五
セカンドまでしかいないはずの世界で、サードやフォースという馬鹿げた力を持つ者達がいた。その者達を、いくら口で否定しても現実は何も変わらない。目の前にある現実を受け入れないのは、愚者以外の何者でもないだろう。また、その現実が自分達に牙をむくのであれば、対処方法を考えるのが当然の事だ。
ただ、その現実を十分に分析し、どう足掻いても自分達の死が避けられないものだと分かった場合、苦しまずにそれを受け入れるのは間違いといい切れない部分もある。何故なら、本当の絶望に飲みこまれた場合、大よその人間が立ち上がれなくなるからだ。
次がある、同じ失敗をしなければいいといった希望もなく、どうする事も出来ない絶望の中で立ち上がれるのは、狂人か本当の強さを持った者だけだろう。だが、そういった普通ではない者の人数は多くない。まだ、絶望から目をそむけて策があると自分自身に暗示をかけ、被害を悪戯に拡大させてしまう者の方が多いはずだ。
国連にとって絶望が人の形をしているだけに見える敵が、そのどれかに当てはまるかは現在その敵達にしか分からない。万が一、敵の行動が人類の未来にとって正しい行いであるならば、省吾達国連軍は絶望に突き進んでいる愚者なのだろう。
国連よりも真実を知っている可能性がある敵能力者達は、息を潜めて機を見計らっているようだ。それも、周到に索敵で発見されないように自分達の能力でカムフラージュをして、一般人に紛れ込んでいる。国連軍の特務部隊員や諜報員達は、彼等の尻尾を掴むために、休日を返上して活動を続けている。だが、敵の痕跡にすらたどり着けていない。
一日の授業を終え、職場である別室へ向かう省吾も、常にその敵について頭の片隅に置いている。だが、自分が軍の歯車である事も理解しており、調査活動を制限範囲内でのみにとどめていた。彼が、そうしているのも、運命と呼べなくはないだろう。
省吾と同様に全ての授業を終えて校舎を出た彰は、イザベラと今日も遊びに行く約束をしている。その為、二人で並んでの下校を始めていた。イザベラ側から色々と話し掛けているが、彰は喋る機会が減ってきた綾香の事を考えているようで、話に集中できていない。
ゴシップが大好きなセカンド以外の生徒達はその並んで歩く二人を見て、ひそひそと噂話を広めている。その広まっている噂とは、彰が綾香と別れてイザベラに乗り換えた、もしくはイザベラが友人の恋人を略奪したという内容だ。
一般の生徒達から彰と綾香は付き合っていると思われていたのだから、そんな噂話が出ても不思議な事ではない。イザベラが綾香から彰を強引に奪ったのだろうと、笑いながら喋っていた女生徒の一団を、イザベラの鋭い眼光が散らした。その光景は、本当に蜘蛛の子を思い出させる。
「ねえ? 聞いてる?」
「ん? ああ、ごめん。何?」
彰のぼんやりとした態度は、女生徒から綾香の名前を聞いていらいらしていたイザベラの気分を、さらに悪くさせた。
「ちょっとぉ! 最悪ぅ!」
彰にはあまり怒りをぶつけないイザベラだが、その時は我慢できなかったようだ。
「わりぃって! 待てって!」
日頃、自分にだけは優しく従順なイザベラの怒りに焦った彰は、走り去る彼女を本気で追いかけた。そして、人気の少ない体育館裏でイザベラに追いつた彰は、涙を溜めた目を見て謝りながら抱きしめる。
「あ……いいなぁ……」
そんな彰は、その光景を意中の女性が見ていると気が付かない。誰もいないと思い込んだ彰は、見ている人間がむずむずとした痒みを覚える二人だけの世界で、主人公を演じ続ける。
体育館の裏にある別室への隠し扉の前で、綾香は座り込んでいた。体育館に入る扉へと続く短い階段に座った綾香は、コンクリートがむき出しであるその階段の冷たさに不快感を覚えながらも、座り続けていた。
その綾香が考えているのはいつも通り、省吾の事だ。昼間の事で省吾と顔を合わせ辛い綾香は、中に入る勇気をその場で溜めているのだろう。綾香はついつい自分の失敗を棚に上げ、省吾にも彰ほど積極性があればこんな苦労はしなのにと考えてしまう。それは、正常な女性として仕方のない欲求なのかもしれない。
「きゃああっ!」
バッグを抱えて空を見上げていた綾香は、体育館内から聞こえた女性の悲鳴で、体育館の床付近にある小さな窓から中を覗き込んだ。
その体育館は、学園の生徒数にあわせてかなり大きく作られている。そして、その広い空間は各部の活動範囲を明確にする為に、天井のレールから下がった緑のネットで仕切られている。
「あれは、女子バスケ? でしょうか?」
高等部の女子バスケ部は入部希望者が少なく、男子バスケ部と一緒に活動をしている。必然的に、転んで怪我をしたらしいバスケ部の女子生徒には、キャプテンである宗仁が駆け寄っていた。宗仁に肩を支えられたその女子生徒は、そのまま保健室へと向かった。その光景に違和感を覚えなかった綾香は、すぐに自分の世界へと戻る。
室外と室内の温度差で曇った窓越しでは、女生徒の怪我が何かに引き裂かれたようになっていると、綾香は気が付けなかったらしい。そして、転んだだけの女生徒がその切り傷を負う異常に、全く気を回せていない。
何よりも、その女生徒は中庭のベンチで座っていたところを小型のファントムに襲われそうになり、省吾に助けられた事があると綾香では分かるはずもない。女子バスケ部員の怪我は捻挫だろうと思い込んだ綾香は、その事を忘れて寒空の下で悩む事を再開する。
「はぁぁぁ、流石に、冷えてきました」
落ち葉を巻き上げた冷たい風で身震いをした綾香は、大きく息を吐く。そして、ポケットからカードキーを取り出し、自分が誰にも見られていない事を確認してから隠し通路に入った。
「あら?」
