表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名無しのエース  作者: 慎之介
二章
17/82

 PSI学園生徒専用である寮の一室から、カチャカチャと小さいが耳につく音が聞こえていた。その部屋の鍵は内側から閉まっており、それが聞こえているのは部屋の住人だけだ。


「ふぅぅぅ」


 自分の部屋でパソコンの画面を見ていた省吾は、大きく息を吐いて操作していたゲームパッドをキーボードの横に置いた。その顔は、浮かない。


 椅子に座ったまま伸びをした省吾は、そのままマウスとキーボードを操作して、ゲームからログアウト後パソコンにシャットダウンの指示をかけた。そして、数時間ぶりに椅子から立ち上がり、トイレに向かう。


……これが、寂しさか。


 省吾の元気がないのは、お気に入りであるはずのゲームが原因だ。その人気ゲームは複数のハードでソフトがラインナップされている。最近の省吾が特に心血を注いでいたのは、ネット対戦が可能なパソコン用だった。


 そのようなネットゲームは、不特定多数のユーザー同士で情報交換をするだけでなく、協力プレイや対戦プレイが楽しめ点数を競うことも出来る。また、ネットワークを活かし、ソフトの開発元から新たなデータが、配信されるのも魅力的だろう。


 しかし、そのゲームにエンディングらしいエンディングが存在しない。その為、飽きた場合や、全てのアイテムを集めつくしてしまった場合、新しいデータ配信が遅い等の理由を含めてユーザーが離れていく場合がある。


……皆、忙しいのだろうか。


 省吾の遊んでいるサーバにログインする人数が、三分の一ほどになってしまい、良きライバルだったユーザーもほとんどログインしていない。その事を、省吾は寂しく感じているようだ。


 省吾が遊んでいるゲームの最新データは年末に配信されており、ユーザーの多くは年末年始でその部分をクリアしてしまっていた。そして、休みが終わると同時に、集中して遊んだ反動としてログインが減っているのだ。そういったユーザーに誘われてログインしていた者も必然的にログインしなくなり、対戦相手が少ないせいで他のユーザーもログインしなくなる。


 そのゲーム自体は発売して数か月しか経過しておらず、販売本数もかなりの数である為、ユーザーが完全に離れたわけではない。だが、運営側がイベントや新しいデータ配信等の努力を怠れば、そのまま衰退してもおかしくない状況にはなっていた。


「ふぅ」


 冷蔵庫からペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出した省吾は、それをラッパ飲みする。まだ、元気の無さは解消されていないようだ。ゲーム経験の浅い省吾は、他のユーザーにとってよくある事でしかないそのネットゲーム衰退現象が初経験なのだ。


 情報交換の掲示板を見て、省吾もその現象はよくある事で、イベントでもあればまたユーザーも増えるだろうと知っているようだ。それでも、他ユーザーのように他のゲームをして気長に待つ事が出来ないらしく、ユーザーの少ないサーバーデータを眺めて毎日顔をしかめている。


……ん? この番号は、本部の?


 パソコン用の机に置いてあった携帯電話が、省吾に音と振動で着信を知らせた。急いで携帯電話を手に取った省吾は、電話帳に登録されていないその着信を電話番号から予測したらしい。


「はい。ああ、はい。井上です」


……研究所? なんだ?


 軍本部ではなく、研究所本部からの連絡に、省吾の顔が真剣なものに変わった。予想外の連絡を、省吾はあまりいいニュースではないと思えたからだ。


「はい? えっ? 今日ですか? ああ、なるほど。了解しました」


……ただの業務連絡か。えっ? 違う? のか?


 省吾が住む部屋のクローゼット内には、鍵のかかる金属製のボックスがある。その銃火器が入ったボックスへ手を伸ばそうとしていた省吾は、クローゼットの扉を閉める。


「はい。必要なら、護衛につきます。はい」


 時間的な余裕の無かったマードックに変わり、省吾に連絡してきたのは部下の研究員だった。そして、重要とは思えない伝言を聞き終えた省吾は、携帯電話を閉じて開けっ放しにしてしまった冷蔵庫へ向かう。


……下着。下着か。なるほど、分からん。


 マードック博士からの伝言がよく分からなかった省吾は、五分ほど考えた。しかし、真意が今一つ理解出来ず、天才の考えを自分では読み解けないと結論を出す。そして、積み上げてあるプラモデルの箱へ手を伸ばす。


 祝日であるその日は、特区に一つだけある軍専用ではない空港に、かなりの人が詰めかけていた。


「えっ? 何、あれ?」


「なんか凄いねぇ。芸能人?」


 最終便で海外から特区へ帰ってきた人々は、専用機から降りてきた一団を無視する事は出来なかった。コートを手に持ち、思い思いの私服を着た集団は、それぞれが大きい荷物を持参していた。


 その者達は、黒いスーツとサングラスをかけた、いかにもな警備の人間に守られている。また、その後に続いて専用機から降りてきた国連軍の制服を着た兵士達は、台車等で大きな金属製のケースを運んでいる。


「何々? コンサートでもあるの? あれ、誰?」


「ああ……見たことあるけど、名前が出てこない」


 専用機から降りてきた集団を、兵士が混ざっているにも関わらず周りが芸能人だと思い込んでいるのは、集団の中心にいる一人の女性が原因だろう。黒に近い灰色のパンツスタイルレディーススーツを着た、真っ赤な口紅とヒールが特徴的なその女性は、芸能人と見紛うほど美人なのだ。


 しかし、同じ白人女性であるイザベラとその女性は、美人としてのタイプが違う。一言でいってしまえば、陽と陰で間違っていないだろう。目立つ金髪と大きな胸を持つイザベラと、黒髪でどこを切り取ってもバランスのいいその女性は、白人で身長が高い以外は別の種類だと誰もが感じるはずだ。


 勝気な性格をそのまま表現しているその女性の目と眉から、冷たさと鋭さを感じる者も少なくない。また、彼女の纏っている威圧的な雰囲気も、その印象をさらに強調させている。イザベラを美人なので近寄り難いと言い表すならば、その女性は近寄り難い美人になるだろう。


 その笑いもしない生きた彫刻の様な美しい女性は、イリア・マードックだ。彼女のスタイルが良く、髪が長く綺麗な理由を知れば、男女問わず顔をしかめるかもしれない。


 マードックは常に一番である事が、大好きなのだ。その為に、食事を忘れて研究に没頭する事も多い。そして、移動時間短縮の為に広い研究所内を走る事も日常の一部であり、無駄な贅肉がつきようがないのでスタイルがいいだけなのだ。また、人が羨む透き通るほど白い肌は、単に屋外へ出ないせいであり、彼女が意識して手入れをしている訳ではない。


