参
始業式を終えた数日後、寮から学園へ向かうアスファルトで出来た通学路の水たまりは、氷に変わっていた。前日の雨で出来たその水たまりが、夜の間に冷やされ、固まったのだろう。
朝もやに太陽の光が反射し、学園に向かっている彰が目を細めている。そして、道に出来た氷をわざと割る為に、片足に体重をかけた。
「くそっ……」
ほぼすべての水分が固形に変わっていたその水たまりは、彰が踏みつけても白いひびが走るだけで、割れなかった。気持ちよく氷を踏み割れると思っていた彰は、あまり気分が良く無いようだ。
彰は、時間に余裕がある為、その氷が完全に割れるまで二度、三度と、気が済むまで踏みつけた。学園で常に格好をつけている彰とは印象が違うように見えるが、子供心も残った高校生として見れば変わった点はないだろう。
早朝で通学路にほぼ誰もいない為、包み隠さない自分を出している彰を、かわいいと思える異性もいるかもしれない。
「はぁぁ……寒っ」
元々学園に来る前までの彰は、それほど早起きではなかった。どちらかといえば、遅刻ぎりぎりに家を出る事の方が多かった程だ。しかし、注目され過ぎる登校が嫌で、早く寮を出る事が多くなった。そして、早く登校すれば、綾香と二人の時間が出来ると分かり、現在はその時間の為に早起きしている。
主目的が変わった彰は、歩道と車道を分けるポールに座り、寒そうに白い息を吐きながらほぼ毎日綾香を待っている。彰が綾香の姿を見ると同時にゆっくりと歩きだせば、綾香側が追いついて彰に挨拶をする。それが彰には、朝の楽しみになっているようだ。
「んっ?」
遠目で綾香を確認した彰は、立ち上がりながらいつもと違う点に気が付いた。その日綾香は一人ではなく、男性と会話をしながら学園に向かっていたのだ。綾香が笑顔で喋っている相手が気になった彰は、歩き出さずに自分がいる方向へ進んできた二人を見つめる。そして、挨拶をした。
「おはようございます」
挨拶をされた男子生徒は、綾香との会話を中断して彰に顔を向けた。その顔は、爽やかな笑顔だった。
「うん? おお、神山か。おはよう」
「おはようございます。神山君」
綾香と会話をしていたのは、高等部セカンドクラス二年の郭宗仁だ。そのクラスの代表的な存在である宗仁は、後輩からも慕われている。
「先輩。今日は早いんですね」
「高梨にもいわれたが、いつもとほとんど変わらないぞ。今日は朝練が無いから、遅いぐらいだ」
クラス委員でもない宗仁だが、クラスの代表的な存在である理由はいくつかある。身長はさほど高くないがバスケット部の主将をしており、超能力や勉学でも優秀な成績を収めているのだ。そして、日本特区司令官の一番下の子供でもあり、父親から仕込まれた体術は、学園で右に出る者はいないと噂されている。実際に、学生としてはかなりレベルの高い彰が本気を出しても、宗仁にはかなわなかった程だ。
超が付くほどのサラブレッドである宗仁だが、その事を鼻にかけたりはしない。また、父親からの遺伝による凛々しい眉と顔つきだけでなく、母親から受け継いだ大きな目と形のいい鼻を持つ。その宗仁は、外見だけでも異性を惹きつける材料が生まれつきそろっている。
「えっ? マジっすか?」
「ああ。練習量を減らしたんだが……な。俺がキャプテンになってから、怪我人が立て続けに出てな。そこからさらに、練習を減らしたんだ」
宗仁を好意的に見ている彰は、本気で心配そうな顔をしていた。
「先輩が悪くはないでしょう。多分冬って、体が硬くなるから、怪我しやすいだけですって」
「先生達も、そういってくれてるけどな。でも、三年生が引退してそんなに日もたってないし、無茶はしたくないんだよ」
二人の隣を歩く綾香は話を軽く聞き流しながら、ある事を考えていた。そのある事とは、仕事の為に学校を休んでいる省吾についてだ。
宗仁の身体能力が高いのは綾香もよく知っているが、本気の省吾と勝負すればどうなるだろうと考えているらしい。ただ、宗仁が敵にでもならなければ、優しい省吾は本気を出さないだろうとも分かっているようだ。
「そういえば、神山は部活は入らないのか?」
「俺は、群れるの嫌いなんで、帰宅部が性に合ってるんですよ」
食事に必ず誰か友達を誘う彰の発言に、綾香は矛盾を感じた。しかし、作り笑顔は崩さない。
「そうか。で? 高梨は?」
彰の発言について細かく考えない宗仁は、何気なく綾香に質問先を変える。問いかけられた綾香は、宗仁に仕事の事を教える訳にもいかない為、適当に誤魔化した。
……あれ? もしかして、徹夜か?
