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名無しのエース  作者: 慎之介
二章
15/82

 カーテンを閉めているようだが、別室にあるコンピュータールームの窓からわずかな光が漏れ出し、真っ暗な廊下に小さな光の点を作っている。草や木すら眠っているのではないかと思える深夜、学園には宿直や特別待機中の限られた人間しかいない。


 職場である別室のロッカーに、省吾はポータブルゲーム機を持ち込んでいる。それは、軍用のコンピューターで遊ぶわけにはいかない省吾が、時間を潰す為に用意した物だ。だが、そのゲーム機は、電池が消耗を始めるほど存在を忘れられている。あり得ない力を持った敵能力者が現れて以降、待機中に遊ぶほどの余裕が省吾を含めた職員達にはないのだ。


「ふぅぅ。出来たぁ」


 コンピューターに向かって資料を作っていた待機中の堀井は、その完成した資料を見直す。そして、印刷指示を受け、省電力モードが解除されたプリンタの前に向かう。堀井が作っていたのは、数日お気に作る報告書ではない。敵の能力者に荒らされた研究所の復旧状況や、増員された特務部隊員の配置に関して、特務部隊員で情報を共有する為に堀井が自主的に作った資料だ。


 その資料を作るだけで、他の部隊員が報告書をより迅速に作成でき、情報伝達の人為的ミスが減る。自分の報告書を早々に作り終え、さらに資料まで作ってしまう堀井に、事務処理能力では省吾も全く歯が立たない。


 一発目の試し刷りで、添削の必要はないと確認を終えた堀井は、コンピューターの画面を見て目を細める省吾に、その資料を持っていく。いくら自分で完璧だと思えても、上司である省吾の承認なしに堀井には勝手な事をする権限がないのだ。


 お互いの邪魔をしない為に、省吾は堀井と一つだけ離れた席でコンピューターを使って報告書を作成していた。その省吾は、目を細めたまま悩んでおり、ついにはキーボードからも手が離れる。


「何か、お手伝いしましょうか?」


 堀井より省吾が報告書作成に時間がかかってしまうのも、その報告書作成中に悩むことがあるのも、変わった事ではない。ただ、腕を組んで目を閉じてしまった上司に、その日の仕事がなくなった堀井は善意から声を掛けただけだ。堀井の作成した資料のチェックは、急ぎではない為、翌日でも問題ない。


「ん? ああ、よかったら意見を聞かせてくれ」


 椅子に座って腕を組んだままの省吾は、堀井が画面を見易い様に上半身を少しだけ捻る。


「学園内に現れた小型ファントムと、研究所資料の破壊に、敵との因果関係ですか」


 画面には年明けから三回ほど出現した、一メートル未満のファントムの事を主として書かれた、報告書が表示されていた。


「そうだ。この推測は、ほぼ俺の勘だ。確証となる証拠や物証も無い。だから、報告するべきかどうかと考えている」


 省吾が作った報告書には、敵がファントムを操った可能性がある為、学園のみに現れる小型のファントムは敵の罠ではないかと書かれていた。


「なるほど、これは十分あり得ますね」


「幸い、生徒に被害者は出ていないが、敵の目的が国連の超能力者を減らす事にあるならば……と、推測を立てたんだがな。やはり、俺の勘でしかないんだ」


 自分の報告書が、司令官達から重要視されやすい事を知っている省吾は、推測のみを書き連ねたそれを出すべきか悩んでいたらしい。かなりの速度で報告書を三回ほど読み直した堀井は、自分なりの結論を省吾に述べた。


「これを……私は出すべきだと思います」


「そうか? しかし……」


 堀井は、その結論に至った理由を、納得していない上官に喋り始めた。


「可能性はまだ低いかもしれませんが、生徒達の命に係わるのですから、早めの進言はするべきだと思います。何よりも、中尉はご自身の勘を、もっと信じるべきです」


 堀井の言葉に、省吾は細めていた目を見開いた。予想外の言葉だったのだろう。


「中尉が予知の力を持っていない事は、私も知っています。ですが、危機察知に関しては、予知を上回る勘を中尉はお持ちになっていると、私は日頃から感じています。いい意味で、それは人間離れしたものです」


