七
一人の人間が大きなトラブルもなく進学をした場合、大よそ十五才から十八才の間に高校生という期間を経験する。その高校生としての生活は、様々な面で難しいといえるのかもしれない。
勉学に友情や恋といった、それまで未経験だった様々な事を経験する事も少なくはない時間だ。そして、中学生と呼ばれていた頃より制限は少ないが、大学生や社会人よりは縛られるルールが多い。
人それぞれの顔が違うように、色々な条件で内容の異なる高校生としての日々ではある。だが、長い人生の中でもっとも多感な時期と呼べる者も少なくない。小さな事にでも、喜び、悩み、怒る事も少なくないだろう。個人差はあるものの子供と大人の境界線になる事の多い時期であり、体は大人のそれとほぼ変わらないにも関わらず、心の中は子供のままになっている者もいる。
大人になってさえ自由にならない心の問題が、複雑な難問になりやすいこの時期の悩みは、心を成熟させる為に必要なのだろう。しかし、悩んでいる真っ最中の者達からすれば、無くなってほしいほどの苦しみを伴う為、一刻も早く抜け出したい時間といえるのかもしれない。
全ての予定された授業が終わり、ホームルームをする為に自分が受け持つ教室に来た堀井は、昼に感じた以上の緊張感にその場所が包まれている事に気が付いた。そして、その暗い雰囲気の原因を探ろうと、生徒達の顔を一人ずつ確認していく。勿論、そんな事だけで答えを出せるはずもない。
「ええぇぇぇ……では、ホームルームを始めますね? いいですか?」
堀井に悩んでいる理由が分かるのは、綾香だけだった。彼女は、ライバルと呼べる二人の女性と食事に行く事に、色々と思いを巡らせている。
時間が欲しいと返事をされたケビン、もういいと告げられた彰、好意からフォローしようとして失敗したリア、自殺しそうなほど青い顔をしたイザベラの事情など、表情からだけで読み取る事は不可能に近いだろう。
他の者を巻き込み、嫌な空気を作り出しているのがイザベラだと、今持っている情報だけでは推測できない堀井は、ホームルームを進める。それは、そうすることしか出来ないからだ。助けを求めるように、生徒でもある上官に堀井は何度か視線を送っていた。だが、昼間の自分がしたように、省吾は視線を合わせてくれないのだ。
……やはり、兵長には教えておくべきだったか?
仕返しがしたいなどと考えてはいない省吾だが、堀井への説明をする為に頭の中で情報を整理しており、視線を合わせていないだけだ。だが、冷や汗をかきながら目線を泳がせている堀井からすれば、昼間見捨てた仕返しにしか思えない。その為、堀井は許しを請うように助けを求める目を何度も省吾に向ける。
優秀な人材である堀井も、教師としては二年目の駆け出しであり、兵士が本業だ。その堀井は、教師としての成長面で特別優れている訳ではない。そんな堀井は、勇気ある撤退を決断したらしい。
「ええぇぇ……では、本日は終了です。お疲れ様でした」
……うん? 兵長の声が上ずっている? どうかしたのか?
いつもと違う最後の挨拶を聞き、省吾がやっと教壇へ視線を向ける。すると、連絡事項を十分に伝えきれていないはずの堀井は生徒が頭を下げると同時に、逃げるように教室を出た。
……何かあったのか?
上官として部下の相談に乗ろうかなどと考えている省吾は、自分が堀井に情報を伝えていればその事態が避けられた事を、理解していない。それどころか、綾香だけでなくイザベラと彰を悩ませている原因の一端を、自分が担っているなどとは考えもしていないようだ。
堀井に続いて教室を出たのは、バスケ部の練習に行きたくない彰でも、部下の事を本気で悩む省吾でもなく、イザベラだった。誰とも喋りたくないらしいイザベラは、寮に帰るでもなく学園内の人が少ない場所を探して、夢遊病者のようにふらふらと歩いていく。そのイザベラとかなり仲のいい綾香とリアだったが、声をかけることに躊躇してしまう。
綾香は、バスケ部の宗仁に頼まれた手伝えそうな友人を紹介し、マードックとの約束を果たさなければいけない為、時間がなかった。そして、昼間差し出した手を受け取ってもらえなかったリアも、もう一度声をかけてもいいのかと考えてしまう。
二人が迷っている間にイザベラはいなくなり、仕方なく時間のない綾香が教室を出ると、生徒達が次々にバッグを持ってそれに続いた。その日は、腕を組んだまま別室に向かう省吾だけでなく、他の者もクラスメイトと会話を楽しむ余裕はないらしい。
綾香に続いて教室を出て行く者達の中でも特に、彰と決着がつけばイザベラは自分を見てくれると思っていたケビンは、後姿だけでも分かるほど気を落としていた。ただし教室に最後まで残り、窓から曇り空を眺めている彰は、ケビン以上に元気がなくなっている。