綾香達が学園につく頃、敵武装兵力との戦闘を終了し、国連本部へ来ていた省吾はコリントにつかまった。
日本との時差が六時間以上ある為、国連本部はまだ夜中だ。フランソアが本部に出てくるまで、ソファーを借りて仮眠をとるはずだった省吾の予定が狂う。
「おおっ、坊主ぅ。たまには徹夜のご褒美を、神様も用意してくれるんだなぁ。会いたかったぞぉ」
「直に会うのは、いつ以来でしょうか。ご無沙汰しております。事務次官」
省吾は両手を広げて自分に近づいてくるコリントに敬礼をした後、ハグを受け入れる。省吾を少し強めに抱きしめたコリントは、本当に嬉しそうに笑っていた。
「どうしたんだ? 仕事か?」
「はい。先程、終了しました」
コリントにはわざわざ省吾の呼びだされる仕事が、危険な任務だったのだろうと推測出来たらしい。目を細めて、何度もうなずいている。
「わりぃなぁ。助かってるぜぇ。で? いつまでこっちにいるんだ?」
「先程終わったところなので、飛行機の便を押さえていません。生憎、日本特区へ向かう専用機も今日は出ないようでして……」
……ん? なんだ?
コリントのぎょろりとした目が怪しく光り、何か思いついた事を省吾に教えた。
「なら、俺が手配してやる。その代り、ちょっと昼間の時間を俺によこせ」
「はい?」
肥満気味の大きなおなかを締め付けていたベルトを緩め、目立つ大きな鷲鼻を指で掻いたコリントは、省吾の予想しなかった依頼をした。
「この間いった……。うちの孫娘に会ってくれねぇか? 器量は、まあまあってところだが、可愛げがある奴でなぁ」
……ああ。あれ、本気だったのか。
省吾は、照れくさそうに毛がなくなっている頭頂部を撫でるコリントの仕草が、ローガンと似ていると一時的な現実逃避をする。お見合い的な事を、省吾はあまりしたくないようだが、事務次官からの依頼は簡単に断れないだろう。
「一番高いチケット準備してやっから。な?」
「は……はぁ」
「よしっ! 決まりだ! 服の準備も俺がしてやるからなっ」
省吾の顔色を分かっていながら無視するコリントは、深夜にもかかわらず携帯電話で部下を起こした。そして、そのまま縁談的なものの準備を進める。
……夜中なのに。事務次官の部下も、大変そうだな。
「どうせまた、ロビーで寝るつもりだろう?」
「あっ、はい」
携帯電話で喋っている相手を待たせたコリントは嬉しさからなのか、ハイテンションでホテルを準備するように部下へと指示する。
「迎えの車が、五分ほどで来る。しっかり寝て、上手くやってくれよ。モーニングコールと迎えも、こっちで用意しておくからなっ」
省吾の肩を力強く何度も叩いたコリントは、そのまま携帯電話で部下と会話を続けながら、自分の部屋へと帰って行った。
……なるほど。拒否権なしか。
それからしばらくして、省吾は本部の前まで迎えに来た、ホテルの従業員が運転する高級車に乗る。省吾は、夜中に無理をさせられたらしいその従業員を思いやるほど余裕が心にない。
……ああぁぁ。どうしよう。
戦闘により汚れた軍のボディアーマーを着て、頭を抱える後部座席の省吾を、ホテルの従業員は無言でバックミラー越しに覗いていた。その目をぱちくりさせている従業員には、状況を理解する事は不可能だろう。
……先生に連絡して、いや、でもなぁ。
「はぁぁぁぁ」
下準備を全て済まされ、逃げ場のなくなった省吾はなんの策も思いつかない。