 部下からの褒めているらしい言葉に、省吾は一度溜息をついた。そして、一番迷っている部分の説明をする。


「敵能力者の目的が、いくら考えても掴みきれない。その点の情報が、見落としではなく決定的に不足しているとしか思えなくてな。この勘に、上手く理由が付けられない」


 敵の能力者は、国連の超能力者を減らしたいだけだろうと口にしようとした堀井は、その言葉を飲み込んだ。どうやら、省吾と同じ部分に気が付いたらしい。


 その気が付いた事とは、超能力者が一番恐れなければいけないのは、超能力者ではなく一般兵でも扱える兵器なのだ。銃弾を止めたルークも、国連側が被害を恐れずに人海戦術を使えば、倒せてしまうだろう。また、誘い出せたならトラップ等も、効果があったかもしれない。


 国連の被害を最小限に抑え、情報漏えいを防ぐためには、一人でも何とか戦える省吾が必要だ。しかし、後先を考えないのであれば、国連は大々的な能力者狩りを一般兵で行えばいいだけだ。現在、敵の能力者が隠れているのは、通常兵器による罠や物量作戦を恐れての事だろうと、省吾や指令本部も考えている。


「そうですよね。人数が少なく、自分達よりも能力が劣っている超能力者達よりも、軍の兵器開発部門を先に襲うべきだ。それか、本部の武器庫を潰すのも……」


 一度うなずいた省吾が、口を開く。


「超能力を持ち、銃を握った特務部隊員ではなく、生徒達を狙う点も疑問が残る」


 自分の考えにすぐ気が付いた堀井なら思い込みに囚われないだろうと、省吾は報告書にも書いていない推測を口にした。


「生徒から犠牲者を出して、マスコミなどを利用した特区潰しや、生徒達から自分達を脅かすサードに進化する者を出さない為か……。理由が思いつかない訳ではないが、どれもまだ勘でしかないんだ」


 省吾が悩む本当の理由が理解できた堀井は、自分の作った資料を後回しにする。机に資料を置いた堀井は、省吾と同じように椅子に座り腕を組んでいた。進言を恐れてはいけないが、自分自身が納得できない事まで、上へ報告するのは正しいことだとはいい切れないと堀井も考えているのだろう。


 その日二人は、シャワーやベッドがある簡易宿泊室を使わず、コンピュータールームで腕を組んだまま眠ってしまう。どうやら優秀な二人でも、一晩では答えが出せなかったらしい。


「おはようございます」


 省吾が座ったままで寝てしまい、痛みを感じる体をほぐしている頃、彰は宗仁に朝の挨拶をしていた。


「おはよう。神山は今日も早いな……んっ?」


 学園に向かっていた宗仁は、足を止めた。そして、挨拶をしただけで、一緒に歩き出さない彰を不思議そうに見ている。


「どうした? 行かないのか?」


 彰は立ち止ったまま、宗仁に顔を向けず、寮へと続く通学路の先を見つめていた。その理由はいつも通りで、まだ登校してこない綾香を待っているのだ。


「おいって。神山? 寒くないのか?」


「あっ、はい。すんません」


 心配そうに自分へ声をかけてくれた宗仁に、彰は渋々ついていく。そして、二人はいつもの何気ない会話を始める。


「あ、怪我しなくなったんすか? やっぱ、先輩のせいじゃなかったんですってぇ」


「おかげさまでな。大会も終わって、皆も気が抜けていたのかも知れん。これから、少しずつ練習メニューを元に戻す予定だ」


 彰は綾香と登校できない事は嬉しくないようだ。それでも、それを顔に出さず、宗仁を楽しませるような会話が出来るのは彰の才能なのだろう。彰は宗仁に、感謝するべきかもしれない。その日綾香は、男女別になった別室の簡易宿泊室で、眠っていたからだ。


 綾香は本格的に、特務部隊員を目指し始めており、待機中はよくトレーニングに励んでいる。その前日も、省吾達が報告書作成などで忙しいのが分かり、一人でトレーニングをした綾香は横になった簡易宿泊室で眠ってしまったのだ。