「はぁぁ……なんだよ……これ……俺が、なにしたってんだよ」
大事なものはなくして初めて気が付くのだろうかなどと考えている、悲劇の主人公になったつもりの彰もまた精神面で未成熟な一人である。
彰はイザベラを嫌いか好きかでいえば好きだが、綾香がイザベラよりも好きな事に変わりはないようだ。それにより、中途半端な行動をとり続けていた彰にとって、これは自分の愚かさを見つめるいい機会なのかもしれない。
容姿や能力に恵まれ、慢心してしまうのは人間なのだから仕方のない事であり、彰が全て悪いとはいい切れないかもしれない。それでも彰は、他人の心に気が付くべき部分があり、そこに気が付けなかった事が今に至る原因なのだろう。
プライドや格好をつける事も、一概に悪い事だとは言い切れないが、それを他人にも押し付け、変化しやすい人間関係に注意を払わなかった事は褒められない。
「なんで俺がこんな目にあうんだよ……。損じゃないか……かっこ悪いし……不公平だ。ずるいよ……神様は……」
彰は家族を怪我させた事まで思いだし、能力もなく平凡に暮らしていればこんな目にはあわなかったと、いるかどうかも分からない神に恨み言を呟く。
その彰は自分がどれだけ恵まれた立場にいるかを、正確に理解できていない。結果が良かった部分は自分の努力、悪い部分は神を含めた外部的要因だと、都合よく彰は考えているようだ。
何のハンデもないどころか、才能等に恵まれている自分を活かしきれないのは、自分自身の責任でしかない。それを誰かに教えられるまで、彰は事実から目を逸らすつもりなのかもしれない。
「そうだよ! ああ、馬鹿馬鹿しい! 馬鹿ばっかだ! もう、知るか!」
悲劇の主人公を思う存分堪能した彰は、怒りを口に出しながら立ち上がり、バッグを持ってロッカールームへ向かう。
既に済んでしまった事は取り返しがつかない以上、その開き直りは必要な事なのかもしれない。だが、自分自身を真っ直ぐに見つめて能力等に固執しない宗仁や、能力を完全に支配する省吾のように、今後自分でどうするべきか決められるようになるのに、彰はもう少し経験が必要なのだろう。
少なくとも、自分にも悪い部分はあったと反省するまで、彰は次の段階へと向けて歩み出せはしないはずだ。故に、成長過程である彰は、未成熟な一人からまだ脱却は出来ない。
「ああぁ、くそ。誰でもいいから殴りてぇ……」
彰を傷つけ、自身も傷ついたイザベラは、学園内にある図書館を訪れていた。テスト期間でもない放課後に図書館にいるのは、本を読みたい者か、宿題やレポートを作る目的を持った者達ばかりで、騒ぐ者はいない。
寮に何となく帰りたくなかっただけのイザベラは、その図書館で本も持たずに窓から彰と同様に空を眺めている。どうやらイザベラは一人になり、考え事をしたかったわけではなく、何も考えずに頭を空っぽにしたかったらしい。イザベラが何も考えていない事は、虚ろな目と半開きの口を見れば、他人からでもすぐ分かるだろう。
綾香やケビンよりは劣るが、イザベラも戦中ですら食事に困る事がほぼない、恵まれた家庭で育った。そして、戦争が終わってしまえば、すぐに衣服だけでなく嗜好品を楽しめたのだから、家庭環境でほとんど苦労をしていないといえるだろう。
その上で、頭脳や運動能力も一般レベルでいえば優れており、容姿にも恵まれ、超能力まで発現したのだから妬まれこそすれ他人を羨むことはなかった。そんなイザベラは、ハイティーンで重要といえるだろうパートナー選びで、自分が苦労するなどとは考えてもいなかったのだろう。順風だったイザベラの人生の中で、今が一番苦しいのかもしれない。
人間は苦しい場面でも忘却や順応等、脳の働きにより、それに耐えていける生物だ。初めて味わった苦しみでも、慣れてしまえばさほど苦痛に感じなくなる場合や、それ以前により強い苦しみを耐えたと自分に言い聞かせ、その場を乗り切る事も出来なくはない。
だが、苦労をほとんどしてこなかったイザベラの脳には、まだ今感じている苦痛を処理するだけの力が無いようで、怒りや悲しみが全く消えていかない。そんな場合に頼りになる可能性がある本当の友人も、イザベラは獲得できていなかった。
幼少時から同性に意味もなく妬まれる事が多かったイザベラは、同性を友人として認める条件を自分の中で勝手に作っている。イザベラは相手が友人としてふさわしいかを、その人格ではなく、持っているもので選別してしまうのだ。
