弐
省吾は驚くべき事に、年明けまでに体の回復を間に合わせた。そして、帰る故郷もない為、職員すら休んでいる静かな寮で年始を過ごした。その省吾にとって、無休の飲食店やコンビニは、本当のライフラインだ。
また、堀井からいい渡されていた散髪も運よく営業している店舗があり、済ませる事が出来た。ただし、超能力者である生徒達がほとんど帰省した特区では、省吾本人の望んだロボット三昧とはいかない。
年始に関係なく出現するファントム退治の為に、省吾は特区だけでなく日本全国を駆け巡った。省吾にとって運が良かったのは、謎の能力者達を含めて、敵の武装勢力達がほとんど行動を起こさなかった事だろう。日本以外で小競り合いはあったが、省吾が出て行くレベルの戦闘は記録されていない。
他の生徒達が一月十日まで休みなのに対して、セカンドクラスの休みは七日までだ。その間に起こった戦闘で、省吾はファントム以外の敵とは戦わなかった。それを不気味に感じながらも、省吾は目の前にいる人を守り、ファントムを駆逐していった。そして、省吾にとって休みと呼んでいいのか疑問の残る、硝煙臭い冬休みが終りを告げた。
時間の経過によりさほど広くはない部屋で、電子レンジのアラームが鳴った。省吾はシャワーを浴び終え、タオルで体を拭いていた。急いで下着を身に着けた省吾は、髪をタオルで拭きながらその電子レンジへと向かった。
電子レンジから省吾に取りだされたのは、温めるだけで食べる事の出来る、ハッシュドポテトだ。その光景を日本人が見れば、普通ではないと思えるかもしれない。朝食を冷凍食品で済ませる事自体は、変わっているといえない。しかし、一般的な日本人の朝食と比較すると、量が多すぎるのだ。
おかずだと思われるミートボールは一パックなのに対して、省吾はポテトを三パックも一度に温めていた。朝食を食べない人間が見れば、吐き気を感じるかもしれない。
だが、明確な主食がないイギリスで育った省吾にとっては、ポテトが主食替わりであり、珍しくもない食事風景だ。チェーン展開されたハンバーガーショップに行っても、省吾はセットに必ずフライドポテトを追加注文するといえば、分かりやすいのかもしれない。
食える時に食っておけの精神が、戦争中の飢餓を経験して染みついており、少し量は多めだ。だが、運動をしている十代の男性ならば、簡単に平らげる事が可能といえる程度だろう。
タオルを首にかけたまま食事を始めた省吾は、部屋の中に目を向けた。部屋の中には、簡素な鉄のパイプで出来たベッドと、壁に埋め込まれた形のクローゼット、筋トレ用の器具。そして、一際異彩を放つ趣味のスペースがある。飾り気の少ない部屋で、省吾は趣味で使っているパソコンを見ていた。その顔は、晴れやかではない。
友人でありライバルでもある人物と、省吾は年始から七回ほどゲームでネット対戦をした。日本中で仕事をし、時間に余裕の無い省吾は配信された追加ストーリー等を後回しにして、その友人との対戦に励んだのだ。
趣味であるそのゲーム自体は、省吾も楽しめた。だが、作戦を立てる時間すらなかった省吾は、一勝六敗と大きく負け越してしまい、悔しく思っているらしい。
敵高レベル能力者の探索や、ファントムを操るすべを敵が持ち合わせているかも知れないといった、人命にかかわる問題とそれを省吾は同列にしている訳ではない。それでも、仕事ではなくプライベートでいえば、省吾にとってかなり大きい問題らしい。
「はぁぁ」
……授業中にでも、策を練ろう。
食事を終え、制服を着てバッグを肩から下げた省吾は、学園に向かう。学生の数が多い日本特区には、学生寮が何棟も建てられていた。男性用は男性用、女性用は女性用でそれぞれの区画に固まって建設されている。だが、男性用の寮がある地区と女性用の寮がある地区は、少し距離が離れている。親が直接監視出来ない為、距離を離す事でどの過ぎた異性間交流を防ぎたいのだろう。
男性用と女性用の寮から学園に向かう道が合流する地点で、省吾よりも早く学園に向かっていたはずの綾香が立っていた。厚手のコートとマフラーを着けた綾香は、白い息を吐き、少しだけ赤くなった鼻を軽くこする。その綾香は、省吾を待っているのだ。
「はぁぁぁ」
時計を見て、省吾がもうすぐ来ると分かっている綾香の顔は、少し暗い。実家に帰っていた間に、少しだけ頭から血が下がったらしい。堀井が引くほどの積極性を見せた綾香だが、本来彼女はそれほど積極的に異性へアピールする事はない。富裕層の良家と呼ばれる血筋に生まれ、節度と良識は幼少の頃からしつけられていた。
しかし、寝不足や疲労が重なった脳に普通ではあり得ない刺激が次々と押し寄せ、綾香は人生で経験した事が無いほどのナチュラルハイになっていたのだ。その自分でも制御できない状態で、省吾に接した事を、冷静になった綾香は恥ずかしいと感じているらしい。気持ちに嘘はないのだろうが、行き過ぎた行動を恥じる良識はあるようだ。
中学生時代に、異性と付き合った経験もある綾香だが、手を繋ぐ以上の事はしていない。相手が日本人ではなかった為にハグはしたが、それは下心からの行動ではないだろう。
「ああ……」
年末の自分を思い出して顔を赤くした綾香は、省吾をまだよく理解していない。その自分が恥じている積極的な行動ですら、省吾に対しては不十分なのだ。ほぼ無意味といってもいいだろう。恋愛等の知識がありながらも、異性を好きになる感覚が全く分かっていない省吾は、聖人とも欠陥者とも表現できるのかもしれない。
「あ!」
いろいろ思い悩んでいた綾香だが道の先から歩いてきた省吾を見て、他の感情よりも喜びが勝ったようだ。朝日に照らされた魅力的な笑顔を、綾香は無表情な省吾に向ける。
朝もやを切り裂きながらいつも通りきびきびと歩く省吾の登校には、今日も隙が無い。周囲への警戒を怠っておらず、常に臨戦態勢になる準備が出来ている。
綾香は、髪を切り、印象のかなり違う省吾を見て、胸の苦しさを感じた。つい緩めてしまった顔を隠そうとして急いで口を手で押さえる綾香は、その省吾に見惚れてしまう。
……高梨さんか。
立ち尽くして自分を見つめる綾香に、省吾も気が付いている。
「はい?」
省吾は当然のように綾香を無視して、歩を進めた。友人との登下校を経験していない省吾は、登校という目的のみに集中しているのだ。
……ぬう?