……超能力者的には、超能力者同士で結婚しないといけないんだけどなぁ。
「はぁぁあっ」
コリントが用意したホテルの、最上級の部屋で省吾はシャワーを浴びた。体を軽くタオルで拭いた後、バスルームにあったガウンを着た省吾は、仕方なく思考を停止してベッドへ横になる。
想像以上に柔らかく寝心地のいいベッドは、省吾を深い眠りへと誘った。そして、太陽が昇り、夢を見ない程熟睡している省吾を起こすために、コリントの部下が部屋に許可なく入る。
「よおおぉぉう! エース! とっとと起きやがれぇ……うおうっ!」
チンピラやマフィアの類にしか見えない、サングラスをかけたリーゼントの白人男性は、昔からコリントの部下であり、省吾とも面識がある。その白人男性は、省吾の寝ているであろうベッドの掛布団を勢いよくめくる。そして、掛布団を離すと同時に、両手を精一杯上げて自分が無害であることを見せた。
「勝手に入ったのは、謝るってぇ。銃を下してくれよぉ」
部屋の鍵が開く音を聞いた省吾は、素早くベッドから出てかぶっていた布団に枕を差し込んでふくらみを残す。そして、ベッド脇に相手から見えないように隠れ、銃を構えていたのだ。
「はぁぁ。せめてノックしてください。最悪、引き金を引いてしまいます」
「おうおう、戦争終わったってのに、相変わらずだなぁ。まあ、いいや。ボスからの依頼で、スタイリスト達連れてきたぞぉ」
……ああ、そうだった。
「ほれぇ! シャワー浴びて来い! 飲み物は俺が取ってきてやっからよ!」
部下であるその男に抗議するわけにもいかない省吾は、力なくバスルームへと向かった。そして、準備を終えた省吾は、コリントの用意した正装へと服装が変わっていた。省吾は、軍の制服なら着慣れている。だが、コリントの用意したブランド物のスーツはどうもしっくりきていないようで、眉間にしわを寄せたままになっている。
「ばっちりぃ! やっぱ、男前はなんでも着こなすなぁ! じゃあ、いくぞぉ!」
「とても、似合ってるとは思えませんが……」
ホテルの姿見には、スーツの上に白いロングコートとマフラーを首にかけた、オールバックの省吾が映る。
……どことなく、昔のマフィアっぽいよなぁ。
「似合ってるってぇぇ。俺が女なら、惚れるねっ!」
無責任が服を着たコリントの部下に、意見を求めるだけ無駄だろうと考えた省吾は、口をつぐんだ。そして、滑稽な自分の姿を見て、大きなため息をつく。
「なんだよぉ、元気出せってぇ。ボスの命令は、絶対だぜぇ?」
……仕方ない。会うだけ会おう。
荷物をバッグに詰め込んだ省吾は、上機嫌でステップを踏みながら部屋を出ていく男性に続く。精算を手早く済ませたコリントの部下に連れられた省吾は、ホテルの前にどうどうと止まっていた悪趣味にカスタマイズされた高級車の後部座席に乗る。
「これが頼まれてた、飛行機のチケットだ。んで? どうよ? 日本は?」
省吾の隣に乗り込んできたコリントの部下は、不機嫌な省吾に気を使ったのかチケットを渡し終えると世間話を始める。
「どうといわれても、仕事ですから……」
「相変わらず、かてぇぇなぁ。日本は、イギリスより飯は美味いだろぅ? スシって変な響きの料理は、もう食ったかぁ?」
省吾も隣にいる人物からの気遣いは分かっており、悪意が無いとよく知っている。そして、ちらりと車内でも外さない男性のサングラスに目を向けた。そのサングラスの奥にある右目は、義眼だと省吾は知っている。