まず、自分に一番近い友人として認めるのは、外見が良い者だ。そうすれば、疎まれる事はないと考えており、綾香やジェーンと遊ぶことが多かったのもそのせいだ。その次に、能力や家柄だ。勉強、超能力、運動能力、お金等、何かを持っている者からも、いわれのない非難を浴びる事が少ない。
仕方の無かった事とはいえ、イザベラのその選別は、友人と呼べる者達との付き合いを上っ面だけのものにしてしまった。綾香やリア達とぶつかる事もあるかも知れないが、もう少し腹を割って喋り、お互いに親友と呼べる関係を築いていれば、今の苦しみを和らげてくれたかもしれない。
完全に苦痛を消すことが出来ないにしても、愚痴を聞いてくれる友人がいるだけで、人間は心が軽くなる。勿論これはもしもの話であり、心のつながった友人がいない状態で事ここに至っては、現実逃避以外の手段がイザベラには残されていないのだろう。
少し雲の晴れてきた空を見つめるイザベラの目には、涙がたまり始めており、図書館にいる大学生を含む生徒達は、それを遠巻きに見つめることしか出来ない。
そのイザベラの事が頭の片隅で気になっている綾香だが、マードックや省吾の事でそちらへ気を回せる余裕がないらしい。人間には限界があるのだから、少し冷たいようだが、綾香のその行動も仕方のない事なのだろう。
「おおっ! そうか! 助かるよ! 練習相手になってくれるだけで、十分なんだ」
その日綾香の願いに応えたのは、大会が終わり、自主練習しかする事の無かったジェーンだけだった。だが、彰を含めてもバスケ部の練習に出られるのが四人だけだった為、宗仁は嬉しそうに綾香とジェーンへ笑いかける。
「あの……私、背が低くて……あんまり、お力になれないかもしれませんけど……あの、頑張ります……」
気の弱いところがあるジェーンだが、俯いてもじもじしながらではあるが、珍しく意欲を口にした元々ジェーンはバスケットボールが好きなのだが、身長が低くそちらの部活には入る勇気がなかっただけなので、バスケ部へ一時的にでも入れることは嬉しいようだ。
「全然っ! 助かるよ! あっ、高梨もありがとうな!」
ジェーンの一時的な加入を、練習がしたい宗仁が一番喜んでいる。遊園地に初めて連れて行った子供のように、曇りのない笑顔を宗仁は二人に向けている。
「いえ、何よりです。じゃあ、すみません。ちょっと、急ぎますので」
宗仁に頭を下げたマードックとエマを待たせている綾香は、素晴らしい加速で体育館の入り口から消えた。
「あっ……」
省吾についてタイミングを見計らって聞こうと考えていたジェーンは、走り去った綾香の背中に残念そうな顔を向けていた。ジェーンは聞こうと思えばいくらでも聞くタイミングはあったのだが、気の弱さが災いして聞こうとする空気すら綾香にくみ取ってもらえなかったのだ。
「えと、ロスさん? 高梨に用事でも?」
「あっ、いえ。なんでもないです、はい。すぐに着替えてきます」
自分の意見をあまり目上の相手に伝えられないジェーンは、そのままバスケ部の練習に参加する。そして、遅れてバスケ部の練習に彰が参加する頃、綾香は寮の自室で急いで着替えを済ませ、生徒達に見られないように軍拠点側から別室へと入った。
「すみません! 遅くなりました!」
授業用ではない私服に着替えを済ませているエマは省吾達と打ち合わせをしており、綾香の声で振りむいた。
「あらぁ? 綾ちゃん、早いじゃない。私が車出すから、もう少しゆっくりでもよかったのにぃ」
「はぁ……はぁ……いえ、お待たせしたくありませんので」
呼吸を整えた綾香が座った椅子の前には、大きな会議用の机がある。その机には省吾と堀井だけでなく、エマ同様に外出用の服に着替え終わっているマードックも席についていた。
「中尉……勘弁してください」
「そうね。エースは昔から、そういうところが、駄目よね」
……何? これは、俺が悪いのか?
珍しく堀井に詰め寄られている省吾を見て、綾香が首を傾げる。
「高校生にとって、恋愛って結構大事なんですよぉ。中尉」
綾香の為に紙カップに入った水を持ってきたエマは、笑いをこらえながら省吾に諭すような言葉を発した。
「あ、ありがとうございます」
エマから水を受け取った綾香は、話題が何であるかが分かったらしく、複雑な表情になっている。
「しかし、状況が二転三転して、伝えるに伝えられなかったんだ」
省吾のその言葉で、堀井は仕方ないと納得したらしい。だが、マードックは省吾が目線を逸らした事を、見逃さない。
「あら? 珍しくいい訳?」
……ぐっ!
「超能力者って、精神的に不安定になると、能力が下がる事もあるって知ってるんじゃなかった? エース?」
……ぬぐぐぐぐっ!
