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名無しのエース  作者: 慎之介
二章
19/82

 明かりを消した夜の図書館内で、光源となりえるのは月と、周囲の光度を感知して自動で灯る外灯だけだ。


 その拙い光の中で、泣いている顔を押さえていたイザベラの手は、頭へと移動した。そして、そのまま手の甲が筋張り、付け爪が剥がれるほどの力で自分の頭を掴む。


「うっ! あっ……あ、がぁ……ひぐっ……」


 座っていた椅子を、勢いよく立ち上がる事で倒したイザベラは、頭を押さえた状態で目を図書館の天井へと向けた。


「ひっ! ぎっ! あ……ああ……」


 天井を向いたイザベラの眼球は、高速で左右にぶれ始める。そして、顎が外れるのではないかと思えるほど開かれた口からは、唾液が落ちていた。


「ひぐっ……んああっ!」


 薄暗い中でその光景を一般人が見れば、イザベラの異常だけが目につくだろう。しかし、本当に注意を払うべき点は他にある。それは、図書館内の多くを占める闇と同じ色をしたものであり、暗闇の中では見え難い。だが、それこそがイザベラに異常な行動をとらせている原因であり、人間にとって危険そのものなのだ。


 頭から離した手で、制服の胸元を掴んだイザベラの全身が痙攣する。その苦しそうに食いしばった歯の隙間から、泡になった唾液が吹き出していた。


「ひぃっ……あっ……い……いひっ……いひひひひひひっ!」


 日頃のイザベラが絶対に発声しないであろう、不気味で笑っているようにもとれる声が、館内に響く。


 全身の痙攣がおさまったイザベラだが、表情筋が気味悪く歪み、笑っているとも怒っているとも取れる奇妙な表情をしていた。眼球の動きが止まり、瞬きをしない為に充血した目で、イザベラは焦点を合わせる事なく一点を見つめていた。そのイザベラの意識は、見つめる先にはなく、心の内面へどんどん深く潜っていく。


 電話をした際に母親から聞かされた小言、不得意な教科のテスト、自分がもてる事を鼻にかけているケビンの態度、自分より劣っているリアからの情け、綾香への不信、彰の出した答えと、イザベラの心により突き刺さった問題が浮かび上がってくる。


「い……井上……井上省吾ぉぉぉぉ!」


 イザベラの中で、もっとも深く突き刺さった棘が浮かび上がると同時に、イザベラは掴んでいた手で制服を左右に力の限り引っ張った。


 イザベラの身に着けていた上着は、冬用の保温性が高く厚手な生地により作られていた。その丈夫なはずの上着は、ボタンが弾け飛ぶだけでなくいともたやすく引き裂け、縫い目からは切れた糸が飛び出した。


 上着の下に着込んでいたシャツに至っては、紙やアルミ箔のように、イザベラの細く綺麗な指がかするだけで破れてしまう。


「はぁぁぁ……あ……あぁ……」


 そのイザベラから表情が消えると同時に、強張らせていた体から力が抜け、腕がだらりと垂れさがった。そして、ふらふらと本棚へ歩み寄ると一冊の本を掴み、その本に挟まっていた金属製のしおりを握りしめて部屋の扉へと向かった。


 図書館の鍵は全てかかっていたが、内側から開錠する事は可能だった。だが、イザベラは全てのドアノブを握り潰すか引きちぎり、図書館を出たのだ。その異常な事態に、まだ誰も気が付いていない。


 イザベラが図書館を出て警備のアラームが上がり始めた事に、コンピュータールームで唸っていた省吾と堀井は気が付かなかった。アラームは、別室のコンピュータールームにまで届くわけではないからだ。


 その事態に対処するのは、自分の自由な時間で仕事をしている省吾達二人ではなく、当直の職員か兵士達だ。待機中だった兵士達は、上官である省吾への連絡をする前に、まず自分達で警報の確認に向かった。


……これは、確か。


 目を細めてコンピューターの画面を見つめ、マウスを動かしていた省吾は、同じ個所を何度か読み直していた。そして、自分がはさんだバインダーの資料と、コンピューターの画面を見比べ、目を見開く。


「あっ……これか?」


……この生徒だった。間違いない。


 隣の席で省吾と同様にコンピューターの画面を見つめていた堀井は、気になる事を呟いた上官へ顔を向けた。そして、目的を持って資料をめくり、コンピューターへ何かを入力する省吾に声を掛ける。


「何か、分かりましたか?」


「ああ。少し気になる事がある。待ってくれ……」


 忙しく手を動かし始めた省吾を見て、堀井は一度席を立った。そして、トイレを済ませて、二つのコーヒーを持って上官のいる部屋へと戻ってくる。


……これは、勘だ。だが、この一致を無視するべきではないな。


「んっ? ああ……ありがとうございます」


 堀井から差し出された氷の入ったコーヒーを受け取り、暖房による喉の渇きを思い出した省吾は、それにすぐ口をつけた。


「どうでした? 気になる事は推測が立てられるレベルですか?」


 コーヒーを半分ほど飲み干した省吾は、カップを机に置き、堀井からコンピューターの画面が見易い様にディスプレイの角度を変える。


「これは……部活動? バスケ部? ですね。確かに、怪我人の数が異常ですね……」


……相変わらず、兵長は読むのも理解するのも早い。


「あれ? 司令の息子さんが、キャプテンですね」


 自分が座っていたキャリアつきの椅子を、堀井はコーヒーをこぼさない様に気を付けながら省吾の隣に移動させた。それが見えた省吾は、椅子の位置をコンピューターの正面から少しだけずらす。