省吾の隣に座る人物は、軽い性格だ。だが、一生を尽くすと決めたコリントの為に、自分の体を銃弾の盾に出来るだけの強さがある。同じ現場でフランソアの盾になっていた省吾は、戦友といえなくもない隣に座った人物の気遣いに、少しだけ険しい顔を緩めた。
「日本食は、あまり好きじゃないです。たまに、フィッシュアンドチップスが、無性に恋しくなりますね」
「日本食の良さがわかんねぇとは、まだまだだなぁ。俺も食った事ねぇけど」
お互いの近状報告をしていると、省吾が泊まったのとは別の高級ホテルに車が到着した。スイートルームに、国の代表や大物芸能人が泊まるそのホテルは、一階から見上げると首が痛くなるほどの高さがある。
「ここの十階で、ボスがお待ちだ」
「あれ? 来ないんですか?」
車に乗って帰ろうとするコリントの部下を、省吾は引き留めようとした。顔には出していないが、高級な場所でのお見合い的な事に、省吾は多少の緊張をしているらしい。
「ボスの御用聞きは、年中忙しいんだよ。まあ、楽しんで来いってぇ。またなぁ」
知り合いがいてほしいと考えた省吾の気持ちを、くみ取る気もないコリントの部下は、動き始めた車の窓から手だけを出して軽く振る。
……十階、行くか。
「坊主ぅ! 似合ってるじゃねぇか! 待ってたぜぇ」
……ああ、やっぱり。この服は事務次官の趣味か。
レストランの入り口で待っていたコリントは、何時も通り省吾をハグで迎えた。そして、満面の笑みで省吾の背中に手を添え、目的の席へと省吾を誘導する。
「フランソアには、断ってあるからな。頑張れってよ」
……えっ? 最終カードまで、抑えられた?
コリントの周到ぶりに、省吾の額から冷たい汗が流れる。にやりと笑ったコリントに悪意はないのだが、省吾にその顔はよく思えるはずもないだろう。
「こいつが、末の孫娘の一人で、エリーヌだ。他の二人にも会わせたかったんだが、今日は生憎こいつしか余裕がなくてなぁ」
テーブルで大人しく座っていたエリーヌは、黒に近い茶色の髪と鷲鼻でコリントの血族だとすぐに分かる。そのエリーヌは丸い顔の輪郭と、どんぐりの様なつぶらな瞳を持ち、少しだけふくよかな体形をしていた。エリーヌは丸顔であり、顎が二段になっている。しかし、コリントのいう通り美人ではないかもしれないが、可愛げのある普通の女性だ。
「エリーヌです。よろしくお願いします」
「あっ、井上省吾です。初めまして」
わざわざ立ち上がって、自分に挨拶をしたエリーヌへ省吾も急いで挨拶を返した。それを満足そうに見ていたコリントは、省吾のアピールを孫娘に始めた。
「こいつは、優秀な奴でなぁ。性格も良いし、国連にいるから将来も安定してる。見た目もこの通り、悪くないだろ?」
「はい、おじい様。素敵な方ですね」
孫娘の笑顔を見て満足したらしいコリントは、仕事を抜け出してきていたようで、省吾に結果を連絡しろというとすぐにレストランを後にした。
……さて、どうしたものか。
エリーヌの正面に座った省吾は、グラスに入った水を一口飲む。そして、コリントの前で猫をかぶっていたエリーヌの本性を知る。
「ああ、えっと。これから、食事が出てくるんですかね?」
精一杯の引きつった笑顔を作った省吾に、先程までの笑顔が消えたエリーヌは顔を向けない。
「ああ、あたしがキャンセルしておいた。あんたなんかと、食事なんて楽しくないでしょうしねぇ」
……うん?