恋愛を重要だとは思えなかった自分の判断は間違えていないと考えながらも、省吾は落ち込んでいるクラスメイトを見て、後ろめたさに近い何かを感じていたらしい。そして、自然に目線を逸らしたのだが、フランソア式英才教育を受けた同門のマードックには、全てが見透かされていたようだ。
「申し訳ない。俺のミスだ。次からは、もう少し早く伝えよう」
しばらく目を閉じていた省吾だが、マードックの言葉で観念し、部下である堀井に頭を下げた。
「お姉さんというより、お母さんって感じねぇ、イリア」
頭を下げた省吾を見て、エマは素直な気持ちを口に出した。
「エースは昔から自分を含めて、恋愛をどうでもいいと思ってるからね。少しずつでも教え込まないと、私達には他人事じゃないでしょ」
マードックを凄いと思いながらも、自分達より省吾の事を知っている部分を強調した事には、エマも綾香もいい気分はしていないようだ。
「うふふふふっ……」
「ほほほっ……」
省吾の潔い謝罪と、堀井の寛大な心で仕事を開始しようとした二人は、三人の女性によるギスギスした笑い声に、目を細め眉間にしわを寄せる。
……何故だ? 寒気がする。ような、しないような。
「じゃあ、行ってくるわ」
いつまでも牽制し合っていても仕方が無いと、笑うのを止めたマードックは、省吾達に振り返り出かける事を告げた。それにより無言でうなずいた省吾と堀井だけでなく、三人から目が離せなくなっていた研究員や兵士達も、思い出したように自分の仕事に戻っていく。
「あ……イリア」
別室から地下通路を通り、軍拠点側の駐車場に向かおうとしていたマードックを、省吾が呼び止める。
「お前は、帰ってきてくれよ」
その言葉にエマと綾香は困惑の表情で振り返るが、省吾は二人が考えているような色気のある事を考えるはずもない。
「資料はお前が帰るまでに纏めておくから、出来れば今日中に意見が欲しい」
「はいはい」
省吾に期待などしていないマードックの目は、先程までとは違いかなり冷めている。そして、そこに付入ろうとしたエマ達の気持ちも、省吾はくみ取れない。
「あの! 井上君? 私にもお手伝い出来る事はありますか?」
「あ、中尉。私も、帰ってきますけど?」
紙ベースの資料を並べ直し、番号を書き込んでいる省吾は、二人に目も向けない。
「いや、二人は非番のはずだ。帰ってくる必要はない」
女性三人が別室を出る直前に大きく息を吐いた事を、資料整理に集中している省吾は気が付くはずがない。堀井はその光景を見慣れてきたらしく、気にも留めず、紙ベースの資料とコンピューターの画面を、交互にチェックしていく。
「やはり、駄目か……」
資料整理を継続しながらも、大よその資料に目を通し終えた省吾は、落胆の気持ちを声に出す。
その資料には、職員達により行われた学園の点検記録が記載されている。点検といっても、見落としの可能性も高い、決められた事だけをする定期点検ではない。敵が研究所に侵入した際、盗聴器等を含め何らかの仕掛けをしていないかを、省吾の指示で職員が細かく調べた記録なのだ。
敵が何らかの罠を学園に仕込んでいると考えた省吾達だったが、それがなんなのかまでは推測も出来ておらず、しらみつぶしで調べる事から始めていた。そして、省吾が口にした通り、その努力は結果にはまだ結びついてはいない。
「敵が何かを残していったとしても、物であると決まってませんからね。それに、その物体が風の力を利用して、移動する可能性などもありますし……」
それからも、紙の資料を省吾が整理し、堀井が変化したポイントを分類わけしながら、コンピューターに入力する地味な作業を二人は続けた。
……思い込みになるかも知れない。しかし、これはどうにも腑に落ちない。
変化した部分のピックアップを終え、紙の資料をバインダーに閉じようとした省吾は、手を止める。それを見た堀井は、入力中だったコンピューター内のデータを一時保存し、省吾に問いかけた。
「何かお気付きになった点でも?」
渋い顔をした省吾は、今話すべきではないかもしれないと思いつつも、考えている事を堀井へ喋っていた。それだけ省吾は煮詰まっており、堀井を信頼しているのだろう。
「やはり……敵の目的が、ちぐはぐ過ぎる……」
敵の目的については、それまでも二人は何度も話し合っており、堀井はすぐにその話についていく事が出来た。
「気にかかりますか……」
特務部隊員や作戦参謀だけでなく、マードックとも話し合い、それでも特定できていない敵の目的が省吾は一番気にかかっているようだ。
敵の目標が学園内の超能力者及び、その研究データらしい事は省吾達にも分かっている。だが、底知れない能力を持っているはずの敵が、何故能力者である学生を狙うかが、いまだに不明のままだ。
また、学園の全データを見たはずの敵ならば、学生達を個別に狙う事も出来るはずだが、直接手を下したくないのかそれを行わない。その為、さらに敵の姿が省吾たちの中でぼやけてしまう。そして、超能力者ではない武装勢力の力押しも行われる気配がなく、敵に動きが無いせいで諜報員達も取りつく島が無い状態だ。
国連の軍備を恐れて、敵が力押しをしないとも考えられる。リアを騙しただけでなく、ファントムを使って山中に学生と特務部隊員をおびき寄せた事すら陽動にした敵を、省吾は甘く見ていない。