 そんな彼女は研究に集中しすぎて、風呂に入らない事も多い。そのせいで、髪を洗う回数が減り、キューティクルが失われ難く、たまに洗った後には天使の輪が出来るほど綺麗なのだ。当然、その彼女は髪が腰まで伸びても、散髪の時間を惜しんで研究や実験に全てを注ぐ。


 フランソアから身だしなみに気を付け、異性の視線にも注意を払えと怒られた事まである。そのせいで、口紅をひきヒールだけは常に履いているのが、彼女の唯一といっていい救いの部分だろう。


 ほとんどの男性を、自分より能力の低いものと見下している彼女は、もてることを意識した女性と真逆に突っ走っているが、何故か高みにいる恵まれた者だといえる。


 才能や容姿に妬みや怒りをぶつけてきた相手を、実力でねじ伏せて今の地位についた彼女は、年齢的には不相応とも思える威圧的な雰囲気を放っていた。その雰囲気だけで、彼女の前に立った時、同じ職に就くものならば服従か敵対の選択を半強制的に迫られる。そんな彼女が、人望も必要な研究所の所長を続けられているのは、それなりの理由がある。


「所長? お疲れですよね? 荷物お持ちしましょうか?」


 私服の女性研究員からの申し出に、マードックは空港について初めて笑う。


「いえ、結構よ。貴方達も疲れたでしょ? 早くホテルで休みましょう」


 彼女の笑顔に、研究員だけでなく警備の人間まで顔を緩める。それだけ、マードックは部下や周りに慕われているのだ。そして、それこそがマードックの所長であり続けられる理由でもある。


 マードックは敵対した人間を実力でねじ伏せるが、完全につぶすような事はしない。それどころか、その者が素直に降参すれば、受け入れてしまうのだ。彼女のたゆまぬ努力を知る事となるその敵対し、受け入れられた人物達は、自分の甘さを知り、彼女を崇拝し始める。


 元々、彼女に服従しようと決めた者にも、マードックは少なからず影響を与える。才能だけでなく努力量が桁違いである研究者の鏡としかいえないマードックを見て、その者達は自分も頑張ろうと奮起し始めてしまうのだ。


 性格に難があり、口が上手いわけでもないマードックだが、カリスマ的な人気が所長としての彼女を支えている。ある意味で彼女は、実力により慕われている省吾と大分類すれば同族である。しかし、実力以上に人柄で他人を引き寄せている省吾とは、全く違うものともいえるだろう。


「どっかで、見たよね?」


「誰だったかなぁ。歌手か? 女優? 出てきそうで、出てこない……」


 空港にいた一般人は、よれた白衣を着て研究データを発表するマードックしか知らない。その為、今の彼女とテレビで見た事がある女性が、同一人物だとすぐには気が付けていないようだ。


「さて、エースは伝言の意味を理解してくれたかしら……」


 空港を出て、迎えに来た軍用のワンボックスカーに乗りこむ前に、マードックは空を見上げた。暖かい屋内から出た彼女の息は、白く変色し、すぐに冷たい空気の中へ消えていく。


「所長? どうかされましたか?」


「いえ、なんでもないわ」


 持っていた荷物を兵士に渡したマードックは、車に乗り込んだ。その彼女の伝言が全く分からない省吾は、プラモデルを作っている。


……ぬおっ!


「ぬおっ!」


 省吾は握りつぶしてしまった部品を見つめ、溜息をつく。そして、一部分のパーツのみを注文する為にパソコンの電源を入れた。


「はぁぁ。やってしまった」


 銃などのメンテナンスを自分で行う省吾は、それほど不器用ではない。だが、鍛え上げた握力は、プラスチックを指だけで握りつぶす事も可能なので、プラモデルを組み立てる最中の省吾には集中力が不可欠だ。過疎化したゲームの事を考えながら、ぼんやりとしていたせいで省吾はプラモデルの部品を潰してしまっていた。


 部品の注文を終え、次に進めなくなったプラモデルを片付けた省吾は、仕方なく食事の準備をする。冷凍食品を電子レンジで温めている間に、省吾がトレーニングをしてしまうのは、兵士の性なのだろう。


 翌日の朝、省吾達の教室で生徒達が、休み明けの気怠さを顔に出していた。その生徒達は、次の休みまでの日数を数えているのだろう。


……これは、百四十四分の一しか発売しないのか。百分の一以下は流石に買う気がしないな。


 いつもと全く変わらず、無表情なままの省吾は趣味の本を読んでいる。その省吾とは違い、彰と綾香は何かを考えているようだ。


 二人は、いつもの様に朝早く登校する途中で、朝練を再開できなかった宗仁に会った。そして、再びバスケ部の怪我人が増えてしまい、練習すらままならないと聞いたのだ。宗仁は、バスケ部の練習を手伝ってくれる者を探しており、二人にも可能なら手伝ってほしいと頼んだ。それほど、困っているらしい。


 軍の仕事をしている綾香は、それを受けることが出来なかったが、友人達に頼んでみると返事をした。そして、教室で声を掛ける相手を考えているのだ。彰は綾香もバスケ部の練習に参加するだろうと勝手に思い込み、先に参加するといった事を後悔しているらしい。


「えっ? バスケ部?」


「ああ。先輩が困ってたからさ。無視するわけにもいかないだろう?」


 彰から話を聞いたイザベラは、色々考えた末に文句を口に出さなかった。だが、自分と遊ぶ時間を削ってまで、練習に参加する彰に少し失望したようだ。


「そんな、怒るなよ。俺も仕方なくなんだ」


 バスケ部の練習を嫌々だと言い訳する彰に、イザベラが満足するはずがない。それどころか、自分も巻き込まれた被害者だといい始めている彰に、怒りをぶつけるだけ無駄だとまで思ったらしく、何もいわずに自分の席へと戻った。席に戻るイザベラを見て、分かってくれたのだろうと都合よく解釈した彰は、能天気ともいえる表情を作っていた。


 その彰は、ケビンの視線に気が付かない。携帯電話のメモ帳に、バスケ部の話をする相手を入力している綾香も気が付かない。ただ一人、趣味の本を偶然閉じた省吾だけが、こじれている関係に気が付いているようだ。


……下手に誤魔化すより、素直がいいと思うんだがな。あの対応が、高校生同士では普通なのだろうか?