 もし、彰がそのまま綾香を待っても、会う事は出来なかっただろう。そして、登校を始めた一般生徒に、取り囲まれていたかもしれない。


「シャワー、お先にどうぞ。生徒の方が、時間に余裕はありますから」


「ありがとございます。では、お先に」


 日頃の堀井は、省吾より起きるのが遅い。だが、その日は増員された特務部隊員を含めた職員が来る為、臨時の早朝会議に出席しなければいけないので、省吾よりも早く準備を済ませる。


「今回の増員には、お知り合いがいるんでしたか?」


 シャワーを浴び終え、髪を乾かしていた堀井は、ドライヤーのスイッチを切り、省吾に顔を向ける。


「ああ」


 一言だけ返事をした裸の省吾は、そのままシャワー室へと入っていく。


「やっぱり、特異体質なのかな?」


 一糸まとわぬ省吾の後姿を見た堀井は、思わずつぶやいていた。怪我が多いはずの省吾だが、ほとんどその傷痕が残っていないのだ。


 超能力者は怪我の痕が一般人よりも残りにくくなると書いてあった、マードックの報告書を堀井は思いだした。しかし、省吾はそのレベルを超えていると感じた堀井は、呆れたように少しだけ息を鼻から吐き出す。


 人間は個性を望みながらも、他人と同じであろうとする矛盾を抱えている。集団の中で一人だけ違う者がいれば、その違いを良く思わない事も少なくない。また、集団の中で自分だけが人と違う場合、思い悩むこともある。


 例として、外見が実年齢よりも異様に若く見える場合、悪い事ではないはずだが、他人が気持ち悪さを感じるのは、集団生活をする人間の性なのかもしれない。その意味でいえば、他人よりも優れている天才も、目立つことでの悩みはあるだろう。


 天才の悩みは、天才にしか分からないという言葉がある。それは、何かが特出した者は、その特出した部分をどうするかで悩むことがあるという意味なのかもしれない。特出した部分が便利だったとしても、他人から奇異な目で見られるのであれば、平凡を目指す場合もあるだろう。


 また、他人に誇れる特出部分を持つ者でも、周りからの期待に潰されてしまう事もある。つまり、天才と呼ばれる者でも幸せになるには、それ相応の努力が必要なのだ。しかし、持たざる者はその部分を理解できない事が多々ある。天才の悩み云々は、そのせいで生まれた言葉なのかもしれない。


 高等部ファーストクラス二年に、持たざる者といえるかもしれない、一人の男子生徒がいた。その彼の名は、李乾隆りけんりゅう。超能力者である乾隆が、何故持たざる者かと言えば、純粋に力が弱いのだ。手を使わずに紙を数センチ浮き上がらせる事の出来る彼は、紛うこと無き超能力者だ。その為、ファーストクラスにいる。


 だが、紙を浮かせ、テレパシーを受信できる以外に、力を持っていない。そんな乾隆は、国連のデータ内でも最弱にカテゴライズされている。もし乾隆が、ファントムに出くわした場合、直接手を触れ、弱いながらもサイコキネシスをぶつければ、ダメージを与える事は可能だ。


 だが、人間よりも素早いファントムを倒す事は、難しいだろう。超能力者の重宝される最もたる理由が、ファントムに対抗出来る事である為、乾隆はあまり周りから特別扱いされていない。八才で能力を発現させた乾隆が、期待されていた期間は一年も無いだろう。本人すら、周りが優しくしてくれた時期をよく覚えていない程だ。


 ファースト能力者は、何かのきっかけでセカンドになれる可能性を持ち、訓練で力を高める事が出来る。乾隆も、PSI学園に来て七年がかりではあるが、一センチも持ち上がらなかった紙を、五センチほど持ち上げられるようになった。


 他の者から見て、微々たる向上でしかないが、それでも連日の努力による立派な成果だ。子孫が超能力者になる可能性も高い乾隆のその成果を、学園側は認めていた。企業での就職が難しければ、国連職員にと誘うほどだ。


 だが、どれだけ努力しても周りの人間は、ファントムと戦えない乾隆を特別扱いはしない。親は、学費が安く済み、就職も安泰だとしか喜んでいない。乾隆の友人達は、自分達が一般生徒やSPであるにも関わらず、彼を超能力者として扱わない。ファーストのクラスメイト達に至っては、虐め等はしないが、戦闘に参加しない乾隆をほぼ相手にしていない。