「学園に何かの罠を仕掛けたにしても、やり口が間接的すぎる。もっと敵は、効率的にこちらを責める策や力があると思えるんだがな……」
省吾の勘が鋭い事をよく知っている堀井は、幾度も話し合ったその事について、一度も聞き流しはしない。無駄に終わる事の多い話し合いだったとしても、勘のいい省吾なら何かの切っ掛けで、答えにたどり着くかもしれないと考えているのだろう。
「下手に煽っていては、こちらの準備が整うだけですし……。まるで、愉快犯ですね」
……愉快犯? こちらの全てを準備しても、自分達が上だと見せつけたい? いや、何か違う。
「はぁ」
どうしてももやの晴れない敵に、省吾は溜息をつく。そして、資料整理に戻る。
「悪かった。後にしよう」
「いえ。後、入力完了後はコンピュータールームを、おさえていますので、そちらで……」
堀井にうなずいて見せた省吾は、バインダーに資料を閉じる作業を再開した。その省吾と同様に、どうしても気にかかる事がある運転中のエマは、助手席にいるマードックへ質問をする。
「イリア? 忙しい貴女が、こんなに日本に滞在するとは思わなかったわぁ。何かあるの?」
助手席から暗くなっていく町を眺めていたマードックは、視線をエマに向けず、そのまま返事をした。
「エースと一緒にいる為よ」
運転中のエマだけでなく、後部座席でおどおどしていた綾香も、マードックの言葉に反応する。
「へぇ……本気ってわけぇ?」
マードックが鼻から息を窓に向けて噴き付けると、その窓の一部が白くなり、すぐに元の透明に戻る。
「私は、いつも本気よ。でも、今貴女が考えた事とは、違う目的でも本気なの」
回りくどいマードックの言い回しの意味が分からず、綾香は声を出せない。
「今からする話は、後々発表予定だから、誰にも喋らないでね」
綾香と違い、エマはマードックの言い回しに慣れている。そして、自分の質問が何かの核心をついたのだと感じて、少しだけ口角を上げる。
「エースの能力は、二人とも知ってるわね?」
そのまま黙っていては、発言権が損なわれそうだと感じていた綾香が、エマよりも先に返事をした。
「はい。千里眼と、サイコキネシスによる強化ですよね? 銃なんかの……」
「そう。最初期につけられた個別の呼称が[兵器]なんだけどね……」
省吾の能力に呼称がある事を、綾香は驚いたようだ。それは、自分を含めたほとんどのセカンドが、能力に分類名は持っているが、個別の呼び名は持っていないからだ。
「えっ? 個別のですか?」
「最初の頃は、つけていたのよ。セカンドが増え始めて、分類が出来るようになってからは、分類名で呼ぶようになったけど……」
尚も二人に顔を向けず、歩行者を見つめるマードックは、省吾の能力について喋り出した。
省吾の能力は、拳や銃の威力を高め、弾丸の飛距離を伸ばし、軌道を変える力があり、どれもサイコキネシスの効果だと説明は出来る。だが、どんな武器でも能力で強化してしまう異常性には、マードックしか気が付いていないらしい。
本来、威力を高めるのも、飛距離を伸ばすのも、軌道を変えるのも、別々の力であり、バランス型の能力者でも同時に使いこなせる者は省吾以外に存在しない。
「肉体の強化や、貴女が使う他人と能力を合成する力も、珍しいわ。でも、能力の根源をたどれば元々持っていた能力を、発展させているだけなの」
自分の能力が、得意としていたテレパシーの応用であると知っている綾香は、マードックの言葉をすぐに受け入れる事が出来た。
「能力の量も多くないし、兵器……体を含めた武器以外に能力も発動しない……。にも関わらず、能力の数だけが類を見ない程多いのよ」
エマはその言葉で、戦場の出来事を思い出したらしい。
「そういえば……中尉は、爆弾の威力や、ナイフの切れ味まで能力で強化してたわねぇ……。よく考えると、あれも別の能力か……よっと」
目的の店に到着したエマの車は、運転手のきったハンドルに従い、そのままあいている駐車スペースにとまる。学園から少し離れたその場所へ、三人が到着する頃には、辺りは真っ暗になっていた。
「超能力の研究が次の段階へ進む鍵に、エースはなるかも知れないのよ。だから、本気で調べてるの。この事は、エースにもまだ内緒にしてちょうだいね」
エマが車のエンジンを切ると同時に、マードックは二人に顔を向けて笑いながら頼んでいた。それに対して、ベルトを外した二人は、うなずくことで了解した意思を伝える。
その時点までの三人は、秘密を共有した事で仲良くなったともとれるだろう。だが、車を降りたマードックの言葉で、三人の雰囲気が怪しくなる。
「まあ、それはそれとして、この際正式な恋人にもしようとは思ってるけどね」
良家の出身である綾香がその日予約したのは、特区内でもかなり高級な料亭だ。綾香はその店が日本人以外の顧客に対応できるようにテーブル席を用意していると知っており、選んだのだろう。
「高梨様ですね。お待ちしておりました」
着物を着た責任者の女性と、綾香達の個室を担当する女性従業員が、入り口まで三人を迎えに出ると同時に頭を下げた。
「あの……どうかされましたか?」
その店の女性達は、迎えに出た客の三人が笑いながら睨み合っている理由が分からず、自分達に不備が無いかを確認する。勿論、そんなものはないのだから、見つかるはずもない。
