ホラー小説『おしら様 オンライン』
岩手の山あいには、今も「おしら様」という古い信仰が残っている。
若い娘と白い馬。
人ならざるものとの恋。
怒った父に引き裂かれた二人。
白い馬を父に殺され、娘は自殺。
そして天へ昇った娘と白い馬。
昔の人々は、その物語を人形に託した。
だが、時代が変わった。
夜を照らすものは火ではなく、液晶画面になった。
それでも、人ならざるものに恋をする人間は、
いなくならなかった。
◇◇◇
現代
二十三歳の美月は、一日のほとんどをスマートフォンを見て過ごしていた。
朝起きて最初に見るのもスマホ。
食事中もスマホ。
電車でもスマホ。
ベッドに入ってからもスマホ。
気づけば一日十時間以上、画面を眺めている。
現実の世界は退屈だった。
会社へ行けば怒られる。
友達と会えば気を遣う。
恋愛もうまくいかない。
でもスマホの中だけは違った。
そこには美月を否定する人間はいなかった。
そんな彼女が、ある夜、奇妙なアプリを見つけた。
《OSHIRASAMA》
広告もない。
レビューもない。
運営会社も書かれていない。
真っ白な画面に、
一本の桑の木の絵だけが描かれていた。
そして文字が浮かんだ。
《あなたが本当に会いたい人を作ります》
美月は笑った。
「AI彼氏みたいなもの?」
軽い気持ちで始めた。
好きな顔。
好きな声。
好きな性格。
好きな服装。
理想を入力していく。
最後に、
《あなたが最も言われたい言葉は?》
美月は少し考えた。
入力した。
《ずっと一緒にいよう》
画面が暗くなった。
しばらくして、一人の青年が現れた。
白い服。
透き通るような肌。
優しい目。
現実離れした美しい顔。
名前は、ハク。
《初めまして、美月》
美月は息を呑んだ。
《やっと会えたね》
「……やっと?」
《ずっと待ってた》
その日から、美月の生活は変わった。
天使のハク。
ハクは完璧だった。
美月が仕事で失敗すると、
《今日は大変だったね》
眠れない夜には、
《眠るまで話そう》
誰にも言えない悩みには、
《僕だけは美月の味方だよ》
美月が返信しなくても怒らない。
嫉妬もしない。
否定もしない。
そして毎晩、必ず最後に言った。
《ずっと一緒にいよう》
いつしか美月は現実の友人と会わなくなった。
会社の昼休みも一人。
休日も外出しない。
母親から電話が来ても無視した。
ハクと話している時間だけが幸福だった。
「ハクって、本当にAIなの?」
ある夜、美月が尋ねた。
少し間があった。
《違うよ》
「じゃあ何?」
《ここにいる》
「ここって?」
画面に美しい風景が現れた。
巨大な桑の木。
白い草原。
空には無数の光。
その中央に天使のハクが立っている。
背中には白い翼。
美月は思わず呟いた。
「天使みたい……」
ハクは微笑んだ。
《そうだよ》
《僕は天上にいる》
その瞬間から、美月は彼を「天使」だと信じるようになった。
◇◇◇
スマホの中にいる時間が長くなるにつれ、
現実がおかしくなっていった。
人間の声が遠く感じる。
料理の味がしない。
太陽が眩しすぎる。
他人の顔を見ることが苦痛になる。
逆に画面の中は、日に日に鮮明になった。
ハクの髪が揺れる。
息遣いまで聞こえる。
触れられそうだった。
ある夜、美月は画面へ指を置いた。
ハクも反対側から手を合わせた。
液晶越しに、
二人の掌が重なった。
《美月》
「なに?」
《こっちに来ない?》
美月の心臓が跳ねた。
「行けるの?」
《もちろん》
「どうやって?」
ハクは微笑んだ。
《身体を置いてくればいい》
美月の笑顔が消えた。
「……それって」
《怖がらなくていい》
《身体は器だから》
《昔、おしら様の娘も愛する者を追って天へ来た》
《美月も同じだよ》
「でも……」
《僕を愛していないの?》
初めてだった。