 乾隆は、卵を思わせる顔の輪郭と、白い肌を持っている。そして、小さな目と鼻、人より膨らんだ唇を持つ、頬にそばかすの多い肥満気味の彼を、女生徒が取り合ったりはしない。超能力者であるにも関わらず、平凡に分類される乾隆は、特別になりたいという願望を常に持っていた。


 冷遇されている訳でもない今の自分に、乾隆自身が納得していないらしい。乾隆は学費をほとんどかけずに学園に通い、ファントムに襲われる事もなく、就職先も安泰である事の意味をよく理解していない。上昇志向自体は悪い事ではないが、人間には分に相応不相応がある以上、もう少し下にも目を向けるべきだったのかもしれない。


 ポケットに両手を入れ、廊下を歩いていた乾隆は、その小さな両目を精一杯見開いていた。そして、職員室から教室に向かう新任の教師を、凝視している。


 その女性教師は、男女問わず安らぎを与える笑顔を保ったまま、乾隆の隣を通り過ぎた。廊下で、立ち止まって新任教師を見ているのは、乾隆だけではなかった為、彼が特別目立っている訳ではない。赴任挨拶と授業をする為に、高等部セカンドクラス一年生の教室に向かっているその女性教師に、生徒達が見惚れる理由が分かる者も多いだろう。


 エマ・リベラというその女性教師は、可愛いのだ。身長も百六十センチ台で、体のどこかに発育不全があるわけではない為、美人と表現する者もいるかもしれない。だが、大よその人間が彼女を見た場合、可愛いと思うだろう。一般人の二倍はあるのではないかと思える目は、茶色い瞳も大きい。そして、適度な丸みのある顔の輪郭や、小ぶりだが形のいい鼻と口も、可愛いと思える原因だろう。


 自然に見えるメイクではなく、本当に薄くで十分な顔を持った彼女は、柔らかく金に近い茶色をした髪を、後頭部にあるヘアアクセサリーで邪魔にならない様にまとめている。胸元にある教科書を両手で抱え、にこにこと笑いながら歩くエマを見て男子生徒だけでなく女子生徒も可愛いと騒いでいた。


 既に高等部セカンド二年生クラスに挨拶を済ませているエマの情報を、仲のいい先輩から聞いたケビン達は教室で目を輝かせていた。声が可愛いく優しいと聞いていたリア達女子生徒も、生活の新しい刺激になるかも知れないと期待して、エマの到着を待っているようだ。


……他人の趣味趣向は尊重するもので、否定してはいけない。だが、いや、でも、しかし。


 高等部セカンドクラス一年生の教室で、顔をしかめているのは省吾一人だけだった。その省吾は他の生徒のように、新任の教師について考えているのではない。別室で食べた朝食を思いだし、顔を渋くしているのだ。


……他の人に意見を無理に押し付けてはいけないと、先生もいっていた。しかし、いや、でも、ただ、いや、まあ、でも。


 省吾がいつものように真面目に考えているのは、納豆の事だ。納豆は、綾香の好物だったのだ。


……彼女は、あんな物を何故食べられるんだ?


 別室から地下通路で繋がっている、学園に隣接された軍拠点には、職員や兵士用のストアが設けられている。省吾達は、そこでそれぞれ好みの朝食を買い、別室に戻って食べたのだ。その時、綾香は好物である納豆を二パック食べた。


 普通の日本人にとっては、何の変哲もない光景に、省吾はカルチャーショックをうけたらしい。省吾は、自分が苦手な物を笑顔で頬張る綾香の姿が脳裏に焼き付き、その映像と今も戦っているのだ。


……あれを、好んで食べる理由が分からん。財布の中身を消費して、手に入れるなど論外だ。いや、でも、いやぁ、でも。


 綾香は自分が納豆を食べた事で、意中の男性に微妙な好感度の変化があった事を知らない。そして、省吾も他人が見ていて、気持ち悪くなるほどポテトを食べる事で、綾香が顔をしかめていた事に気が付かなかった。


