白い牢獄
アクセスありがとうございます。
一応このくらいの長さで何話かは完成しているので、しばらくはコンスタンスに投稿ができるかと思います。アクセスカウンターなんか見ながらぼちぼち投稿頻度を考えて活きたいと思いますが、どういった結果になっても自分の描ける最高のものを届けていく所存です。
それではどうかお付き合いください。
透明な水面に溶かした太陽を落とし込んだようなオレンジ色が、紙のように白い病室内に差し込んでいます。こういった自然的に観測される情景に見蕩れることは、神様がどんな境遇の人間にもお与えになった平等な幸福でしょう。どのように逆境の中に置かれようとも、この美しさだけは人々に平等に届き、自らを囲う世界の優しさを信じられるようになるのです。
わたしは八歳の頃からこの病室で、夕焼け空を見続けています。
少し視界を下に逸らすと、朱色に照らされた児童公園が見えます。さっきまで子供たちが順番こに乗っていたブランコは、今は寂しく風にあおられて僅かに傾くのみ。掘り返された砂場の傍にはスコップ。入院中の子供たちの中には、退院してあの公園で力いっぱい遊びまわるのが夢だという子もいます。
最初のうちは、子供たちに混ざってはしゃぐ自分を想像しながら楽しげに窓を見下しています。ですが次第にその表情に影が差し始め、一ヶ月もする頃には苛立たしげにカーテンを閉じてしまうのでした。病院の外の世界を思い出すのが嫌になってしまうのでしょう。そして、半年もたつ頃には慣れてしまって、一年後には同世代の健常者を見てもどうとも思わなくなっていきます。
それは彼らにとって、幸せな変化に他なりません。
不必要な苦痛を少しずつ切り離していくことは、どのような環境においても不可欠とされます。済めば都という言葉がありますが、長い長い入院生活も慣れてしまえば穏やかなもの。わたしたちの住まうこの四号館において、この真っ白い建物を自分の居場所と認めないうちに、退院することは極めて少ないですので。
潔癖と隔絶の時代。病院の常識は変わったのです。
ふと、テレビを消し忘れていることに気付きます。画面の中では神経質な顔をした識者の方たちが、現代の世界を包む心の病について話し合っています。
画面端に表示された数字、61パーセント。これはいったい何の数でしょうか?
ガンが克服され、風邪の特効薬が開発された今日。医学が手をこまねいているのが心の病です。それは、今の日本における精神的疾患を抱えた可能性のある人間の割合なのでした。
実に半分以上。
実際に日常生活に支障をきたしているのは、このうちの一握りでしかありません。心の病というのは話のタネになり安く、あまりに漠然としている為か、誰もがそういった要素を自分の中に見出してしまうのです。
『自分は精神異常者だと思う』。このアンケートに、『そうであっても驚かない』以上の回答を示した人間の割合が、回答者の実に61パーセント。
食べ物は腐らせてあちこちで悪臭を放つほど溢れかえり、無理矢理作り出した無用な雑事の数々によって誰もが仕事にありつける時代。安寧は民衆の自意識を妙に肥大化させ、複雑にねじれ返った価値観は人々をがんじがらめ束縛し、無用な心の負担を強いる。そんな中、社会は様々な心の病を生み出しました。
あちこちに聳え立つ白色の建物のほとんどが、機能を少しずつ変えながらも存続し続けているのは、そういった理由からでした。
わたしたちの住まう四号館の、十階から十六階までの実に七フロアが精神科の病室です。
これはちょっとしたマンションに匹敵する収容者数。ありていにいって、アタマのおかしな人たちが一つの建物にそれだけ突っ込まれている訳ですから、正直怖いというのが近所のかたがたの評判になります。まぁ無理もないことですが。
こちらの病院に入院して十年ほどになるわたしは、新しい入院者のお手伝いをすることが時々あります。中学生くらいの女の子を病室に連れて行った時のこと。上のフロアからロビーに降り注ぐ黄色い液体を見上げ、その子が青い顔で指差しました。
「あれ。何」
わたしはとりあえず女の子を連れて一歩下がって、吹き抜けになった三階から気持ちよさそうに排尿する一五一七号室の中田さんに手をやります。
「おしっこです」
わたしはポケットからメモを取り出して、自分の言いたいことを書き記してから読み上げます。数年前に先生に教わった話し方でした。
「この病院でも最高齢の入院者である彼は、治療中である精神疾患の他に認知症の方も患っておられまして。三階のあの場所をトイレだと思い込んでいるんです。食事後一時間くらいと消灯時間前にはお気をつけください、しばしば局地的なにわか雨が発生します」
女の子は目を大きくして全身を振るわせました。
「対策は……対策はしないのっ?」
「止めてもしょうがないですし、誰が傷付くようなことでもありません。ちょっとばかり清掃員の方にお鉢が回ってくるだけです。問題はないんですよ」
すると表情を弛緩させた小学生くらいの男の子が走りこんできて、中田さんの尿に躓いてすっころびました。
「大丈夫?」
男の子はしばし痛そうに頭を抱えておりましたが、両手に付着した中田さんの尿を見るなり、ぺろりと舐めとりました。
「ひっ」
女の子がぞっとしたようにあと退ります。男の子はかまわずにぺろぺろと両手を舐めて、次に直接床に舌をやろうとします。
「こらっ」
わたしは軽く叱り付けてから、男の子の手を引いて立ち上がります。
「第二波がこないうちにさっさと病室に行ってしまいましょう。坂本さん、大丈夫ですか?」
女の子はぷるぷると震えて床をうつむき、それから大きく首を振りました。
そんな訳でわたしたちの仲間になった坂本さんですが。年も近く同じ年頃の女の子ということで、彼女はわたしと同室になりました。
「坂本……ああああちゃん? ですか」
確か二つとなりのピコちゃんが、自分のしている電子ゲームのキャラクターに、しばしばそんな名前を付けていた気がします。わたしが尋ねると、坂本さんは鼻を鳴らしてから首を振りました。
