場に、乾いた破裂音の後、兵士達の喜びに満ちた声が轟いた。右腕に受けた衝撃で吹っ飛んだイザベラの全身は人間に戻っており、仰向けに倒れたまま動かなくなっている。


「はあっ! はっ! かひゅ……はぁ!」


 突き出していた左腕を引いた省吾は、苦しそうな呼吸を続けている。その全身からは、思い出したように汗が噴き出していた。


「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」


 身に付けていた制服のあらゆる箇所が引き裂け、下着すら見えているぼろぼろの衣服を身にまとうイザベラは、目を閉じたままぴくりとも動かない。そのイザベラを確認した省吾は、よろけながらも振り向き、騒ぐ兵士達にうなずいて見せた。


「綾香先輩! やりましたよ!」


「ええ! ええ!」


 省吾の勝利を見て、ジェーンと綾香は手を取り合い、周りの兵士達と同様に大声で騒ぎながら喜んでいる。


「ふぅぅぅ、なんとかなったわね」


 胸に手を置き、心肺機能を平常時に戻そうとしているマードックが、呆れたように笑いながらエマに声を掛けた。


「私は中尉を最初から、信じてましたからぁ」


「失禁しそうなほど震えてたくせに……」


 笑いながら虚勢をはるエマの言葉が気に入らないマードックは、笑顔を消してぼそりと呟いた。


「イリアこそ、焦ってたくせに……」


「五月蝿い……ふんっ!」


 お互いに視線を逸らしたマードックとエマだが、自然に笑顔が浮かぶ。それは、省吾の勝利がもたらしたものだろう。


「イズ……お前……すげぇよ」


 座り込んで震える事しか出来なかった乾隆は、もし自分が省吾ほど頑張っていればと考え、複雑な表情でうつむいた。たった一人を救うために悲痛とも呼べる戦いに挑んだ省吾を見て、才能と境遇だけを羨んでいた自分に乾隆は思うところがあったのだろう。


「はぁぁぁ……ははっ」


 兵士の中で一番省吾の行動に神経をすり減らしていた堀井は、自分の膝が震えている事に気付き苦笑いを浮かべていた。


 格闘技の試合で、応援していた選手が勝利したかのように騒ぐその者達は、大事な事を忘れているようだ。戦いの舞台となったその場所で気を抜けば、どうなるかという事をだ。


 希望という仮面をかぶっていた絶望は、心の隙を見逃しはしない。それを見つけると本性を現し、薄気味悪い笑顔を浮かべて恐るべき速度で這い寄ってくる。隙だらけになったその者達だけでなく、省吾も黒い霧が全て消滅したと思っているらしい。


 しかし、省吾が消滅させる事が出来たのは、イザベラから噴き出した黒い霧だけであり、内面にまで侵入したそれを消す事は出来ていない。またそれだけではなく、乾隆が発生させ小型のファントムに変化させることが出来なかった濃度の薄い霧も、空気中を漂ったままだ。


 省吾の背後で倒れたままになっていたイザベラが、まだ赤いままの双眸を開いた。それと同時に、空気中に漂っていた薄い色をした黒い霧が彼女に集まっていく。


「あっ……」


 綾香を含めた数人が、笑顔を崩した。それは、省吾の後ろに、立ち上がったイザベラを見たからだ。突然の驚くべき事態を目撃した人間は、叫ぶことすら忘れるものなのかもしれない。綾香は目を見開き、口を開けることしか出来ていない。


 いまだに呼吸を整える事に追われる省吾の心臓を目掛け、右の手だけがファントム化したイザベラが、その凶暴な爪を真っ直ぐに進ませる。


……来る!


 省吾の誰よりも冴えわたっている勘が、主に知らせを飛ばした。


「おおおおぉぉぉ!」


 千里眼を発動すると同時に、握った左拳を光らせた省吾は、振り向きざまのバックブローでイザベラの手を弾く。


 その省吾の手の甲は、イザベラの爪による攻撃で引き裂け血を噴き出したが、相手にサイコキネシスの力を伝える事に成功していた。イザベラのファントム化した右手が、元へと戻っていく。


……届えええぇぇぇ!


 バックブローを振るう反動にあわせて右足を蹴り出していた省吾は、そのまま能力を限界まで乗せた右の掌打を、イザベラの胸部に放った。


 もっとも隙の出来る局面ではあったが、絶望に満ちた最前線を駆け抜けてきた省吾は、気を抜いていなかったのだ。誰よりも休憩する必要があろうとも、その一瞬が命取りになると、何度も痛い経験をしている省吾だからこその反応なのだろう。


 誰よりも強い省吾の意思と、それによる命懸けの行動こそが、絶望を振り払い、結果を呼び寄せるのだ。偶然の重なった奇跡と呼べるかもしれない現象を、省吾の想いが現実へと引き寄せた。


(なんだ?)