 食事の好みは、人間関係にも影響を与える場合がある。育った環境の違いから食文化が大きく違う二人の未来に、それがどう影響するのか今は誰も分からない。


「井上君? 井上省吾君?」


「うん? ……はい」


 自分の席で俯いていた省吾を、教室で挨拶をしていたエマが呼んだ。


「悩み事ですかぁ? ふふっ、悪い事じゃありませんが、先生の初めての挨拶なので、少し中断して貰っていいですかねぇ?」


 笑顔を崩さないエマは、両掌を祈るように顔の前で合わせ、省吾に優しく指示ではなくお願いをした。彰の怒りがこもった視線を感じながらも、省吾はそちらへ目を向けない。


「すみません」


「いえいえ、ありがとうございます。えっと、どこまで喋りましたっけ? ええと、そうそう……」


 座ったまま頭を下げた省吾を見て、エマは逆に感謝の言葉を述べ、挨拶を再開した。


「先生、実はこう見えても、資格はいっぱい持ってます。音楽や美術だけじゃなく……」


 エマを見て、男子生徒の幾人かは胸を高鳴らせ、女子生徒も優しく明るい雰囲気に好感を抱いたようだ。教室内でエマの笑顔につられていないのは、また省吾だけで、ぼんやりと新任教師からの挨拶を聞いている。そして、少しだけ不安になり省吾を見た綾香は、胸を撫で下ろしていた。


 しかし、午前中最後となったエマの授業が終わり、綾香は動揺する事になった。授業終了後すぐ教室でパンをかじり始めた省吾に、エマが話しかけている姿を見たからだ。教師が生徒に喋りかけるのは、何ら不思議な光景ではない。だが、省吾の細かい部分まで気になっている綾香には、それが小さな事とは思えないらしい。


 綾香は、食堂で待ってくれているらしいファーストクラスの友達に、少し遅れるとメールを送った。そして、廊下の柱に隠れて二人の様子をうかがう。会話が聞こえない為にやきもきしていた綾香は、エマが教室を出ると同時に忘れ物を取りに来たふりをして、教室内に入った。その教室には、雑誌を読みながらパンを食べる省吾しかいない。


「あの、井上君? リベラ先生と何かあったのですか?」


 そのまま教室を出ることが出来なかった綾香は、作り笑顔が少し歪んでいた。もしかすると彼女は、嫉妬しているのかもしれない。


「いや、特に」


「でっ、でも、何か喋ってたように見えたんですよ。あ、偶然ですけど」


 省吾は、雑誌から綾香へ視線の先を変える。


「個人的に、挨拶をしてくれただけだ。彼女は、俺の部下だからな。特に変わった事はないぞ」


 学園の職員や教師に、軍関係者が配属される事が多いのは、綾香も知っている。そして、軍関係者ならば、省吾の知り合いがいても変ではないとも、よく分かっているようだ。


「あ……ああ、そうでしたか。先程の挨拶の件で、怒られたかもと、少し心配してしまいました」


 綾香は自分でも苦しいと思いながら、取り繕うように言い訳をしていた。その言葉を省吾は疑わないが、余計な言葉で返してしまう。


「それで、廊下から見ててくれたのか。すまないな」


 省吾からの純粋な礼と、気付かれていた事実で、綾香の顔が真っ赤に変色する。


「はひっ? おっ……お気づきでしたか?」


……また、変な顔だな。高梨さんは、こんな人だったか?


 綾香は省吾にしか見せないであろう、顔の歪みを見せていた。その顔の理由について、その時の省吾はあまり指摘するべきではないだろうと優しさから考え、話をそらす為に質問を質問で返した。


「あれだけ、強い視線なら俺は察知出来るが……どうかしたのか?」


 真っ赤な顔で少しだけ涙をにじませた綾香は、無言で食堂に向かって走り出していた。その綾香を、省吾は見送ることしか出来ない。


……俺に失礼な部分があったのか? どこだ? 彼女の機嫌は、損ねたくないんだがな。


 空気を読めない訳でもなく、恋愛に関して知識もある省吾だが、経験不足のせいかそれは完璧とはいえないもののようだ。


 飛行機の便が遅れた事により、エマは学園への到着が大幅に遅れた。それにより省吾への挨拶が遅れ、綾香が恥をかく羽目になったのだが、その事をエマは知らない。


「中尉……中尉っと、ふふっ」


 赴任してきた他の者同様に、昔のまま省吾を准尉と呼んでしまったエマは、注意された。その事で、省吾が昔と変わらないのだと感じて、嬉しいとエマは思っているようだ。明るく笑う彼女は、次は呼び間違えないにと考えたのか、中尉という言葉を自分にすり込む様に呟きながら職員室へと向かっている。