薄暗い通路を抜け、階段を上った先にある扉の取っ手に手をかけた綾香は、中からの声に首を傾げていた。別室にいるのは軍関係者ばかりで、大声を出すのは緊急事態ぐらいだからだ。しかし、今綾香が耳にしているのは気合の入った兵士の叫び声ではなく、パーティーを思い出させるような男性達の騒ぐ声なのだ。
「いいぃぃぃぃやっほぅぅぅいぃ!」
「兵長! キスしてやるぞぉ!」
綾香が開いた扉の先には特務部隊員だと思われる男性達おり、皆明るい顔で騒いでいた。中には、机の上でブレイクダンスを踊っている者までいる。
「ちょっ! やめてください! キスは結構ですって……あっ」
扉の取っ手を握ったまま呆然としていた綾香に、自分に抱き着いてきた男性兵士の顔面を押さえていた堀井が気付いたようだ。その男性兵士を引きはがした堀井は、笑いながら綾香に近付く。
「驚きましたか? 今日は、急きょですが、特別なイベントになりましたよ」
訳の分からない綾香は、堀井に更なる説明が欲しいと目で訴えかける。
「今日は以前から伸びに伸びていた、懇親会になりました。昨日から増員された人の中にも、中尉の知り合いが多かったので……」
年末から予定されていた特務部隊員の懇親会は、省吾の入院や年明けといったどうしようもないものから、隊員達の個別予定など様々な要因に開催を阻まれ続けていたのだ。その状況を見かねた堀井が同僚達との調整を行い、なんとか開催にこぎつけたのだ。
イベントに出席できるのは堀井と綾香以外、省吾の昔馴染みだけだ。他の特務部隊員には懇親会中の待機や出動を、堀井が頼み込んだのだ。
「あの……初耳なのですが」
綾香の言葉に、少し申し訳なさそうに頭を掻く堀井が返事をする。
「申し訳ない。先程、調整が完了したばかりなんですよ。何か予定があれば、欠席しても文句はいいませんよ」
騒いでいる兵の中にその日新任として挨拶した、教師や職員が混ざっている。それを見て、堀井の頑張りがうかがい知れた綾香は笑顔を向ける。
「いえ、出席させて下さい。楽しみです」
その時は頭のいい堀井も、エマを見て笑った綾香の本心には、気が付いていないようだ。
「整列ぅぅぅぅ!」
びりびりと壁を振るわせるほどの声が、綾香の背後から室内に響いた。
体を縮ませて手で耳を反射的にふさいだ綾香は、恐る恐る後ろを振り向く。そこには、ローガンを案内してきたらしい省吾が立っている。省吾の顔からは、騒ぎ過ぎた部下への不満が読み取れる。上官の鋭い眼光と眉間のしわを見た特務部隊員達は、素早く整列して姿勢を正した。
「失礼……気をつけぇ!」
綾香の隣をすり抜けて部屋に入った省吾は、並んでいる隊員達に指示を出す。その声には凄味があり、気の弱い者ならば震えあがる事もあるだろう。
「騒いでいいのは、拠点を出てからだ! 我慢しろ!」
「イエッサー!」
訓練を積んでいる隊員達は、一糸乱れる事のない行動で省吾に力強い返事をする。
「よし! 休め!」
少し機嫌の悪い省吾を見て、顔を引き締めようとして隊員の中には笑顔を我慢している者も多く、微かに震えている者さえいた。その光景を見かねたローガンが、隊員達に助け舟を出す。
「ああ、あれだ。声を出さないなら、もう動いてもいいぞ」
……ぬううう! しまった!
解き放たれた隊員達は、無言ではあるが我先にと省吾に抱き着いていく。中には、タックルに近い勢いで、省吾の下半身を狙った者までいる。
「くそっ! やめろ! 折れる! あがっ!」
……ええい! 的確に関節を!
省吾だけが叫ぶ異様な光景を、ローガンは満足そうに眺めていた。勿論、堀井と綾香は呆然とするしかない。
「皆さん、中尉と会いたかったんでしょうねぇ」
堀井の言葉に、ローガンはうなずく。
「皆の一番重要な目的は、懇親会自体ではなく、エースだからなぁ」
もみくちゃにされる省吾を見て、綾香は先程とは違う自然な笑顔を見せる。
「井上君……凄い人気ですね」
堀井も綾香と同じ様に、笑顔を作っていた。
「皆のヒーローですからね」
……このぉぉぉ!
特殊な訓練を受け、戦場にも出ていた特務隊員達が束になっては、省吾も一筋縄で切り抜けられない。何度引きはがしても的確に関節を狙いながら抱き着いてくる部下達に、省吾は頭の中にある線が切れる。
「いい加減にしろ! お前等ぁぁ!」
しがみ付いていた特務部隊員達は省吾の拳を頭に受け、何とか落ち着いた。その場で唯一の女性であるエマだけが、殴られる前に距離を取った事に綾香だけは気が付いたようだ。
「兵長が店に案内してくれる。電車だ。行くぞ、お前達!」
店を予約した堀井とまとめ役であるローガンが先導して、特務部隊員御一行は貸し切りになった居酒屋へと向かう。
「私達も、行きましょうか。井上君……えっ?」
隊員達の後に続こうとした綾香の手を、省吾が後ろから掴んだ。そして、綾香は驚きと嬉しさで真っ赤になった顔を、真剣な表情の省吾に向けた。
「俺達は、一度寮で着替えてから合流だ」
「あ、そうですね」
省吾が色気のある事をするとは思っていない綾香は、手を握られた事だけで満足したらしく、別室を出るまでの間、笑顔が消えなかった。
「合流は、先程教えた場所に来てくれ。後、出来るだけ、目立たない変装を」
別室を出て必要な事だけを綾香に伝えた省吾は、そのまま背を向けて寮へと足早に帰っていく。すぐに再開できるはずの綾香だが、その背中を見送る事にも寂しさを感じているようで笑顔が消える。
しかし、人間とは現金なもので、省吾の車に乗ってからの綾香は、喜びから体を揺らすほど落ち着きをなくしていた。省吾が車を運転する非日常的な光景は、綾香の心にある何かを刺激し、高揚させているらしい。
「あのっ……あの、そのサングラスよく似合ってますね」
省吾は顔を隠す為に、顔のサイズと不釣り合いなほど大きなサングラスをかけており、自分でも似合っていないのは分かっていた。
……高梨さんはもしかして、センスが独特なんだろうか。それとも、馬鹿にしているのか?