「ああ。ご子息も関係があるかも知れない。だが、被害者だと俺は思っている」


 気が付いた点から、推測に至った状況までを説明し始めた省吾を見て、堀井は自分にも検証しろと上官がいっているのだと察し、目つきを真剣なものに変えた。


「まず、保険医から受けた、この保健室の利用者が増えた報告だ」


 その報告は、年が明けてから毎日のように病気ではなく怪我人が、保健室を訪れているというものだった。それは、起こりえない事態ではなく、それだけで変わった点とは決めつけ難い。大戦中衛生兵だったその保険医も、自分の報告が重要だとは思っていないだろう。


「これは、偶然気が付いただけだが……。その中に、このファーストクラスの女生徒がいた。この女生徒は、最初に小型ファントムから襲われそうになっていた女生徒だ」


 ゴミ箱と衝突した自分を、指さしながら気持ち悪いといった女生徒に対して、省吾は恨みは抱えていない。だが、やるせない気持ちにはなった為、覚えていたのだ。そして、そのターゲットの一致から小型のファントムが、特定の生徒を狙っているのではないかと考え始めた。


「そうなると、この小型ファントムの目的も、変わってくる……」


 小型のファントムは通常のタイプとは違い、人間の生命エネルギー的な何かを狙っておらず、怪我をさせる事が目的なのかも知れないと省吾の勘が働き始めたのだ。そこからは、怪我をした生徒をリストアップした省吾は、ほとんどの生徒がバスケ部に所属している事に気が付いた。


「なるほど、怪我人の約八割がバスケ部員……。偶然ではないと思える数字ですね」


「ああ。それも、ほぼ毎日怪我人が出ている」


 省吾がスクロールさせるコンピューターの画面を、堀井はテストでも受けるかのように全て短時間で暗記した。


「んっ? 中尉、この職員は……」


「うん? ああ、仕方ない……んじゃ、ないですか?」


 バスケ部の顧問をしている教諭は、兵士ではないせいか危機感が薄いようだ。その為、部員の怪我を報告してはいるが、休み間に生徒の体がなまったのだろうとしか報告書に書いていない。


「あっ……中尉。やっぱり、この人駄目ですね」


……駄目? なんだ?


 教師としてもまじめに取り組んでいる堀井の言葉に、省吾は眉間にしわを寄せた。そして、言葉の意味を考える。


「所感部分に、練習の立ち合いが減り、楽になったとしか書いてありませんよ」


 職員達の意見を取り入れる為に、報告書には所感部分がある。その部分を指さした堀井は、報告をしたバスケ部顧問をするその男性職員を、良くは思わなかったようだ。


……なるほど。なるほどな。俺は知らん。


「まあ、そこは……その、俺からは何もいえないんで……。任せます」


 コンピューターの画面から目線を逸らした省吾を見て、堀井もその癖に気が付き始めた事もあり、少しだけ渋い笑顔になる。


「ああ、あの。それは、教員として、上の人から注意して貰いますね」


「はい。お願いします」


 省吾からコンピューターのディスプレイへと視線を戻した堀井は、そのまま省吾から話を聞かなかったと仮定して、推測に矛盾はないかなどを優秀な頭で検証していく。既に省吾が他に狙われた生徒とも、小型ファントムの出現情報をリンクさせており、堀井はその部分に注目した。


「あ、ちょっといいですか?」


 省吾にマウスを渡して欲しいと要求した堀井は、時間帯やけがをした状況が抜けていると指摘し、データを隣のパソコンへと転送した。


……時間帯か。抜かったな。流石だ。


「じゃあ、こちらで抜けの部分をすぐに修正します」


「ああ。その後、対策を考えよう」


 堀井を信頼している省吾は資料の作成を任せ、自分の覚えている部分で、記載し忘れている点が無いかを考える事に集中した。


……これでよく、人を化け物呼ばわりできるな。


 堀井が作業に取り掛かり、十五分ほどで完成させた資料の説明を受けながら、省吾の顔が険しくなっていた。その電子資料は、省吾の作ったものが霞んで消えるほど完璧で、指摘する部分を見つける事が出来ないのではなく、無いのだ。


「これだけ論理的な流れを書けば、指令本部も理解してくれると私は考えています」


 完璧な資料を作り上げたはずの堀井は、そんな事で傲慢な態度をとったりせず、上官に対して正しい態度で説明を行う。


「これでどうでしょうか?」


 嫌味にも取れるほど下手に出る堀井に、省吾は鼻から息を吐き、目を閉じた。


「不足や間違いがあれば、教えてください。すぐに直します」


……これで?