 省吾だけでなく、イザベラ自身もセカンドの能力者だったことが、それを生み出したのかもしれない。或いは、能力を合成する程強いテレパシーの使い手である綾香が、その場にいた事もそれに至った原因の一つと考えられなくもない。


(誰か……助けてよ……誰か……)


 右の掌がイザベラに触れると同時に、省吾の意識だけがそのまま抜け出し、真っ暗な空間に浮かんでいた。その暗闇に満たされた空間で、発光する自分の体を不思議そうに見つめていた省吾は、声を聞きそちらへ顔を向ける。


(あれは……イザベラ・ハリス?)


 暗闇の中で省吾と同じように光る体を持ったイザベラは、うずくまって泣いていた。そのイザベラを見た省吾は、空中に浮いたまま直感的に彼女へ手を伸ばしていた。


(こっちに来い! ここから出るんだ!)


 省吾の声で泣き顔を上げたイザベラは、省吾の手を取ろうとはせず、涙の量だけを増やす。


(何もうまくいかないの。何も……)


 体をばたつかせるが、省吾の体はその場に固定されているらしく、動くことが出来ない。


(くっ! 手を伸ばせ!)


 お互いが手を伸ばして初めて、触れることが出来る距離にいる為、省吾はイザベラに何度も叫んでいた。だが、省吾を見つめているだけの膝を抱えたイザベラは、手を伸ばそうとしない。


(私は、何も間違えていないわ。なんで私は苦しまなければいけないの? 私はどうすればよかったの? なんで誰も私を受け入れてくれないの?)


……俺の声が聞こえていないのか? いや、こちらを見ている。


(こっちに来い! 手を伸ばすんだ!)


……なっ! くそっ!


 水中にでもいるかのように足を何度も蹴りつけていた省吾は、自分の体が変化している事に気が付いたらしい。


……時間制限があるのか?


 イザベラに伸ばしている省吾の手から放たれていた光が、徐々に弱まり始めていた。それでも、その場を動けない省吾は、叫び続けるしかないのだろう。


(そうよ……井上省吾……。全部あんたのせいよ)


……俺? 俺が原因なのか?


 省吾はイザベラの言葉で、ファントム化したイザベラが、自分を標的にしていた事を思い出した。しかし、その原因追究をする為の時間を、省吾は与えられていないようだ。


……くっ! 手が! 光が消える!


(苦しい……助けて……。私が苦しいのは、あんたのせいよ。そう、私はあんたが憎い……)


 全身の光が急速に弱まり、透け始めた省吾に出来た事は、いつもと変わらない真っ直ぐな言葉をぶつける事だけだ。


 良くも悪くも誤解される事のある省吾の包み隠さない言葉は、お互いに心をさらけ出した場合に限り、真価を発揮するのかもしれない。


(俺が守ってやる! お前は大事な保護対象なんだ! だから! 頼む! 手を取ってくれ!)


 省吾の言葉に反応したイザベラが、泣くのを止め、初めてまともに反応し始めた。


(助けてくれるの? でも、私はあんたを……)


 やっと立ち上がったイザベラに、省吾は懇願する様に叫んでいた。その二人のやり取りは、恋人同士のようにも聞こえる。


(いくらでも謝ってやる! いくらでも殴らせてやる! だから! こっちに来い!)


 やっと省吾に笑顔を見せたイザベラは、ゆっくりと省吾に手を伸ばした。


(あんたなんか……あんたなんか……大っ嫌いよ)


 満面の笑みを浮かべたイザベラの指が、省吾の触れると同時に強い光を放ち、真っ暗だった世界を光が満たした。


 声を発する事も出来ず、イザベラとの省吾のやり取りをただ見せられた綾香は、胸の痛みと眩しさで目を閉じた。その心中に渦巻く気持ちを、綾香はこれから処理していかなければいけなのだろう。


「きゃああっ!」


 綾香と手を握り合い、省吾達に目を向けていなかったジェーンは、突然の強い光に目を閉じて叫んでいた。


「なんだ! くっそ!」


 イザベラの体から放たれた閃光手榴弾並みの光に、訓練を受けた兵士達も視界を奪われ、顔を手で押さえている。


「はぁ! はぁ! はぁ!」


 元の世界に戻った省吾は、自分がイザベラとの対話に時間を要しなかった事に、気が付いてはいないようだ。だが、それを気にせず、意識をなくして倒れ込みそうになったイザベラの体を抱きかかえ、呼吸を整えながら仲間達の元へ歩き始める。


「はぁぁぁぁ……ふぅぅぅぅ……」


 視界が回復し、イザベラを両腕で抱えた省吾が見えたエマとマードックは、駆け寄っていく。


……眼球も元に戻っているな。


 タイル張りされた地面にイザベラを寝かせた省吾は、イザベラの目蓋を指で開き、ファントム化が消えている事を確認した。そして、エマに顔を向ける。


「はっ! はぁ……多分……はぁ……もう、大丈夫だとは思うが……はぁはぁ……」


「はい。任せてください」


 呼吸に深刻な問題を抱えたままである省吾の言葉を、エマは先読みして返事をすると同時に、その場でイザベラの体調をチェックし始めていた。座り込み、肩で息をする省吾の隣に、マードックもしゃがんだ。そして、イザベラのポケットへ手を滑り込ませる。


「あった……こっちも白くなってるわね」


……あれが、ファントムの元になるのか? あんな物が?