 省吾からは素直に謝らない彰も、素直に告白しないケビンも、異様な存在に見えているらしい。


……まあ、本人同士の問題だ。


 クラスメイトではあるが、友人達の輪に入っていない省吾は、彰達に意見をしない。そして、考えるのを止め、何事もなかったように趣味の本を始業時間が迫りバッグへしまう。


「おはようございます。えぇっと、先に連絡事項です」


 チャイムが鳴り終わる前に教室に入ってきた堀井は、生徒達からの挨拶に挨拶を返し、午前中の予定が変更になった事を伝えた。マードックも参加した急遽の能力測定を、セカンドとファースト全員が受ける事になったのだ。


 敵能力者により特区内のデータが壊された事を、機密を守らなければいけない堀井は生徒達に教えられない。その為、マードックが別の予定で特区を訪れ、最新データを契約している能力者達からとりたいと要望したので、測定になったと生徒達に説明する。


 急な能力測定が初めてではない生徒達は、その話を疑わない。そして、研究所がデータを失った事を知っている綾香も、顔色を変えない。また、マードックが来た事すら知っている省吾に至っては、予定通りとしか考えていないようだ。


「では、皆さん。体操着に着替えて、出来るだけ早く集合してくださいね」


 出席を取り終えた堀井の声で、生徒達が立ち上がり着替える為にロッカールームへと向かう。


 その測定は、高等部全員が一度に受けるらしく、他のクラスからもロッカールームへと向かう生徒達が廊下へ出てきていた。広い室内運動場に、ファーストとセカンドの高等部生徒が集まった。その生徒達は、ファントム対策のシフトで出席していない者もいるが、かなりの人数だ。


「では、こちらから順に並んでください」


 白衣を着たマードックを含む研究員達と、その研究員が持ち込んだ大型の計測用機材に目を向けていた生徒達を、教師が整列させていく。


「なんか、いつもよりすげぇなぁ」


 日頃とは違う大規模な測定と雰囲気に生徒達は、心音が早まっていた。その生徒達は緊張を覚える者もいれば、イベント感覚で高揚している者等様々だ。


 しかし、能力者である生徒達もニュースでしか見たことのないマードックが姿をさらしている為か、測定自体に違和感を覚えている者はいない。勘の鋭い超能力者達でも、一度思い込んでしまうとそこから抜け出すのは難しいのだろう。


 計測を行っている運動場も室内とはいえ、冬の寒さを全く感じないわけではない。自分の順番を待つ生徒達の中にはかじかんだ手を息で温めたり、その場で足踏みをしたり等々、体を温めようとしている者も少なくない。そんな中で、薄着としか思えない服と白衣しか身に着けていない研究員達を、生徒達は寒くないのかと眺めていた。


「なんか、見てて申し訳なくなってくるね」


「もしかして、研究員って結構体力いるのか?」


 生徒達から風邪をひくのではないかと思われていた研究員達は、汗をかくほど走り回っている。それを見て、生徒達は自分達の考えが間違えていたのだと分かったらしい。


 マードックの直属である部下は、上司の負担を減らし自分を認めてもらう為に、データや機材を持って走っている。また、日本特区研究所の人間も、マードックの目が気になるらしく、手を抜かずにあくせくと動き続けていた。


 何よりも、マードック自身がひとところに留まらず、部下に指示を出し、必要な情報を回収する為に広い運動場を、ぐるぐると早足で歩き続けていた。


「そこの貴方……ええ……トンプソンさん。測定値のばらつきが大きいわ。もう一度、こっちの検査を受けてくれる?」


「えっ? あ、はい」


 マードックに声を掛けられたセカンドである二年生の男子は、返事をした声が裏返ってしまう。その生徒を、友人達は笑いながら茶化す。


「声、裏返ってたぞ。だせぇ」


「だ、だってよぉ。いきなりだったから。それに……」


 その男子生徒達は、資料をめくりながら立ち去っていくマードックに目を向け、鼻の下を伸ばす。


「あんな美人。俺、初めて喋ったしさぁ」


「まあ、その点は羨ましい。素直に、羨ましい」


 綾香はセカンドクラス一年が集まっている場所へ、マードックが近づいてくるのが視界に入り、不安に駆られていた。その不安の種は、省吾だ。美人であるマードックと省吾の仲が良かった場合、どうしようなどと考えているのだろう。


 だが、省吾の隣を素通りしたマードックは、視線を向けさえしなかった。それを見て心が少し落ち着いた綾香に、彰の声が届く。彰は綾香に話し掛けたわけではなく、バスケ部の事で宗仁と打ち合わせをしているのだ。


「じゃあ、すまないが、今日から頼めるか?」


「うぃっす。放課後、体育館に行きますね。うん? えっ?」


 自分達に向かって歩いて来ているマードックを見て、彰は驚いている。そして、計測の時間に部活の話をした事が後ろめたい宗仁は、急いで自分のいるべき場所へ戻ろうとした。


「えっと、郭君……司令の息子さんね。少しいい?」


「あっ、すみません。すぐに戻ります」


 自分の話を聞かずに謝った宗仁に、マードックは眉間にしわを寄せて溜息をついた。それに気が付いた宗仁は、顔をしかめた。どうやら、怒られるのだろうかと考えているらしい。


「話は、最後まで聞くべきね。貴方の能力について、もう少しデータが欲しいの。あの測定を重点的に受けてちょうだい」


 冷たい視線を宗仁に向けたマードックは、測定機材を指さす。マードックの怒りではない言葉は、宗仁にとって予想外だったらしい。だが、怒られた事とほぼ変わらない冷たい言葉であり、宗仁は顔をしかめたまま測定場所へと向かう。