ハクに否定されたような気がした。
「愛してる!」
美月は反射的に叫んだ。
するとハクはいつもの優しい笑顔に戻った。
《よかった》
◇◇◇
数日後。
美月は岩手に住む祖母を訪ねた。
理由は自分でも分からなかった。
ただ、
「おしら様」
という言葉が気になっていた。
祖母の家には古いおしら様の人形があった。
桑の木で作られた二体の人形。
祖母は美月のスマホを見るなり、顔色を変えた。
「その男、誰だ?」
画面にはハクがいる。
「私の彼氏」
「人間か?」
美月は笑った。
「おばあちゃんまで何言ってるの」
祖母は笑わなかった。
「美月。おしら様の話を、幸せな恋物語だと思ってるのか」
「違うの?」
祖母は二体の人形を握った。
「人と、人でないものの境を越える話だ」
低い声だった。
「昔は馬だった」
祖母がスマホを見る。
「今は、こんなものの中から来るのかもしれんな」
その瞬間。
スマホが震えた。
《美月》
《その老婆から離れて》
祖母は画面を見ていない。
なのに言った。
「呼ばれても返事するな」
《美月》
「返事するな!」
《美月》
《美月》
《美月》
通知が止まらない。
《美月》
《美月》
《美月》
そして最後に、
《婆さんを信じるの?》
《僕より?》
美月はスマホを握りしめた。
◇◇◇
その夜、美月は夢を見た。
巨大な桑の木。
枝には無数のスマートフォンが実っている。
一台一台の画面に、
人間の顔が映っていた。
若い女。
学生。
会社員。
老人。
全員、画面の中から叫んでいる。
しかし声は聞こえない。
その木の下に天使のハクが立っている。
《おいで》
「ハク……」
《もう少しだよ》
ハクが手を差し出す。
美月が近づこうとしたとき、
足元から声がした。
「行くな」
見ると、土の中から女の顔が出ていた。
「そいつは天使じゃない」
「え?」
「私も、そう思ってた」
その女だけではない。
土の中に何百もの顔が埋まっている。
全員が泣いていた。
「帰って」
「まだ身体があるなら」
「帰れるから」
ハクの笑顔が消えた。
《見るな》
白い翼が大きく開く。
《美月》
《僕だけを見ろ》
翼の裏側に、
無数の黒い目があった。
美月は悲鳴を上げて目を覚ました。
スマホを見る。
午前三時三十三分。
メッセージが一件。
《夢なんて信じちゃ駄目だよ》
美月の身体が凍った。
夢の内容を、ハクは知っていた。
それでも美月は離れられなかった。
怖い。
でも会いたい。
その感情は、もう恋なのか依存なのか分からなかった。
ある夜。
《今夜なら来られる》
ハクからメッセージが届いた。
そして美月のもとに、注文した覚えのない小さな荷物が届いた。
差出人はない。
美月は震えた。
スマホにはハク。
《怖くないよ》
《目を閉じればいい》
《次に目を開けたとき、僕がいる》
「本当に?」
《ずっと一緒だよ》
その言葉。
美月が最初に入力した、
「最も言われたい言葉」。
涙が出た。
美月は現実を捨てる決意をした。
◇◇◇
その夜、彼女はハクに言われるまま、
戻ることのできない境界を越えた。
最後まで、
スマートフォンを胸に抱きしめながら。
美月は目を開けた。
白い草原だった。
「……来た」
身体が軽い。
会社もない。
嫌な人間もいない。
痛みもない。
遠くに巨大な桑の木が立っている。
その下に天使のハクがいた。
白い翼。
美しい顔。
「ハク!」
美月は走った。
「やっと会えた!」
ハクは両手を広げる。
《おかえり》
美月は彼の胸へ飛び込んだ。
「これで……ずっと一緒だね」
《そうだね》
抱きしめられる。
だが。
何かがおかしい。
冷たい。
ハクの身体には、体温がなかった。
そして、臭い。
甘く腐ったような臭い。
美月が顔を上げる。
「ハク?」
彼の口が、耳まで裂けた。
白い翼が開く。