 省吾から見て完璧な電子資料を、堀井はより改良できると、本心から思っているらしい。そうなっては、省吾が発言できる事は限定される。


「いえ、十分じゃないでしょうか」


「そうですか。では、対策を……」


 省吾の返事を聞き、次の段階へ移ろうと考えた堀井は、一度腕時計に目を向けた。それにつられて、省吾も自分の腕時計を確認する。


「もう、こんな時間ですね。イリ……博士達が帰ってくる前に、食事にしましょうか」


「そうですね」


 眼精疲労を感じて眉間をつまんだ省吾の提案に、堀井は同意して、机の上に置いてあるコンピュータールームの鍵に手を伸ばした。そして、いつもの様に軍拠点へ通じている地下通路に向けて、二人は部屋を出る。


「しかし、イリアもそうですが……」


 地下通路の中で、省吾から堀井へ話題を振った。


「貴方達の脳は、どうなっているんですか? とてもまね出来る気がしません」


 人から恥じる事のない知能と思考力を、省吾は持っている。しかし、その省吾の周りには各分野のトップ達が多く、自信を持ってはいないようだ。元気があるとはとてもいえない表情の省吾を見て、戸籍上一回り以上年上であり、教師でもある堀井は本音を口にする。


「私からすれば、マードック博士や中尉の方が信じられませんよ」


……そんな馬鹿な。


 省吾は担任の言葉に、あからさまに怪訝な表情を向ける。それを見て笑いをこらえた堀井は、自分の受け持つ優秀過ぎる生徒に説明をする。


「人間は、自分の脳を活かしきれていません。これは、科学的にも証明されています。元々の資質はあるでしょうが、訓練すれば私程度には、誰でもなれるはずなんです」


……なるほど。嘘だな。


 表情から省吾の心を読み解いた堀井は、頭を指で掻く。


「信じて下さい。嘘はついていませんから。マードック博士は特別でしょうが、私の場合はただの要領でしかないんですよ」


 天井だけでなく壁や床まで金属で出来た地下通路を歩く省吾は、不信感を持った表情を崩さない。


「たとえば、速読はこつがありますし、資料作成なんてただの慣れですからね」


 困った表情をした堀井を問い詰めても仕方ないと感じた省吾は、表情を少しだけ緩め、視線を地下通路の先へと戻した。その地下通路は感知センサ式の照明が点々と付けられており、省吾が見ている先はまだ暗闇に支配されている。


 金属で出来た床は二人の足音を響かせているが、省吾のそれはほぼ同じ体重の堀井よりも明らかに小さい。それに気が付いた堀井は、省吾が自分よりも訓練を重ねているのだろうと、改めて実感していた。


「体の操作も、それに近いと思っています。だから、訓練と実践を重ねた中尉は、優れているんですよ。ただ……」


……ただ?


 堀井の意味ありげな前置きに、省吾は顔を再び隣に向けた。


「貴方の勘や回復力は、マードック博士の知能や閃き以上に、まねできるものじゃないはずです。すでに超能力の域も超えてますしね」


……なるほどな。だが!


 本音で喋ってくれる堀井に、省吾も本音でぶつかる。


「確かに便利ですが、できる事なら、貴方達の様な能力も欲しいです」


「そうですか……。なら、速読やこつがあるものから、お教えしますよ」


 省吾が欲している能力を使い、より多くの人々を守りたいのだろうと推測した堀井は、現実的な方法を語る。そこには、仮の姿ではあるが教師と生徒と呼べる、信頼関係で結ばれた二人の姿があった。


 根が素直で軍務以外に権力を振るわない省吾は、堀井からの教えを真面目に受け取り活かそうとする。そして、元々教える事が好きな堀井は、優秀で素直な上官に、自分すらも追い抜いてほしいと考えながら、脳の使い方について説明した。


「あれ? 准尉? と、堀井? 今日は非番じゃなかったですか?」


「中尉だ」


 地下通路を抜けた省吾は、ジェイコブともう一人の特務部隊に鉢合わせた。そして、その二人から、学園の図書館に異常があった事を聞く。


「手伝いは?」


「いや、俺等が行くんで、任せてください」


 准尉にまで昇進したジェイコブの言葉にうなずいた省吾は二人の仲間を見送り、食事を購入する為にストアへ歩き出した。


「敵でしょうか?」


「かも知れない。だが、あの高レベルの能力者達に感じた特有の気配はなかった。あいつ等なら大丈夫だろう」


 それぞれの買い物かごへ食品を入れていく二人は、軍拠点という事もあり仕事の話を始めていた。


「では、俺は俺の権限内で指示を……」


「そちらは、私がスケジュールを含めて作ります。それよりも、本部への申請書をお願いできますか?」


 的確な堀井の提案に不満を感じない省吾だったが、作られるスケジュールに事前の注意点は指示を出そうとした。だが、優秀な堀井に抜け目はない。


「感知能力に優れた人員を配置します。後、長時間待機を意識して作りますね。それから、仮スケジュールですから一週間程でいいですか?」


……うん。これはもう、任せた方が早いな。


 出会った時よりもさらに有能になってきた堀井に対して、省吾は思考を停止して投げ捨てた。そして、自分の仕事に考える力を全て回す事にしたらしい。


「任せる」


「はい。あれ? 今日はポテトを……」


 省吾が持つかごに、珍しくポテトが入っていない事に気が付いた堀井は、その事を問いかけた。


「たまには、別の物も食べますよ。バランスも多少は考慮しています」


 肉とチリビーンズにヨークシャープディングを見て、偏食にしか見えない日本人の堀井は、イギリス人とは食生活が合わないだろうなどと考えていた。


「あ、野菜も食べますからね」


 先程とは逆に堀井の考えを読んだ省吾は、棚から蒸し野菜のパックをとり、わざわざ見せる。


「私は何もいっていません」


……なんだと!