 荒い呼吸をする省吾は、マードックが掴んでいる金属製のしおりとロザリオを見て、目を細める。


「多分、これでファントム研究は、かなり前進するでしょうね」


 マードックが立ち上がると同時に、エマが省吾にイザベラの体調に問題はないと報告をした。


……んっ?


「中尉。お疲れ様で……えっ?」


 笑顔で省吾に近付こうとした堀井は、立ち止まった。そして、省吾が鋭い目線を向ける運動場へと、振り向いた。


……タイミングが良過ぎるな。監視されていたか?


 二人が視線を向けた運動場には、白いロングコートを纏い、口元をマスクで隠した短髪の男性が立っていた。


「はぁ?」


「なんだ? あいつ?」


 省吾以外の兵士達にも、運動場の男がどれほど異様なのかが分かったらしく、銃を構えて緊張感を漂わせていた。


 一般人どころか、国連職員ですら入る事の出来ない学園に、その男性は侵入しているのだ。そして、その風体から、男が軍関係者でない事は一目瞭然であり、まともな人間だと思えるはずもない。


……この感じは、能力者か。


 省吾達に歩み寄っていた男に、銃を構えたジェイコブが警告を発する。


「止まれ!」


 中尉である省吾が叫べない為、准尉であるジェイコブが行った制止の指示に男は素直に従い、立ち止まった。


「お前は誰だ! 何をしている!」


 ジェイコブの言葉に、男は自分の顎に手を置き、少しだけ考えていた。そして、目的を喋る気になったらしい。


「俺達にとっても、それは貴重な物で、調べられたくもないわけだ。この意味は分かるよな?」


 男はマードックを指さし、落ち着いた低い声で喋っている。その声に恐れはなく、男の自信がうかがえる。大勢の兵士に銃を構えられたその状況下でも、格好の的となる運動場に堂々と現れ、上からの言葉を放つ男に警戒しないのは素人だろう。


 その男が底抜けの馬鹿である可能性もないわけではないが、敵能力者の事を知っている兵士達に油断をしている者はいない。それどころか、眠たげな眼をしたその男に、底知れない何かを感じた者も多い。その者達は、冬場の寒い環境下で銃を握っている手が汗ばんでいる。


……銃弾で、殺されない自信があるのか。こいつもフォースなのか?


「はぁ……面倒なのはごめんなんだがな……」


 銃を構えたまま息をのみ、動かない兵士達に見下すような視線を向けた男は、脅しをかけ始めた。


「俺に手を出せば、痛い目を見るのはお前達だ。何もしないでやるから、それを返せ」


……嘘やはったりじゃ、なさそうだな。


 省吾は男の言葉で引き金に掛けた指へ力が入った兵士達に、待機の手信号を見せ、機を待とうとした。その省吾は、犠牲者を出さない事が最優先だと考えており、マードックの持つロザリオとしおりを敵に渡すべきかもしれないと、酸素不足から回復しつつある脳をフル回転させている。


「なあって。何も知らない馬鹿なお前達でも、だいたい分かるだろう?」


 緊張感の無い声で催促してくる男に、兵士達は苛立ち始めているが、暴走しない様に省吾は手信号を出し続けていた。男の態度に、省吾も内心怒りが込み上げ始めているが、乾隆やジェーンだけでなく、気を失ったままのイザベラもおり、何とか冷静な思考で怒りを抑えている。


……この男に手を出せば、犠牲者が出る可能性が高い。落ち着け。


「ふぅぅぅ……」


 怒りを堪えようとしながらも強い感情が瞳に出ている省吾に、男は眠たげな眼を細めていた。省吾がルークを殺した事を、その男は知っており、あまりよくは思っていないのだろう。その上で、無視できないほどの眼光を向けてくる省吾に、苛立ちを覚えたのかもしれない。


「はぁっ……たくっ……」


 男は何度目かの溜息を吐くと、眠たげだった眼を鋭くして、省吾に向けた。


「お前等は、相手の力も読めない程馬鹿なのか? こっちが下手に出てやってるんだから、素直に渡せ。これが、最後の警告だからな」


……くそっ。


 綾香やイザベラの事を考慮した省吾は、男の申し出を受けるしかないだろうという考えに至った。そして、謎の金属を返した際に、敵に発信機等を仕掛けられないかと、思考を次の段階へと移し始めている。


「わっ!」


……なっ? なんだ?


 突然の叫び声に、流石の省吾でも、男から目線をマードックに移してしまう。


「ぐうっ! この!」


 ロザリオとしおりに向かって叫んだマードックは、にやりと笑う。男の事を思いだし、省吾が急いで視界を戻すと、男は耳を押さえていた。そして、省吾は男が無線式のイヤホンらしき物を、耳から取り外した事に気が付く。


……そうか、発信機。いや、盗聴器か。


 敵の現れるタイミングが良過ぎた事を思い出した省吾は、マードックはその金属に仕掛けがある事を見抜いたのだと理解した。


「くっそ! 鼓膜が破れたら、どうしてくれるんだ! 馬鹿女!」


……まずい!