「あっ、すみません。二人とも、行きましょう」
一番早く我に返った綾香の先導で、三人は真っ暗な駐車場から明るい店内へと入った。それと同時刻、学園の体育館では宗仁と彰が掌を発光させていた。
「えと、ジェーン? 大丈夫か?」
悲鳴を上げて倉庫から飛び出し、転んでしまったジェーンに、彰が駆け寄り手を差し出す。
「あ、はい。すみません……」
ジェーンを彰に任せていた宗仁が頭を掻きながら、体育館の倉庫から出てきた。
「何もいないな。ファントムだったのか?」
倉庫内にボールをしまおうとしていたジェーンは、ファントムを感知して叫びながら飛び出したのだ。しかし、その倉庫にもうファントムはいなくなっていたようだ。
「はい……間違いありません。能力で感知したので……」
能力者であるジェーンも、ファントムの恐ろしさはよく知っており、いきなり襲われそうになった事でかなりの恐怖を感じたようだ。
ジェーンを引っ張り起こした彰も、宗仁により明かりが付けられた倉庫を覗くが、痕跡は見つけられない。
「まあ、あいつらは霧になって消えるからな……」
ジェーンの怯え方を見て嘘だと思っていない宗仁は、念の為に彰と二人で体育館周辺を確認にまわった。その宗仁の行動は、体育館にいる学生の中には、能力を持っていない者もいるのだから、当然だろう。
「お前、感じるか?」
もし、宗仁に省吾ほどの勘があれば、暗闇に身を潜めたファントムではない存在に気が付いただろう。
「いえ、感じないっすね」
体育館の外を二周ほど回った宗仁と彰は、ファントムが逃げたのだろうと決めつけ、体育館内へ戻った。そして、片づけを再開する。
「今日はありがとう。本当に助かった。また、気が向いたら来てくれ」
着替えを済ませた宗仁は、急きょ参加したジェーンに個別の礼をいい、他のバスケ部員を帰路につかせる。
「もしファントムが出ても、俺達がいるからな。あ……よかったら送って行こうか? 暗いし……」
「いえ……ありがとうございます。お疲れ様でした」
彰の好意を申し訳なさそうに断ったジェーンは、そのままバッグを持って寮へと走り出した。
「あれ? 下心とか……思われた?」
陸上部であるジェーンが、走って帰るのは普通の事なのだが、心の傷が癒えきってない彰には少し違う意味に映ったらしい。
「おい、神山!」
「えっ? あ、はい。なんっすか?」
再び気分がどん底に到達しそうだった彰に、宗仁が声を掛けた。
「今日は、特別に飯おごってやるよ。一緒に、飯食って帰ろうぜ」
「あ、ういっす」
職員室にいる顧問への報告を済ませた宗仁は、彰を連れてなじみの定食屋へ向かった。そして、いつもの様に特別メニューを注文する。
「なんだ? お前、それだけでいいのか?」
かつ丼の定食だけを頼んだ彰に、宗仁は遠慮しなくていいといいたいらしい。
「いや、逆に聞くんすけど……。それ、多くないっすか?」
その店の特別メニューとは、十代の運動をしている男性等でなければ食べきれないであろう、油と肉をふんだんに使用した大盛りの定食だった。
二種類のたれをからめて焼いたらしい肉、とんかつ、ハンバーグ、から揚げ、山盛りの千切りキャベツだけでなく、大盛りのどんぶり飯には麻婆豆腐らしきものまでかかっていた。
「そうか? これ食っても、俺は夜食も食えるぞ」
その宗仁の言葉で、彰は笑顔をひきつらせ、食べてもいないのに満腹感を覚える。
「まあ、いい。足りなかったら、頼め」
先に割り箸を割った宗仁に続いて、彰もかつ丼を食べ始めた。
「あのさぁ、神山?」
定食をどんどんと口に運んでいた宗仁は、半分ほど食べ進んだところで彰に問いかける。
「なんかあったか? いつもと感じが違ってたぞ?」
彰は口の中に残った米を、水で流し込んだ。そして、宗仁と目を合わせずに息を吐いた。
「いや……ちょっと、彼女と少しありまして」
見栄からか彰は、まだ彼女ではなかったイザベラの事を、彼女といった。疑う理由のない宗仁は、その言葉をうのみにする。
「そうか……。お前、もてそうだし、大変だなぁ」
彰は顔を上げ、肉を口に運んだ宗仁に目を向けた。宗仁の言葉が、何処か納得いかないのだろう。
「俺なんかより、先輩の方がもてるんじゃないっすか? 彼女だっていないのは聞きましたけど、作ろうと思えば……」
肉に続いて米をほとんど噛まずに飲み込んだ宗仁は、口の周りにソースをつけたまま笑う。
「いやぁ、俺は駄目だ。女の子と遊ぶより、バスケが楽しいし、目標もあって忙しいからなぁ」
「目標? 目標って、なんっすか?」
宗仁と違い、完全に箸が止まった彰は、喋る事に集中しているようだ。
「親父に認めてもらう事だな」
「親父さんって、あの司令官をされてる?」
あらゆる面で優れている宗仁が、認められていないと聞き、彰は少しよくない想像をした。その想像とは、厳しい父親に宗仁が冷遇されているかも知れないといった類のものだ。
「あっ? おい、勘違いするなよ。俺の親父は、びっくりするぐらいいい親父だぞ」
顔が暗くなった彰を見て、宗仁があわてて説明をするが、その事でかえって彰には話の本筋が見えなくなったらしく、困惑の表情を浮かべている。
「仕事は出来るし、家族サービスは欠かさないし、お袋一筋だし、おまけに格闘技まで現役でも通用する程だしな」