 省吾が心の中で叫んだのは、心を読み間違えたと考えたからではない。堀井が手を伸ばした棚に納豆が並んでいたからだ。


「だ、大丈夫ですよ。私も西の出身ですから、納豆はさほど食べません」


……西ってなんだ?


 納豆の隣に並んだ、摩り下ろし生姜とネギのついた豆腐を持った堀井を見て、省吾は大きく息を吐いた。


「ほとんど、恐怖症ですね……」


「否定はできません……」


 納豆の臭いを嗅ぐだけで食欲が無くなってしまう省吾の、その情けない弱点を部下である堀井は苦笑いで対応するしかないのだろう。


 二人が食事を終えて作った指示書をチェックしている間に、料亭の料理を堪能した三人の女性が帰還した。そして、その三人だけでなく他の兵士も省吾は呼び寄せ、今後の対策について打ち合わせと指示を行った。


 省吾達から説明を受けた綾香は、自分がもっと早く気が付くべきだったと顔をしかめた。そして、ジェーンと彰の事を省吾に報告する。


 その報告に気を取られた省吾は、ジェイコブから知らされた図書館の異常について、勘が働かなかったらしく、処理と対応をそのまま部下に任せてしまう。人間離れした勘を持つ省吾ではあるが、それは超能力ではないただの勘でしかなく、完璧ではないのだ。


 翌日、無断欠席したイザベラとその図書館の異常を、省吾は結びつけることが出来なかったらしい。


「はぁ……」


 その日何度目なのかを数えるのも面倒なほど、溜息をつき続けているのは、彰だ。宗仁の励ましにより、イザベラに謝罪して前へ進もうと考えていた彰だったが、その肝心の相手がいないのではどうしようもないのだろう。


 授業中に目があった綾香の愛想笑いに、笑顔を返せるほどに心の傷を回復させた彰だったが、気分は優れないようだ。授業中も上の空であり続ける彰は、教師の言葉や教科書に集中できていない。


「はぁぁぁ」


 彰に続いて溜息をついたのは、ケビンだ。ケビンもイザベラからの返事が保留されている状態であり、好きな相手が落ち込んでいるらしい事も分かっている為、心を平静には保てていない。


 教室を包む暗い雰囲気と溜息に、事情を知らない堀井以外の教師達も、自然と気が滅入ってしまい、授業の声が小さくなる。


……リア・グリーンのようにならなければいいが。


 教室内で一番ぴりぴりしているのは、省吾だった。寮への確認に向かわせた部下から、イザベラの不在をメールで知らされた為だ。休み時間の間に省吾は本部へ連絡し、手の空いている部下に緊急捜索を指示しているが、イザベラの行方はまだつかめていない。


 授業中でも部下からの報告を受けている省吾は、携帯電話をいじっている。それを業務だと知っている教師達は、見て見ぬふりをした。


「先生! 井上が、さっきからずっと携帯触ってますよ! いいんですか?」


……勘弁してほしいんだがな。仕方ない。


 いらいらしていた彰は、省吾の行動に気付き、授業をする教員へ手を上げて教える。それを受けた教員は、仕方なくを顔で表現しながら、省吾へ注意をした。


「あぁぁぁ……井上君」


「はい。すみません」


 申し訳なさそうに注意をした教員へ、省吾は大丈夫という意味を込めた視線を送り、素早く作成した指示のメールを堀井へと送信した。


「ふん……ああいうのが、教室の空気を悪くするんだ」


 自分の方を見た綾香に、恰好をつけたつもりのしたり顔を向けた彰は、その相手が笑顔をひきつらせている事に気が付いていない。事情を知っている綾香は、省吾の事も考えて揉め事を増やさない様にと、何とか笑顔を保ったらしい。


 空気を悪くした原因である彰が、その事を棚に上げるだけでなく、省吾に責任転嫁しようとしたと思えた綾香の心には、怒りしかないようだ。正義感の強い綾香の好むことが出来たと内心喜んでいる彰が、もし全ての事情を知れば、滑稽な自分に顔を赤くするだけでなく、逃げ出したくなるだろう。


 しかし、まだ蚊帳の内側に入る権利を持たない彰が、その事を知るすべはなく、恥ずかしがることもない。そして、綾香と同じように考えているケビンやリアの自分に対する好感度も急激に下がっていると、彰は気が付いていないようだ。


 綾香と省吾は、能力を合成して長距離のイザベラ探索を行った。だが、昼休みを潰して行われたその活動は実らない。また、兵士による捜索や、国連職員達による各地の情報収集でも、イザベラの行方はようとして知れなかった。