「本名よ。世界で一番愛のない名前」
「そうですか」
わたしは微笑んでから提案しました。
「せっかくですのであだ名を作りましょう。ああああちゃんですから、簡単にあーちゃんってどうですか? かわいいと思いますよ」
「好きにすれば?」
そう言って坂本あーちゃんは溜息をついて窓を見ます。
外は早朝の薄い光に包まれていて、例の公園ではまばらに子供たちが帰り始めたところでした。十人近くで野球をやっていた子供たちが三人になって、漠然とキャッチボールなどをしているところです。あーちゃんは透明な瞳で少年たちを見詰めていました。
窓を見ながら外の世界の思い出を想起し、これから始まる隔絶された真っ白な生活に溜息を吐く。入院生活の始まりにおいて必要な儀式でしょうか。
同室の者として優しくコミュニケーションをとっていくことも重要ですが、この時ばかりは一人にしてあげるのが良いでしょう。看護士さんからうかがった話だと、彼女の入院期間は随分と長くに上りそうですし。わたしはそっと病室を離れ、階段を登って上の階へと繰り出しました。
こちら四号館は基本的には一階が診察室、二階から四階までには様々な設備が置かれ、五階には入院患者のための図書館や遊戯室。六階から上は全部病室となっています。
基本的には同じ階には近い世代の人間が集められるようになっていて、十階が子供、そこから一階ごとに年が上がっていくようになっています。わたしが『先生』と呼んでいるお医者様は、十一階の一室に診察室を構えています。
「先生」
わたしが呼びかけると、個室のベッドに腰掛けて『家庭の医学』を呼んでいた先生が反応します。
「こんにちは。芥川くん」
先生は笑顔で顔を上げました。
「定期健診の時間にはまだ早いね。どうしたの?」
「わたしのいる二人部屋の空席が埋まりまして。その子がちょっとホームシックになっているみたいだったので、部屋を……」
「紙に書いてから話しておくれ」
先生は苦笑しました。
「何を言っているのか分からない」
わたしは眉を顰めてからペンとメモを取りました。
「新入りの子が恒例のホームシックになりそうなので。一人で落ち着いたほうが良いかなって。……あの、これって本当に必要なのですか?」
と、わたしはメモを読み上げます。
「必要だ。君という患者には絶対に必要なケアだ」
先生はどこか尊大な態度で言います。
「一階のヤブ医者どもは何も分かっていない。だから君は九年もここから出られないんだ」
「おととい、めでたくここに来てから十回目の誕生日を迎えました。……というかわたし、自分がどうして入院しているのか、いまだに分かっていないんですけどね」
わたしが首をかしげると、先生は少しだけ真剣な顔になり
「自覚できないのが君の一番の問題だな」
と、あけすけに言いました。
「もっともおれなんかからしてみるとだな。別に君がわざわざ入院している必要はないと思うんだよ。日常生活に支障はない。むしろこんな狭く何もないところに押し込めているから、君はいまだに自分の症状について無自覚になってしまうんだ。一階の奴ら、まったく無知だよ。だいたいあいつらと来たら、おれのことを会議にさえ呼びやしない」
「患者に愚痴を言わないでくださいよ」
わたしは苦笑します。
「わたしはここから退院したいなんて思ってません。外でしたいこともないですし、会いたい家族ももういませんから」
「それは知っている」
「おばあちゃんになるまでここで暮らすことになると思いますよ。いまどき、そんなの珍しくないでしょう?」
そうなのです。
ここ最近、健常者の潔癖な意識は増してきていて。一度犯罪を起こしたり精神病に陥ったりした人が社会に再び受け入れられることは、極めて難しくなっています。この病院にしたって、そうやって社会復帰の難しくなった人々の受け入れ先として、息をしているようなものなのでした。
「その意識の方に問題があるな」
先生は難しそうな顔をして
「病を克服する意思のない患者を治療するのがもっとも難しい。助かる意思のない人間を助けることは、極めて困難だなんだ」
「申し訳ありません」
わたしは紙に書いてから言いました。
「ですが。先生に教わった、このいったん紙に書く話し方は役にたってますよ?」
そうなのです。
わたしの発声はどういうわけかふつうにすると聞きにくいらしいのです。そのことを先生に打ち明けてみたところ、教わったのがメモと紙とを携帯することでした
「それは良かった」
「最初は、紙に書いたのを人に見せることも多かったんですけどね。階段とかでよく転ぶ癖の方はどうにもならないんですが」
わたしはこないだできた頭のこぶを撫でます。
「いっそ。逆さに歩いてみるというのはどうかな?」
「何を言いますか」
「冗談ではない」
真剣な顔で先生が言うので、わたしは一笑しました。先生はあくまでも神妙です。
すると、先生の部屋の扉をノックする音が響きます。先生は舌打ちでもしそうに表情を歪めてから、不機嫌そうに声を出しました。
「はい」
「奥谷さん、診察のお時間ですよ」
「今行く……。まったく忙しい」
言って、先生はぶつぶつ言いながら立ち上がりました。
「一階でおれの患者が待っているらしい。すまないが行かせてもらう」
「分かりました。では失礼します」
わたしは微笑んで、先生と一緒に部屋をあとにしました。
「次の診察はいつだったかな?」
「今晩にでも、先生。何かお菓子を作っていきますね」
「それは楽しみだ」
先生は嬉しそうに微笑んで、エレベーターの方に向かっていきました。
「逆さねーちゃぁん」
言って、小さな子供がわたしに飛び込んできました。
錯乱したように激しい足取りで、しかしわたしはそれを簡単に受け止めることができました。理由は二つ、彼がまだ十一歳の子供だったことと、彼が年齢不相応に不健康な細身だったからです。
「どうしました。ハカセくん」
ハカセくん。それが少年についたあだ名でした。