 その宗仁の気持ちを読み取れない乾隆は、美人に話し掛けられた宗仁を妬ましく思ったようで、目つきが鋭くなっていた。


「後、ええ、君。神山君?」


 相手から冷たさを感じながらも、彰は綺麗な女性に話し掛けられた事を、素直に喜び笑顔になっていた。


「はい。なんっすか?」


 クリップでとめられた紙の資料をめくっていたマードックは、イザベラからの視線に気が付いてはいないようだ。


「貴方……能力値が高いわね」


「あ、いえ、普通っすよ」


 褒められたと勘違いした彰は、照れた様に鼻の頭を指で掻く。


「普通? まあ、いいわ。貴方も重点測定をして欲しいの。私の目の前で。ついて来て」


 特別扱いされた事に、少しだけ困惑しながらも、彰はまんざらではない顔でマードックの後についていく。


「なによ。あれ……」


 イザベラの目から、いつもの様に黒い感情の片鱗がこぼれ出す。


「やっぱり、神山君って……目立つんだねぇ」


「えっ? ああ、そうですね。能力的にいえば、一応このクラスの首席的扱いですから」


 リアに話しかけられた綾香は、作り笑顔で返事をした。年末の山中で彰の力を見ている綾香には、特別扱いを受けた理由がなんとなく分かっているのだろう。


 そのまま男子の列へ目を向けた綾香は全く反応しない省吾を見て、二人は仲がいいわけではなさそうだと息を吐き出す。そして、マードックの低く威圧的な声で、彰のいる計測装置へと再び視線を移動させた。


「これが、貴方の全て?」


 マードックに睨まれている彰は、視線を逸らして、小さな声で返事をした。


「あの……え……はい」


 数分間彰を睨み続けたマードックは、大きな息を吐いた。そして、目線を逸らしたままである彰の耳元に、自分の顔を近づけた。


「理由は知らない。けどね。大事な測定に手を抜く相手を、私達国連がどう思うかは、考えておきなさい。下がっていいわ」


 周りには聞こえない声で、脅しにしか聞こえない言葉を発したマードックは、そのまま彰を元の列に戻した。大人でも冷や汗をかくマードックの言葉に、彰は恐怖をさほど感じていないようだ。それよりも、事情も知らない癖にとマードックに怒りを感じているらしく、背中を睨みつけていた。


「彰? なんていわれたの? 顔、赤いけど……」


 全力を隠していると喋りたくない彰は、イザベラを誤魔化した。


「いや、なんでもない。少し、力み過ぎたみたいだ」


 本当に少しだけ切っ掛けがあれば、全体の歯車がうまく回るであろう彰だが、そう都合よく現実は出来ていない。ケビンが彰を不審に思うイザベラを見つめ、彰は尚もマードックの背中を睨んでいる。


……さて、兵長に教えるべきか?


 実は一番状況を把握できている省吾が、その問題を担任であり部下でもある堀井に丸投げしようと考えているとは、誰も気が付いていないだろう。


 測定を終えた綾香は、体操服から着替えなかった。それは、授業の予定が変更になり、選択式の体術訓練が次に控えているからだ。特務部隊等の兵士志望ではないイザベラや省吾達は別の授業に向かったが、彰は綾香と同じようにトレーニングルームへと向かっていた。


 綾香が選択したコースは人数が少なく、毎回二年生達上級生や中等部とも合同で行われている。その為、友人と喋る宗仁も、二人に続いて渡り廊下を歩いてきた。


 いつもと変わらない休憩時間のはずだったが、大きく違う事が一つある。日頃は常に誰かと喋っている彰が、ポケットに両手を入れ、俯きながら歩いているのだ。彰はマードックへの怒りが収まらず、いらいらしており、綾香とも話したい気分ではないようだ。


 学園に来る前の彰が、周りから白い目で見られていた頃でも、その相手の心には恐れがあり、面と向かって否定された事はない。そして、学園に来てからはいわずもがな。直接女性に手を上げる訳にもいかず、自分より立場が上のマードックにどうすれば仕返しができるのだろうかと彰は本気で考えている。マードックに舐められたとしか考えられない彰は、それがどうしても許せないらしい。


 そんな彰が、周囲から非難されず自分のプライドを満たすには、暴力ではなく何らかの実力で相手から認められるしかないだろう。その事自体は、彰も分かっているらしい。


 彰も彰なりに、色々な方法を自分一人で考えてはいるようだが、いい案を思いつくどころか、切っ掛けすらも見いだせていないようだ。だが、それは彰にとって幸運だったのかもしれない。超が付くほど好戦的で有能なマードックに、下手に逆らえば最低限学園にいられなくはなるだろう。


「らああぁぁ!」


 鬱憤を訓練で爆発させた彰は、上級生の腹に拳をぶつけ、相手をマットに這いつくばらせていた。訓練である為、お互いグローブとヘッドギアはつけているが、腹部は防具をつけていない。


 身体能力の高い彰の一撃を耐えるのに、その上級生の腹筋は鍛え方が不足していたらしく、衝撃を受けた横隔膜が動きをとめているようだ。監督責任のある教師は、急いで這いつくばったまま動かない生徒に駆け寄り、介抱を始めていた。


「神山……気合入ってるなぁ。次は俺とどうだ?」


 右拳を左の掌に数回たたきつけて笑う宗仁の言葉に、彰は素直にうなずいた。そして、高等部最強と噂される宗仁と、一年生最強と自負している彰の試合が始まった。


「あ……試合するんだ」


 ランニングマシンを使っていた綾香はマシンのスイッチを切り、床に置いてあったタオルで汗を拭きとった。どうやら、綾香は彰達の試合を見学する事にしたらしい。


 その綾香は、彰が気になっているのではない。最強と呼ばれている宗仁と、頭の中にまだ焼き付いている省吾の動きを比較したいのだ。


 宗仁の本気を引き出す相手として、彰はうってつけといえるだろう。綾香以外のケビン達生徒も、その試合に興味があるらしく、それぞれの筋トレを中断していた。


 先程ダウンした生徒をトレーニングルームの端に寝かせた教師もその試合に気が付き、腕を組んで真剣な目を向けた。いい試合を見る事も、イメージトレーニングになると知っているその兵士兼教師は、訓練を中断している生徒達を注意する気はないらしい。


 彰は両拳を握り、腕を畳んだボクシングスタイルに近い構えをとっているが、少しだけ違う。蹴りも使用する為、軸となる足がかなり前に出ているのだ。それに対して宗仁は、レスリングや総合格闘技を思わせる前屈みな構えで、両手も握らずに開いており、彰のようにステップを踏んでもいない。


 ステップを踏むことでいつでも加速できる彰と、体から無駄な力を抜きいつでも動き出せる宗仁。目線等によるフェイントでお互いの隙を伺い、二人はじりじりと間合いを詰めていく。レベルの高い二人を見て、兵士としての本職を持つ教師までも息をのんでいた。


 最初に仕掛けたのは、彰からだった。息を吸い込んだ次の瞬間、真っ直ぐ宗仁へ向かって行く。かなりの速度で踏み込んでいる為、普通の生徒なら反応するかしないかの段階で、彰に殴り倒されるだろう。