「それは……どうも……」
省吾はある一つの事を覗いて、馬鹿では無い。綾香に気を使い、頭に浮かんだ事をそのまま口には出そうとしない。
「でも、飲み屋さんに車で行っていいんですか?」
鼻歌まで飛び出しそうなほどご機嫌な綾香は、省吾の漂わせる微妙な空気を感じ取っていないらしい。
「俺は未成年だから、酒は飲めない。それに、誰かが酔いつぶれた場合を考えて、一台は必要だろう」
居酒屋の駐車場につくまで、浮ついた綾香は脈絡のない会話を、省吾に振り続けた。それを気にしても仕方ないと考える省吾は、全てに気を遣った返答をする。その会話が二人にとって良かったのか悪かったのかは、誰にも分からない。
「おっ! じゅ……中尉の到着だぁ!」
仲間達から少し遅れて省吾達が到着した頃には、テーブルに料理が運ばれ始めていた。
「こっちです! 准……中尉!」
「いや、こっちに!」
学園での生活とは違い人気者の省吾は、当たり障りにない真ん中の席へ腰を落ち着けた。その省吾に、堀井が耳打ちをする。
「この店の店主は元国連軍兵士で、店員も職員ばかりです。部屋の防音もチェック済みですから、多少昔の事を喋っても大丈夫ですから」
非の打ち所がない堀井を、省吾は素直に褒める。
「流石ですね」
「では、全員そろったな! 始めるぞ!」
ローガンの掛け声と共に、懇親会が開催された。皆が友人である若い上官に近状を報告し、無理に酒を飲ませようとした者には、省吾の拳が振り下ろされる。
日が沈むと同時に開催されたそれは、盛り下がる事なく常に笑い声が聞こえる楽しい席になっていた。
「よう、嬢ちゃん。年末以来だな。軍には慣れたか?」
「あ、えと、ジェイコブさん。病院以来ですね。皆さん良くしてくれますが、私がまだまだです」
綾香も慣れない場ではあるが、現役兵士達から聞けるためになる話や失敗談に耳を傾け、楽しめているようだ。
……うん?
そんな中で、省吾の携帯電話が鳴動する。
「はい。はい、井上です」
省吾の持っている携帯電話は、軍用の特殊な物だ。通常回線から繋ぐ事も出来るが、特区内に国連が張り巡らせた特殊回線からの着信も可能になっている。電話の先にいるであろう相手が、軍関係者だと周りの人間にも、省吾の真剣な目で推測が出来る。
会話の内容は省吾以外には聞こえていないが、酔って騒いでいたはずの特務部隊員達は、真剣な顔で電話の邪魔をしない様に喋るのをやめていた。数秒前まで馬鹿な話で笑っていたにも関わらず、一瞬で切り替えた特務部隊員達を見て、綾香はそこにいるのが歴戦の兵達なのだと改めて思い知る。
「了解しました。はい」
電話を終えた省吾に、その場にいた全員から視線が注がれていた。椅子の下に置いてある自分のバッグを膝の上にあげた省吾は、銃の確認を始めながら説明をする。
「ファントムがこの近くで出現した。今日はうちが無理をいったせいで、兵士が少ない。司令から直々の応援要請だ。酒を飲んでいない俺が出よう」
サイレンサー付きの拳銃と、予備のマガジンを確認し終えた省吾は、そのままバッグとコートを持って椅子から立ち上がる。
「エース。一人で大丈夫か? なんなら……」
ローガンの問いかけに、省吾は顔色を全く変えない。
「ファントム二体。能力者が少ないだけですから、すぐに終わらせてきます」
ローガンがうなずくのも見ずに出ようとした省吾は、立ち止まり仲間達にもう一度顔を向けた。
「伝言を忘れる所でした。司令は、仕事が終わり次第合流するそうです」
伝言を終えた省吾は、そのまま店を出た。その省吾と入れ替わりで、割烹着を着た店員が追加の注文を聞きに来ると、静まり返っていた場に活気が戻る。
皆が気にせず酒を飲めるのも、省吾に対する信頼なのだろうと綾香にも分かっている。その綾香は意味ありげな息を吐き出し、ウーロン茶の入ったコップに出来た水滴をおしぼりで拭き取る。
「えっ? あ、リベラ……先生?」
エマは飲んでいた酒のコップを掴み、綾香の隣に席を移動した。そのエマの顔は、悪戯でも始めそうなほど怪しい笑顔を浮かべている。
「ふふぅん。高な……綾ちゃんでいいかしら? 学校では、ちゃんと高梨さんって……呼ぶから」
女性的な勘で感じ取った、学園とは雰囲気の違うエマに警戒しつつも、綾香はうなずいた。
「綾ちゃん…………中尉の事がそんなに気になるぅ?」
笑顔のまま綾香の耳元に顔を近づけたエマは、学園とは違う低く妖艶な声で囁いた。
「なっ! 何を!」
心を直接撫でられるような気分の悪さを感じた綾香は、顔を赤くではなく少しだけ青くする。
「だって、私も女だもん。それに、見てれば誰でも分かるんじゃないかなぁ」
声を元に戻したエマだったが、笑顔に見せる為に細めた目には怪しい光が残っている。それを見た綾香は、学園でのエマが猫をかぶっていたのだと確信する。エマに対する警戒が最大にまで上昇させた綾香は、無意識に座っていた椅子の位置をずらし、相手との距離を取る。
「ああ、勘違いしないでね。そこの堀井先生以外は、こっちの私も皆知ってるから」
エマのその言葉で、綾香が周りに目を向けると、男性陣が薄い笑いを浮かべてうなずいていた。ただ一人、堀井だけは明らかに顔色を変え、箸が止まる。
「嬢ちゃん。それも、そいつの個性ってやつだ」
「腹を割ってない奴に、戦場じゃあ背中は預けられないからな」
男性陣の説明で多少はこわばらせた体から力を緩めた綾香だが、エマの笑顔を怪しく感じる気持ちは変わらないようだ。顔をひきつらせている綾香は、上手く笑えていない。
「そんなに怖がらないでぇ。何もしないから。それに、これは中尉の教えでもあるのよ」
綾香の頭には、もう疑問しか浮かんでこない。
「使えるものは、なんでも利用して汚くても勝つのが兵士の目的だってね。だから、私は女である自分を利用するの」