 男が腕を上げようとした事で、省吾は反射的にホルスターに手を伸ばした。だが、イザベラとの戦いで反射的に使わない様に、銃を手放していた省吾の手は何もつかめない。


「この馬鹿が! 俺は、警告したからな!」


 省吾が出していた手信号が無くなったのを見て、兵士の何人かが反射的に引き金を引いてしまう。


「なっ! そんな、馬鹿な! くそっ!」


 男が蝿や蚊でも払うように手を振るうと、その男に向かっていた銃弾が消えてしまう。それを見た、兵士達は驚きからか引き金を戻していた。


「たく……女に手を出すのは、趣味じゃないんだがな。まあ、仕方ない。お前達が悪いんだ。これは、馬鹿なお前達への神罰だ」


……ええい! くそおぉぉ!


「消えろ……」


 男の目から殺気を誰よりも早く読み取った省吾の背中に、鳥肌が立つほどの悪寒が走った。そして、男に掌をかざされたマードックに向かって跳びかかる。


「はっ?」


 ヘッドスライディングにより突き飛ばされたマードックは、宙に浮かびながらゆっくりと流れる景色の中で、体を歪ませていく省吾を見た。


……ぐっ! があ!


「あがあああぁぁぁ!」


 胸部から体の隅々まで行き渡る衝撃を受けた省吾は、五体が弾け飛ぶ錯覚に襲われていた。自分の身に着けていた服が発火する中で、口や鼻から血を噴き出した省吾の意識が、真っ白い世界へと吹き飛ばされていく。


……ああぁぁぁ、くそ。くそ。


 省吾に視界の中に、親代わりだったマークが姿を現す。そして、仕事から帰ってきたマークは、駆け寄る幼い省吾を笑顔で抱き上げていた。それは夢にも似ているが、そうではなく、走馬灯と呼ばれるものだ。それを見るのが初めてではない省吾は、自分がどれほどまずい状態にあるかがすぐに理解出来たらしい。


……マーク? 俺は、ここまでなのか?


 走馬灯は、どんどんと省吾に見せる景色を切り替えていく。マークが駐車場で倒れた後、武装勢力が平和を蹂躙し、ファントム達が人々を襲う中で、幼い省吾は無力だった。


 国連軍に所属する事になった後も、目覚ましい活躍をした省吾だったが、全ての人を救えたわけではない。守ろうとした大勢が省吾の目の前で冷たくなり、二度と立ち上がってはくれなくなったのだ。


 走馬灯の中でナイフだけを持った省吾は、土砂降りの荒野で両膝をつき、動かなくなった自分より幼い姉妹を抱きしめていた。大きな雨粒を絶え間なく落とす真っ暗な空に、その時の省吾は大声で叫ぶことしか出来なかった。


 その雨は、もしかすると省吾の心が、流し続けた涙だったのかもしれない。涙の理由は、悲しみだったのか、無力な自分を呪ったものだったかを、知る者はいないだろう。


 省吾の見る走馬灯が、最近のものへと移り、学園に来てからの出来事を映し出す。敵能力者は、未来ある若者達に苦痛を与え、弄んだ。そして、仲間達の命を脅かし、ついには奪ってしまった。涙を流す綾香やイザベラ達の顔に続いて、もう二度と笑いあえない天へと上った戦友の顔が、省吾の脳裏に蘇る。


……うう、ああああぁぁぁぁぁ!


 挫けそうになった心を、激しい怒りの炎が支え、消えてしまいそうになった意識を、強い意志が引き戻す。胸の奥底で燃え滾る怒りを、強い意志へと変換する省吾は、誰に強制された訳でもなく、自分自身で覚悟を決め、選択しているのだ。


 日頃、省吾が冷静なのは、それが戦闘において必要である為だ。だが、本当の意味で省吾を支えているのは、絶望的な現実や理不尽な力への怒りといえるだろう。


 力に力で対抗する事が、仕方ないと理由をつけても愚かである事は、省吾も分かっている。それでも、綺麗事では平和が手に入らない世界で、省吾は武器を手にした。そして、儚い者達が涙を流し、祈る事しか出来ない現実を変える為に、命を奪う。


 持たざるものであった省吾は、なんの代償もなく求めるものが手に入らないとよく知っており、命を含めた自分自身の全てを差し出したのだ。その省吾が名誉や金銭にこだわらないのは、当然なのかもしれない。数秒後に死ぬかもしれない人間が、それにこだわるだけ無駄だと思っているのだろう。


 後の歴史で、狂人と語られる可能性もある省吾の行動ではあるが、苦しみに満ちた現実を変えるには必要な事なのだろう。そして、その覚悟と選択こそ、英雄にもっとも必要な資質なのだと、省吾自身は意識していないらしい。