 だが、宗仁はそれに反応し、スタンスを広げて彰を待ち構える。動体視力のいいケビン達生徒は、そこで宗仁がタックルを仕掛け、寝技に持ち込もうとしているのだと読んでいる。


「おっ?」


 宗仁が自分の速度に反応するだろうことを、彰は他の生徒達同様に予測していた。その彰は、相手の間合いに入る半歩手前で速度を落とさず、直角に横移動へと足運びを変えた。スムーズなその足運びの切り替えに、動体視力に優れるケビンすら彰の動きを見失いそうになった。


 相手の視界外に出た瞬間、射程距離の長い蹴りを彰は放った。自分の放った右のローキックが宗仁にぶつかった所で、彰は反射的に左拳を突き出していた。彰にそうさせたのは、宗仁だ。


 彰の動きを読み切っていた宗仁は、自分の左ひざを相手の太もも部分にまで差し込み、蹴りの威力を殺していた。そして、拳をかいくぐり彰のバランスを失った体に自分の肩をぶつけ、マットに背中を付かせることに成功した。


 片足を上げ、受け身も取れない状態で背中を強打した彰は、呼吸が短い時間ではあるが止まる。そこで、何もしなければ負けると分かっている彰は、左拳を胸元に戻した。そして、右拳を自分の腹部にあるであろう、宗仁の頭に目掛けて放つ。


 彰が倒れはじめると同時に、体を引いていた宗仁の頭に、彰の右拳が当たるはずもなく、むなしく空を切った。


「おおおぉぉ!」


 トレーニングルームに、生徒達の歓声が上がった。それは、彰がタップしたのが見えたからだ。彰にタップされると同時に、固めていたアキレス腱を解放していた宗仁は、既に立ち上がっている。そして、笑顔で彰の頭をぽんぽんと軽く叩いた。


「お前の速さには、いつも冷や冷やさせられる。いい試合だった」


 文句のつけようがないほど見事な先輩の動きと態度に、彰も先程までの毒が抜かれたようで、差し出された手を取り立ち上がる。


「二人の動きがはっきりと見えていた者は?」


 教師の問いかけにケビン達が手を挙げ、解説の時間が始まる。宗仁の蹴りを殺す動きが全てを決めたや、タックルの構えに体勢を崩しやすい蹴りを放ったのがまずかった等の、さまざまな意見が生徒からあげられる中で教師は一連の動きを解説していった。


「いやぁ、やっぱ……先輩はすげぇわ」


 教師からの解説を聞かず、座り込んで宗仁の動きを思い出していた綾香の隣に、彰は笑いながら座り込んだ。その時の彰は、負けを素直に受け入れていた。


「そうですね。先輩は凄いです。やっぱりレベルが違う……」


 レベルの高い僅差の勝負だったと説明する教師と、綾香の考えは違っている。省吾達の実戦を間近で見ている綾香には、宗仁のレベルがその一般兵である教師よりもよく分かっているのかもしれない。


 彰の動きを全て読み切っていた宗仁は、余裕を持って後の先をとり、危なげなく彰に勝利していたと綾香は感じているようだ。たとえ、彰がもっと素晴らしい反応を見せていても、余裕がある宗仁はそれを処理できたであろうと、綾香は予測している。そして、宗仁が本気を出していない以上、省吾と比べられないと顔を曇らせた。


「いや、あの……あれだよ……」


 綾香の顔を見て、彰は何かを勘違いしたらしい。そして、綾香の耳元に顔を近づけ、周りに聞こえない様に小さな声で喋る。


「こんな所で、実戦経験のある俺が、本気を出しちゃまずいよな? 先輩の面子もあるし……」


 お前なら分かっているはずだといわんばかりの言い訳を呟いた彰に、綾香は吐き出しそうになった溜息を堪えた。そして、耳にかかる吐息の不快感も抑え込み、作り笑顔を彰に向ける。


「ええ、そうですね」


 綾香の笑顔に満足した彰は、相手の声に心が全くこもっていないと気が付いてはいないようだ。良くも悪くも本気でぶつかる省吾を見ている綾香に、彰のその行動が良く映るはずもない。


 彰が次の話題を振ろうとした時には、トレーニングルームの端に設置されたランニングマシンへと綾香は戻っていた。その綾香は走りながら省吾と宗仁が本気で試合をすれば、どうなるだろうという事で頭をいっぱいにしていた。


 持久力を欲していた綾香はその授業中、走る事に専念した。そして、生徒の事を考えいつもの様に早めに終了した授業後、トレーニングルームの女性用更衣室にあるシャワーを浴び、制服に着替える。


「あら? 忘れていました……」


 髪をドライヤーで乾かしていた綾香は、自分のバッグに入れていたペットボトルを取り出した。だが、その中にお茶は残っていなかった。


 以前からジョギング等で体を良く動かしていた綾香だが、軍の訓練を始めてから基礎代謝が以前より高まっており、水分の摂取量が増えている。そのせいで、今まで飲んでいた量の飲み物では、喉の渇きを癒しきれなくなっていた。


「どうしましょう……」


 後、一つ授業を終えれば昼休みという状況で、綾香は飲み物を購入するべきかを迷った。その綾香に、冬場の乾燥した空気はのどの痛みを覚えさせた。


「仕方ありませんねぇ」


 トレーニングルームから一番近い、一階にある自動販売機へ向かった綾香の顔が、一気に明るくなる。その使用者の少ない自動販売機は、省吾が愛用している自動販売機だ。その時も、紙コップを持った省吾がいたのだ。


「えっ?」


 駆け寄ろうとした綾香に、壁に背をつけて身を隠すように何かを眺めていた省吾は、かなり離れた位置から気付いた。そして、軍用の手信号で音を立てない様にと指示してきたのだ。足音を可能な限り殺して省吾に近付いた綾香は、相手の肩に手を触れてテレパシーを接続する。


(どうしたんですか? えっ? 嘘っ!)


 テレパシーを接続された省吾はそれを利用して、自分が千里眼で見ている景色を綾香に送り込んだ。そこには、勇気を出してイザベラに告白するケビンの姿が映っていたのだから、事情を知らない綾香が目を丸くしてもおかしくはないだろう。


(覗き見もどうかと思うが……道をふさがれて通れない)


 綾香は省吾からの状況報告に、頭が回っていない。


(えっ! えっ! えっ? ええぇぇぇ!)