「ちょ! 井上君!」
「なんだ?」
通り過ぎた省吾を追いかけた綾香は、省吾が着ているコートの裾を掴もうとした。だが、裾を掴まれたくない省吾は、綾香の手が触れる寸前で振り返った。
「無視する事ないじゃないですか! そんなに……」
自分が嫌われたのかもしれないと唇を噛んだ綾香に、省吾は自分の置かれた状況を説明した。
「任務中は、基本的に私語厳禁だ。高梨さんも兵士になったのなら、覚えておくといい」
学生生活も任務の一部だと聞いていた綾香は、嫌われていない事にほっとしながら、ずれている省吾にアドバイスをした。
「学生のふりをするなら、友人には挨拶するのが、普通ですよぉ? 情報収集の為に、友人が欲しいんじゃありませんでしたか?」
……なるほど。盲点だった。
両目を見開いた省吾は、驚いているのだろう。
「以後、気を付けよう。おはよう、高梨さん」
悲しいものでも見るような目で省吾を見つめる綾香も、挨拶を返した。
「はい……おはようございます」
省吾も省吾なりに友人を作る為、色々な検討は行っていた。だが、学生が挨拶や登下校時に行う、友人達との交流にどんな意味があるかは考えてもいなかったらしい。
人は重要だと思わない出来事に、気を留めるのは難しい。そして、見慣れて当たり前になった事の意味を、あまり考えたりはしない。自分の甘さを実感した省吾は、綾香と並んで歩く足は止めないが、少しだけ眉間にしわがはいる。
「今日、別室に入るカードキーも貰えます」
「そうか。入る所は、出来るだけ見られない様に。生徒の知らない裏口もあるから、教えよう」
綾香は軍属になった。だが、年齢のせいもあり、正式な兵士ではない。特務部隊預かりの客分協力者として、扱われることになる。将来的に綾香は、軍の特務部隊員か諜報員を希望している為、やる気は省吾よりもあるように見えなくもない。
「あっ、ふふっ……」
「どうした?」
省吾が軍隊式の歩行を曲げてまで、自分の歩く速度に合わせてくれている事に気が付いた綾香は笑う。いくら厚着をしても寒さを感じる季節だが、綾香の心には外気とは逆の暖かさが舞い込んだようだ。
「いえ、なんでも……そうだ。もし、私が頑張って井上君の階級を追い抜けば、何かご褒美をくれますか?」
その言葉は、綾香からの他愛ない冗談だった。相手が、彰なら好きな物を買ってやるや、付き合ってやるといった冗談で返せるかもしれない。しかし、残念なお知らせをするならば、現在綾香の隣にいるのは、現実しか見ていない恋心を知らぬ省吾だ。
「あり得ないな。軍は基本的に、年功序列だ。俺の階級がたかいのは超能力を持ち、特務部隊員になれた事が大きい。君が特務部隊員になったとしても、よほどの功績を立て続けに残さない限り、俺達の関係は逆転しないだろう」
冗談に対してあまりに身も蓋もない返事が返ってきた為、綾香の眉間にもしわがはいる。そして、省吾は追撃ちのような言葉をかける。
「話は変わるが、通学中や教室でのこういった会話は、あまり好ましくない」
自分と喋りたくないのかと考えた綾香は、怒りと悲しみで顔色を変えた。だが、次の言葉で省吾が物事をストレートに表現し過ぎているだけだと分かる。
「クラスでも発言力があり、注目されている君は目立つ。その目立つ君が、いきなり俺と仲良くすれば、その理由を聞きたい者も出てくるだろう。情報が漏れるリスクとなるその事態は、避けるべきだ。違和感を持たれない様に、少しずつ会話をするべきだろうな」
……なんだ? さっきから高梨さんの表情が、変だ。うん、変だ。かなり変だ。
常識の偏りや勘違いはあるものの、省吾は馬鹿では無い。なんでも解決できるタイプの人間では無いが、気を回すことくらいは出来る。
「分かりました。でも、私と貴方は、毎日少しずつしか喋れないんですか?」
省吾は嘘をつくのが苦手なのだろうといった事を考えた綾香の顔に、朗らかさと優しさが戻ってくる。
「放課後はメインの職場になる別室等で、嫌でも会う。何かあれば、その時に」
「ふふふっ……はい。中尉殿」
省吾は進んでいる道の前方に人影がある事に気が付いた。そして合図もなく会話をうちきり、本来の歩行速度に戻して綾香を置いて先に学園へと向かった。