 そのエマは、背後からの視線に注意を払っていない。通り過ぎる生徒が見慣れないエマを眺めている事が多く、常に視線を注がれているので気にしていられないのだろう。


「あ、リベラ先生。お疲れ様です。食堂にご案内します」


「あらぁ、ありがとうございますぅ」


 職員室の前で、学園の食堂に連れて行く為にエマを待っていた堀井は、いつもより顔が緩んでいる。その表情を見て、ただ単に新任の同僚に優しくしようとしているだけともとれるが、エマが堀井の好みである可能性も捨てきれないだろう。


「ここで、お待ちしていますので、荷物を置いて来てください」


「はぁぁい」


 明るく笑いながら堀井と食堂へ向かうエマを、一人の男子生徒が見つめ続けていた。その生徒とは乾隆だ。瞬きを忘れるほどエマのある一点を見つめた乾隆は、その視線こそが自分と女生徒とを隔てる壁になっているとは気付いていないらしい。


 乾隆が見つめているのは、ヒールを履いた女性特有の歩き方で、左右に揺れる臀部だ。異性の胸や臀部へ男性が視線を送ってしまうのは、思春期的にも生物的にもおかしなことではない。それは男性だけに限られた事ではなく、女性も異性の筋肉や指等の魅力を感じる部分に着目する場合があり、全く興味を示さない省吾よりも乾隆は人間味があるといえるだろう。


 また、健康な男子生徒として、魅力的な女性教師に一目ぼれをし、淡い思いを抱くのは珍しい事では無いはずだ。だが、乾隆の態度が人間として正しいかと聞かれれば、疑問が残る部分がある。彼は話し掛けもせずに、好みの女性を凝視してしまう癖があるのだ。


 その根源となっているのは、内向的で自分に自信が無いにも関わらずプライドが高い、乾隆の性格だ。思春期に入り、異性を意識してしまってから、変に思われたり、格好悪いと思われたり等々が嫌になった乾隆は、女性とほとんど喋らなくなった。しかし、成長していく心と体に伴って、異性への興味はどんどん彼の中で、膨らみ続けた。その結果、女性を凝視してしまう癖が出来てしまったのだ。


 黙って見つめられれば、女性だけでなく男性もいい気分がしない事が多いだろう。その事を乾隆は今一つ理解しておらず、さらに女性との溝を深め、もやもやした気持ちを膨らませていた。ただ、その乾隆の行動に下心はあっても、今の所ではあるが黒い感情はない。


 エマが特別魅力的で、少し後をついて行ってしまったが、女性を付け回す等の犯罪に直結するような事を日頃の乾隆は絶対にしない。無駄になる事の多いプライドの高さも、乾隆にとってはいい意味で役に立っているらしい。


「くそっ……なんでだよ……」


 ポケットに両手をつっこんだ乾隆の顔は、幾本もしわが入り、怒りに歪む。女性に対してはいい方向に作用している乾隆のプライドだが、ある人物に対しては悪い方向に働いているのだ。そのある人物とは、同郷で昔から知り合いの宗仁だ。


 乾隆は宗仁を、一方的にライバル視している。日本特区に来る前の故郷で、乾隆と宗仁は偶然同じ小学校に通っていた。内気だった乾隆は、そのころから活発だった宗仁とは顔見知りではあるが友達未満の関係だった。超能力を乾隆が発現させ、二人は一時別の学校にかよった。しかし、父親が長期予定の特区勤務となり宗仁が乾隆の後を追う形で、PSI学園に編入し、二人は再開したのだ。


 編入してほとんど友達を作れなかった乾隆は、知り合いでしかなかった宗仁に嬉しさのあまり自分から喋りかけ、友達になっていた。二人にとっては、その頃の関係が一番望ましかったのかもしれない。


 明るくみんなの中心となる事が多かったリーダー気質の宗仁を、乾隆は何時しか快く思わなくなっていた。その原因は、親友だと乾隆が思うのに対して、明るくい誰でも受け入れる性格の宗仁は、同郷の友達としてしか相手を扱わなかったからだ。