(落ち着け! 深呼吸で、心肺機能を正常に保つんだ! 後、膨大な量の叫び声を送り込まないでくれ。サイコガードが反応してしまう)


 深呼吸で何とか落ち着いた綾香は、省吾から送られてくる映像と、廊下の曲がり角の先から聞こえてくる小さな二人の話し声に集中した。


「もし……なら、俺は……だと……彰が……」


 訓練の授業中も綾香にちょっかいをかけ続ける彰を見て、一大決心をしたケビンは、生まれて初めての告白に挑んでいるらしい。


……確か、二人の相性はクラス全体でも五番目か六番目。邪魔をする理由はないな。


(聞こえませんね……)


(聴覚系の能力は、俺にもない。我慢するべきだな)


 後ろめたさよりも二人の秘密を知りたいのか、綾香は鼻息を荒くして省吾の肩を強く握っていた。自分も聞き耳を立ててしまっている為、綾香を注意できない省吾は、二人の事よりも休みの残り時間を気にしているらしい。


「俺は浮気なんかしない! 絶対だ!」


(うわっ! うわぁ! ベーカー君、大胆ですね)


 声が大きくなったケビンは、顔を赤くして真っ直ぐな気持ちを伝えていた。それを聞き、イザベラも嫌な顔はしていない。


(落ち着いてくれ。サイコガードに負荷が……)


 省吾が眉間にしわを寄せ、千里眼の映像に歪みが生じると同時に、イザベラがその場を走り去っていく。


(えっ? どうなったんですか?)


……聞こえなかったが、あの顔は。


 千里眼で見るケビンの顔は、何処か満足げであり、ふられたばかりの暗さは感じられない。


(告白に成功した……。いや、手ごたえありで、回答を保留された可能性が一番高いな)


 部下達の多くが結婚している省吾は、告白した後の反応を幾度も見てきており、綾香よりも的確にケビンの気持ちを読んでいる。曲がり角の手前で壁に背をつけ、ケビンが遠ざかっていくのを静かに待つ省吾に、綾香は目を細めていた。


 省吾が恋愛に疎いと聞いていたにも関わらず、自分よりケビンの心情を的確に読み解いた為、綾香は想い人の本心が分からないと考えているらしい。恋愛感情はほぼ皆無だが、恋愛の知識を様々な人間から教えられている省吾のアンバランスさを、綾香はまだ十分に理解できていないようだ。


(よし。休み時間が終わるまでに、教室へ戻れそうだ)


 腕時計を見た省吾は、廊下を歩きだした。しかし、すぐに立ち止まり、綾香のいる後ろへ振り返った。


……ボタンを連続で押しても、速度は変わらないんだがな。


「遅刻するぞ?」


 自分の目的を思い出した綾香は、急いで自動販売機から飲み物を購入しようとしていた。


「きゃっ! ああぁ……」


 自動販売機のボタンを連打していた綾香は、焦りからかバッグの中身を廊下にこぼしてしまった。


「あっ! あの、先に行ってください!」


……次は、兵長の授業か。仕方ない。


 省吾は携帯電話をポケットから取り出すと、素早くメールを打ち、綾香の散らばった荷物を拾い始める。


「あの! ごめん……なさい!」


「まずは落ち着け。平常心は、素早く効率的な動きにつながる」


 省吾の言葉で少しだけ落ち着きを取り戻した綾香は、ボタンを押すのをやめた。そして、顔を赤くしながら片膝をついて、散らばった荷物へ手を伸ばす。


……女性は、バッグへ常に大量の荷物を入れているんだな。書籍まで。


 綾香は省吾が拾い上げた書籍[気になるあいつを振り向かせる十八の方法]を、真っ赤な顔で奪い取る。


……ぬっ!


「あっ! あの! ちょっと、友達の本を預かってまして……」


「そうか……」


 省吾は綾香の行動に少し驚いたようだが、思春期の女性らしいと大人の目線で何もいわない。自分が気になるあいつだとは、夢にも思わない。


「いいんですか? 遅刻に……」


 紅茶を飲み終えた綾香の背中を、省吾は軽く押した。


「こちらは、根回しを済ませてある。一緒に帰る訳にもいかないしな。さあ、行って」


 省吾に頭を下げた綾香は、好意を無駄にしない為にも廊下を走る。教室に時間内で戻れた綾香のまだしっとりと濡れた髪を見て、訓練後のシャワーが長引いたのだろうと、クラスメイトは疑問を感じなかった。だが、訓練の授業に向かっていたジェーンは、二人を遠目で見ており、仲のいい先輩に疑問を感じているようだ。


 以前の綾香は、後輩にあまり省吾をよくいう事はなかったのだから、そのジェーンの考えは当然だろう。いくら上手く隠し事をしても、所詮嘘にはほころびが生じるものだ。特に、男性よりも小さな事に気が付く事が多い女性に対して、嘘を突き通すのは難しいのかもしれない。


「あっ、すみませんね。急に頼んで」


 堀井の授業が始まり、数分遅れでプリントの入った箱を持った省吾が、教室に戻ってきた。その省吾からプリントを受け取った堀井は、何事もなかったようにそのプリントを配り始める。


 休み時間中に、堀井が省吾にプリントを持ってくるように頼んだとしか思えない光景を見て、綾香は省吾の根回しの意味が理解できたらしい。そして、上官からの依頼にすぐ対応できる堀井の有能ぶりを、少しだけ呆れたように笑う。


……やはり、兵長には伝えておこう。


 頭を抱えるイザベラと、顔をしかめたままの彰、複雑な顔をしたケビンを見て、省吾は席に座ると同時に大きく息を吐いた。戦場では驚くほど有能な省吾だが、学園の中やゲームの世界では、まだまだ卵の殻を壊しきれていないらしい。


 綾香から授業中に届いた昼食を誘うメールに、食事を別室でとる予定報告を送った。そして、授業中は授業に集中するべきだと、相手が冷める事も省吾は真面目に書き込む。省吾からのメールを受け取った返事をもらえるだけでうれしい綾香も、携帯を操作する上官を注意するべきか悩む堀井も、それからの苦労を知らない。