子供らしい感受性と知的好奇心、そしてたくさんの時間をもてあます彼は、長い入院生活の中で取り付かれたように本を読むようになりました。子供向けの図鑑や科学や生物学の解説本が多数。そうしているうちに彼の知識量は大人にも叶わないほど。そんな折についたあだ名がこれで、本人もまんざらでもない様子でした。
「カメが。カメがぁ……」
そんなハカセくんは今、わたしの胸元に顔を押し付けて錯乱したように泣いています。病院患者独特の薬の匂いが、少しでも気になっていたのはいったいどれだけ昔のことか。わたしはハカセくんの背中に手をやって、あやすようにして声をかけます。
「何があったんです? カメがどうしたの?」
「殺されたんだ」
ハカセくんは泣き出します。
「ぼくの飼っていたカメが……カメが……殺されちゃったんだ」
ふわぁああん。と、ハカセくん。
殺された、というのはあまりおだやかな表現ではないでしょう。
十一歳くらいのやんちゃな男の子であれば、むしろあえて使いたがるような表現であるともいえるかもしれません。しかしそれは少年独自の強がりにまつわるものであって、泣きはらしながら使う言葉ではありません。
もともとハカセくんは少年らしいやんちゃさに欠けるところのある子供ですが、少しばかり変わったところのある子でもありました。
「なるほど……これは気の毒ですね」
病院の庭でひしゃげていたのは、体長十センチ程度のミドリガメ。高所から落とされてしまったらしく、自慢の甲羅も無残に砕けて、中から赤だか茶色だかのぐちゃぐちゃが溢れていました。鳥にでも捕まって落とされたというところなのでしょう。
「酷い、酷いよ。どうしてこんなこと……」
ハカセくんはしゃっくりを上げて泣いています。わたしは彼の震える体を抱きとめて、小さな頭を丁寧に撫でます。
「死んじゃった……死んじゃった……。ぼくの飼ってるカメが、死んじゃった」
もとい。このカメをハカセくんが飼っていたということはないのです。
この少年は少しばかり感受性の強すぎるところもあって。病院内で死んでしまった動物を見かけると、それを自分の飼っていたものだと思い込んで感情移入してしまう癖がありました。
そういう場合、彼は『殺された』という表現を良く使います。ここに来る前、誰かにペットを殺された経験でもあるのかしら?
何にしても。このカメの死は彼にとって、非常に深刻な問題であるといえました。こういう時、周囲の年長者がしっかりと彼の悲しみを理解し、排除してあげる必要があるでしょう。わたしはカメの死骸を持ち上げました。
「大丈夫ですよ」
わたしは片手でメモにペンを走らせ、ハカセくんに言い聞かせます。
「こんなの全然たいしたことありません。先生に見せてきてあげますから、ね」
わたしがそう言って微笑みかけると、ハカセくんは不安げに顔をあげます。
「本当?」
「本当です」
「本当に、このカメは助かるの?」
「助かります」
甲羅がぱっくりと割れ、冷たくなったカメに視線を落としながら、しかしわたしはそういうしかありませんでした。
「先生ならちゃんと治してくれますよ。また後で先生の部屋に来てください。ね?」
わたしがそういうと、ハカセくんはこくこくと何度もうなずいたのでした。
「うわっ。何それ」
仰天したようにあーちゃんが言いました。
「お庭で死んでいたミドリガメです」
わたしはそう答えて、ぐちゃぐちゃになったミドリガメを部屋のゴミ箱に押し込みました。
「そんなもん素手で持ってこないでよ。もっとちゃんとしたところに捨てて」
「ごめんなさい。ハカセくんに見付かってしまう訳には行きませんので」
「誰よ、そのハカセくんっていうのは」
あーちゃんは不思議そうに唇を尖らせます。わたしは洗面所で軽く手を洗ってから、小さな頃から使っている豚の貯金箱を翻します。
残金、六千九百十八円なり。
「ミドリガメって、いったいいくらくらいで買えますかね?」
「……は?」
あーちゃんは首を傾げます。
「いきなり何よ?」
「十センチくらいの大きさですと、二歳か三歳ってところですかねぇ。水槽設備を合わせて七千円……まぁ足りるでしょう」
ちなみにこうしたお金がどこから出ているのかというと。看護士さんの仕事のお手伝いをすることでいくらかお小遣いが出ます。お洗濯やお掃除の手伝いで、自給換算で実に約四百円。
「あーちゃんは今、外出許可って引き出せますか?」
「は。できる訳ないじゃん。あたし来たばっかりだよ」
そう言えば。
「そうですか。困りましたね」
わたしにはそもそも外出許可なんて出たことありませんし。どなたかにお願いするしかありませんね。
という訳で。わたしは十階から順番に部屋を巡って適当な人材を捜し当てます。
「外出? おう、今日はこれから外に出ても良いことになってるよ。家族と釣りに行くんだ。夕飯前に帰ってくる。ミドリガメならその帰りにでも買っておくよ」
と、言ってくれたのはアルコール中毒を克服しつつあるおじさまでした。
「毎日ちっちゃい子の面倒ばっかりで。逆さちゃんも大変だねぇ」
「これでも十階の子供たちの中では年長ですから。それでは申し訳ありませんが、お願いします」
おじさまは四時ごろに病院に帰ってきました。存分に釣りを楽しんできた様子で、上機嫌で何匹のアジを釣ったか話してくれます。
「おもしろいように一度にたくさんかかるんだよ。逆さちゃんも退院したら一緒に行こう」
「それは楽しみです。退院できたら、ですけど……。あ、これですね。ありがとうございます」
おじさまが買って来たのは縁日とかでもよく見るミシピッピアカミミガメ。大きさや体格もしっかり合致しますし、一緒に買ってきていただいた水槽設備の方も申し分なし。わたしはそれらを持って先生のところに行きました。
「先生。ちょっとお願いが。ハカセくんのことで」
前もって書いてきた紙を読んでわたしが言いますと、夕食前の薬を飲みながら先生がこちらに顔をやりました。
「なんだ。また庭で何か死んでいたのかい?」
「今度はカメですよ。ほら」
言って、わたしは水槽を先生に差し出します。
「今なんて言ったの?」