 その事態を重く見た司令本部は、セカンドの誘拐としてヘリ等の機材や人員を割いて特区内で、イザベラの捜索を行うことになった。公ではないが作戦の規模が大きくなり、指揮権は省吾から日本特区司令官へ移行される。勘の働かない省吾は、悔しさを感じながらもそれを受け入れるしかない。


 冬場の太陽は、地球の地軸が真っ直ぐではないせいで、夏場に比べて早く沈んでしまう。勿論、日本特区もその自然の出来事に逆らえるはずもなく、イザベラを軍が見つけられないまま夜を迎えた。


「はぁ……はぁ……」


「流石は陸上部だな。中学生でついてこれるとは正直、思ってなかったよ」


 高等部のそれも運動量の多いバスケ部の活動を、ジェーンは部員とそん色なくこなしていた。宗仁の褒め言葉に、嘘は全くない。運動神経はいいが持久力が十分ではない彰は、休憩をはさまなければついていけない程といえば、本格的に行ったバスケ部の練習がいかに激しいかが分かりやすいのかもしれない。


「いえ……はぁ……私なんてまだまだで……」


 冬場の寒い体育館内ではあるが、練習により汗だくになったジェーンは、自分で用意しておいたタオルでその汗をぬぐう。ジェーンの髪は短いが、女性らしさを残す短さだ。そのジェーンの髪が、汗により頬やおでこにべたりと張り付いていた。


 タオルと一緒にジェーンがバッグから取り出したペットボトルに、スポーツドリンクはもう残っていない。それを見て、慣れていないのはあるだろうが、陸上部よりもバスケ部の方がきついかもしれないと感じたジェーンが、少しだけ苦笑いをして宗仁に顔を向けた。


「少し、水分を補給してきます」


「おう。暗いから足元に気をつけろよ」


 ジェーンは、宗仁に断りを入れると、体育館の外に設置された冷水器を目指して、ゆっくりと歩き出す。


 体育館を出たジェーンは、宗仁達の視界から外れると同時に、首にかけたタオルで体の汗を拭きとった。彼女も女性であり、不快感が限界に達していても、シャツの中にまでタオルを入れて汗を拭く姿は男子生徒に見られたくはなかったのだろう。


「ふぅ……」


 汗を拭きとりすっきりとした顔になったジェーンは、外気の冷たさを肌で感じ、風邪をひかない様に素早く戻ろうと小走りで目的の場所へ向かった。


 セカンド内でも比較的感知能力が高いジェーンではあるが、綾香ほど特出しておらず、省吾の様な勘も持ち合わせていない。その為、暗闇の中で息をひそめ、自分を見つめる血走った目と、少し荒い呼吸に気付く事は出来ていない。


 水を冷やす為に唸っていた冷水器の前にジェーンが立つと、天井付近のセンサが反応し、周囲の照明が自動でオンになる。雲に月が隠れており、星の光だけではぼんやりとしか見えなかった冷水器が、人工の光でジェーンの目にもはっきりと映る。


 給水機の前に立ったジェーンは、そのペダルを踏んだ。冷水器から真上に向けて噴き出した冷たい水は、一定の高さに達すると同時に排水溝へ向かって落ちていく。


「んっ……」


 自分が顔を下げる事で邪魔になった髪を、片手で押さえたジェーンは、うす桃色の可愛い唇を、噴き出し続けている水に近付ける。喉が渇ききっていたジェーンは、少し離れた位置からでも聞こえるほど喉を鳴らし、よく冷えた水を喉の奥へと送り込み続けた。


「はぁぁ……」


 顔を上げたジェーンはペダルから足をどけると、タオルで口の周りを拭き取った。そして、自分の腹部から水の重さを感じ、少し飲みすぎたかもしれないと視線を下へ向ける。


「うっ? ううっ!」


 背後から何者かに抑えられたジェーンは、自分の身に何がおこっているかが、正確には分かっていないのだろう。


 ただ、自分の口が何者かの手によりふさがれ、体の自由が奪われた事だけは分かっているらしく、防衛本能からか暴れて叫ぼうとはしている。しかし、口だけでなく腕や足を抗えないほどの力で掴まれ、いくら暴れても逃れることが出来ない。


「んんんっ! うっ!」


 暗闇に背中から引きずり込まれるジェーンは、あまりの恐怖に涙を流す事すら出来ず、助けを求める為にくぐもった声を出し続けた。だが、その小さな声は夜の闇に飲み込まれ、宗仁や彰のいる体育館内までは届かない。


「いっ! うんっ!」


 暗闇の中で、背中と後頭部を地面へ乱暴に叩きつけられたジェーンは、体の自由を取り戻そうと精一杯もがいた。勿論、人間では振りほどけない力で抑えられている為、その試みは失敗に終わる。


「ふぅぅ……ふぅぅぅ……」


 自分の体に覆いかぶさっている何者かの鼻息を、肌と耳で感じたジェーンは一気に体を強張らせた。


 ジェーンの超能力ではない女性としての勘が、自分の腹に臀部をつけて圧迫しているのは、男性なのだと気付かせる。そして、それから少しだけ遅れはしたが、腕や足を押さえているのは複数のファントムだと、ジェーンの持つ超感覚が知らせてきた。