「あっ……本当に、プロの軍人さんなんですねぇ」
寂しそうに笑う綾香は、そのままのペースで歩き続ける。そして、背後から自分を追い抜いた省吾を睨む彰が綾香に気付き、嬉しそうに声を掛けた。
「あけおめ! 何か変わった事あった?」
自分ではなく省吾と喋りたいと綾香が考えているとは、彰は夢にも思っていないだろう。
「あけましておめでとうございます。いいえ。いつも通りの……普通です」
「そっかぁ。俺のほうはさぁ」
生活に驚くほど変化があった事を、綾香は喋らない。軍の協力者という意味で二人は近い位置にいるが、似て非なる立場だからだ。
「あれ? 綾香?」
「はい?」
綾香をよく見ている彰は、ある事に気が付いたようだ。
「なんか雰囲気変わった? ああ、それに嬉しそうだけど……髪は切ってないし、メイクも……」
笑いながら綾香は、彰を誤魔化す。それは悪意ではなく、今彼女には喋る権限が無いからだ。その二人が教室に入ると、省吾はいつもの様に既にクリアしはずのゲーム攻略本を熟読していた。周りは気付いていないが、綾香と省吾はある秘密を共有し、少し前と関係が大きく変わっている。
「はい! あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね」
生徒の教科書となるべく、大きな声で挨拶をした教壇に立つ堀井は、その年初めての出席をとる。始業式は一般の生徒と合同で行う為、出席を取り終えた堀井は、そのまま授業を開始した。休み明け最初のその授業は、簡単な復習から始まった。
脳が勉強モードに変わっておらず、一度習った内容だった事もあり、ほとんどの生徒達は真面目に説明する堀井を、ぼんやりと眺めているだけでノートをとっていない。
……くっ、またか。
一人だけノートに授業内容ではなく、自分なりのゲーム戦略を書き込んでいた省吾は、視線を感じて顔をしかめた。視線の主は、前回と同様で、イザベラ、彰、綾香だ。
色々な出来事により視線の意味は変わった綾香だが、視線の圧力は以前より増していた。その事に気が付いてはいないようだが、彰はその綾香の視線が相変わらず気に入らないようだ。そして、イザベラの視線も意味が少しだけ違っていた。省吾が髪を切り、外見がイザベラから見て良くなったことが、気に入らないようだ。イザベラの目に、怒りに近い黒い感情が見受けられる。
そのイザベラは、自分のプライドを傷つけた省吾へ負の感情を抱いているが、その感情が日々強くなっているのだ。省吾を悔しがらせて謝らせたいイザベラだが、その隙ともいえる切っ掛けを省吾は与えない。気持ちの落としどころが無いせいでイザベラは、不満を募らせているのだ。
そうなってしまえば、イザベラは省吾の一挙手一投足が全て気に入らなくなってしまう。現在のイザベラは、省吾が視界に入るだけで殴りたいとさえ思っているようだ。そのイザベラの黒い気持ちは、何とかイザベラの中にある良心で、物理的な嫌がらせ等に発展するのが抑えられていた。だが、その抑制さえも、負の感情の肥やしになる。
黒い連鎖でストレスを溜めているイザベラの視線は、綾香以上の圧力を省吾に与える。勘が良過ぎるといっていい省吾は、ペンを走らせていた手を止め、眉間を指で強くつまむ。喧嘩を売っているとしか思えない眼光を放つイザベラは、その困っているクラスメイトが、自分の視線に気が付いているとは知らない。そして、手を出してしまえば、イザベラ側が色々とただですまないとも知るはずがない。
……多分。俺は今日もネット対戦で負けるだろうな。なんだか、そんな気がする。
黒板に文字を書き終えた堀井が振り向くのを先読みして、三人は視線を正面に戻した。そのせいで省吾が一人で顔をしかめている理由が分からず、堀井は首を傾げるしかなかった。
「井上君? 何か質問でも?」
「なんでもありません」
上官が目の強さだけ兵士に戻っている理由が、堀井には推測も出来ない。そして、省吾もその理由を説明したりはしない。その奇妙とも思える状態が、省吾の日常なのだ。そして、その時までは、何も変わらない平凡な一日の始まりだった。問題が起きたのは、昼休みからだ。