食事を続けながら、宗仁は自分の父親の事について、誇らしげに語る。その司令官の完璧っぷりに、彰は宗仁が優れているのは遺伝なのだろうかと考えた。そして、自分の父親が見た目は悪くないが、特技もないただの平凡なサラリーマンだったことを思い出し、自分の将来を不安に思っているようだ。
「軍に死神ってあだ名の人と、若いけど凄い人がいるらしくてな。今でもその二人以外なら、殴り倒せるって親父は本気でいってたな」
宗仁は定食を平らげ、コップに残った水を飲み干した。それを見て、彰も急いで残りの食事を食べ始めた。
「親父は、俺や兄貴達にも絶対にいわないんだがな……。その若い方の人が、俺達とほとんど年が変わらないらしくてな。なんていうか……多分、比べられてるみたいなんだ」
最後の米を水で流し込んだ彰は、宗仁のいいたかった事が分かったらしく、軽くうなずいて見せた。
「俺は、お前ほど器用じゃないからな。バスケと格闘技で、いっぱいいっぱいだ。恋愛とかは、その人を超えて、親父に認められてからじゃないと、手が回らないって感じだな」
宗仁が自分の知る中で最強である彰は、素直な気持ちを口にする。
「実際にやってみれば、先輩の方が強いんじゃないっすか? 相手がプロでも、階級制限さえあれば、先輩なら勝てますって」
「褒めても、明日はおごらないぞ」
後輩からの褒め言葉を、宗仁は笑って受け流す。その笑顔で、彰は自分の心が軽くなっていくのが分かったらしく、改めて色々な意味で魅力のある宗仁には敵わないと思ったらしい。
「勝てるなんて断言はできないけどさ……。練習でいいから、その人と一回手合せしたいのはあるな」
腕を組んで笑いながら天井に目を向けた宗仁を見て、女性の事で頭がいっぱいだった彰は自分を小さく感じたらしい。その為、イザベラに謝る所から始めようと考えが纏まる。
自然に笑いあう二人は、その話題になっている人物が、同じ学園に通っている事を知らない。そして、その人物が料亭で食事をする三人の女性に、噂されている事など分かるはずがない。
「これだけ美味しくて、カロリーが低いのは凄いわね」
「あ、でも、てんぷらはそこそこ高いですよ」
当初省吾の事もあり、警戒心が強かった綾香も、マードックの裏表がない性格を気に入り始めていた。そして、三人は何時しか本音同士で喋り始めるほど、仲を深めつつあった。
「えっ? イリアさんって、そんなに若かったんですか?」
「そうよ。大学も飛び級で卒業したわ」
マードックの年齢を聞いた綾香は、つい一番年長者であるエマを見てしまう。それに対して、小じわ等が気になっているエマは自分の顔を手で隠し、職権を乱用した。
「綾ちゃん? それ以上、こっち見たら、美術の成績下げるわよ」
自分の年齢に反応した綾香のせいでそれた話を、マードックが戻す。
「まあ話を戻すけど、初めて先生が連れてきたエースと会ったのは、その頃よ。さっきもいったけど、外見は可愛い方だったかもしれないけどね……。とにかく目付きが鋭すぎて、あんまり好きじゃなかったわ」
フランソアと会った時点で、省吾は本当の殺気を放てるほどにはなっていた。
省吾が語らない為、マードックも知らないが、子供でも銃を握らねば生きていけない程過酷な環境を、身寄りのない省吾はある時期まで一人で生き抜いた。そして、既に十分兵士としてやっていけるレベルになり、やっと国連軍に拾われたのだが、その事を知っている者は少ない。
「でも、素直だし、優しいし、頭も悪くないし、かばってくれるし、おかしいぐらい強いし……」
それぞれ心の中にいる省吾を思い出した綾香とエマは、マードックの言葉に何度もうなずく。
「それが、見る間にたくましく成長しちゃうんだから、意識した私はおかしくないと思うの……。どんどん、私好みになっていくし……」
記憶を手繰り、呟く様に誰もいない方向へと、テーブルに片肘を着いたマードックは言葉を投げかける。
その言葉から、エマ達はマードックの苦労をなんとなくではあるが、感じ取ったようだ。そして、二人よりも長く省吾に好意を寄せるマードックを、複雑な思いで見つめる。
ただ、純粋に自分の事を含めて不安になった綾香と違い、エマは真剣な表情をすぐに怪しい笑みへと変えた。
「で? まだ、誰とも付き合った事ないのぉ?」
このタイミングと空気でその話題を振るエマに、綾香は呆れて目を細めた。だが、他人の恋愛話が嫌いではない綾香は、よくないとは思いつつも口を開こうとしているマードックに、好奇の目を向けてしまう。
「一応、付き合ってみたわよ。私だって、恋愛に興味くらいあるし」
省吾以外の男性と付き合った事に、負い目を感じていないマードックは、エマの質問に対して正直に答えた。
「えっ? そうなんですか?」
「へぇぇ。意外ぃ。で?」
驚き以上にマードックの恋愛に興味津々な二人は、目を輝かせて話の続きを待つ。
「何も面白くないわよ? 研究者と軍人一人ずつ。一週間我慢するのが、限界だったわ」
自分達からマードックにアプローチしてきたその二人は、容姿に自信を持っていたらしいなどと、マードックは二人に観察した結果を淡々と喋っていく。マードックと付き合ったその二人は、最初の週末でのデート中に見切りをつけられたらしく、復縁の申し出もなかったそうだ。