 その絶望的な状況で、ジェーンの思考は停止した。


「うう……うううっ……」


 自分がどうなるかも分かっていないはずのジェーンだが、その目には無意識の間に涙が溜まっていく。首からぬるりとした気持ちの悪い感触が伝わってきたジェーンは、自分の胸元にいるはずの何者かに恐怖からか目を向けられない。


 星の瞬く空へジェーンが向けた瞳から、一粒の涙がこぼれる。それと同時に、彼女の超感覚は何かを感知した事を主へと知らせた。


「な……に?」


 ジェーンの目にその感知した何かの光が飛び込むと同時に、複数いたファントムが消滅する。またそれだけではなく、腹部の圧力がなくなり、ジェーンは自由を取り戻したのだ。


 急いで自分の上半身を起こしたジェーンは、訳の分からないまま暗闇の中から聞こえてくる足音と金属音に、再び体を硬直させた。


「ひっ!」


 自分の背後から接近してきた足音に、怖がることしか出来ないジェーンは、小さな悲鳴を上げた。そのジェーンに、暗くてぼんやりとしか見えない人影は、手を伸ばす。


「い……や……いや……」


 先程までの恐怖がよみがえったジェーンは、伸ばされた手から逃げようと、座ったまま後ずさる。


「きゃあっ! えっ?」


 ジェーンは伸ばされていた手が、自分を掴もうとしたのではなく、何かを投げ渡したのだと、自分の胸元に布が触れて初めて気が付いたようだ。


「生徒達の退避完了です!」


 叫ぶような男性の声がジェーンの耳に届くと同時に、何かを投げ渡した人影が、初めて言葉を発した。


「照明点灯! 囲め!」


 学園の広い運動場に、眩しいほどの光が満ちた。そこで初めて、ジェーンは自分が運動場まで引きずられたのだと分かったようだ。


「ジェーン! ごめん! ごめんね!」


 呆然と、銃を持った兵士達や、ファーストの制服を着た男子生徒を見ていたジェーンは、予期せずに抱き着かれた事で鼓動を早め、体を硬直させてしまう。


「綾香……先輩?」


 自分に抱き着いているのが綾香である事と、先程投げ渡されてのが迷彩色のコートだった事しか分からないジェーンは、頭がうまく回転しないようだ。


「大丈夫?」


 今にも泣き出しそうな綾香は、自分を責めているのだろう。知らなかった事とはいえ、ジェーンをバスケ部に参加させてしまったのは綾香だそれだけでなく、練習中に怪我をさせる為に小型ファントムが出るものだと思い込んでしまった綾香は、休憩に入ったジェーン達を見て、他の兵士達と同様に気を抜いてしまったのだ。


 もし省吾が直感で走り出さなければ、ジェーンはもっとひどい目にあい、最悪殺されていたかもしれないだろう事は綾香にも分かっているらしい。


「よかったぁ。どこも怪我はないぃ?」


「リベラ先生?」


 ジェーンの手や足に出来た擦り傷を確認するエマの背後を、兵士の姿になった堀井が走り抜けた。その堀井を目で追ったジェーンは、自分にコートを渡し、今も男子生徒に拳銃を向けているのが省吾だとようやく気が付いた。


「井上……先輩?」


 省吾の隣に立ち、同じように銃を構えた堀井は、学園に残っていた全ての生徒を兵士達が退避させたと上官へ伝える。


「予定通り、ファントム出現で説得しました」


 自分の指示なしに、生徒を退避させた堀井を含む部下の優秀さに、省吾は満足したようだ。


「了解した」


 最後まで自分も戦うと、事情を知らずに兵士の指示に従おうとしなかった彰を、上手くいいくるめたのは堀井なのだが、その事を省吾は知らない。そして、堀井も伝えない。


……あいつは、敵の能力者か?


 銃を持つ兵士に周囲を囲まれた男子生徒は、バッグと何故か脱いでいるズボンを抱え、激しく首を左右に振っていた。


「あれは、ファーストの李乾隆ね。間違いなく、この学園の生徒よ」


 ゆっくりと省吾に歩み寄った白衣姿のマードックは、その優れた記憶力を披露した。


「イリア……」


「何?」


 博士ではなくイリアと呼ばれたマードックは、真剣な顔で銃を構える省吾に笑顔で返事をした。


「下がっていろ。危険だ」


 気の利いた褒め言葉が欲しかったマードックは、笑顔を消しはしたが、省吾の言葉に従う。


「はいはい……あっ、彼がファントム発生の手がかりかも知れないから、出来れば殺さないでね?」


 省吾が頷くと同時に、乾隆の体から黒い霧が噴き出してきた。それを、省吾達はよく知っている。ファントムの霧だ。


「来るな! 俺……俺を舐めるなよぉ!」


 乾隆の体から噴き出した黒い霧は、空中でいくつかの塊を作った。そして、それは小型のファントムへと変化する。


……ビンゴだ。奴を生きたまま捕縛する!