午前中の授業が終わった事を、スピーカーから流れるチャイムが生徒達に教える。そして、綾香が省吾を昼食には誘ってもいいのだろうかと、そわそわし始めた。ただし、教室内でそわそわし始めたのは、綾香だけではない。勿論、視線に苦しめられて、少し疲労が顔に出ている省吾でもない。
「彰ぁぁ。ちょっと、これ見てくれる」
一番落ち着きをなくしていたのは、まだ座っていた彰に背後から抱き着いたイザベラだ。そのイザベラは、持っていた手紙を彰に見せる。
「なんだよ? ん? これ何? 手紙?」
「そう! なんと、ラブレター!」
イザベラの大きな声で、教室にいたクラスメイトは省吾以外、一斉に声の主に視線を向けた。省吾がその声に反応しなかった事で、イザベラが怪しい笑みを浮かべる。
「差出人が書いてないんだけど、私が好きなんだってぇ。で、付き合いたいって。ねぇ? 彰? どうするぅ?」
イザベラはその手紙を書いたのが、省吾だと思っているようだ。三時限目の休み時間にイザベラの机へ手紙を入れられるのは、クラスメイトしかいない。そして、手紙に省吾が反応しないのは、それを知っていたからだと考えたらしい。省吾がそんな事をするはずないのだが、思い込んでしまったイザベラは自分の間違いに気が付けない。
「どうするって、お前がどうするんだよ。差出人は……書いてないな」
「実は、もう犯人は分かってるの」
自分の肩に顎を置いたイザベラに、彰は顔を向けた。そして、犯人は誰だといいたげな目で見つめる。
「この差出人は、名前も書けない臆病者で、気持ち悪くて、礼儀知らずで、格好の悪い男よぉ」
その情報で、すぐに一人のクラスメイトが彰の頭に浮かんだ。
「それって……」
「そう! 井上省吾! あいつが犯人よ!」
……なるほど。井上省吾。俺か。
イザベラの大きな声でクラス中の生徒が、聞き耳を立ててイザベラへ視線を向けていなかった省吾に、目を向けた。
……んっ? 俺? そんな馬鹿な。
名前を叫ばれた事で、流石の省吾もイザベラに目を向けた。その省吾は、クラスメイト達から見つめられている。
「あんたなんかが、私と付き合えるわけないでしょ! 気持ち悪いのよ!」
イザベラの溜まりに溜まっていたうっぷんは、その瞬間に爆発した。平常時のイザベラならば、人からどう思われるかも考えることが出来る為、そんな発言はしないだろう。だが、鬼の首を取ったような昂揚感に溺れるイザベラは、負の感情と若さからの暴走を止めることが出来なかった。
……これはいったい、どういう事だ?
少し顔が険しくなった省吾はイザベラの言葉を聞き流し、クラス中を見回した。そして、事態のおおよそを見抜いた。
……ベーカー。奴が犯人。じゃなくて、差出人か。
省吾の観察眼は、ケビンの顔が真っ赤に変わっている事を見逃さなかった。省吾の見つめるケビンは、何かをいいだそうとして口お開き、すぐに閉じるという行動を繰り返していた。
今のケビンを傍から見れば、池の中でえさを求める鯉のようだと表現できるだろう。だが、そのケビンの異常行動は、省吾を見つめるクラスメイトの誰一人として、気が付いていない。
……さて、どうしたものだろうなぁ。
ケビンの事をいい出すのは良くないだろうと考えた省吾は、大きく溜息を吐いた。その行動で、思い出したように正気に戻った綾香が動き始める。
「ちょっと、見せて下さい」
「何? 何? 綾香も見たい? 気持ち悪い事書いてあるから、気分悪くなるかもよ?」
イザベラに怒りを感じながらも、冷静を装った作り笑顔の綾香は、手紙を見た瞬間に確信したらしい。
「これは、井上君が書いたものじゃありません! 謝るべきです!」
「はぁ? だって……」
英語の筆記体で書かれた手紙を彰の机に置いた綾香は、省吾がブロック体でしか文字を書かない事を知っている。フランソアに文字が汚いと怒られた事のある省吾は、ある時期からブロック体のみを使用しているのだ。
「そんなの嘘よ! なんでそんなこというのよ!」
「何度かプリントを回収した事がある私は、覚えています。間違いありません。堀井先生に聞けば、すぐに分かるはずです」
……高梨さんに助けられたか。さて、どうなる?