 正確には、知るすべがない。ただ、薄氷の上にある一時の平和に、笑う。


「はぁっ?」


 堀井の授業が終わると同時に、椅子から腰を上げた省吾と綾香は、大きな声に動きを止める。大きな声を出した主は、彰だ。その彰はイザベラに話し掛けられ、顔を歪めている。


 二人の会話が多少でも予想できる省吾、綾香、ケビンは、立ち上がるのを止め、椅子に座り直し、携帯電話をいじるふりをする。


……予想よりも、展開が早いな。


 イザベラは誰に告白されたのかを、省吾の予想通り彰には黙っているらしい。だが、放課後まで喋りはしないだろうと思っていた省吾の考えは、大きく外れてしまったようだ。


「だからぁ。いい感じの悪くない男に告白されたの」


 直球過ぎるイザベラの言葉に、彰は顔が何度も歪む。その彰の中では、仲が進展していたイザベラに対しての不信感や独占欲だけでなく、男の余裕を見せるべきか等と不適当な考えまでが渦巻いていた。


「どうなの? キープするだけって、卑怯じゃない? ここではっきりいって」


 ストレスが溜まり過ぎて、余裕が全くないイザベラの心境を、視界が揺らぐほど動揺している彰は正確に読み解くことが出来ない。


「卑怯って……お前。えっ? あの、ここで?」


 自分の席で俯いて携帯電話を操作しているように見える綾香に、彰はちらりと視線を送った。


「そうよ。今、ここで!」


 自分は追いかけられる側で、仕方なく付き合っているという地位とプライドを守りたいらしい彰は、未熟な男性にありがちな選択をしてしまう。


「そんな事、知らねぇよ。俺は、彼氏でもないんだし……何もいえるはずないだろうが……」


 彰の言葉を聞き、まるで裁判に勝ったような表情になるケビンと違い、綾香と省吾は苦笑いを浮かべるしかない。


……なるほど。その選択肢は多分、駄目だと思うぞ。


「ああ、そう。分かった。よおおぉぉぉく、分かった!」


 一目でわかる怒りの表情を浮かべたイザベラは、自分のバッグを掴むとそのまま足早に教室を出て行った。


……ベーカー。もう少し、待てないのか? ばれるぞ?


 イザベラが出て行くと同時に席を立ったケビンを見て、省吾の顔がどんどん渋くなっていく。だが、自分の席で俯いている彰は、ケビンがイザベラの後を追った事にまでは気が回っていないらしい。


……よし。今だ。


 静まり返った教室から彰以外の生徒達が、そそくさと立ち去っていく。売店経由で別室に向かう省吾は、用事が無くてもあの空気の中で教室には留まれなかっただろうと考えている。


……さて、兵長へは。


 彰達の事を堀井に教えようと考えていた省吾だが、状況が二転三転してしまい頭で上手く纏められなくなっているようだ。そして、いつもと同じ結論を出す。


……プライベートの問題を、第三者がとやかくいうべきではないな。それに、その部分は兵長達の仕事だ。


 悩みを投げ捨てた省吾の歩行速度は上昇し、徒歩で追いかけていたジェーンを振り切ってしまう。


「あれ? また……」


 ジェーンの追跡に気が付いていた省吾は、人ごみにまぎれた様に見せかけ、相手の視界から消える。そして、カードキーをスロットに差し込んだ携帯電話で暗証番号を入力し、別室へと続く隠し通路の扉を開いた。


 別室で部下達と打ち合わせを続けていたマードックは、腕時計をしておらず、省吾の姿を見て壁にかけてあるアナログ時計へと目を向けた。


「もうこんな時間か。早いわね」


「お疲れ様。博士」


 真っ直ぐに自分へと向かってきた省吾を見て、マードックは数時間ぶりに椅子へ座った。そして、兵士の一人にコーヒーを要求する。


「コーヒーを二つお願い。あ、一つは氷でも入れて、アイスにして」


「はい」


 マードックの護衛兼世話係りを担当しているその兵士は、コーヒーを取りに給湯室へと向かう。


「あっ、博士。話はあるが、時間に限りがある。食事を取りながらでもいいだろうか?」


 省吾は、既に売店で購入済みのパンが入ったビニール袋を、マードックに見せた。それを見たマードックは、断る理由が無いとばかりに笑顔でうなずく。


「敵能力者の新しい情報でも?」


「いや、その件じゃない。最近学園内に、以前報告した小型ファントムがかなり出没している。既に、俺が消滅させた数だけでも、二十四体だ」


 兵士の持ってきたコーヒーに砂糖とミルクを入れたマードックは、プラスチック製の細いスプーンでコーヒーをかき混ぜながら長い脚を組む。マードックは超能力研究の第一人者でもあるが、ファントム研究でも論文を発表し、認められている存在なのだ。


「それだけの出現数で、生徒達は騒いでいないの?」


「生徒の犠牲者が出ていないからな。それに、どうも能力での感知に引っかかり難いようなんだ。存在の出力? 自体が、大きさと同じで低いのかもしれない」


 目の前に座り、パンをかじり始めた省吾が、驚異的な勘の鋭さを持ち、それにより小型ファントムを補足しているのだろうとマードックは推測できているらしく、無駄な質問をしない。まだ多くの謎が残っているファントムの生態に関して、少ないながらも情報を頭の中から引きだしたマードックは、自分なりの推測を立てていく。


「その小型のファントム自体が、正体解明の鍵になる可能性はあるわね。学園内ではなく、特区内での出現状況は?」


「偶然見つけられていない可能性は高いが、俺が町中を移動していても小型ファントムの気配を感じた事はない。部下や諜報員からも、報告はなしだ」


 持っていた紙カップを机に置いたマードックは、一度目蓋を閉じる。そして、自分なりの推論を省吾に聞かせた。


「タイミングを考えれば、敵能力者が時限式の何かを仕掛けて、ファントムを出現させている可能性があるわね。まあ、あくまでも敵がファントムを操作できると仮定してだけど」


……あれは、まさか!