「現状維持! 待機しろ!」


 省吾の指示で、乾隆を取り囲んでいた兵士達は銃の安全装置に指を掛けたまま、動きを止めた。そして、拳銃を構えた省吾だけが、乾隆にゆっくりと歩み寄っていく。


「お前は……嫌われ者の井上省吾? ああ! 来るな! 来るな、来るな、来るなああぁぁ!」


 乾隆が叫ぶと同時に、小型ファントム達が省吾に向かって走り出した。


「井上先輩!」


 小型ファントムの動きを見て、叫んだのはジェーンだけだった。他の者は省吾を信頼しており、全く動じていない。


「大丈夫よ、ジェーン。井上君は負けない」


 広い運動場に、銃声が幾度も響き続けた。ゆっくりと歩み寄る省吾は、引き金を引き続けている。省吾の握る拳銃から発射された銃弾は、周囲の明るさのせいで光っていると分からない。


 だが、銃口を一切動かさないにも関わらず、小型ファントムに全て直撃するその弾丸の成果により、周囲の兵士達には省吾が力を使っていると分かっている。


「くそっ! なんだよ! なんだよそれぇぇぇ!」


 乾隆の叫びに呼応するかのように、黒い霧は噴き出す勢いを増し、小型ファントムへと姿を変えていく。


「このぉ! チート野郎があぁぁ! 死ねっ! 死ねぇ!」


 次々と出現する小型ファントム達だが、省吾の歩みを止める事は出来ない。


……遅い。


 小型ファントム達は霧状から変化し、走り出すと同時に貫かれて消えていく。


「おうおう……相変わらず器用だねぇ」


 片手で拳銃を構えたまま引き金を引く省吾は、素早くジャケットから次のマガジンを取り出す。そして、拳銃の弾が切れると同時に、信じられない速度でマガジンを交換してスライドを引く。


 その省吾を見て、ジェイコブはヨーロッパでの戦いを思い出しているらしい。弾丸を絶え間なく放つ特異技能とも呼べるそれは、省吾が少数で大勢の敵と戦う為に身に付けたものだ。


 他の者であれば引き金を引くごとに、様々な要因で集中力が落ちるはずだが、逆に集中力を高めていく省吾は発射速度を落とすどころか速めていく。それにより、小型ファントム達は走り出す間もなく、出現した時点で霧散し始めていた。


「凄い……。井上先輩……。凄いです」


 省吾の力と万全な特務部隊員の配置に安心しきっている綾香は、ジェーンの言葉を聞き逃さなかった。その言葉は新たなライバルの可能性を示唆しており、綾香はまだ抱きしめているかわいい後輩に複雑な視線を送る。


 敵を見据えた真剣な省吾を見て、目を輝かせているジェーンは、その先輩からの視線に全く気が付いていない。


「くそっ! くそっ! くそおおぉぉぉ!」


 宗仁すら相手にならない、無敵の力を手に入れたつもりでいた乾隆は、受け入れがたい現実を前に涙を溜めていた。その心中では、悔しさや怒りが爆発しているのだろう。


 本来その乾隆の考えは、間違いではない。小型とはいえ、乾隆が生み出しているものはファントムであり、超能力でなければ倒す事が出来ない。そして、それは速度と力だけでも、人間を殺す事が出来る存在であり、省吾のように連射の出来る能力者でなければ、乾隆が負ける事はなかっただろう。


 今現在、乾隆を取り囲んでいる特務部隊員達でも、省吾がいなければ小型ファントムの数に苦戦していたはずだ。もしかすると、乾隆の不幸とは、宗仁の幼馴染である事でも、力を手に入れた事でも無く、省吾と敵対してしまった事なのかもしれない。


「なんだよ! お前ぇぇ! こっちくんなよおぉぉ!」


 真っ直ぐに自分へと進んでくる省吾の目から、乾隆は視線を逸らすことが出来ない。乾隆にそうさせているのは、目を逸らせば殺されかも知れないという恐怖だ。


 味方からすれば心強さを感じる省吾の強い意志を灯した瞳は、敵からすれば畏怖の対象にしかならないのだろう。


「やっぱり有限だったわね」


 自分で記録用のビデオカメラを撮影していたマードックは、乾隆の体から噴出す霧の量が減っている事に気が付いていた。引き金を引く回数を減らした省吾と、思い通りにファントムを出現させられなくなった乾隆も、マードックと同じ事が分かっている。


「抵抗を止めろ!」


「うっ……ううううっ!」


 省吾の鋭い視線と声で、乾隆は溜めていた涙を流し始めた。


……なんだ? 霧が止まった? いや、弱まったのか?