ある意味で潔いエリーヌは省吾に顔を向けず、本心を打ち明ける。
「今日は、おじい様には逆らえないから来ただけ。あたし、東洋人って生理的に駄目なのよ」
省吾に顔を向けないエリーヌは、その言葉で相手の顔が緩んだ事を知らない。
「ただ、あんたから断った事にしてよね。いい? 間違っても、あたしがおじい様に逆らったなんて、いったら酷いからね?」
エリーヌに睨まれた省吾は、下げてしまっていた目尻を急いで持ち上げた。
……なるほど。助かったらしいな。
「じゃあね。ださい東洋人さん」
エリーヌは、食事をキャンセルした事で出た差額をレストランから受け取り、その場からさっさといなくなった。
「あっ、ちょっといいですか?」
女性に逃げられたのだろうと、店員に憐れみの目を向けられている省吾の瞳には、いつもの強さが戻っていた。それをいぶかしく思いながらも、店員は省吾に近付く。
「すぐ出て行くので、トイレを借りても?」
「あ、ああ、どうぞ。ご自由に」
バッグを持った省吾は、晴れやかな顔のままトイレへと向かう。そして、髪の整髪料を洗面台で洗い流し、トイレの個室で自分の用意した服に着替える。
……事務次官に連絡するのは少し気が重いけど、なるようになるだろう。
省吾が身に着けていたスーツの上下は、軍用である襟の無い防寒シャツとデニムパンツに変わり、エナメルの靴は底の分厚いブーツに履き替えられた。
……このスーツは、どうしよう。高そうだし、返すか。
最後にダウンジャケットを羽織った省吾は、コリントからの服と靴をビニール袋に詰めて、トイレの個室から出た。
「ありがとう」
礼をいって店を出る省吾を、店員が見つめる。その顔は先程の時代錯誤な格好よりも、今の服なら振られなかったのではないかといいたげだった。
……時間の余裕が、かなり出来たな。
レストランから出てきたはずの省吾だが、とある理由で空腹を感じていた。そして、国連本部へ徒歩で向かう道すがら、店を探す。
石畳を歩く省吾は、ヨーロッパの煉瓦で出来た古い建物や、時折鼻に届くすえた臭いに、懐かしさを感じているようだ。ホテルのレストランで、しかめられていた省吾の顔が、今は自然で穏やかなものに変わっている。
国連の本部があるその町も、災害と戦争の影響は受けている。地面は石畳やアスファルトがデザイン的にも機能的にも意味なく混在し、煉瓦で出来た古い建物の隣に近代的なビルが隣接している場所も少なくない。全世界の首都的なその町は、美観を考えての再開発が進められない程、所狭しとさまざまな建物が乱立し、人々の活気で満ち溢れていた。
「一つ下さい」
カラフルな野菜や肉を売る露店が並んだ通りで、省吾は買い物をした。その省吾が購入したフィッシュアンドチップスは、イギリスとは少し違う味付けだった。だが、歩きながらそれを食べる省吾の目は、とても満足そうだ。また恩人であるイギリス人男性の事でも、思い出しているのかもしれない。
「あら? えっ? あれは……」
「おいおい。あの黒髪」
人の波を苦も無く、するすると通り抜けている省吾を、いくつかの視線が追いかける。その目からは、学園で省吾へ向けられる蔑み等の、悪い感情は読み取れない。
省吾を見た一人の男性が、ついに自分の露店をそのままに走り出した。そして、人ごみに消えそうな省吾を追いかける。その男性につられるように、何人かの店主や通行人達も走り出していた。省吾を追いかけようとした者達には、歓喜や驚きといった感情が入り混じっているようだ。
しかし、追跡者達を多くの通行人が妨害した。その者達は、省吾のようにうまく人の波をかき分けては、進めないらしい。省吾は視線には気が付いているようだが、立ち止まりはしない。ただ、食事を続けながら、国連本部の建物を目指す。
「へいっ! へいっ!」
遠ざかっていく省吾の背中を見て、追いかけていた一人の男性が、ついに手を挙げて大きな声を出した。だが、その男性は省吾の名前を知らない。その為、省吾を特定する名詞を自分で考えるしかなかった。