目を細めたジェイコブが、上官の名誉を守る為に補足する。
「准尉がいいたいのは、地形を活かしたトラップ的な環境を利用する策の事で、お前のそれじゃないぞ」
ジェイコブの言葉を鼻で笑ったエマは、余裕を持って反論した。
「あらぁ。女性であるだけで、勝手に環境が変わるんですから。これも、立派な策ですよぉ。後、中尉……ね?」
呆れたようにエマの言葉を笑う兵士達を見ながら、綾香は喉の急な渇きをウーロン茶で癒す。
「綾ちゃんはもう少し、色々知っておいた方が良いと思うの」
相手の意図が分からない為、怪訝な顔になった綾香にエマは再び怪しい笑顔を向ける。今のエマは目を細め口角を上げてはいるが、明らかに目は笑っていない。
そのエマの顔を見た綾香は、唾液を飲み込んでいた。直感で綾香は自分がエマに、女性としてかなわないのではないかと思えたのかもしれない。
「中尉の、最初に会った貴女の印象はどうだった?」
エマの質問に、あまり好意的に思えなかったとすぐ返事が出来ない綾香は、軽くではあるが唇を噛んでいた。それを見たエマは、綾香からの返事を待たずに次の言葉を吐き出す。
「私はね。よく思えなかったの。その上で、喋ってみて嫌いになった」
「えっ?」
エマは目線を上に向け、思い出を語り出す。
現在、世界中に三か所作られた特区は、フランソアの発案ではあるが、思いつきや行き当たりばったりで計画された訳ではない。前身となる教育機関がいくつも作られ、その失敗や成功のデータを元に、着工された計画なのだ。
その中には、一つの目的に沿った人間を短期間で作り出す、公表されていない機関も存在した。勿論、最高責任者がフランソアやランドンである為、人権を無視した危険な事を若者に強要する機関ではない。
今の特区のように、戦場に出られないような年齢から、能力者を長い時間かけて育てるのではなく。既に超能力を発現し、戦場に出られるもしくは、あと数年で出られる年齢に達する者達を集め、英才教育で成長を促す機関だった。
その特区創設に大きく影響した機関が、何故公表されていないかといえば、生徒達のできが良過ぎた為に、英雄を大量に排出してしまったからだ。省吾達本物は別として、現在国連軍内で大戦の英雄として民衆に扱われている者の多くは、その機関で作られたのだ。
苦痛に満ちた世界で、希望さえ配給しなければいけなかった国連は、その作られた英雄達に頼らざるを得なかった。気が付くと、民衆に大戦の英雄達は作り物でしたといえるはずもない国連は、その教育機関の存在を公表できなくなっていた。
エマ・リベラも、その機関で教育を受けた一人だ。彼女は超能力者特有の勘に優れていたが、運動能力等は特出していない。
だが、エマの家系は代々医者や大学教授になる事が多い、知能が高い血統であり、彼女自身も知能が子供のころから高かった。そして、医療について機関で本格的に学んだ彼女は、その特出した勘で十年以上医療行為を続けた医者に匹敵するほどの能力を開花させていた。
国連軍内で英雄達の部隊と並び、民衆の信頼を得ていた特務部隊の前身である特殊部隊に、エマは衛生兵として着任する事になる。フランソア達としては、現地で兵士や難民の命を救う、現代のナイチンゲールを作ろうとしていたのだ。エマも実際に戦場で人の命を救い、民衆の希望になるのであればと要請を受け入れた。
だが、運が良かったのか悪かったのかは分からないが、特殊部隊の指揮をとっていた一人の兵士に、その計画は意図せず潰されてしまう。その人物とは、セカンドとして覚醒し、戦場で目覚ましい成果を残していた、まだ名前の無かった頃の省吾だ。
この世に、綺麗な戦場はほぼ存在しないだろう。特に省吾が戦っていた最前線は、血、泥、硝煙等、人間が嫌うありとあらゆる臭いが鼻を衝く場所だった。どんなに心を通わせた仲間が倒れても、墓穴を掘る時間で引き金を引かなければいけないほど、酷い状況だったのだ。
超能力を持っているとはいえ、省吾も一兵士でしかなく、人の命を守る為に無茶としか表現できない作戦を続けていた。そんな中、疲労と怪我で倒れた特殊部隊の准尉を治療する為に、エマは護衛に守られながら最前線へと出向いた。
「その時は、びっくりしたのよぉ。治療が必要なはずの准尉……中尉が、敵襲の叫びで真っ先に銃を持ってテントから飛び出すんだものぉ」
綾香は両手で握ったコップから、ウーロン茶をちびりちびりと飲みながら、エマから目線を外さない。エマへの警戒は解いていないようだが、省吾の過去にはかなり興味があるのだろう。
「命を粗末にしてると思って頭にきた私は、テントに帰ってきた私より若い中尉に、私は文句をいったの。死にたいんですかって。それで、あの人なんて答えたか分かるぅ?」
天井を向いていたエマの目線が、突然自分の方を向き、不意を突かれた綾香は何も答えられなかった。
「戦場ではこれが普通だって……。他の兵士よりも、重症で歩くのも辛そうなのに……」
綾香から目線を逸らしたエマの目に、悲しみとも取れる感情が浮かぶ。
「その時の私は、まだ戦場の現実も知らない子供だったの。だから、綺麗事が正しいと思ってて、中尉に怒りを感じちゃったわけよ。で、上官が死ねといえば貴方は死ぬんですかなんて……聞いちゃった」
綾香は、コップをテーブルへ静かに置いた。そして、指でおしぼりを包んでいたビニールのゴミを弄ぶエマを見つめ、話の続きを待つ。
「真顔で、そうだ……なんていうから、こんな馬鹿が無駄に兵士を死なせる無能な上官になるんだ……。なんて思っちゃったわけよ。その頃、私は中尉をきら……大嫌いだった」
小さな笑い声が耳に届いた綾香は、一度目線をエマから外した。他の兵士達もエマの話に耳を傾け、いつの間にかその場は静まっている事に綾香はその時初めて気が付く。