「今度はカメですよって」
「そんな重そうなものを抱えて、よく転ばなかったね」
「わたしも危ないと思って。だから部屋の前まであーちゃんに助けてもらいました」
「あーちゃん?」
「新しい同室の子です。かわいいですよ」
先生が机の上にカメの水槽を置きます。そしてまじまじと中を見詰めて、感嘆の声をあげました。
「これはこれは……なかなか上等な奴を買ってきたねぇ」
「そうなんですか?」
「甲羅の形が綺麗だ。傷もないし、元気が良い。設備も申し分ないな。ミドリガメは丈夫だし、これならあの少年でも飼えるだろう」
わたしは安心して、病室までハカセくんを呼びに行きます。
「先生」
ハカセくんはおそるおそる病室の扉を開けて、不安げな表情で先生に声をかけます。
「カメは大丈夫? ちゃんと治った?」
「このとおりだ」
先生は得意気に机の上のミドリガメを見せびらかします。
「うわぁっ」
ハカセくんの目が希望に満ち溢れます。
「すごいや先生っ。本当に直しちゃったっ、どうやったの?」
「子供には秘密だよ」
先生はにやにやと笑います。
「えーっ。ずるいや」
「ふふふふ。誰にも真似できることじゃないよ。偉いお医者さんだからできることだ……。甲羅の接合手術には最新の技術を使ったとだけ言っておこう」
いったい何を言っているんですか、この大人は
「先生っ。ありがとう。ぼくのペットを助けてくれて」
「いやいやお安い御用さ。……ところで、そのカメはいったいなんていう名前なのかね?」
「ええっとね……」
言って、ハカセくんは戸惑ったように首を傾げます。
「つけてないや。あれ?」
「良かったですね」
わたしは微笑んでハカセくんに言いました。
「言ったとおりでしょう? 先生に任せておけば大丈夫だって」
「本当だねっ」
ハカセくんは満面の笑みを浮かべて、ミドリガメの水槽を大事そうに抱きかかえます。
「ありがとう。逆さねーちゃん」
「いえいえ。今日は六時からつかさちゃんが来るんでしたっけ? 見せてあげたら?」
「うん。そうするっ」
明朗な声。
「つかさちゃんに見せてあげるんだっ。先生がちゃんと直してくれたってっ! 楽しみだなぁ」
言って、ハカセくんは安心したように病室を出て行きました。
「あとは彼のおかあさまになんて説明するかですね、先生」
「そうだね。……彼もいい加減、自分のおかしさに気付かなくちゃいけない頃だねぇ」
言いながら、先生は机に散らばった薬の袋を片付け始めます。
「別に、あの子には何もおかしいことはないでしょう?」
「だったらこんなところに入院したりしないよ。……無闇に感情移入してしまうのも、記憶を簡単に改竄できるのも、あまり年齢相応とは言いがたい」
渋い顔をして、先生は眉を顰めます。
「ただの発達障害なら学校にも通えたんだろうが。……彼には酷い妄想症もあるからなぁ」
「追い込まないようにすればおとなしいものですよ。もっと酷かったですからね、ここに来た頃は」
「本当にね」
先生は頬を歪めます。
「これも。おれの治療のたまものだな」
「あら。こんにちは」
自室に戻り、一くつろぎを終えてハカセくんの部屋の様子をうかがいに行く途中、南条つかささんと遭遇しました。
「こんにちは。えぇっと……逆さちゃん、で良いのかしら?」
「そのあだ名はやめてくださいよ」
わたしは苦笑しました。
「自分でも由来が分からないんです。なの、に妙に浸透してしまっていて。……困ったものです」
「はぁ……」
つかささんは歪に微笑みます。
「お加減はどうですか?」
わたしは尋ねました。つかささんは少しばかり気まずそうな顔で
「ちょっと……また風邪を引いてしまって……」
左手に巻かれたリストバンドを、つかささんは隠すようにして右腕と胸元の間に挟みこみました。
「お体には気をつけてくださいね。万が一ここに入院するような羽目になったら、とっても窮屈ですから」
わたしが冗談めかして言うと、つかささんはどこか厭世的な表情になります。
「いっそ……そっちのほうが良いかも」
「つかささん?」
「なんでもないの」
つかささんは暗い顔をしてうつむきます。
「ハカセくん……前と比べてすごく元気ね。新しくカメを飼ってて、すごく嬉しそう……これ、あなたのお陰なのかな?」
「わたしと、先生のお陰ですね」
気持ち胸をそらしつつわたしは言いました。つかささんは苦笑を浮かべながら
「先生、先生って……あの人はいったい何をしてる人なの? 私、前からそれが分からないんです。作家さんとか?」
「病院で先生と来たら、お医者さんしかいませんよ」
わたしが言うと、つかささんは少し意外そうな顔をして
「えっと……でもあの人、しょっちゅう薬飲んでるし」
「医者の不摂生、という奴ですね」
「……何のお医者さんなの?」
「なんでも。でも専門は精神科です。人の心が壊れてしまわないように見守るお仕事」
「……素敵ですね」
つかささんははかなげに微笑みました。
「もっと前から聞いておけば良かった」
それからハカセくんの部屋を訪れると、枕元の棚にはきっちりとカメの水槽が追加されていました。
「あっ。逆さねーちゃん。いらっしゃい」
言って、ハカセくんはわたしのことを笑顔で迎え入れてくれます。
「知ってる。このカメはミシピッピアカミミガメって言って外来種なんだ。ちゃんとそだて
れば、ねーちゃんの顔よりでっかくなるんだぞ」
「すごいですね」
わたしは笑います。
「他の子たちは元気ですか?」
「うんっ。見る?」
ハカセくんは自慢のペットたちをわたしに自慢します。
病院の前で人間に悪戯されていたスズメ。これはわたしの飼っていた文鳥のぴーちゃんで代用しました。次に干からびて死んでいたミミズ。庭を掘り返せば二匹目が簡単に見付かりました。病院の池で浮き上がっていた鯉。これについてはそもそもが池に住んでいる魚という認識があったようで、代わりを泳がせればすぐに納得させられました。
しかし今後、病院内でそう簡単に用意できない生き物が死んでいた場合。それはいったいどうするの?