「待ってくれよ! 俺達の英雄! 俺は……俺達は、礼がいいたいだけだ!」
視界から省吾が消えると、追跡者達はがっくりと肩を落として、自分の露店等の元いた場所へと戻っていく。ヨーロッパで戦い続けた省吾の名を知らない者は多くても、命を救われた者達は少なくないのだろう。
「おい、さっきの……」
「ああ。俺が、命の恩人を見間違うはずがない。ぼろぼろになりながら、俺達を守ってくれたあの少年だったよ」
本当に悲しそうな顔をした露店の店主である男性は、ペットボトルに入った水を一気に飲みほした。そして、血塗れになりながらもアサルトライフルとナイフだけで、敵を追い返した名の無かった少年兵を思い出す。
「やっぱり、あの子なのかい? 生きてたんだねぇ。よかった……よかったよう……」
男性とは別の露店を開いていた恰幅のいい女性が男性の話を聞き、店の前で泣き崩れる。その女性だけでなく、幾人もの人間が目に涙をためていた。戦争中には、人々の希望とする為に、国連の情報により作られた英雄達がいた。省吾と同様に、特務部隊員でセカンドの能力を持つ男性も、その一人だ。
だが、激戦地の渦中で苦しんだ人々は、連日新聞やテレビで取り上げられ、民衆が敬う英雄達よりも、英雄と呼ぶべき人間がいた事を知っているのかもしれない。
「あら? エースくん? どうしたの?」
国連本部へこそこそと入った省吾は、顔見知りである事務官に近付いた。そして、頼みごとをする。
「すみません。これを、コリント事務次官に届けてくれますか? あ、出来れば、夕方過ぎに」
「あらぁ? 自分で持って行かないのは、訳有り? お姉さんには、喋ってくれるのよね?」
含みのある笑みを浮かべるだけで、スーツの入った袋を受け取ってくれない事務官に、省吾は仕方なくいきさつを喋った。
「あらあら、そのお孫さんは、見る目ないわねぇ」
その細身で中年に差し掛かった年齢の黒人女性は、省吾にコーヒーを差し出しながら笑う。ホットだったコーヒーにわざわざ氷を入れた所を見ると、その女性事務官が省吾の事をよく知っているのだろうと分かる。
「東洋人が生理的に駄目だといってましたから、悪気はないんじゃないですか」
エリーヌからの悪意をいっさい分かっていない省吾に、女性の事務官は呆れたように溜息をついた。だが、コリントの孫を悪くいうわけにはいかず、説明はしない。
……なんだ?
事務官達の部屋で隠れるようにコーヒーを飲んでいた省吾は、部屋の外が騒がしくなった事に気が付いた。
「例の英雄部隊が、ご帰還なのよ。取材陣が詰めかけてるわ」
大戦中、特殊な任務をこなしていたその部隊は、コリントが意図的に流した情報で何度も新聞の一面を飾っていた。ある時は、難攻不落の要塞を制圧し、またある時は人質になった子供を救出していた部隊だ。
実際には、同じ戦地にいた省吾達特殊部隊が下準備をして最後の手柄のみを与えていたのだが、部隊の隊長以外はその事を知らない。
「事務総長も取材を受けているはずよ」
コリントとの事でフランソアにも顔を合わせ辛かった省吾は、事務官から目を逸らして誤魔化す。
「いやぁ、その、今日はいいです」
大よその推測がつき、省吾の目を逸らす癖を知っている事務官は、腹を抱えて笑う。目を逸らしたままの省吾は、黙ってコーヒーを飲み干した。
居心地が悪くなった事務官の部屋から省吾が逃げ出す頃、エリーヌは同じ大学に通っている男性と合流していた。
「お待たせ。ごめんね」
「いや、いいよ。君のおじいさんには、誰も逆らえないって」
エリーヌが省吾と会った時に機嫌が悪かったのは、その白人男性が原因だ。エリーヌに恋人がいる事を知りながら、エリーヌの母親は無理にレストランへ行かせたらしい。コリントの一族でコリントに逆らえる者がいない為、仕方が無い事なのだが、エリーヌは気分がよくなかったのだろう。
「ちょっと、臨時収入もあったし、あのライブハウスに行く?」