エマはそのマードックから教えられた情報で、男性二人のふられた状況が推測出来たらしく、笑顔が引きつっていた。マードックの容姿や威圧感に負けずにアプローチ出来た二人は、エマにもかなり容姿的に優れていたのだろうと見当がついた。そして、復縁を申し込むどころか、研究者の男性が研究所を辞めている事から、性格や能力等を事細かく観察していたマードックが、的確で完膚なきまでの断り方をしたのだろうと分かったのだ。
腕を組んだエマが、渋い顔で色々とかわいそうな男性二人の事を考えている間に、マードックは綾香に質問を始めていた。
「モーションはかけてるんでしょ? エースはどんな感じ? 少しは反応した?」
完璧主義であるマードックの質問は、端から見て敵の情報を得ようとしているように思えるだろう。だが、彼女もロマンチックな恋愛に憧れる女性の一人であり、純粋に省吾の好みが気になっている。そのせいで、綾香に省吾がどのように対応しているかが気にかかっているらしい。
「いえ、ま、そのぉ……。井上君、いつもあんな感じですし……。無理に私だけが盛り上がっても、よくないと思いますし……。井上君の気持ちも考えて。その……」
本来、その積極性に欠ける綾香の行動がうかがい知れる言葉で、エマとマードックは安心して話題を変えるべきだろう。だが、既に綾香を気に入ってしまった二人は、自分に不利になると分かりながらも、言葉を抑えられなかったようだ。
「駄目よ! 綾ちゃん! 中尉は、恋愛に関してはちょっと馬鹿なんだから!」
「綾香、エマのいう通りね。お互いにいい雰囲気になっての告白を待つつもりなら、一生待つ覚悟が必要よ? それも、今際の際でも告白されない可能性があるわ」
仲良くなり、会話が増え、デートと呼べる外出を行い、告白されればなどと願っていた綾香の甘い考えは、真っ向から否定された。綾香もその考えが甘いのだろうとは分かっていたようで、二人の意見を力なくではあるが笑って受け入れた。
料亭の個室に、着物姿の女性従業員が頭を下げながら入室し、デザートを三人の前に運んだ。そして、丁寧に練りきりや葛で出来たデザートの説明を終え、入った時と同じように頭を下げて退室した。
「はぁぁぁ……」
説明を笑顔で聞き、目の前にある甘味がおいしいのだろうと思いながらも、三人は吐き出したい息を溜めこんでいた。そして、従業員が部屋を出ると同時に、それを解放した。
「いっそ、先生に頼んで、無理矢理にでも婚約しようかなぁ……」
マードックは、省吾にとって効果があるであろう、禁じ手と呼べる手段を口にした。それを実行されたくないエマと綾香は、全力でマードックに抗議した。
三人がいる料亭とは違い授業だけでなく部活動も終了した学園は、明かりがついている場所が少なく、軍拠点側よりも残っている人数は少ない。
「はっ! くしゅ……」
暗く静かな建屋内に、くしゃみをしたらしい独特の声が響いた。この場合、噂をされていた省吾がくしゃみをするべきかもしれないが、そうではない。
自分が誰かに噂をされた知らせとして、くしゃみが出るといわれているが、それ以外にもくしゃみをする理由はある。その図書館から聞こえてきたくしゃみの理由はごく簡単なもので、暖房が切られた室内の温度が低下した事により出たものだ。
自分のくしゃみで目が覚めたイザベラは、虚ろな瞳で本棚が数え切れないほど並んだ暗い室内を見回していた。下校時間まで残っていた学生達は、疲れて眠ってしまったイザベラを起こしはしなかったのだ。そして、今イザベラが置かれている状況は、思い込みと不注意から起きた事故といえるだろう。
広い図書館には、イザベラが寝ていたような部屋が複数存在し、分類わけした本がそれぞれの部屋に置いてある。その為、図書委員をしている生徒達が、各部屋の鍵を閉め、最後に教師や職員が戸締りを確認して出入り口の鍵を閉めるのが決まりだ。イザベラが閉じ込められた原因は、図書委員の男子生徒がその部屋にいなかった事から始まっている。
図書委員の男子生徒は、いつも一番遅くまで本を読んでいる生徒が帰っていくのを目撃し、イザベラがまだいるにも関わらず部屋の明かりを消して鍵を閉めてしまった。そして、最終確認の為に図書館へと来た教師も、各部屋の電気の消し忘れと、施錠されているかという事までしか確認をしなかった。結果、イザベラは一人取り残されたのだ。
「はっ……ははっ……」
気持ちがどん底に落ちていたイザベラは、真っ暗な図書館の中で笑いながら、涙を流していた。最悪の状況がどんどん悪化しており、彼女には笑う事しか出来ないようだ。そして、誰もいないと思った気のゆるみが、我慢していた涙を流させているのだろう。
「誰か……誰か、助けてよ……パパ……ママ……」
自分で何もしなくても、悪い方向へと運命が流れていくと感じたイザベラは、両手で顔を押さえて泣いた。誰もいないという開放感が、声の大きさをイザベラに制限させず、叫ぶような泣き声だけが誰もいなくなった図書館内に響いた。
悲しい女性の泣き声は、防音処理された図書館の外へ届く事はない。勿論、省吾のいる別室は、かなり離れた建屋にある為、届くわけがない。
だが、イザベラの真っ黒な感情が爆発した絶叫に、存在そのものが黒で出来たものが反応する。そして、イザベラの心に直接手を伸ばす。
そのものはきっと、ほくそ笑んでいるだろう。何故なら、黒い感情こそがそれの餌だからだ。