二人の喧嘩を見たケビンは、今すぐにでも嘔吐しそうなほど狼狽えていた。
「犯人は他にいるはずです!」
「あいつが犯人に決まってるじゃない!」
……なるほどな。
クラスメイトの視線は、喧嘩を始めてしまった二人に注がれ、省吾から逸れた。そして、省吾は答えを出す。
……俺、関係ないな。
答えを出した省吾は隙を見逃さず、一目散に教室から逃げ出した。告白をしてもいないのに振られた省吾は、複雑な表情で生徒の少ない廊下を歩いていく。そして、教室でゲームの戦略を考える予定がつぶれた事を、悲しいと考えていた。
自分がいなくなる事で犯人探しがうやむやになり、ケビンを守る事にもなるだろうと省吾は考えた。しかし、省吾が逃走した後も、綾香とイザベラの喧嘩がすぐに終わるはずもない。その二人を仲裁したのは、色々と苦い経験をして一回り大人になったリアだった。
「ね? 二人が喧嘩する必要はないわよ。ね?」
大きな声を出した事で溜まっていたストレスが、多少発散されたイザベラから、謝罪を口にした。
「ごめん。少し……いい過ぎたわ」
イザベラ以外のクラスメイトが、二人を見て呆れた顔をしている。その事に気付き、恥ずかしさでその場を逃げ出したい綾香もイザベラのハグを受け入れる。
「こちらこそ、すみません。喧嘩をしたかったわけじゃないんです」
表面上謝った二人だが、心は完全に晴れたわけではなさそうだ。また、省吾をかばった綾香を見つめる彰や、勇気を出して書いたラブレターがうやむやになったケビンも、心にしこりが残ってしまった。
その誰も得をしなかった出来事の終わりを、自動販売機でコーヒーを買った省吾はまだ知らない。クラスメイトの喧嘩などという小さいものではない問題が、起ころうとしている事も気が付いていない。
一般の生徒はいないが、ファーストの生徒はセカンドの生徒と同様に学園に来ている。その為、紙カップに入ったコーヒーを持つ省吾は、生徒の視線が届かない場所を探す。省吾は、意地でもゲームの戦略を考えたいようだ。
……友人か。戦地では簡単だったんだがなぁ。
生徒が日ごろ使わない、屋外である非常階段の踊り場に座った省吾は溜息をつく。そして、寒空の下、紙カップに入った冷たい飲み物に口をつけた。
建物の壁に貼り付けられたように作られているそのコンクリート製の非常階段は、転落を防止する為に少し高い手すりが、校舎の壁とは反対側に付いている。その為、踊り場で座り込んでいる省吾の姿は、他の生徒達から死角になって見えない。
ゲームの事に集中したいはずの省吾だが、考えているのは学生としての自分と、友人との在り方だった。戦場にいる時の省吾は、特務部隊員達だけでなく、一般兵からも慕われていた。そして、共に戦った仲間として、同僚以上に仲良くなっている人物も少なくない。
だが、その人間関係は、省吾の命懸けで手に入れた能力と、戦場でも変わらない真っ直ぐな人柄があって、初めて成立するものだ。今の省吾は、敵武装集団の存在を隠しながら戦わなければいけない。その為、生徒達にそれを見せる事が困難どころかやってはいけない事だ。
……先生。俺。やっぱり、職員の方がよかったような気がします。
一人になった省吾は、生徒達の騒ぐ声を聞きながら、空に向かって泣き言をいう。省吾は、基本的に人前で弱みを見せない。だが、完璧な人間がこの世に存在しない以上、省吾にも弱い部分は残っている。
飲みかけのコーヒーカップを床に置いた省吾は、生気の無い顔で立ち上がった。その省吾は手すりごしに学園の中庭にある、葉の全て落ちた大きな銀杏の木を眺める。そして、溜息をつく。
強くあろうとする省吾の、そんな一面を知っている者は、あまり多くない。本当の強さも持っている省吾だが、プライベートと仕事の問題を抱え、悩みは尽きないようだ。
……なんだ?
ぼんやりとしていた省吾の背筋に、悪寒が走った。ファントムに感じる悪寒と似ているが、少し違う事に省吾の判断も少しだけ遅れる。
学園には多くの超能力者がおり、ファントムが近寄る事は少ない。だが、超能力者も人間であることに違いはなく、ファントムが出現した事もある。その為、ファントムが学園に現れても、不思議な事ではない。
……違う。何だ? この感覚は?
千里眼を発動させた省吾は、いつもと違う感覚に対して、様子をうかがう事を選択した。敵の姿も確認できていない以上、その判断自体は間違いではない。
銀杏の木の前にあるベンチに座り会話を楽しむ生徒も、友達とふざけあって走る生徒も、なんの変化もなかった。その中には特出した超感覚を持ち、勘の鋭い者もいるはずだが、省吾以外に変わった動きをしている者はいない。
……敵? 能力者じゃない。ファントム? なんだこの微弱な感覚は?
省吾は、自分を過大評価する事で、油断が生まれる事を嫌っている。そのせいで、自分が勘に関しては学園でもトップレベルに優れていると、考えられないでいた。
中庭にいる省吾より勘が働かない生徒達は、敵の存在に全く気が付かない。それどころか、三階と四階の間にある踊り場から、省吾が自分達を見つめている事にも気が付いていない。
……来る! 敵だ!
校舎にある窓の隙間から、黒い霧が噴き出した。そして、それは霧から実体へと変わる。
……まずいっ!
ベンチに座る女生徒に向けて、空中で実体となったファントムらしき敵は、直接襲いかかろうとしていた。銃を持っていない省吾は、ほぼ反射的に片手をついて手すりを飛び越えていた。
生徒達が誰も気が付いていない為、その生徒達が超能力者でも、省吾が階段を降りるまでに被害者が出るだろう。省吾はその犠牲を出さないために、全力で動いているのだ。
手すりを飛び越えた省吾は、すぐさまその手すりを蹴り、敵に向かって一直線にとびかかった。省吾が握った右の拳が、銃弾と同じようにかすかな光を放つ。空中で己自身が弾丸となった省吾は、一撃で敵を消し飛ばした。
……ファントム? なのか?
拳で滅ぼした敵は、省吾が今まで戦ってきたファントムとは、似ているが違うものだった。大きさが一メートルに満たなかったのだ。そんな個体は、今まで記録されていない。
……届けぇ!