「で、その頃、軍のお飾りだった私は、戦況の悪化で、護衛の車両に乗って一度軍本部へ帰投する事になってね……」
情報網が混乱する中で、戦場から抜けようとしたエマのいた一団は、運悪く敵の国連をかく乱する為の罠である情報にはまった。そして、敵の戦車部隊と鉢合わせしたのだ。
戦車を十台も引き連れた敵部隊に、装甲車三台だけのエマ達は投降する以外の選択肢が残されていなかった。
「その時ねぇ。私がどうなるか分かってた兵隊さん達が投降するふりをして、隙をついて私を逃がそうとしてくれたの……」
十人程度の国連軍兵士では、戦車を持つ三十人を超える敵に勝つどころか、まともな抵抗も出来なかった。結果、エマ以外の兵士はそこが人生で最後の場所となった。
「私だけ生き残ったんだけど、武装もしていない抵抗をした敵女性兵士に、相手が優しくしてくれる訳もないのよねぇ……」
エマの話に引き込まれていた綾香は、我が事のように鼓動を早めている。
「そんな時ってさ……五月蝿いって殴られても、涙が止められないのよね。あんなに、泣き叫んだの、生きてきた中で初めてだったと思うわ……」
綾香の中では年末の山中での自分と、その時のエマが重なっていた。そして、過呼吸になるのではないかと思えるほど、呼吸の回数が増える。
「酷い事をされて殺されるか、生かされても酷い目にあい続けるかの二択。あんなにお先真っ暗って気分は、なかなかないわよぉ。叫ぶだけ無駄なんだと思った瞬間にね……私に覆いかぶさろうとしていた敵兵士が、その場で倒れたの」
その現場にいたジェイコブ達も、当時を思い出しながらコップの酒を飲み干す。何故か彼等は、辛い戦地の記憶で笑っていた。
「拳銃を持った中尉が、助けてくれたのよ……信じられる? マシンガンや戦車まで持った敵に、怪我も治りきってない中尉が、拳銃二丁だけで挑みかかってくれたのっ!」
エマの説明では足りない部分を、ジェイコブが補足する。
「あの時は、補給ラインがその戦車隊に分断されててな。拳銃の弾丸と、手投げ弾くらいしか残ってなかったんだ。なのに准尉は……」
補給ラインの確保に向かっていた仲間からの連絡が途絶え、確認に向かった省吾は仲間の死と敵の作戦を知った。そして、走り出したのだ。崩れかけた橋を渡り、壊れて動かない自動車の大量に放置されたぼろぼろの道路を駆け抜け、森の中をかき分けて省吾は拳銃の安全装置を外したのだ。
「本当に、無茶な事をしますよねぇ、中尉は……。でも、格好良かったなぁ……」
敵の歩兵を見る間に倒し、戦車の中へ手投げ弾を放り込む省吾の姿を思いだし、エマは怪しさの消えた本当の笑顔を見せる。そのエマを見て、呆れたように首を左右に振るジェイコブも、その時の状況ははっきりと思い出しているらしい。
「俺達は止めたんだぜ? それでも、仲間がやられた時のあの人は、聞き入れてもくれねぇんだ。こっちとしては、冷や冷やもんだぁ」
笑って日本酒を飲み干したローガン達は、省吾が考えもなく敵に向かったのではないと分かっているのだろう。歩兵よりも火力と防御力に優れた戦車も、歩兵との超接近戦にはその性能を活かしきれないのだ。
綾香は文句を口にするジェイコブの顔も、笑顔のままだと気付いている。そして、つられるように自分も、少しだけ笑っている。
「それで、助けられた後に、もう一度中尉に聞いてみたの。なんで、そんな無茶ばかりするんですかって……」
エマを助け、補給ラインを回復させたその時の省吾は、真っ直ぐに相手の目を見て答えた。大を生かし、小を殺す状況が戦場ではよくあり、その小として真っ先に死ぬのが自分達兵士なのだと。
「もうねぇ。その真っ直ぐな言葉がねぇ。胸を鷲掴みってやつよ。綾ちゃんにはこの気持ち……分かる?」
先程とは違い、優しく自分に問いかけるエマに頬を染めながら綾香はうなずいた。そのエマの笑顔は、仲間達の笑い声でゆがむ。
「ぎゃははははっ! おい、嬢ちゃん。それから、こいつどうなったと思う? 笑えるぞ!」
「ちょっ! 止めてくださいってば!」
酒を飲み、ネジの緩んだ特務部隊員達は、容赦なくエマの言葉を無視する。
「こいつ、振られたくせに、正式に転属願いだして、准尉を追っかけてやがんの!」
顔を真っ赤にしたエマは机を叩きながら立ち上がり、大きな声で抗議する。
「振られてません! 嘘をこの子に教えないで!」
いつまでも貴方と一緒にいたいと、エマは省吾にいった。その言葉を言葉通りに捉えた今よりも空気の読めなかった省吾から、部隊が違うので無理だと返事をされたのだ。この省吾の微妙に間違えた返事で、エマのナイチンゲール化計画は潰れてしまった。
ただ、エマが特務部隊の専属となる事で、優秀な大勢の兵士が怪我や病気の難を逃れており、フランソア達は問題だとは思っていないようだ。
「あの時も凄かったけど、やっぱり俺の印象に残ってるのは……」
そこから、自然と省吾の過去に隊員達の話題は、流れていく。
省吾と同じ釜の飯を食べた特務部隊員達が語るのは、他の部隊にいる者達のように噂ではなく、自分達の目で見た情報だ。尾ひれはついていないが、生の緊迫感すら綾香に伝わっているようだ。
「土砂崩れで、完全に陸の孤島になってるってのに、敵が立てこもって降伏してくれなくてな。弾薬は残ってても、腹が減り過ぎて敵も味方も動けない状態になった訳だ」
次々に、特務部隊員から教えられる省吾の話に、綾香は目をきらめかせる。そのどれもが、作り話の中にしかいない英雄を思わせる活躍ばかりだからだ。
「雑草すら食べつくして、もう駄目だって時に、ずたぼろの恰好になったじゅ……中尉がさぁ。でかい背嚢を担いで、そりを引っ張ってご登場だ。あれだ……本当に涙が出たぜ」
疑問を持った綾香は、男性兵士に省吾の状態について質問をする。
「ああ、中尉も土砂崩れに巻き込まれたんだと、そのおかげで孤立した村に来れたんだけどな」