 省吾が自分も同じ考えだと返事をしようとする寸前で、部屋の扉が開き二人の女性が入ってきた。その二人とは、軍拠点にまで昼食を購入しに行っていた綾香とエマだ。楽しげに喋っていた綾香とエマは、マードックと省吾を見て会話が止まる。そして、四人は不思議な緊張感に包まれた。


 エマ達から少しだけ遅れて部屋に戻ってきた堀井は、四人の空気を察知して、訳が分かっていないようだが息をのむ。その緊張した空気の中で最初に喋り出したのは、綾香だった。持っているビニール袋を少しだけ持ち上げて、省吾に見せる。


「大丈夫です。井上君の前で、もう納豆は食べません」


……なるほど。ありがたい。


 鋭くなっていた視線が和らいだ省吾は、忘れかけていた返事をマードックにかえした。


「俺も、同じ考えだ」


 綾香の買ってきた物に気を取られていた省吾は、エマとマードックが作っている空気に気が回らなかったらしい。


「そう。で? 質問はそれだけ?」


 パンを咀嚼する省吾は、声を出さずにうなずいた。それを見たマードックは、にやりと笑う。


「じゃあ、ここからはプライベートな休憩時間ね」


 マードックの次にとった行動を見て、綾香は口をぽかんと開き、エマはこめかみに青筋を立てる。


「博士? どうしたんだ?」


 自分の座るキャリアのついた椅子を、マードックは座ったまま省吾の隣に移動させる。そして、そのまま省吾の片腕に抱きつき、胸を押し付けつつ顔を近づけていた。


「これぐらいのスキンシップはいいじゃない。それよりもプライベートな時間も、私は博士になったの?」


……んっ? ああ、切り替えが早いな。見習おう。


「イリア。パンが食べ難い」


「我慢なさい」


 省吾よりも先にフランソアの教育を受けていたマードックは、セカンドになる前からの省吾を知っており、成長を見てきた一人だ。そして、ある時期からマードックは省吾を自分に相応しい男性だと思い始めていた。


 その事をエマは知っていた為、マードックを睨んでいたのだろう。理由がなければ上下関係に逆らわない省吾は、先輩であるマードックの我慢しろという言葉に素直に従い、片手で器用にパンの袋を破る。


「あの……あれ! エマさんっ! あれっ!」


 エマは表情筋をひくつかせながら、綾香に情報を伝える。


「綾ちゃん……イリアはね。真っ向勝負しかしないから、陰険な事はしないのよぉ。でもねぇぇぇ……正面からなら、こういう事を平気でする女なの」


 綾香の反応とエマの言葉を聞き、頭のいいマードックは綾香が省吾をどう思っているかすぐに理解したらしい。驚きからおろおろしていた綾香も、マードックのしたり顔を見て顔が怒りで歪み始める。


……なんだ、これは? 兵長? なっ!


 堀井は四人の関係性を、なんとなくではあるが理解したらしい。そして、あえて省吾からの視線に目を逸らしたのだ。


 エマから悪く思われておらず、省吾の部下であり担任でもある堀井だが、限りなく部外者に近い立場であり、下手な事をいうべきではないと判断したらしい。そのまま堀井は上官と目を合わさず、省吾達から少し離れた席に座り、自分の食事を始めた。


「伝言した通り、新しい下着はちゃんとはいてきたんでしょうね?」


「ああ」


……何故かは、分からないがな。


 マードックに下心がない省吾は、従いはしたが伝言の意味を理解はしていない。


……これは、どういう事だ? 何かとても、パンが食べ難い。ぬう?


 怪しく無言で笑う三人に戸惑っていた省吾はある事に気が付き、眉と鼻をぴくりと動かした。


「イリア?」


「何かしら?」


「昨日は風呂に入ったらしいな。いい事だ」


 省吾の気が付いた事とは、イリアの髪からシャンプーの香りがする事だ。マードックと付き合いの長い省吾は、マードックがあまり風呂に入らない事をよく知っている。


「体を清潔に保つことは、健康面で重要だ。俺も昔戦場で、ナイフの切り傷から……」


 省吾の腕から離れたマードックは、拳を握る。それを見たエマは、マードックの入浴事情についても知っており、顔から怒りによる歪みが消えていた。


「エース?」


……むっ? 遅い!


 マードックは自分に振り向いた相手に拳を突き出したが、至近距離からでも省吾はそれを確実に避ける。


……被弾ゼロだ。


 省吾は上半身の動きだけで、マードックから放たれた五発の拳を避けきった。そして、床を蹴って椅子を移動させ、マードックから距離を置いた。


「殴りかかってくるな。お前が重罪人にでもならない限り、反撃が出来ん」


 省吾に拳が当てられないと諦めたマードックは足を組み直し、大きく息を吐いた。


「相変わらずね。エース……」


「まあ、人はそうそう変わったりはしないはずだ」


 もういいといった雰囲気で目線を省吾から逸らしたマードックは立ち上がり、握手を求めてエマに手を差し出す。


「久しぶりね。エマ」


 一度目を閉じて息を吐いたエマは、その握手に応じる。


「イリアも相変わらず、元気そうねぇ……。お風呂にも入ったみたいだし」


 エマの余計なひと言で、握手の手に力がこもり、接触部分が白く変色する。


……仲が良かったはずなんだがな。


 省吾は二人の引きつった笑顔を見ながら、パンを頬張り、目を細める。


「はぁ! もういい」


 エマの手を振り払ったマードックは、綾香に向き直る。


「ええっと、確か高等部セカンドクラス一年生の高梨……」


「あ、綾香です。高梨綾香」


 名前を思い出そうとしているマードックに、綾香は自分で名乗る。


「そうそう、綾香さんだったわね。改めてよろしく。イリア・マードックよ」


「あ、はい。よろしくお願いします」


 マードックの笑顔に気圧された綾香は、エマのように好戦的な態度を保てず、日本人らしく頭を下げながら握手に応じた。その綾香を見て、マードックはある事を思い出す。それは、マードックが日本に来て絶対にしようと決めていた事らしい。


「貴方達、今日の夜は予定あるかしら?」


 顔を見合わせたエマと綾香は、マードックを怪しみながらも首を横に振った。


「先生……じゃなくて、事務総長から教えてもらった、日本料理を一度は食べてみたいの。本格的な店で。お金は私が出すから、連れて行ってくれない?」


 食事にあまり興味の無いマードックだが、フランソアから散々語られた日本食の素晴らしさは、気になっていたらしい。研究や勉強の成果を見ても分かるように、決めたことを貫き通す性格のマードックは、食事すらも譲らないようだ。


「はい……それでしたら、いい店を知ってますので」


「決まり。私は、ずっとここにいるから、終わったら迎えに来てちょうだい」


「あ、はい」


「相変わらず、強引ねぇ。貴女のおごりだからね」


 エマと綾香はマードックの勢いに負けた形で、申し出を受けた。


「あ、着替えてきてもいいからね」


 二人の返事に満足したマードックは、自分の背後でパンをかじりながら、構えたままの省吾にも声を掛ける。


「エースもどう?」


「断る」


 基本的に日本食を良く思っていない省吾は、キャリアのついた椅子を少しずつ三人から離しつつ、顔をしかめる。


 警戒した獣を思わせる省吾の行動を見て、三人に自然な笑顔を戻る。そして、関係ないにもかかわらず、緊張していた堀井にも笑顔が戻っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