はてさて。彼の問題に対して安直な処置を行ってきた報いは、もっとも厄介な形でわたしたちの前に現出したのでした。
「英語で言うと、ですとろいやー?」
「いや。それはふさわしいセンテンスとはいいがたいだろう」
先生は眼鏡を押し上げて言いました。
「君の言うとおりだと『破壊者』という意味になってしまう。この場合は単にデストロイと表現するか、ちょっと捻ってロストライフが妥当だろうな」
「……どこが妥当? ふつうにShe deadとかじゃダメな訳?」
あーちゃんが呆れたように言いました。
「あんたら、本当に大人? まともな教育、受けてる?」
失礼な。月に二回は向かいますよ、図書室に。
「いずれにせよ。これは少々ばかり逼迫した状態だといえるんじゃないだろうか」
難しそうな顔をして、先生は病室の窓を覗き込みます。
その神経質そうな視線が向いている先には、人だかりのできた病院の駐車場がありました。喧騒に満ち溢れた人々の輪の中央では、頭から血を流しながら横たわる一人の少女の姿があります。その両眼は不恰好に開いてしまっていて、乾きっぱなしで何十分にも渡って外気に晒され続けています。
明らかに死体。英語でいうとシー、デッドです。
「ここが病院であったことが不幸中の幸いというところかな。すぐに処置を受けることができる。もしかしたら助かる可能性があるかもしれない」
「バカじゃないの?」
あーちゃんが辛らつに
「生きてたらあんな目が開きっぱなしな訳ないじゃない。血も乾いてるし。どう見てももうとっくに死んでるよ、アレ」
「なにぶん。目が悪いものでな。この高さでは、そこまでは分からなかった」
先生は知的にめがねの端を持ち上げます。
「君は優れた洞察力を持っているらしい。将来は良い看護士になるだろう」
「なりたくねーしあんたバカだし」
あーちゃんは肩を竦めました。
わたしは漠然と病院の窓を見下ろします。人だかりを形成しているのは、ほとんどが病院の患者さんたちです。単調な入院生活ではなかなか得られない刺激を求めて、血と死体の匂いを求めて亡者のように沸いて出た方々。それらの中央にいるのは既に冷たい死体になった(と、思われる)南条つかささん。何度とめても自分の手首をカッターで切る癖が治らない為、この病院に通院していた患者さんで、ハカセくんの思い人でした。
「話を一度整理させて」
あーちゃんが頭に手をやって言いました。
「何を整理することがあるのかい?」
先生が眉を顰めます。
「いったい何が納得できないことがあるんだい?」
「大有りよ。入院疲れで昼前まで寝ている予定だったわたしが、朝の五時に叩き起こされた挙句に、こんなバカのおっさんの部屋に呼び出された理由とかね」
あーちゃんのいきなりの暴言に、先生は面食らったような表情をしました。そしてぞっとするほど悲しそうに顔をゆがめます。おっさん、というのが堪えたようです。あーちゃんは少しだけ気まずそうに顔を背けて
「まず一つ。あそこで死んでいるのはあんたの……その、患者さんがよくなついていた女の子っていうことね」
「如何にも」
「その患者さんのハカセくんっていうのはちょっぴりアタマのさわやかな子で。たとえ死んでしまったって、あなたに相談すれば生き物はよみがえると思ってる」
先生はうなずいて、それから神妙な顔で
「ここに入院してきたということはだね。アタマがさわやかなのは君も同じではないのかね?」
あーちゃんが机に置かれていた『家庭の医学(二千三百十六ページ・ハードカバー)』を先生に向けて投げつけました。
「あたしがここに来た理由はね……少年法が変わって十歳から処分が下るようになったことと、民裁の時の弁護士が無能だったことよっ! 順当に行けば保護観察処分で今頃家にいるはずなのにっ!」
きりきりと歯軋りをする音が響きます。角っこが額に直撃して悶絶している先生を助け起こしてから、わたしはあーちゃんに尋ねました。
「それでその……今回協力して欲しいということはですねぇ」
「分かるわよ。それくらい察し付くっての」
あーちゃんは溜息でもつきたげに
「あたしに生き返った南条つかさの振りをしろってんでしょ?」
ご明察。
「だいたい察しているんだけど……あんたら、バカじゃないの? なんでもかんでも信じ込んじゃうがきんちょ相手に、無茶なお芝居続けてきて。そりゃお鉢が回ってくるってもんよ」
「君だってハカセくんと一つしか変わらないじゃないか。ガキんちょ」
あーちゃんが先生の股間を蹴り飛ばします。
先生は椅子から転げ落ち、ベッドの角っこに頭を強打しながら床におっこちて転げまわりました。
「お願いします」
わたしは仏頂面のあーちゃんに頭を下げました。
「ハカセくんの目がもう少し見えるようになるまでで良いんです。協力してくれませんか」
「いやよ」
あーちゃんは取り合いません。
「彼は本当につかささんになついていたんですよ? お母様はお仕事と弟さんの世話で忙しいですし、お父様は既に他界されてしまっていて。二つ年上の親類のつかささんがたびたびお見舞いに来てくれることだけが、彼にとってはぬくもりを感じられることだったのです」
「あんたらのそういうお節介がね。本来もう少しマシだったはずの彼の目を曇らせているんじゃないの?」
核心を突かれ、わたしはぐうの音も出なくなりました。
これでは本当に情けない大人です。
「……それはまったく持って正しい考えだ」
と、股間を押さえながら、先生が真っ青な顔で起き上がり、どうにか椅子に腰掛けます。
「だがね。しかし心に病を患った患者には、そういう正論だけでは解決の難しい問題もあるんだ。でもなきゃ、こんな冷たい白い建物の中に子供を押し込めたりなんて、誰がするものか」
「わたしは自分が正しくないと思ったことに関わるつもりはないの」
「頼む」
先生は椅子に座ったまま、深く深く頭を下げました。