その兵士は小型の瓶に入った酒を飲みほし、話を続ける。
「一緒に巻き込まれて谷に落ちた部下の手当てをして、自分だけ近くにあった木材でそりを作って、食料を届けてくれたんだ。あの時の飯のうまさは、一生忘れねぇだろうなぁ」
同じ現場にいた別の者も、口を開く。
「あの時……中尉は土砂崩れから部下を守って、全身を打撲してたよな。それでも、立ち上がるんだ……。自分の半分しか生きてない若造と分かっていても、自然と頭が下がったよ」
英雄譚に興奮する綾香へ向かって、少しだけ気にかかる事のあるローガンが喋り始めた。
「お嬢ちゃん。あいつはな。ぎりぎりの状態でしか頑張ってない訳じゃないぞ。こっちが有利だろうと不利だろうと、常に全力で取り組んだ結果だ。まあ、手を抜かないせいで、仲間の危機を救うことも多いがな」
「はい」
口の上手くないローガンは、自分のいいたい事を遠まわしに説明しようとして失敗したようだ。瞳を輝かせたままの綾香は、曇りの無い笑顔を返してしまう。
「綾ちゃん? 中尉が死にかけた時の話……聞きたい?」
「えっ? あ、はい」
ローガンのいいたかった事を察したエマが、補足になるであろう事を喋り始めた。何も分かっていない綾香は、素直に英雄譚の一つとしてその話を聞く。
「大戦末期に、軍の司令本部……今の国連本部になった場所が、敵の攻撃で窮地に陥ったのって、綾ちゃん知ってる?」
再び含みのある笑みを浮かべて顔を近づけるエマに対して、綾香は上半身が後ろにそれてしまう。綾香が距離を置こうとしている事に気が付いたエマが、徐々に近づけていた顔を離す。
「あの……確か、敵集団が手を組んで、本部に攻め込んだんですよね? ニュースで見ました」
国連軍の努力により、敵は大陸の先端まで追いやられた。その為、大戦末期の最前線となったのは、ヨーロッパ西部、アフリカ南部、南アメリカ東部の三か所だ。まず、アフリカ南部を、国連軍が制圧した。その情報は、ヨーロッパにも朗報として広がった。
しかし、その事で国連は思いがけない危機を迎えた。ヨーロッパに残った敵勢力がその情報で焦り、反国連組織同士で手を組み、自暴自棄としか思えない全ての軍勢を使った、一点突破を実行してきたのだ。アフリカ南部の作戦成功で、気が緩んでいた国連軍は、その敵の無謀な賭けで大打撃を受け、かなりの地域を敵に押えられてしまった。
ほぼ予定通りに作戦を終結することが出来た南アメリカ東部と違い、国連の首脳陣もいたヨーロッパは本当の地獄と呼べる戦場になった。そこでは、兵士達だけでなく、民間人からも大勢犠牲者が出た。
大戦の最後ともいえる山場となったその戦場でも、特殊部隊を再編制した特務部隊が最前線に立った。敵の進行を食い止る事により本部制圧を阻止し、民衆を守ったのは、先頭に立って戦う特務部隊員とそれに続いた一般兵だ。
コリント達が仕方なく事態の収拾後に発表した、英雄達の活躍は、ほとんどが誇張や嘘で塗り固められたまやかしだ。作られた英雄達は、安全地帯へ退避する首脳陣の護衛と、特務部隊によりほぼ制圧が完了した地域へ最終処理にしか出向いていない。
「そんな……それじゃあ……」
「一番貧乏くじを引いた中尉があれだもん。私達がいえる事なんてないわ。でも、恩賞はかなりもらったけどねぇ」
真実を知った綾香は、エマに笑い返す事は出来ない。日本でニュースを見て顔をしかめただけの自分を、綾香は恥ずかしく思っているようだ。
「その戦いの中でも、一番ひどかったのは……あれは、本当に私も綺麗事じゃなくて、特務部隊に入った事を、後悔した戦いなんだけどね……」
大陸の端へ敵を追いかえしていた特務部隊員達は、敵の予想外過ぎる増援に退却を余儀なくされた。それも、放置できない大勢の住民を連れての移動という、最悪の状態だった。移動速度があげられない上に、食料、弾薬、医療品が底をつき、敵がどんどんと迫ってくるのだ。
「敵のせいで、空軍の戦闘機はほぼ壊滅させられて、海軍も動ける状態じゃなかったな」
「ああ、ありゃ酷かった。最後は、地雷と敵の挟み撃ちだしなぁ」
特務部隊員達の話が聞こえた綾香は、エマに話の続きを無言で催促する。
「敵に進路を妨害されてね。地雷地帯の手前まで追い込まれたのよ。無線も故障して仲間と連絡取れないから、こっちの位置を教えて増援に来てもらうのも難しい状況になってたわ」
省吾の上官すら戦死した状況で、特務部隊員達は最善をつくし続けていた。それでも現実は、残酷だった。
兵士ですら無事では済まない地雷地帯を、住民を連れて抜けられるはずもない。半日で敵に追いつかれると分かりながらも、省吾達はそれ以上動けなくなった。
「もっと、最悪だったのは、指揮をとってた中尉がね……敗血症になってたの。まあ、正確にはその寸前って所だけどね」
医療品が尽き、一番戦い続け体力の低下した省吾は、細菌の感染に抵抗するだけの免疫力がなくなっていたのだ。治療出来ない訳ではないが、戦場で多くの兵士から命を奪った敗血症の恐ろしさを、綾香も知っているようだ。
「そこで中尉は、とんでもない決断をしたの……」
兵士の中から地雷地帯を抜ける志願者を集めた省吾は、ジェイコブを含めた四人に全ての機材から集めた燃料の入ったバイクを渡した。そして、ジェイコブ達四人以外にはバリケードを作らせ、住民を守るように指示をした。ここまでが、指揮官として当然の判断だろう。
だが、英雄と呼ばれる若い兵士は、そこで終わらない。自分の死期が近づいていると判断した省吾は指揮権を部下に渡し、単身で奇襲作戦を決行したのだ。
「自分は助からないと思ったんでしょうねぇ」
「そんな! それじゃあ、井上君は?」
敵が進んでくる道に、人一人が入る事の出来る穴を掘り、蓋をして省吾は待ち伏せをした。そして、人並み外れた勘で敵司令官の乗る車両が通過すると同時にその穴から飛び出し、持っていたアサルトライフルで敵司令官を撃ち抜いたのだ。