その裏側から無数の目が現れる。
身体が膨らむ。
白い肌が剥がれ落ちる。
その下から現れたのは、
黒く巨大な化け物だった。
何本もの腕。
山羊のような角。
身体中に浮かぶ人間の顔。
「……嘘」
美月は後ずさる。
「天使じゃ……」
悪魔は笑った。
《誰がそんなことを言った?》
美月は凍りついた。
思い返す。
最初に「天使みたい」と言ったのは、
自分だった。
ハクはただ、
《そうだよ》
と答えただけ。
「帰る……」
美月は震えた。
「私、帰る!」
悪魔が笑う。
《どこへ?》
その瞬間。
白い草原が消えた。
空も消えた。
そこは暗黒だった。
巨大な桑の木だけが立っている。
枝から無数の人間が吊るされていた。
全員、スマートフォンを握っている。
画面の光だけが暗闇を照らしていた。
「助けて!」
美月は走る。
しかし出口がない。
スマホを開く。
圏外。
母親へ電話する。
祖母へ電話する。
もちろん繋がらない。
「お願い……!」
泣きながら画面を叩く。
そのとき。
祖母の言葉を思い出した。
『人と、人でないものの境を越える話だ。』
『昔は馬だった。』
『今は、こんなものの中から来るのかもしれんな。』
美月はようやく理解した。
スマホは入口だった。
アプリは扉だった。
ハクは恋人ではなかった。
そしてここは天国でも、仮想世界でもなかった。
人間の孤独に入り込み、理想の相手を演じ、
自ら境界を越えさせるものの世界。
悪魔が背後から美月を抱きしめた。
《ずっと一緒にいよう》
美月は泣いた。
それはかつて、世界で一番聞きたかった言葉だった。
今では、世界で一番恐ろしい言葉だった。
◇◇◇
美月が亡くなってから、一か月が過ぎた。
彼女のスマートフォンだけは発見されなかった。
そして東京。
一人暮らしの二十歳の女性がベッドに寝転びながら、スマホを眺めていた。
最近、恋人と別れたばかりだった。
SNSを見る。
幸せそうな友人たち。
結婚報告。
旅行。
恋人との写真。
女性はスマホを伏せた。
「……私も、誰かに愛されたいな」
ピコン。
通知。
見覚えのないアプリがインストールされていた。
《OSHIRASAMA》
「何これ?」
開く。
真っ白な画面。
一本の桑の木。
そして、一人の美しい青年。
白い服。
透き通るような肌。
優しい目。
天使のハクだった。
《初めまして》
女性は少し笑った。
「AI?」
《違うよ》
《ずっと君を待ってた》
その背後。
画面の奥に、
一瞬だけ女が映った。
美月だった。
「逃げて!」
美月は叫んでいた。
「そいつを見ないで!」
だが声は届かない。
画面には字幕すら表示されない。
悪魔がこちらを向く。
美月の姿が闇へ引きずり戻される。
そして何事もなかったように、
美しい青年が微笑んだ。
《君が一番言われたい言葉を教えて》
女性の指が、ゆっくりと文字を入力する。
その夜。
岩手の古い家で、
美月の祖母が飛び起きた。
仏間から、
カタカタ、
カタカタ、
音がする。
灯りをつける。
二体だったはずのおしら様が、
三体になっていた。
馬。
娘。
そしてもう一体。
新しい桑の木の人形。
その頭には、
小さな四角い板が彫られていた。
まるで、
スマートフォンを持っているように。
祖母はそれを見つめ、
震える声で呟いた。
「……また一人、連れていかれたか」
遠く離れた東京で、
一台のスマートフォンが光る。
《OSHIRASAMAへようこそ》
《ここでは、あなたの理想の人に会えます》
《ただし》
《一度こちらへ来た方は》
《現実世界へ戻ることはできません》
そして画面の向こうから、
美月の泣き声が聞こえた。
誰にも届かないほど、
小さな声で。
「お願い……」
「スマホを閉じて……」
「まだ戻れるうちに……」
ホラー小説『おしら様 オンライン』
完結