 ただ、怒りからの強い意志で限界に挑み、業火の燃え盛る戦場を壊す為に足を踏み出していく。その先に、自分がマークから与えられた幸せと同等のものを、大勢の人が手に出来ると信じて。


「エース! ぎゃん!」


 自分をかばって燃え上がる省吾を見て、マードックは受け身を取る事を忘れ、頭を床へとぶつけてしまった。


「ふん。格好つけるからだ」


 何かの能力を使った男は、困ったように眉を歪めているが、口元は笑っていた。その男も、マードックや周りの者達も、省吾が強い意志で意識を繋ぎ留め、歯を食いしばった事に気が付いていない。そして、マードックを殺そうとした男の笑みを見た省吾の中で、堪忍袋の緒が切れたと知る事もない。


……殺そうとしたな! 俺の大事な人を! 笑いながらあぁぁ!


 空中で燃える上着を引き裂いて脱いだ省吾は、その勢いで体を回転させて地面に無事に着地した。


「なっ! くそっ! 浅かったか……」


 地面に四つん這いで着地した省吾の脳から、大量の化学物質が分泌され、痛みや恐怖をかき消していく。


……弾丸は、地面に弾かれただけか。なら、奴の能力は。


 キレた事で逆に冷静になった省吾の思考は、その全てを戦うことだけに向けていく。


「銃を! いいから、投げろ!」


 的確に状況を読み切った省吾は、一番近くにいた兵士へ手を伸ばして、武器を要求していた。


「させるかっ!」


 省吾ではなく兵士から投げられた銃に掌を向けた男は、能力を使った。そして、宙で粉々になったそれを見て、省吾の思惑を阻止できたとでも思ったらしく、薄く笑う。


「へっ! 無駄なんだ……よ? えっ?」


 男は自信たっぷりの視線を向け、初めて省吾が銃を見てもいない事に気が付いた。


 銃を兵士に要求していた省吾の目的は、わざと壊させ敵の能力を確認することであり、その銃自体を手にする事ではなかったのだ。そして省吾は、兵士に伸ばしていた反対側の手で取りだした携帯電話に、緊急時のコードを入力し発信した。


 その信号により、学園の運動場や敷地内に隠されていた防衛プログラムが起動する。学園は住民が立てこもり戦う為の、隠された準備がされており、数メートルはある長方形の合金で出来た防壁が、ダンパーの力でいくつも起き上がってくる。


 またそれだけではなく、花壇やブロックに隠されていたスペースのロックが解除され、中から武器を取り出す事も可能になった。


「くっ! 狙いはこれだったのか! だが、俺には通じないぞ!」


 防壁の裏へ駆け込む兵士を見ても男はその防壁を能力でどうにか出来ると考えているようで、威嚇するような言葉を吐いていた。上半身が防弾ベストだけになっている省吾についても、先程までフラフラだった事をその男は知っており、恐れる必要は無いと思っているらしい。


 その男は、闘争本能がむき出しになった省吾を、よく理解していない。また、手負いとなった獣に牙を向けられる恐ろしさも知らないようだ。


……これだ!


 既に敵の能力を見抜いている省吾は防壁に隠れる事なく、隠しスペースからショットガンを取り出した。


「そんなもの!」


 素早く弾を装填した省吾は、引き金を引き、散弾を敵に向かって発射する。


……行けっ!


 散弾はその名の通り、小さな弾丸を散開発射する為、五十メートル以上敵が離れている場合にはその威力を十分に発揮できない。男と省吾の距離は百メートル以上あり、他の兵士がその武器を選ぶのは間違いだといえるだろう。


 だが、散弾全ての軌道を変えられる省吾が使用した場合に限り、恐ろしく手数を増やす事が可能なのだ。


「この! 無駄なんだよ!」


 両手を振るうことで大量の散弾を全て地面に叩きつけた男は、省吾を睨みつけて手をかざそうとした。しかし、運動場にそれよりも早く省吾の声が響いた。


「撃てええぇぇぇ!」


「なっ! くっ! この野郎!」


 省吾からの指示を受けた兵士達は、男に向かって一斉に弾丸を発射する。その弾丸は全て地面に弾かれるが、男は防御に全てを向けなければいけなくなった。


 兵士達の弾丸だけでなく、省吾から放たれる縦横無尽な散弾も処理する必要がある男は、必死に腕を振るう。


「休むな! 撃て! 撃ち続けろ!」


 以前戦ったルークよりも一対多を得意とする能力を持った敵に、省吾が選んだのは物量作戦だ。


 敵能力者が化け物の様な力を持っていたとしても、人間であることに変わりはなく、銃弾が急所に当たれば絶命する。それは銃弾を放ち続けている間は、敵からの攻撃が来る事が無いという事だ。そして、いくら優れていても無限に能力を使えるはずのない敵の防御を、時間をかけて潰そうとしている。