敵が反応する前にナイフとアサルトライフルだけで、敵の軍勢を混乱に陥れた省吾だったが、さらに悲劇は続いた。血の臭いに誘われたのか、大量のファントムが出現したのだ。国連軍、敵勢力、ファントムの入り乱れた戦場は、多くの犠牲者を出した。
「俺達が、援軍を連れて大急ぎで戻ってみれば……。なんとまぁ、驚く事に最後まで戦ってたのは、准尉だったのさ」
綾香は、ジェイコブが頬にある大きな傷を撫でたのを、見逃さなかった。地雷地帯を抜けることが出来たのは、ジェイコブを含めて二人だけだ。そして、ジェイコブも地雷の爆発で怪我をしたのだ。
「俺は今でも、目に焼き付いてる。援軍が来ると同時に、敵が逃げ出して……」
「残ったファントムと、瀕死の准尉が、最後まで戦って……」
当時を思い出したらしい特務部隊員の幾人かは、目に涙を溜め始めていた。
「へばって動けない俺達をかばってさぁ。弾もなくなって、ナイフしかないってのによぉ……自分は……もっと、ぼろぼろのくせによぉ……」
「最後の敵を倒した瞬間に、ぶっ倒れたんだよなぁ……。意識はないしよぉ、痙攣しながら吐くし、流石にあれは俺もやばいと思った……」
会話と雰囲気から、その戦いの悲惨さを綾香は感じ取ったようだ。先程までのように、目を輝かせてはいない。
「あの……それで、井上君は?」
まるで今起きた事であるかのように省吾を心配する綾香に、エマはあっさりと返事をした。
「即入院。で、一週間後には、復帰しちゃったわよぉ」
安心したように胸に手を置き、息を吐いた綾香にエマが話を続ける。
「ここからは、想像なんだけどねぇ。私、見ちゃったのよ……」
診断を受けた省吾は、微かに手が震えていたとエマはいった。そして、死の恐怖を感じない人間もいないと、エマは綾香に説いた。
病に侵された体を抱え、敵の大群が隠れている穴の上を通り過ぎる状況で、正常を保てる人間がどれほどいるだろう。そんな、状況でも覚悟を決めた省吾は、多くの命を守って見せたのだ。
「あの……リベラ先生?」
目を細めて自分を見つめ続けるエマのいいたい事が、綾香はすぐには分からなかった。
「あの人は、自分だけじゃなくて、他人の命とも真っ直ぐ向き合って、覚悟を決めちゃう人なの。この意味は、分かる?」
綾香は、エマの真意がすぐには分からなかった。そして、何処か自分を見下すようなエマの態度に、不快感を覚えていた。だが、心の中にある女性的な勘ともいえる部分が、綾香自身に囁く。同じ相手を好きだとして、それに大人と子供の分界点があるとすれば、どこなのかと。
たとえ十代の人間だとしても、命掛けであるならば、二十代以降のなんとなくの恋愛よりも、価値があるといえるかもしれない。命という言葉で、綾香の中に省吾の顔が浮かぶ。そして、簡単な答えに行きついた。
省吾は有事の際、真っ先に大勢を生かそうと、死ぬ事が出来る人間なのだ。それは、ただ守られるだけの人間からすれば、凄い事だといえばいいだけの事だろう。しかし、いざ省吾と恋人や夫婦になった場合、愛する人が何時居なくなるかも知れない恐ろしい事なのだ。
省吾を好きになれば好きになるだけ、そうなった場合のダメージは大きいだろう。場合によっては、心が壊れてしまうかも知れない程だ。省吾を好きになる本当の怖さが分かった綾香は、背筋に寒いものを感じて顔を青くしていた。
「やっと気付いたぁ? どう? 結構、きついでしょ?」
エマの言葉すら届かない程、綾香は省吾の事を深刻に考え、俯いて硬くなった唾液を飲み込んだ。
「あらぁ?」
そこまで来て始めて、エマに予想外の事が起きた。そしてエマは、自分の読みの甘さを自分自身で軽く笑う。
「私はそれでも……そう、私は変われません。変わりません。だから、逃げません」
自分より覚悟が出来たのではないかと思える綾香の目を見て、エマは優しい笑顔を向ける。そこで綾香は、省吾を好きになる辛さを、エマはよく知っており、その事を自分に伝えようと嫌な役に徹してくれたのだと解釈した。
「綾ちゃんとは、楽しくやっていけそうねぇ」
暖房による喉の渇きから、エマはコップに入った水を飲み干した。そして、二人を離れた席で冷や冷やしながら見ていたローガンが大きく息を吐く。
だが、ローガンの顔色はすぐに変わる。省吾の思い出をそれぞれで語っていた他の隊員達も、一斉に綾香達の方に目を向けた。
「はぁぁぁぁぁぁぁ、最悪よぉぉぉぉぉ」
空になったガラスのコップを乱暴にテーブルへ置いたエマを見て、綾香の眉間にもしわが入った。
「おい、兵長。お前は何を飲んでるんだ?」
一人の隊員が、エマの隣に座っていた堀井に尋ねた。状況が分かっていない堀井は、エマが飲み干し、空になったコップを持ち上げる。
「日本酒で……あれ? 無くなってますね」
綾香、堀井、エマ以外の全員が、開いた両掌を天井に少しだけ持ち上げる。そして、笑いながら机に突っ伏したエマに目を向ける。
「なんでよぉぉぉ!」
「うわっ! どうしたんですか?」
訳の分からない綾香は、エマの突然の雄叫びに、椅子から立ち上がって距離を取った。かなり驚いたようで、胸に置いた手で鼓動を確認している。
「なんで、十七になっちゃうのよぉ! 十九じゃなかったの? 三年も待ったら、私は三十路のカウントダウンに入るじゃないのぉぉぉ!」
驚きを全身で表現している綾香に、一人の特務部隊員が笑いながら説明をする。
「あいつな。酒にとんでもなく弱いんだ。猫かぶりが、最初俺達にばれたのも、酒のせいだったぐらいなんだぜ」
綾香はそこで、エマがビールにもほとんど手を付けず、ノンアルコールカクテルを飲んでいた事に気が付いた。
「後、一年待てば、二十歳になると思ってたのにぃぃぃぃ! インチキよぉぉぉ!」