「今一度彼の世界が壊れてしまったなら、このおれにも、一階の診察室でタバコを吸ってるヤブ医者どもにも治してあげることはできないんだ。今の彼にとって、こういうことを直に体験してしまうのは、あまりにも酷すぎる」
「こういうこと、ねぇ」
あーちゃんは憂鬱そうに首を振ります。そして窓に向かい、つかささんの落ちた地点を指差します。
「あそこって。ちょうど病院の屋上から落ちてきたあたりじゃないの?」
うむ。先生は荘厳にうなずきます。
「隣の第二錬は十二階まであるからな。人間がほぼ確実に飛び降り自殺を成功させられると考えられているのと、同じ高さだ」
あーちゃんは渋い顔をして唇を尖らせました。
窓の向こうでは、つかささんの死体がタンカに乗せられて病院内へ搬送されていきます。いくら無駄だとわかっていても、いきなり霊安室に放り込んだりはしないはずです。
南条つかささん。
たおやかで、少し陰のある女の子でした。いつも左手首にリストバンドを巻いていて、恥ずかしそうにそれを右手の脇に抱え込んでうつむいて歩く。
彼女はたびたびわたしに声をかけてくれました。
するのはいつもとりとめもない話。
『ああいうのはね。誰かに見てもらいたいからやるんだよ』
先生はつかささんさんを見て言ったものです。
『自分は生活に疲れてこんなことまでしてしまっている。誰か助けてくれないと、いつかこのカッターの切っ先が自分の命を奪ってしまうぞって。誰か、そんな自分をどうか今すぐ助けてくれ……ってね。言葉にはしない、しかし心の底から叫ばれる、救済を望む強い強い意思なんだ』
わたしはいったい、あなたに何を言ってあげるべきだったの?
こんな真っ白い牢獄の中から、わたしにはいったい何ができたというの?
今となっては分かりません。
「あーもー陰気ね。こういうの、あたし、嫌い」
言って、あーちゃんが不機嫌そうに立ち上がります。
「付き合ってられないから。やるならあんたらが自分達で考えてやってよね」
眉を顰めて、怒ったように扉を開いて部屋の外に出て行きました。
「……どうします?」
わたしは恐る恐る先生に問いかけました。
「どうするもこうするもないだろう?」
先生は肩をすくめて
「さっきの子の他に、南条くんと背格好の似ている女の子がいるならば、それを捜してくる他ないな。それができないから逼迫しているわけだが」
「ですよねぇ……」
わたしはうんざりとして
「そもそも体格さえ似ていれば誤魔化させると考えるのが、無理があったのかもしれん。よほど強い暗示がかったとして、一時的には可能だとしても、いつかは演技する側にボロが出る」
「先生の発案じゃないですか」
わたしは頬を膨らませます。
「わたしは言ったじゃないですか。無茶だって」
「いっそ人形か何かを渡しておくのはどうだ?」
「子供だましです」
「十分だ」
「あのですね。甘い目で見ればただの心豊かな少年で済んでいるものを。それを死んだ女の子を求めて人形に話しかける異常者に仕立てるというのは、少々ばかりどうかと思うところがあるのですが」
「それはいまさらだ」
「やっぱりそうですか」
「そうだ」
先生は椅子に深く深く腰掛ける。わたしは嘆息しました。
ここでハカセくん自身の心の強さに任せる……だなんてことを言わないのが先生です。人の弱さは弱さとしておいて、後ろからちょっとズルをさせてあげるというのが、この人のやり方ですから。正しいとか間違ってるとか、そういうのはさておくとして。
その時。先生の病室の扉がノックされました。
わたしと先生はその場で飛び上がりそうなほど驚きました。おそるおそる扉のほうを見て、次に二人で顔を合わせてから、居留守をするという方向でアイコンタクトをとり始めたところで、おずおずと扉が開かれました。
「先生……寝てるの?」
ハカセくんでした。泣きはらした目で、すがるようにして先生のほうを見詰めています。先生は裏返った声で言いました。
「ナンダネ」
「つかさちゃんがぁ……」
さめざめと泣きながら、ハカセくんは先生の薄い体に飛び込んでいきます。
「つかさちゃんが、つかさちゃんが病院の屋上から飛び降りて死んじゃったんだって……。ままま、まただ。また殺されたんだ。ふわぁあああん」
両目からぼろぼろ涙を流しながら、内側からあふれ出す悲しみを先生の胸にこぼし続けるハカセくん。震える両手はしっかりと彼の病院服を掴んで離しません。
わたしはいたたまれなくなりました。
「大丈夫だよ。ハカセくん」
先生はハカセくんの肩を、その細い腕で力いっぱい叩きました。
「おれがつかさちゃんのことを直してやる。何日も、何ヶ月かけたっておれがいつか生き返らせてやる……。だから安心してくれよ、ハカセくん」
そう力強く声をかける先生に、ハカセくんはぼんやりと顔をあげました。
「本当……?」
「本当だとも」
真剣な顔で覗き込む先生の顔を、ハカセくんは少しだけ、ほんの少しだけ寂しそうな顔で見詰めて、それからぐすんと涙を拭きました。
「約束だよ」
「ああ。約束だ」
「ホントにホントだからね」
「ホントにホントだ」
「ありがとう」
ハカセくんはそこで、どこかしら乾いた笑みをこぼしました。
「先生。ぼく、大丈夫だよ。先生がそう言ってくれるから、ぼく、全然大丈夫なんだ。平気だよ、ぼく。男の子だから」
わたしはハカセくんに後ろから抱き付いて、その小さな頭を撫で付けました。ハカセくんはあくまでも気丈に笑っています。およそこの年頃の子供が浮かべるものとは思えない、どこか空虚な表情で。
南条つかささんの自殺は、第四病錬のトップニュースとして扱われ、主に十四階に住まうおば様方を中心に囁かれました。
「バカみたい」
朝の病院食をパクつきながら、あーちゃんはくだらなさそうに言います。
「自分の裁量で考えつくした上で死を選んだんだから、そっとしておいてあげたら良いのよ。その神聖な選択を愚弄できる人なんて、いないわ」
どうもこの子は、考え方の偏っているところがあるのかもしれません。中学一年生ならこんなものなのでしょうか?