気にはなっているようだが、省吾はすぐに敵の正体に関する考察を中止した。そして、銀杏の木へ両手を伸ばす。いくら省吾が頑丈でも、勢いをつけて三階から飛び降りれば、ただでは済まない。木の枝を掴めるかどうかが、生死にかかわる状況だ。
両手で別々の太い枝を掴む事に成功した省吾は、そのまま体を木に引き寄せ、落下する力を少しずつ木の枝に吸収させた。そして、ベンチに座る女生徒の上に落ちそうだった自分の体を、木の幹を蹴って誰もいない場所へと向かわせる。
「え? 何? えっ?」
中庭に大きな音が響き、生徒達は音の発信源を探した。そして、ゴミを頭からかぶって倒れた省吾を見つける。
「うわぁぁ。何あれ?」
受け身をとりながらの着地で、ダメージをほぼ受けなかった省吾だが、勢いを完全に殺す事は出来なかった。そして、地面を転がった省吾は、中庭に設置された金属の網で出来たゴミ箱とぶつかり、大きな音と共にかなり無様な格好で停止していたのだ。
「あれって、井上省吾よ。セカンドの」
「きっと、また何か変なことしてたのよ。気持ち悪ぅ」
助けた女生徒達は中等部のファーストだが、省吾を呼び捨てにする。そして、助けられた事も知らずに、省吾を蔑む。
「ふぅ……」
……犠牲者が出なくて、何よりだ。
体の埃を払いながら、省吾は辺りに散乱したゴミをゴミ箱に戻していく。その光景を遠巻きに見る生徒達は、省吾の悪い意味での噂を小声で広めているようだ。
「嘘……でしょ……」
その生徒達の中で、一人だけ省吾の驚異的な身体能力を見てしまったジェーンは、非常階段を見つめて唾液を飲み込んだ。
その中庭にいたのは、ジェーン以外ファーストの生徒達ばかりで、敵に気が付けなかった。だが、省吾の素早過ぎる対応で消し飛んだ為、敵の姿は目視は出来なかったようだが、セカンドのジェーンだけは敵の存在を感知していたのだ。そして、省吾が非常階段から飛び出した姿は、少し離れた位置にいたジェーンにも、はっきりと見えたようだ。
……まあ、小型のファントムがいても、不思議ではないな。今まで、見つかっていなかっただけの可能性が、一番高いだろう。
片づけを終えた省吾は、素早く水道で手を洗う。そして、生徒達から注がれる好奇の目から逃れるように、そそくさとその場を立ち去った。
「ふぅ」
省吾は不器用な部分などもあるが、極端な鈍感ではない。自分を生徒達がどういったふうに見ているかは省吾も分かっており、気分はよくないようだ。
「あれ? 井上先輩。髪型かえた? 前より、不気味さが減ってない?」
「ええぇ。それマジ?」
髪を切った事で、生徒の中には省吾の印象が良くなった者もいるようだが、異端扱いを受けているようだ。
「あの、ごめん。先に、食堂で席とってて貰っていいかな?」
ジェーンは一緒に食堂に向かっていた陸上部のファーストである友人達に、財布を忘れたと嘘をついた。そして、非常階段を上ろうとしている省吾を、追いかける。
「えっ? あれ? あれ?」
省吾を追いかけて非常階段を昇ったジェーンは、自分の置かれた状況が理解できずにいた。そして、二階と三階の間にある踊り場から、一本道である非常階段の上と下を見回す。
……あれは、確か。
後ろからジェーンに接近された事に気が付いた省吾は、反射的に身を隠したのだ。
……中等部二年か三年のセカンドだったか? なんだ?
省吾は自分がジェーンからの死角に入った瞬間に、手すりを乗り越えて息を潜めただけだ。今回は、二階に昇りきる前に手すりを乗り越えており、先程の飛び降り自殺を思わせる様な、リスクは冒していない。だが、そのあまりにも素早い動きは、一般人のジェーンからすると省吾が突然消えた様に見えたのだろう。
平常時、中から鍵を閉められている二階や三階の扉まで、開かれていないかをジェーンは確認して回った。
……後輩の女生徒から、声を掛けられる。今の俺にはあり得ないな。少し様子をうかがうか。
省吾にとって保護対象である生徒を守る事は日常のごく一部であり、以前ジェーンを助けた小さな出来事は記憶の片隅に追いやられていた。
「あれぇぇ?」
建物内へカードキーを使って回り込んだ省吾は、ジェーンから気付かれない様に彼女の動きを観察していた。そして、その事に気が付いていないジェーンは、最上階まで上ったところで諦めたようだ。その口をへの字に結んだ顔からは、納得のいかないジェーンの気持ちが読み取れる。
……あっ! それ、まだ! あぁぁあっ。
省吾が飲んでいる最中だった紙コップに入ったコーヒーは、ジェーンによりゴミとして回収され、先程省吾がぶつかったゴミ箱送りとなった。
「はぁぁ」
空腹を感じた事もあり、省吾は売店へ向かう。そして、パンと紙パックに入ったコーヒーを購入した。
「あら?」
昼休み終了直前に現れたファントム撃退から帰った綾香は、記憶にない二つ折りになった紙を自分の机の中から見つけた。イザベラが騒いだラブレターの件もあり、その事を周りに隠して内容を確認する。