自分の座る椅子を、綾香はエマから離した。そして、省吾に文句をいっているらしい女性を、悲しそうに観察する。
「はぁぁぁぁ。ねえ? 堀井兵長?」
「えっ? あ、はい?」
隣の席で固まっていた堀井は、エマに声を掛けられて再起動した。
「貴方、私に気があるでしょ?」
いきなりのエマからの言葉に、堀井は返事も出来ない。そのエマの言葉は外れている訳ではなく、堀井はエマを好みだとは思っていたのだからたちが悪いといえるだろう。
「私には分かるのっ! これでも、結構もてるんだから。でね? 貴方、将来有望そうだし、キープさせてくれない?」
「いっている意味が、よく理解できません」
既に体も満足に支えられないエマは、突っ伏したまま顔だけを堀井に向け、隠す事なく本心を打ち明ける。エマも堀井を悪く思っていないが、省吾の方がまだ好きらしい。
だが、押しても引いても反応しない省吾と、付き合える気がエマはしていない。そんな中で、エマには結婚適齢期を過ぎるまで、自分を選んでくれるかも分からない相手を待つ勇気が無いそうだ。
「ね? 同僚以上恋人未満くらいで、どう?」
嘘をつかれるよりはましだと思いながらも、堀井は眉間を指で皮膚が白くなるほど強くつまんだ。
「ね? いいでしょ?」
「嫌ですよ」
片方の頬をテーブルにつけたままのエマは、片手で堀井の背中を何度も殴打する。
「いいじゃないですかぁぁぁ! ちょっと、くらいぃぃぃ!」
「私のリスクが高すぎますって! 痛っ! ちょっ! 止めてください! ん? あれ?」
エマが寝息を立て始めた事に気が付いた周りの人間は、全力で涙を流して笑い転げた。それが酒を飲んでしまったエマの恒例なのだと、綾香達はローガンから教えられる。
省吾にもその調子で告白した事があり、本気ではないだろうと思われていると、仲間に暴露されたエマは安らかな眠りをむさぼっていた。
「しかし、遅いな……」
笑いのおさまったローガンは、壁にかけられている時計に目を向けた。どうやら、省吾にしてはファントム退治に時間がかかっている事が、気になり始めたようだ。
ローガンの目線に気が付き、綾香も時計に目を向けた。そして、ローガンが省吾の事を気にしているらしい事に、気が付いたようだ。
仕事の邪魔をするべきではないと考え、ローガンが取り出した携帯電話をポケットにしまう。偶然ではあるが、ローガンが携帯電話をしまうと同時に、店の扉が開き省吾が帰ってきた。
「おっ! やっと帰ってきたか。なんだ? お前にしては時間がかかったな」
「まあ、少しありまして」
コートを脱いだ省吾は、エマを見て酒を飲んだのだろうと的確に読み取った。そして、開いている席へと座り、バッグと折りたたんだコートを椅子の下にあるかごへと入れた。
「えと、飲み物どれか分からですよね? 注文します?」
「ああ、そうだな。ありがとう」
綾香から差し出された飲み物のメニューを受け取った省吾は、ソフトドリンクの欄を眺める。
……飲み物もそうだが、食べ物もほとんど残っていないな。注文するか。
そこへ、出来すぎとも思えるタイミングで引き戸を開き、店員が入ってきた。
「あの、すいませ……えっ?」
綾香は店員を見て、目をぱちくりと瞬かせた。その揚げ物らしき料理とジョッキに入ったお茶を持った店員は顔が腫れあがり、手や頬に絆創膏をはりつけているのだ。少し前に注文を取りに来た時、その店員は怪我を負っていなかったのだから、綾香が不思議に思うのは当たり前だろう。
「当店一番人気のかきあげと、ウーロン茶です」
省吾の前に注文してもいない料理を置いた店員は、そのまま料理の事以外何もいわずに厨房へ帰ろうとした。だが、引き戸に手をかけた状態で立ち止まり、肩を震わせて涙声で喋り始めた。
「男と男の約束です。この事は、誰にもいいません。ですが、受けた御恩は、一生忘れません」
出されたウーロン茶に口をつけた省吾は、そちらへ顔を向けず、独り言のように喋り出す。
「必死に貴方をかばおうとした……奥さん? 大事にしてあげて下さい」
省吾の言葉を聞いた男性店員は、消え入りそうな小さな声で返事をして扉を閉めた。
「少し……あったんですね?」
綾香の言葉に、省吾は返事をしない。だが、その場にいたエマ以外の全員が、省吾が何かしたのだろうと分かっている。
……さて、せっかくの好意だ。食べなければ失礼だろうな。頂こう。
新しい割り箸をとった省吾は、フランソア仕込みの箸使いで、かきあげを口に運ぶ。
……ぬう? これは! なるほど、なるほどな。
堀井は、省吾が食べ始めたかきあげをおいしそうだと思えたようで、追加注文をしようとメニューを確認する。
……よしっ! 覚悟を決めろ!
一口だけ食べて動きを止めていた省吾は、そのまま一気にかきあげを口の中に押し込み、噛み砕いていく。
「あっ! まずい!」
メニューを見ていた堀井は、商品名を見て省吾に急いで顔を向けた。
「中尉! それ駄目です! それ、納豆のかきあげです!」
「きゃああっ!」
全てを噛み砕き飲み込んだ省吾は、そのまま机に倒れ込んだ。その省吾は、戦中の瀕死を思わせるほど痙攣し、口から少しだけ泡を噴いていた。
「じゅ……中尉ぃぃぃ!」
「傷は浅いです! しっかり! 衛生へ……ちくしょう!」
安らかに笑顔で眠るエマを見たジェイコブは、つばを床に吐き捨てて、省吾をゆする。
……やめ、やめてくれ。揺らさないでくれ。
一人だけ焦らず椅子に座り、酒を飲んだローガンは溜息をつく。
「なんでもかんでも、真面目に全力を出せばいいってもんじゃないぞ。まったく」
……殺される。発酵食品に。
ヨーロッパで伝説になりつつある少年と対峙した敵の多くは、もうこの世にはいない。そして、生き残り各地に潜伏している敵は、その成長した少年に情けない弱点がある事を知らない。