「他者の死を明確に認識できる生き物は、この地球上では人間だけらしいですよ。人はいずれ死ぬ、自分からそれを選ぶことができる……そんな当たり前の実践者に対し、何の興味も持たないでいられるには、ほほどの達観が求められます」
「わたしは何とも思わないけどね」
あーちゃんは肩をすくめて
「人間なんてそこかしろで一秒に一人くらい死んでるわ」
「そうですね。それでもあなただって、ご家族に死なれたら悲しいでしょう?」
「こんな名前を付けた家族のことなんてどーでも」
「でも。大切な人はいるはずです」
「いないわね。仮にそんなのがいなくなったとしても、それはモノが壊れたときと一緒よ。それが消えてなくなることが、自分自身の未来に影響する場合においてのみ、人は他者の死に何らかの感情を覚えるものなのよ」
その時でした。
スプーンを握るあーちゃんの背後。透明な窓の向こうがわで、白と黒の物体がつるりと通過していきます。
白は病院服のほつれた紙のような色。黒は光沢を帯びた少年の髪の毛の色。
窓の外側をまっさかさまに落ちていくハカセくん。そんな風に見えました。
「君が好きだっ」
と、ハカセくんはあーちゃんの手を握った大声で叫びます。
「つかさちゃん……ぼくはずっと君のことが好きだったんだ。だけどね、恥ずかしかったから、照れちゃって何もいえなかったんだ。いくじなしだよね。君が一回死んじゃった時は、だからとっても後悔したよ」
ハカセくんはあくまでも情熱的にあーちゃんの手を握ります。あーちゃんは困ったような、くすぐったがるような、そんな表情でハカセくんを見詰めます。
「今だからちゃんと言おうと思う。ぼくは前の弱虫じゃないんだ。ぼくは優しいつかさちゃんのことが好きだよ。だからずっと一緒にいようね。もしもつかさちゃんが死んだとしても、地獄の底までぼくが付いていく」
あーちゃんは僅かに頬を赤らめてから頷きました。どこかいびつなものを感じながらも、あーちゃんはどこか満たされた表情をしています。それから逃げるようにしてハカセくんの前をあとにして、熱を出したようにこういいました。
「やーべ超かわいい」
あーちゃんは頬に手を当てます。
「あんなにいわれたのはじめて……いいわ。ハカセくん、あの子。かわいいわ」
「……そうですか」
ただならぬものを感じ、わたしは恐る恐る相槌を打ちます。
「もうね……もうちょっと離れるのが遅かったら、あたしは多分あの子をこうやって片手で掴みあげて、ぺろりと食べてしまっていたことでしょうね。あの純朴な表情、透明な瞳、たどたどしいけどまっすぐな言葉……何から何までたまらないわ。なんなのあの子は? 天使かしらね。だとしたらわたしは今一度だけ、神様を信じる気になるかもしれないわ……」
熱っぽくそこまで言ったところで。あーちゃんは若干の敵意を込めてわたしの方を見ます。
「ねぇ。あなた、ずっとあの子に懐かれていたの?」
人を殺せそうな眼力、というのでしょうか?」
「えぇと……確かにそうですけど。それはお姉さんとしてであって、あんなふうに情熱的なことをいわれたことは今のところありませんし……」
「あの子にはあたしは、あたし自身に向けて愛情を向けて欲しい。南条つかさの分身じゃなくて、このあたし自身にね。狂おしいほどそれを願うの。だからとってもねたましいわ、あの子に自分自身として慕われているあなたがね」
「えっと……」
「あたしはあの子にここまで強く惹かれているのに、これほどのせつなさと寂しさを味わう羽目になっている……。それもこれもみんなあなたの所為なのよ。そう、あなたは報いを受けるべきなんだわ。今すぐにトイレに流してあげるから、覚悟しなさい」
言って、あーちゃんは丸めた雑誌を手に持ってわたしにさっきを向けました。
「ひーんっ」
「死になさい。虫のようにっ、虫のようにみじめに、むごたらしく、一片の慈悲も受けずに潰れ死になさい。そして誰から見送られることもなく、哀れに一人終焉を迎えるのよっ」
「きゃーっ。きゃー、いやーっ。きぁあああああああ」
「きゃぁああああっ!」
全身に汗をかき、わたしは真っ白なベッドから置きだしました。
「死ぬかと……死ぬかと思った……」
怖い夢。それも、とびっきり恐怖的でアタマのおかしなまさしく悪夢。
わたしはぼんやりと部屋に備え付けられたアナログ時計を覗きます。しばし目をぱちくりさせて、そっと溜息を吐きました。デジタルならばともかくとして、わたしは時計の見方というのがよく分かっていないのです。ただ部屋の暗さから消灯時間を回ったことは分かりました。
なんであんな夢、見たんだろう。
とんでもなく恐ろしい夢ではありましたが、それはわたしの望んだ光景でもあったかもしれません。ハカセくんはつかさちゃんの死を受け入れず、あーちゃんはハカセくんを気に入って、そこにわたしが入って輪を作る。それはやっぱり、愉快な未来のはずでした。けれどもそれはどこまでも歪で有限で、何一つとして正しくないものでした。
わたしはそっと起きだして、夢の中でわたしをしばき殺そうとしたあーちゃんの布団を確認します。
「誰もいない……」
わたしは彼女の布団に手を置いて、その空虚な手ごたえに首を傾げます。
「まさか」
わたしはスリッパを履くことも忘れて病室を飛び出しました。
第四錬の屋上には立ち入り禁止処置こそ施されていましたが、出入り口自体には、まだ何の拒絶要素も設けられておらず。風邪を引きそうな冷たい空気の流れる屋上に、わたしは簡単に入っていくことができました。
それもそのはず。第四錬は昔からもっとも自殺者の多い施設であって、その屋上の壁面には大きな鉄網が設けられています。
数メートルに及んで立てられたそれらは、とうていよじ登って乗り越えられる高さではありません。仮にここから飛び降りる者がいるとすれば、縦横の鉄網が交差する四隅の隙間に体を押し込むことのできる、小さくて柔らかな幼い子供くらいのものでしょう。