別室への入り口が複数記載されたそのメモの差出人は、今回は間違いなく省吾だ。伝える時間が無いと考え、口頭ではなくメモにしたらしい。
「今度は、貴方が犯人なのですねぇ」
機密書類扱いになる為、取扱注意と書かれた飾り気の全くないメモを見て、綾香は嬉しそうに笑う。そして、小さく皮肉にも聞こえる言葉をつぶやいた。
「おっ? 早いな、綾香」
「そうですか? 普通ですよ」
戦闘服から制服に着替え終えた彰は、先に教室へ戻っていた綾香に声を掛ける。そして、綾香の機嫌がよさそうな顔を見て、こりずに遠まわしなアプローチを始めた。
「今日、暇? 商店街に、和風の新しい甘味所が……」
彰の話を最後まで聞く気もない綾香は、優しい声ではっきりと相手の言葉を遮る様に返事をした。
「あっ、忙しいので、すみません」
「あ、ああ、そう。じゃあ、また今度」
彰は笑っている。だが、誰が見てもその笑顔は引きつっており、自分の席へ座る背中には哀愁が漂っている。
「ちっ……」
本人以外、教室にいる誰にも聞き取れない程小さな舌打ちを、イザベラがした。容姿や能力等、人が羨むものを大量に持っているイザベラだが、その彼女は満たされない。今までの人生を、女王気取りでも許されたイザベラは、独占欲もプライドも自己顕示欲も、他人より強い。自分が優位に立っている間は、余裕からイザベラのその嫌な面は見え難い。
だが、ひとたび歯車を狂わせれば、彼女の本性が浮かび上がってくる。黒い感情により、十人中最低八人は美人であると答えるであろう、端正な顔立ちまでもが醜く見える。イザベラは馬鹿では無いし、女の勘もある。その為、彰が自分とデートを重ねながらも、綾香に想いを寄せていると気が付いているのだ。
少しでもイザベラが視線をずらせば、ケビンを含め、大勢の自分が気に入る事の出来る男性を、見つける事が可能だろう。しかし、若さによる経験不足からなのか、固執と傲慢を消せないイザベラは、不満を募らせる。彼女が許せないのは、省吾だけでなく、親友と呼べたはずの綾香や、彼氏に一番近いはずの彰もだ。
異性から多くの好意を寄せられる者の中には、ケビンのように、日頃大勢の女性と浮名を流しながらも、実は内心が驚くほどピュアな人物も確かにいる。だが、日頃冷たさも感じるが、さばさばした明るい印象を他人に与えるイザベラは、その者達とは心の作りが違っているらしい。
……うん? なんだ? 殺気? ではないな。
イザベラの憎しみは何故か一番悪気もなく、プライドを傷つけたのも誤解でしかない省吾に注がれる。そのせいもあり、放課後までに省吾は戦略をくみ上げる事に失敗した。
……三年生だったか。背が低いので、一年かもと考えたのは間違いだったな。
授業を終え、別室にあるコンピューターを操作していた省吾は、ジェーンを特定した。セカンドは全学年合わせても人数が限られており、中等部一年生からしらみつぶしにしても、それほど時間を必要とはしなかったようだ。
「しちゅれいします」
別室に入り慣れていない綾香が、緊張した面持ちで挨拶をしながら、扉を開けた。その挨拶の声は、緊張からか日頃の綾香と比べて、滑舌が少し悪い。綾香と特別待機を予定している省吾は、その挨拶の声を聞いてもディスプレイを眺めたまま腕を組んで、考え事をしている。
「高梨さん。そう、緊張しないで。どこでも好きな席に座って下さい」
おどおどしている綾香に、堀井が声を掛け、室内に入るように促した。綾香が入った部屋は、軍の回線につながったコンピューターが二十台ほど並んでいる。
そのパスワードにより見える機密情報が違うコンピューターの置いてある部屋は、軍関係者が本部のデータベースから調べ物をするとき以外は、ほとんど使われない。その為、特別待機要員が時間つぶしの待合室として使うことが多い。
今日その部屋にいるのは、能力の合成が出来る為に同じチームとなった、省吾と堀井だけであり、綾香の緊張が少し和らいだようだ。部屋には静電気対策を施されたカーペットが敷かれており、靴を脱いだ綾香は省吾のいる机へ向かって歩き出した。考え事を続ける省吾は、その綾香に反応しない。
「中尉? その生徒がどうかしましたか?」
綾香に室外から熱いコーヒーを持ってきた堀井が、ディスプレイに表示されているジェーン・ロスの画像に気が付いたようだ。
「ジェーン……」
ジェーンの画像を凝視する省吾を見て、綾香は少し前の事を思い出していた。省吾がジェーンを助けた話を聞いていた為、ジェーンが何かアプローチをかけたのだろうかとまで、短い時間で考えを巡らせたらしい。
「あの……この子知り合いなのですが、気にかかる事でも?」
綾香の考えは間違いともいい切れないが、仕事モードの省吾は下心などなく、仕事にまじめに取り組んでいるだけだ。その思考の阻害が出来るのは、頭の上がらないフランソアか省吾の大好きなロボットくらいだろう。
「確証は取れていないが、俺が昼間ファントムと交戦した現場を見られた可能性がある」