「くそっ! このっ! 舐めやがって! くそ!」


 運動場で銃弾に晒され続ける敵は、指揮者にでもなったかのように、一人で腕を振るい続けていた。その敵が徐々に後退している事で、兵士達の士気はどんどん高まっていく。


「こんな……こんな事で、俺が……」


 それぞれが防壁の裏で戦況を見ていたマードックと綾香が、同時に防壁から走り出してしまう。二人が向かっているのは、省吾に一番近い防壁だ。


「ちょ! 危ないってばぁ!」


 走り出した二人を見て、拳銃のマガジンを交換していたエマが追いかけるように走り出した。そして、綾香達と同じ防壁の裏に滑り込み、無茶をした二人に赤くなった顔を向ける。


「何考えてるのよ! 流れ弾で、死ぬ事だってあるのよ! ちょ……聞いてよぉ」


 防壁の下にあった扉を開き、武器を取り出している綾香とマードックは、エマの言葉に耳を傾けない。


「散弾銃を優先して!」


「分かっています!」


 マードックが取り出した銃と弾丸を、綾香が使える状態にして、省吾に投げ渡す。


……イリアに高梨さん? なるほど。


 省吾の攻撃が無くなれば、敵に攻撃の隙を与えてしまうと判断した二人は、フォローをする為に危険な中を走ったのだろう。二人のフォローを受ける省吾とエマは、二人から弾の交換された銃を受け取り、休むことなく引き金を引く事に集中出来た。


「この……この! 俺が……こんな事で……くそおぉぉ!」


……まずい!


 絶え間ない射撃にも、弾丸補充や兵士達の疲労から、不意に空白の時間が出来てしまう。その隙をついて敵が、手をかざす。


「ちょっと! エース!」


 アサルトライフルをベルトで下げ、拳銃二丁を掴んだ省吾は、元々防壁の内側にいなかったが、運動場へ向けて駆け出してしまう。省吾に銃を強引に奪われてしりもちをついたマードックは、その背中を目で追うことしか出来ない。


「くらえええぇぇ!」


……来た!


 敵が叫ぶと同時に、省吾はその場から地面に向かってダイブする。そして、地面を転がりながら、空中が熱により揺らいだことをしっかりと目視した。回転する力で起き上がった省吾は、そのまま弾丸を放ち、能力で軌道を変えて敵に向かわせる。


「井上君は、私達の為に?」


 綾香からマガジンを受け取ったエマは、引き金を引きながらうなずく。そして、敵は短い時間で冷静な思考が出来ない為、反射的に動く者を狙ってしまうのだろうと説明した。


「人間も、所詮動物だからね。動きを制限する事も出来るのよぉ。弾あぁ! 気を抜かないの!」


「あっ! すみません!」


 敵の攻撃を再び回避した省吾を見て、マードックも敵の能力が推測できたらしく、エマのフォローを綾香に任せ、観察する事に集中していた。


「全部地面に? なるほどね。なら、エースの服が燃えたのは摩擦熱か」


 敵が、空間を押していると考えた省吾とマードックの推測は正解だ。現在戦っている敵程ではないが、それに近い力が使えるセカンドは国連側にも存在する。


「空間を押す距離が長ければ、溜めが必要なようね……」


 敵は空間を押す事で、弾丸を弾き飛ばし、棒状に空間を押し出す事で省吾に攻撃しているのだ。空間を押すと呼ばれているその能力は、正確には空中の大気をサイコキネシスの力で無理矢理移動させる能力である。その一番の利点は、物理的な空気のハンマーで敵を殴る事にあり、攻撃が感知能力者にも悟られずに済む。


 また、直接飛ばすサイコキネシスのように威力を高めても光を発しない為、省吾のように勘が人間離れしていなければ回避不可能な技だろう。その上で、大気の摩擦による熱の攻撃も加わるのだから、敵の男が自信を持っていたとしてもおかしな事ではない。


「くっ! この! このおおぉぉ!」


 その絶対的な自信を持っているはずの男は、目に涙を溜め始めていた。


 あまりにも自分が優位だった事により、ゲーム感覚で能力を使っていた敵は、理不尽な物量攻撃に苛立ち、敵を一掃したい気持ちがあったのだろう。だからこそ、隙を見ては攻撃に転じていたのだ。それにより自分の能力が、枯渇する事も計算せずにだ。


 現実世界でゲームオーバーになれば、自分の命が消えてしまうのだから、焦りや恐怖が心に生まれても当然と言えるだろう。


「なんでだよ! なんで邪魔するんだよ! 馬鹿じゃないのか?」


 有利な立場から物量により引き摺り下されつつある敵は、ついに泣き言を口にし始めていた。


……よし! 間に合った!


 敵はその自分の不利を教える言葉が省吾に聞かれ、さらに自分の首を絞めた事に気が付いていない。


 物量で攻めている省吾達だったが、弾丸は有限であり、一斉射撃を続けられる時間は決まっている。その為、一気に攻めるタイミングを、省吾は虎視眈々と待ち構えていたのだ。


……今だ!