「あーちゃん」
フェンスに両手をやり、漠然と夜風に吹かれているあーちゃんに、わたしは声をかけました。
「こんな夜中によくないですよ。看護士さんの覚えがよくないと、今後の生活が窮屈になってしまうかも」
「ほっといて」
あーちゃんは鬱屈した声で言いました。
「なんなのよ。……なんでこんなことになるのよ」
わたしはあーちゃんのすぐ隣にたって、一緒に建物の下を眺めます。
ここから覗ける駐車場の一角には黄色いテープが張り巡らされていて、一人の入院患者が飛び降り自殺を決行したことが分かります。十六階建ての屋上から、頭から落下した少年は即死。痛みを感じる暇もなかったそうです。
ハカセくんは死にました。
この真っ白な建物の中では、実によくあること。しかしとんでもなく悲しいできごと。
「大切な人に会いに行ったのかもしれません」
わたしは言いました。
「そうかもね」
あーちゃんは答えます。どこか納得のいかないような。不当に責められている者が、愚痴をこぼすような声でした。
「なんで死んじゃうのよ、あの子……。ハカセくんだっけ? 仲良かった女の子が死んだからって、何もあとを追うことはないじゃない……ほんとバカ」
「その人が自分の裁量で考え抜いて選んだことなら、尊重するべきなのではないですか?」
と、わたしは以前にあーちゃんの言っていたことを口にしました。
「あー。そんなこと言ったね、あたし。ごめんごめん、あたしが間違ってたわよ。……人間って、ただ生きてるだけで色んなところにその存在を撒き散らすのね。人の心とか。そんで死ぬ時になってそいつを一斉に爆発させるのよ。それで、直接話したこともない、まったく無関係のわたしの心まで、むごたらしくえぐるのよ」
あーちゃんは歪に、どこか自嘲めいた笑いを漏らします。
「ガキんちょが。どいつもこいつも、自分が逝ったらどうなるかちょっとは考えられないものなのかしら?」
「それを考えさせてあげるのが、すなわち愛情を注ぐということだと、わたしは思います」
わたしはフェンスに手をかけました。
「ハカセくんは多分、最後の瞬間にそれが足りなくなったのでしょうね。つかささんがいなくなることによって。……わたしと先生でもっと彼を励ましてあげるべきでした。あんな仮初の方法なんかじゃなくて、ないものをあるってことにするんじゃなくて、補ってあまりあるほどの愛情を注いであげるべきだったんです」
「はんっ。よくも無関係のガキにそこまでできるもんだわ」
「彼はお医者様ですから」
「あんたはどうなの?」
と、あーちゃんはどこかいぶかしむようでした。
「これでも十階の子供たちの中では年長です。愛情を注ぐことは、愛情を注ぐ側のほうがむしろ救われるんですよ。ここでは重要なことです。今回のような場合もありますが」
「何が年長よ。ちび」
わたしは少しむっとしました。
「縮小したマネキンみたいな格好しやがってさ。病人ってみんなそうなの? あんた、よく死なないよね。あの痩せた医者モドキもさ。本当すごいわ」
そういって、あーちゃんはフェンスのスキマに右手を差し込みました。
「ねぇあんた。全部あんたの言うとおりにしといたら、あのがきんちょは死ななくて良かったと思う?」
核心めいたその問いかけに、わたしは答えます。
「分かりませんね。今となっては、あんな子供だましで彼の心を掌握できると考えたのが愚かしかったのかもしれません。愚弄していた、といわれても仕方がないと思います」
わたしは少し目を伏せました。
「おそらく彼は、わたしたちのしていたことを何もかも悟っていたんだと思います。そんな顔をしていましたから。だからあなたはやっぱり正しかったんです」
「だけど。正しかった所為であのがきんちょは死んじゃった」
「あなたが責任を感じることではありません。何もかも自分の所為だとしてしまうのは、子供染みていますよ?」
「だけど……」
あーちゃんはそこで口ごもり、暗い顔をして自分の足元を見詰めます。
「なんにせよ、わたし達は彼の死について悩み、考えなければならないのです。彼はだからつかささんの死について考え、このような結末を選びました」
わたしは漠然と、星の散らばった夜空に目を向けます。
「今となっては、彼が天国でつかささんと仲良くしていることを願うばかりです」
「……何それ。意味あんの、それ?」
「ありません。だけど残されたものが少しでも救われるにはこの方法しかありませんので。知っていますか? 人間はすべての生き物の中で、唯一他者の死を悼むんです」
わたしとあーちゃんは二人で空を見上げました。
そこではハカセくんとつかさちゃんが手を繋いで笑っていて、わたしたちのことを見守っている。
何もできなかったわたしたちがそんなことを夢想するのは、少しばかり卑怯なのかもしれません。そう思いつつも、わたしは空に浮かぶ星々に向けて頭を下げ、口元でこう囁きました。
今まで騙していて、どうかごめんなさい。
もっと生きていて欲しかった。
読了ありがとうございます。
某サイトの反応をうかがったところ、どうも一番浮いた印象があったのがこちらの話ということで。死体が登場したり、結構いやなエピソードになったのかなとも思っています。
今後の『逆さちゃん』はコメディタッチなものを目指したいと思います。
とりあえず次の投稿はどんなに遅くても今週中に行いたいと思います。ストックを行なうかどうかもまだ決めてません。ぶっちゃけ、他に描いてるものがたくさんあったり。
某サイトで活動した分も含めて、色んな長編を連載して行こうと思いますので、危篤な方はそっちの方も読んでいただけると光栄です。
それではどうか、これからもお付き合いいただけると幸いです。