「なんで? なんで、俺には幸せが来ないんだよ」


 何度も服の袖で涙をぬぐう乾隆の体から、噴き出している黒い霧は止まってはいない。だが、その霧の濃度はかなり薄くなり、もうファントムへと変化しなくなっていた。


「誰も俺を認めてくれない。あいつも俺を無視するんだ……。少しぐらい……少しぐらい俺が幸せになってもいいじゃないかああぁぁ!」


 既に泣きながら省吾に叫ぶだけになった乾隆を見て、取り囲んでいる兵士達は距離を詰めようとした。


……待て。まだ早い。


 乾隆に近寄ろうとした兵士達に向かって、省吾はまだ油断するべきではないと首を横に振り、動くのを止めさせた。省吾の事を信頼している特務部隊員達は、その上官からの無言の指示に従い、サイコキネシスの力を溜めたまま乾隆を見つめて動くのを中止した。


「皆……皆あぁぁ! 死んじまえぇぇぇ!」


 乾隆は、持っていたバッグとズボンを省吾に投げつけた。そして、自分の胸元へ手を突っ込み、黒い金属で出来たロザリオを取り出す。そのロザリオはネックレスになっているらしく、乾隆の首からのびる細い銀色の鎖が見える。


「うわああああああぁぁぁ!」


 乾隆の叫びと共にそのロザリオから噴き出した黒い霧は、二メートルを超える完全なファントムを出現させた。それを見て、周囲の特務部隊員はサイコキネシスを溜めていた手を、ファントムに向けようとした。


 だが、それよりも早く、敵を省吾の弾丸が撃ち抜き消滅させる。


……ここまでだな。


 乾隆にバッグとズボンを、顔に向けて投げつけられた省吾だったが、訓練を積んでおり目蓋を閉じる事はない。


 何よりも、物理的に視界がふさがれようと、千里眼を持つ省吾は動きを制約される事はないのだ。


「来るな! 来るなああぁ!」


 省吾が縦に首を振ると同時に、乾隆を囲んでいた兵士達が、じりじりと距離を詰め始めた。


 それを見た乾隆は、首にかかっていたロザリオの細い鎖をちぎり、兵士達を威嚇する様に何度も突き出す。その光景はまるで、悪霊や吸血鬼から身を守ろうとしているエクソシストのようだ。


「なんでだよ……。なんであいつばっかりいい思いをするんだよ……」


 黒い霧を発生させられなくなったらしい乾隆は、その場に両膝をつき、ロザリオを握りしめて亀のように丸くなった。


「一人ぐらい、俺の物にしてもいいじゃないかよ……。なんで、皆、俺を嫌がるんだよ……」


……女性を物扱いか。頂けないな。


 抵抗を止め、独り言をつぶやき続ける乾隆を見て、省吾は銃の安全装置を作動させた。そして、地面に散乱したマガジンと薬きょうだけでなく、バッグの中身とズボンを拾い上げる。


「やっと……やっと、宗仁に俺を認めさせる事が……」


……うん?


 小型のビデオカメラを、白衣のポケットにしまったマードックは、自分の記憶を呼び起こした。


「確か……その子。郭司令の子供と、出身が同じはずよ」


 マードックが思い出した事を省吾に教えると、乾隆がぴくりと反応して顔を上げる。


「あいつは……あいつは、俺のライバルだ……。そうだよ……ライバルなんだよ」


 涙、鼻水、唾液でどろどろになった顔で、乾隆は必死に訴えかけていた。だが、あまりにも支離滅裂な為、その言葉を読み解けた者は少ない。


「なのに……俺はあいつに何も勝てやしない。だから、あいつは俺を見てくれない。ライバルにもなれないのか? 俺は?」


 ひびが入り、壊れかけた自分の心を、乾隆は必死に取り繕おうとしているのだろう。だが、その状況で現実逃避をしても、心は回復しない。


「スカーレットデビル……」


 精神が完全に壊れそうになった乾隆は、聞き慣れた言葉を発した相手に、焦点が合わなくなった目を向ける。


「貴方は、俺のライバルだ。いや、ランキングではまだ俺が負けたままだな」


 自分が趣味で使っていたノートを持った省吾を見て、乾隆の目に光が戻る。そして、省吾がいった意味を理解したようだ。


「井上……省吾……。お前……もしかして、イズ(IS)? イズなのか?」


 乾隆の言葉に、省吾はうなずいた。


……こんな形で会いたくはなかったな。


 イズとは、省吾がゲームで使っているユーザーネームだ。名前にさほど頓着が無い省吾は、自分のイニシャルをそのまま使っている。


 そのネームを見たネットの中のユーザー仲間達は、省吾の事をイズと呼ぶようになっていた。そして、そのイズのライバルだったユーザーが、スカーレットデビルこと乾隆だったのだ。


 省吾が年明け以降、ライバルと戦えなかったのは、乾隆が手に入れた力に溺れ、ゲームを二の次にしたからだ。


「なるほどねぇ……」


 乾隆の握っていたロザリオが、黒から白へ変色していくのに気が付いたのは、マードックだけだろう。


 省吾の言葉で大人しくなった乾隆は、特務部隊員達に抵抗する事なく拘束された。そして、そのまま特務部隊員達は、乾隆を軍拠点側へ連行し始める。


「俺は……俺は、もう一度貴方と戦える日を待ちます。いくら、バージョンが変わっても……」


 こうべを垂れたまま自分の隣を通り過ぎていく乾隆に、省吾は兵士としてではない言葉を送った。


「そのノート。よかったら、貰ってくれ……少しは役立つかもな」


 再び涙をこぼし始めた乾隆は、省吾の言葉に自分の出来る精一杯を返した。そして涙を流しながらも、少しだけ笑う。

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