「えっ? ファントムが出たんですか?」
事前に聞いていた堀井は、省吾の発言を気にせず自分のコーヒーに口をつけた。しかし、綾香は驚きで目を丸くしている。
「高梨さん。中尉の前でファントムは、強敵ではありませんよ。で、どうされるんですか?」
コーヒーの入った陶器製のコップを机に置いた堀井は、言葉が足りない省吾の補足をしつつ問いかけた。
「現時点で、情報漏えいに繋がる可能性は低い。だが、日本には壁に耳あり、ジョージとメアリーともいうしな。口封じ方法をと考えているんだ」
口封じと聞いて、綾香の顔色が変わる。それに気が付いた省吾は、すぐに足りない言葉を今度は自分で補足した。
「勘違いするな。危害を加える事は、絶対に無い。口封じよりも、騙す……いや、誤魔化すが適切だったか?」
省吾が腕を組んだまま顔を向けると、左隣にいる堀井は無言で首を縦に振った。
「井上君は、本当に日本語が不得意なんですね」
目線を綾香から逸らした省吾は、返事をしなかった。そこへ、内線電話がコール音を鳴らす。
「はい。こちら特務部隊、井上。ん? ああ、すまない」
綾香が来る前に、省吾が国連本部の研究所へ問い合わせていた回答が、外線を経由して戻ってきたようだ。省吾が問い合わせていたのは、ファントムの大きさについてだ。十年以上溜め込まれたデータの中で最も小さいファントムは、目測で約一メートル二十だと研究員は省吾に伝える。
「そうか、では、データに書き加えてくれ。出現場所は日本特区の学園中庭で、時刻は正午過ぎ、大きさは約六十センチから八十センチ。外見は通常のファントムと違いはない。ああ、始末した。報告が必要な部署があれば、その対応は頼む」
自分がイザベラと喧嘩している間にも、省吾は生徒を守っていたのだと分かり綾香は俯いた。どうやら綾香は、感情的になっていた自分を恥ずかしいと考えているようだ。
「小さい個体がいても、おかしくはないでしょうね」
受話器を置いた省吾に、堀井が自分の意見を伝える。そして、出現場所や大きさに問題はないと思えている省吾も、堀井の意見にうなずいた。
「ああ、そういえば、昼間は助かった。ありがとう」
「い、いえぇ! そんな。当然の事をしたまでです」
昼休みの事を思い出した省吾が、右隣にいる綾香の方を向き、頭を下げた。それを見て顔をどんどん赤くする綾香は、両掌を省吾に向け、高速で左右に振る。笑顔でコーヒーをすすった堀井は、優等生の落ち着いた綾香を思いだし、恋をした人間は平常心を保てないのだと改めて感じているようだ。
「あ、ああ、あの、そうです。友達を増やす意味でも、ジェーンを紹介しましょうか?」
省吾に他の女性を近づけたくないはずの綾香だが、焦りで余裕を失い、思ってもいない事を口走ってしまう。焦る綾香の事を気にしていない省吾は、その話を真面目に検討した。
「いや、よそう。下手に友人を増やしても、こちらのリスクが増える」
省吾は真面目に考えた友人作りの事を、綾香に喋り始めた。
「人にはいえない秘密も、皆持っているだろうが、俺の秘密は日本特区の機密事項だ。万が一は許されない。なにより……」
少しだけ寂しそうな目をした省吾に、綾香は何故か胸が締め付けられる感覚を覚えたようだ。
「嘘をついて、建前だけで付き合うのは、本当の友人ではないと思う。この学園の生徒で、現状の俺が本当の絆を作れるのは、高梨さんしかいないだろうな」
「ぶっ! ごほっ! ごほっ!」
自分の背後でコーヒーを吹き出し、むせている堀井に省吾は急いで振り返った。
「どうした! 兵長! 異常事態か?」
急いで振り返った省吾は、綾香が恍惚の表情をしている事に気が付かない。その省吾は、過去にも真っ直ぐすぎる物言いで、良くも悪くも誤解を生んだ事を、反省できていないようだ。
「大丈夫か? どうしたんだ?」
「はぁ! はぁ! 大丈夫です。ただ、生徒と現状はついていましたが、先程の言葉はせめて絆ではなく、友情にするべきでは無いでしょうか?」
……友情も絆も、同じ意味ではないのか? これは、調べる必要があるな。
ハンカチでこぼしたコーヒーを拭き取る堀井は、目を細めて手で口を隠した省吾を見る。そして、喜びからか脳がお花畑化した綾香にも視線を向け、苦笑いをした。
堀井は、綾香の気持ちに気が付いている。だからといって、生徒のプライベートな事へ不用意にちょっかいを出したくないと考えている。また、綾香の気持ちについて、本人の許可なく省吾に喋ろうとも思っていない。しかし、堀井は省吾が恋愛に全く興味をしめさない事を知っている。その為、綾香の苦労を想像し、苦笑いを浮かべる事しか出来ないのだろう。
「中尉。私も高梨さんも英語は分かりますので、日本語を無理に使わなくても……」
「肉体もそうだが、勉強も研鑚と反復が重要だと思います」
堀井に真面目な返答をする生徒モードに戻った省吾は、堀井の考察も、綾香の気持ちもくみ取れない。ただ、真面目に日本語という強敵との戦いに取り組む。