 省吾が手で合図を送ると同時に、特務部隊員が弾頭のピンを外し、対戦車ロケット弾を発射した。


「なああぁっ!」


 弾幕の止まない中でほとんど身動きが取れなかった敵は、既にかなり神経をすり減らして疲弊していた。その状態で、銃弾に交じって自分に向かってくる弾頭の適切な対応に失敗する。


「ぐがあああぁぁ!」


 銃弾と一緒に地面へと突き刺さった弾頭は、銃弾と違いそこから爆発するのだ。能力者特有の勘で察知して、敵は爆発による力を能力で押し返したようだが、全てを防ぐ事が出来なかった為、その場に倒れ込む。


「ああ、くっそ! くっそ! いてぇ!」


 軽症で済んだ為、逆に痛みを感じている敵は、血を流す膝を両手で掴み、すぐには立ち上がれない。


……終わりだ。


 弾頭の爆発による轟音と粉塵で敵を見失った兵士達は、射撃を中断していた。それが、隙だらけの敵を救う結果となった。


 だが、千里眼により敵が生きている事を知っている省吾は、最後の弾丸が残った拳銃を握りしめ、粉塵の中へ走り出していた。


「来るな! くそおぉぉ!」


 銃弾を至近距離から放とうと、粉塵をかき分けて現れた省吾を見て、敵は恐怖しか感じていないのだろう。


 敵の男は、ファントム化したイザベラを、省吾が一人で武器もなく無力化した事を知っている。その大型の肉食獣すら組み伏せるかもしれない省吾が、自分に向かってきているのだから、怖くないはずがない。


……行けえぇぇ!


 粉塵を抜けた瞬間に敵と目があった省吾は、構えていた拳銃の引き金を引いた。そして、輝く弾丸は、埃が舞い散る中を突き進む。


「ひっ! ひぃぃ!」


 足を負傷して動けない敵は、角度を変えて向かってくる弾丸を、座ったまま必死に弾く。


……ここで仕留めるしかないんだ!


「おおおぉぉぉ!」


 敵が至近距離の弾丸を弾いた事で、相手にまだ力が残っているのは省吾も分かっている。だが、進む足を止めずに省吾は拳を握り、発光させた。


……なんだ?


 腕を犠牲にする覚悟までした省吾の拳は、振るわれなかった。


「んっ? あれは……」


 音と風を感じた省吾以外の兵士達も、上空を見上げた。そこには、ライトもつけずに飛んでいる国連軍のヘリがいた。軍拠点でイザベラ探索に使われていたそのヘリは運動場へと向かっており、兵士達は困惑している。


「おい。誰か応援を頼んだのか?」


……くそっ! ここにきて!


 勝利を確信し、隙の出来た省吾以外の者は、防壁から体を出したまま呑気に空を見上げている。直感で危険を感知した省吾だけが、回転を始めたヘリのガトリングガンに気が付いているようだ。


 ヘリの巻き起こす風が粉塵を吹き飛ばすよりも早く、省吾はその場を離れる為に走り始めていた。その省吾を追いかけるように、ガトリングガンから放たれた銃弾が次々と運動場に突き刺さっていく。


「ああ! 敵に奪われたのかよ! くそっ!」


 ヘリに乗る誰かが省吾を殺そうとした事で、兵士達に緊張が戻り、銃をヘリの運転席へ向けた。だが、その運転席にはいるはずの操縦者が存在せず、操縦かんだけが勝手に動き続けている。


……しまった!


 ガトリングガンの火線が、自分からそれた事を感じ取った省吾は、弾丸の向かっている先に目を向けた。その視線の先には、省吾を心配するあまり防壁からとびだしてしまった綾香がいた。


「防壁に入れえぇ!」


 綾香を見た省吾は、何とか声を絞り出し、走る方向を急転回させた。


……間に合えええぇぇぇ!


「あっ……」


 人の命を容易く奪うガトリングガンの弾と、地面を蹴った省吾が自分に向かってくる状況で、綾香は何も考えることが出来なかった。


 音の突然消えた世界で、綾香は自分に覆いかぶさる省吾にただ身を任せて、夜の空へ目を向けていた。死の危険に直面した人間が、それを否定した場合、適切な行動をとる事は難しいのだろう。


「中尉! 綾ちゃん!」


 目を開いたまま遠退いていた綾香の意識が、エマの声で元へと戻った。


「ぐっ……無事か?」


 自分の胸元から顔を上げた省吾の問いかけに、綾香は間の抜けた顔でうなずく事しか出来なかった。


「中尉! 駄目です! 動かないでください!」


「エース! 聞きなさい!」


……敵が。敵が逃げる。


 仰向けのまま空を見ていた綾香は、マードックとエマの声で、既に立ち上がった省吾の背中へと視線を向けた。


「あっ……そんな……」


 急所は外れているが、省吾の腕と脇腹からガトリングガンの銃撃は、肉を削り落としていた。省吾は自分を守って怪我をしたのだと、思考が回復した綾香は理解したらしく、瞳を潤ませて立ち上がる。


「うっ! ごぼっ……がはっ!」


 エマ達の制止を振り切って走ろうとした省吾の意思に、震える足が逆らい、胃の内容物が逆流した。その胃酸だけの吐しゃ物には、血が大量に混ざっており、赤黒く染まっている。