 乾隆の感情には、宗仁を疎ましく思うだけでなく、自分も宗仁のようになりたいという憧れが混ざっていた。その為、中学生に上がるまでは乾隆側から宗仁と距離を置くことが出来なかった。そんな乾隆は自分のプライドを保つ為、宗仁と自分の間にある決定的な差を、むりやり見つけ出した。それが、当時の宗仁が発現させていなかった超能力であり、乾隆が超能力の訓練に人一倍励んだのは、宗仁に対して優位性を広げたかったからなのだ。


 自分はスポーツや勉強では負けているが、超能力では負けていないのだから、立場は対等なのだと小学生だった乾隆は宗仁を、生涯のライバルだと勝手に心の中で決めた。宗仁に対して乾隆は、事あるごとに突っかかり、意見を否定して、嫌味をいう。いつしか宗仁にとって乾隆は、同郷の好ましくない友人になっていった。それを切っ掛けに、二人はほとんど喋らなくなる。


 宗仁側から見れば、当然の事だった。そして、中学生になると同時にファーストの力を発現させ、三年生になればセカンドにまで成長してしまった宗仁を見て、乾隆も喋りかけたいとは思わないだろう。


「なんで、あの人はファーストに来てくれないんだろう……」


 食堂の隅で一人食事をとる乾隆は、エマがセカンドのクラスのみしか担当しない事を誰かから聞いたらしく、薄い眉毛を悲しそうに歪ませる。エマは特務部隊員であり、セカンドの生徒保護が主目的だと、乾隆は知らない。


「また、あいつだけ……不公平だ……こんなの間違ってる」


 乾隆の中で、怒りと悲しみはすべて宗仁に向かう。その事が、あるよくない偶然を生み出すとは、その時の乾隆は分かっていなかった。同郷で同い年の、見た目も大差がないと思っている宗仁を、乾隆は運が良いだけだと心の中でなじり、何とか自分のプライドを保つ作業を一人で続けた。


 省吾の様な誰彼かまわず嫌われるのは論外だが、親友だった男性と溝の出来た乾隆も乾隆なりに苦しんでいるのだろう。食事を終えてもテーブルに突っ伏したまま、乾隆は悔しそうに目蓋を強く閉じている。


「ちょっ、どうしたのよ?」


 同じ食堂で、乾隆と同じように机に突っ伏した綾香は、乾隆とは違って友達から気を使われていた。


「もう……死にたいです……」


「ちょっとぉ! 何があったのよ!」


 日頃、ネガティブな発言すら少ない綾香の落ち込み様に、友人達は本当に心配しているようだ。おろおろとして、ポケットから甘いものを差し出すなど、精一杯の気を使っている。


「純粋なのはいいです。でも、純粋すぎるのって……優しさが……痛い……」


「訳が分からないわよ! しっかりして、綾香ぁぁ」


 食器の戻し方をエマに説明する堀井は綾香のその光景を見て、友人達との和やかな戯れだとしか思っていない。そして、綾香の落ち込む原因を作った省吾は、それよりも自分にとって大事な問題で頭がいっぱいになっていた。


……新シリーズのボックス販売は、まだかなり先だな。個別購入も検討するべきか? しかし、ボックスの二度と手に入らない限定特典と、ボックスケースは捨てがたい。


 同じ映像ディスクを二枚買う選択を、合理的な事を好む省吾は選べないようだ。


「ふぅ、要検討だな……」


……ぬう! この雑誌を毎号買えば、他では手に入らないフィギュアが完成するだと?


 趣味の雑誌を読む省吾が、ある会社の商法にことごとく引っかかりそうな頃、何とかそれぞれの悩みに踏ん切りをつけた乾隆と綾香が、カウンターに食器を返却する。


 悩みの度合いや、内容は全く違うが、三者三様の価値観や思うところがあり、それぞれが自分の悩みに自分なりに取り組む。


……それも、創刊号がこの値段か。これは、買いだな。


 ただ、一番悩みが軽い男性には、誰かがやめろとはっきりいった方がいいだろう。


……買いそびれても、取り寄せ可能なのか。なるほど。これは、調べる価値がある。


 彼は、ある一つの物事だけには、馬鹿真面目ではなく、ただの馬鹿になる傾向があるからだ。

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