レストランで手に入れたキャンセル料を持ったエリーヌは、省吾に向けたのものとは違う優しい笑顔を、彼氏に向ける。
「えっ? いいの? 行きたい。あ、でも、金はバイト代が入ったら返すよ」
「いいの。今日は、私のおごり」
腕を組んだ恋人達は、テイクアウトしたホットドッグを食べながら、日が高いうちからライブハウスへ向かう。ファントムのせいで夜間出歩きにくい為、今の世界ではライブなども昼間に行われることが多くなっているのだ。
「でも、貴方はこのバンドが、本当に好きね」
男性と付き合い始めて一年がたったエリーヌは、彼氏が聞きに行きたがるバンドを、嫌ってはいない。だが、それほど好きでは無いようだった。
「俺の尊敬する人と、歌のイメージが合うんだよ。あのボーカルは、魂で歌ってる感じがいいんだ」
戦時中、まだ高校生だったその男性は、自分より若い東洋人に助けられた事がある。爆撃に震えていた自分と違い、怪我を負っても立ち上がるその若い東洋人を、エリーヌの彼氏は本当に格好良いと感じており、いまだに崇拝しているらしい。
「前に、いってた人ね。私も、会ってみたいなぁ」
エリーヌは、彼氏が尊敬している人物にもう会っているのだと、気が付いていないようだ。また、色々と店舗の揃った空港で時間を潰している省吾も、その二人の事は何も知らない。
国連本部を出て数時間後、省吾はコリントに自分のせいでうまくいかなかったと、電話での報告をしていた。
「すみません」
「いやぁ、まあ、こればっかりは仕方ねぇよなぁ。それに、適齢の孫娘はまだ二人もいるんだ」
受話器を持った省吾の眉が、コリントの言葉にぴくりと反応する。
「はい?」
「お前をファミリーに迎えたい気持ちは、変わってねぇよ。また、今度な」
……なるほど。ヨーロッパの任務は、避けられるだけ避けよう。もう、それしかない。
忙しいコリントが、電話を先に切った。そして、少しだけ遅れて受話器を置いた省吾は、眉間にしわを寄せたまま搭乗口へと歩き出す。
それと同時刻、エリーヌ達のいるライブハウスは、盛り上がりが最高潮に達していた。壇上でマイクを握っているのは彼氏が気に入っている、二人の兄弟が中心となったバンドチームだ。
「ありがとおおぉぉぉ! 次で、最後だが、このテンションのままで頼むぜぇぇ!」
バンドのボーカルをしている男性の叫びに、観客達は声帯がつぶれるほどの声で叫び返している。さほど大きくない地下にあるライブハウスだが、満員の客を集め、異様な熱気を放っていた。
エリーヌも、あまりそのバンドが好きでは無いはずだが、周りに流されていつの間にか盛り上がっている。
「俺たち兄弟を救った、最高にいかした男へ捧げる、最高の曲だ!」
「きたきたぁぁぁぁ!」
エリーヌの彼氏は、一番聞きたかった曲が聞けるのだと、自身に出来る最高の雄叫びで喜びを表現した。
「心して聞いてくれ! 傷だらけの小さな英雄!」
とても残念な事に、その心を振るわせる歌は、飛行機に乗った一人の男性には届いていないらしい。
……ぬう! 少なすぎる。
旅客機の一番サービスが行き届く席に座った省吾は、食事を運んできた客室乗務員の女性に鋭い視線を向けた。
「あ、あの、どうかされましたか? お客様」
「申し訳ないのですが、このマッシュポテトだけを追加する事は出来ますか?」
鋭い眼光にたじろいだ女性客室乗務員だったが、省吾が簡単な要求をした事で笑顔が戻り、おかわりがサービスである事を説明した。
「いえ、マッシュポテトだけをいただけませんか?」
「は、はぁ、量はどういたしましょう?」
何事も真面目に考える省吾は、恥ずかしがることなく正直に要求した。
「出来れば、プレート一杯に」
大戦末期に最前線となったヨーロッパで、数々の伝説を人々の心に刻んだ一人の男性がいた。
その男性が、今現在、美しい客室乗務員に向かって食事の付け合せを要求し、顔をしかめさせていると人々は知らない。そして、多分、知られてはいけない。