 限界を超えて戦い続け、敵能力者の攻撃をまともに受けた省吾は、立っているのも不思議な状態だといえるだろう。何本の骨にひびが入っているかを数えるのも困難で、破裂寸前の内臓も一つではない。


「中尉ぃぃぃ! お願いですからぁ!」


……ここで逃がせば、また犠牲者が。


 震えてまともに動かない足を引き摺りながら進む省吾に、エマは泣きそうになりながら叫びかけ続けていた。


 怪我をした男を回収したヘリは、既に飛び去っており、今の省吾では追いつくことも出来ないだろう。だが、目から炎の消えない省吾は、尚も進もうとしている。


「井上君! お願い! お願いよ!」


……放せ。放してくれ。まだ、敵が。


 服を地面に拡がった血の多く混じった吐しゃ物で汚しながら、綾香は省吾の腰にしがみついた。そうする事でしか止められないと、感じ取ったのだろう。


……なっ? イリア?


「後は、私達に任せないさいったら」


 綾香に続いて省吾の上半身を背後から羽交い絞めにしたマードックは、エマに目線を送った。そのイリアに抗う力すら、今の省吾には残っていないようだ。


 衛生兵専用の緊急パックを開いたエマは、痛み止め効果のある鎮静剤を、省吾の首へ直接注射した。


「まだ……敵がいる……。俺は……戦え……る」


 瞳から意思の光が弱まると同時に、省吾の体から力が失われていく。無理矢理、意識を繋ぎ留め、体を動かしていたのだから仕方のない事だろう。


「早く! 早く、担架! 急いで!」


 意識を失った省吾を診断したエマは、顔を青くして助けを呼んでいた。省吾は防弾ベストに隠れている焼けただれた皮膚だけでも、重症と呼べる状態であり、病院へすぐに向かわなければ命が危ないのだ。


「ヘリの位置は、拠点に行けば確認できます!」


「出撃できるヘリを確認しろ! 車で深追いはするな!」


 省吾が意識を失った後でも、ジェイコブや堀井達はあわただしく動き続け、一つ一つの問題に対応していく。彼等も特務部隊員であり、兵士としては優秀なのだ。


 国連軍内で、英雄や化け物と呼ばれる数人を除いて、彼等に勝る者は今の所ほぼ存在していない。


「あの……井上先輩は……」


「どいて! 助けるから! お願い! 今はどいて!」


 カーテンを担架の代わりにしたエマと兵士達は、ついて来ようとしたジェーンを戒め、軍拠点へと省吾を急いで運んだ。立ち止りはしたが、ジェーンは不安そうに省吾を見つめ続けた。そのジェーンに、同じくエマからついてくるなと怒られた綾香が近づく。


「綾香……先輩?」


「大丈夫。井上君は、不死身なの……大丈夫……」


 自身も手を震わせるほど怖いと感じていた綾香だが、後輩に笑顔を向けた。その無理な笑顔を見て、ジェーンはうなずく事しか出来ない。


「はぁぁ……本当に何も変わらないのね。エース。馬鹿……」


 溜息をつき、白い二つの金属をポケットにしまったマードックは、運ばれていく省吾から空へと視線を移した。省吾と昔馴染みであるマードックが、その誰よりも多い思い出の中から、何を思い出しているのかは他の者には分からないだろう。


「あの……え? 終わった……のか?」


 密度の濃い戦いが終わった学園内で、乾隆だけが流れに取り残され、逃げることもできず、おどおどと周囲を見渡している。残念な事に、彼がその場で事件の全容を知ることはないのだろう。


「すぐに手当てしましょ。あの……大丈夫?」


 仲間に助け出された省吾と戦った男は、体がまだ震えている。それを、怪我の出血によるものかと心配した仲間の言葉を、男は否定した。


「ルークがいった意味が分かった……。あいつは……あのセカンドは危険だ。危険すぎる」


 省吾の殺意に満ちた目を思い出した男は、奥歯をがたがたとならし、恐怖に耐えている。


「あいつを殺さないと……俺達は、失敗する。いや! 殺される。あいつに……殺される……」


 仲間から省吾への執着者がもう一人出た事で、敵の能力者達も省吾の事を真剣に対応するべきではないかと考え始めた。だが、自分達よりも能力が劣る省吾を、本当に恐れているのはまだその男だけのようだ。その者達が省吾を深く知るのには、もう少し時間が必要なのだろう。



……俺はなんて、弱いんだ。情けない。くそ。


 結果として、生徒から犠牲者を出さず、謎の金属を回収し、敵能力者を撃退した省吾は、任務を果たしたといえるだろう。だが、功績に執着しない省吾は、深い眠りの中でも敵を倒せなかった自分へ、怒りを感じたままだった。


……俺はまだ戦える。痛くても、苦しくて、俺が戦うから。だから。だから。だから。


 その消えない闘争本能に応える為、省吾の体は凄まじい速度で回復していく。主をもう一度、立ち上がらせるために。

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