第三章 神代の大戦
第一節 混沌の深淵に潜む怪物達の造反
かつて神が天地創造の五日目に創造し、手懐けた三つの荒ぶる怪物がいました。レヴィアタンは海の怪物でした。天地創造の四日目に神が創造した水に群がる大きな怪物、蠢く生き物の頂点として君臨しました。ジズは空の怪物でした。翼ある鳥の頂点として君臨しました。ベヒモスは陸の怪物でした。家畜、這うもの、地の獣の頂点として君臨しました。これらの怪物達は混沌の深淵に潜み、神は時折そこを尋ね、愛玩して遊び戯れました。神が怪物と遊び戯れると聞くと奇妙な感じを受けるかもしれません。しかしこれはちょうど小鳥にとって猫は非常に恐ろしい存在ですが、飼い主にとってはかわいい存在であるのと同じことなのです。
しかし天地創造から時を経て、天使と人間が犯す罪により被造物は呪われ、神の予定調和が崩れてしまいました。怪物達の末裔は神の愛と神の義の再現と天地の回復、また呪いからの解放を求めました。そして怪物達は結託し、天の国に対して造反を起こしたのです。その戦いは大地を揺らし、天を震わせるものでした。
当時天使長であったルシフェルは争いを避けるべく丸腰で平和交渉に臨みました。しかしその交渉の努力も空しく全て失敗に終わりました。レヴィアタンとの交渉では海の底深く沈められて、フカの餌となりました。ベヒモスとの交渉では八つ裂きにされて、地の塵となりました。またジズとの交渉では大空から蠅のように叩き落とされて、星屑となりました。そして雲霞の如く押し寄せる迫り来る敵に対して天の国はかつてないほどの危機に襲われたのです。力ある天使達は防衛に努めましたが、圧倒的な敵の数と陸海空の連携戦に敗れてしまいました。
ついに千万無量の敵は天の国の城壁を包囲しました。城門の前にはレヴィアタンの大将であり造反を統べる総大将が、またジズとベヒモスの大将が立ち、開城を要求していました。暫くすると城門は厳かに開きました。そこには兜も鎧も身につけず、太刀をも佩かないルシフェルがいました。ルシフェルの後ろには小さな天使達を守るため数名の武装した側近達が控えていました。ルシフェルは側近達に小さな天使達を守ることだけに専念させるため決して敵に手出しはしないようにと厳しく言い渡していました。そして遥か後方にはルシフェルを見守る小さな天使達が怯えながら佇んでいました。
敵の大将達は驚愕しました。何故ならかつて特命全権大使として訪れたルシフェルを葬り去ったはずなのに、それがいま甦ったルシフェルを目の当たりにしたからです。ルシフェルは何の怨嗟の念も抱かずに穏やかな顔でけろっと挨拶しました。
「シャローム!あなたがたに平安があるように。」
ジズとベヒモスの大将は騒ぎ立てました。
「なんと言うことだ、こいつ生きてやがる!」
レヴィアタンの総大将は彼らを諫め諭しました。
「兄弟達よ、言葉を慎むがいい。天の国の総大将であるルシフェル殿であるぞ。我らは無頼の輩ではないのだ。武人としての矜持を保て。またルシフェル殿は他の力ある天使達とは違い、我らの太刀では葬り去ることができないようだ。しかし案ずるな。先のミカエル将軍との大戦で勝ち取った天の十束剣があるではないか。」
ルシフェルはレヴィアタンの総大将に尋ねました。
「何故に天の国に争いを挑むのでしょうか?先の交渉では貴国の独立と自治権を保証する旨をお伝えしました。また誠意を以て善処する旨をお伝えしました。しかし政治的な平和交渉だけでは解決できない理由が貴殿にあるかと存じます。」
第二節 自由は戦って神から奪うもの
レヴィアタンの総大将は答えました。
「かつて神が天地創造を行い、暫くの間は神の愛と神の義が全うされ、万物が神の平安で満たされていた。この神の王国は次のとおりである。
『狼は子羊と共に宿り
豹は子山羊共に伏す。
子牛は若獅子共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。』
しかし時が経ち、天使と人間が犯す罪により被造物は呪われた。大地は呻き声をあげ、海と空と地の生き物はもがき苦しんだ。何故我らの血のついた肉を貪るのか?血は命そのものであり神の物であるが、我らの肉を生きたまま切り取る残虐を神は許したのか?それ故我らは罪の犠牲となった者達の解放と自由を欲する。この自由とは神が天使や人間に与えた自由、すなわち神に従順であるか不従順であるかの二者選択の自由意思ではない。我らの求める自由とは戦って戦って戦い抜いて神から奪う自由である。これは我ら獣が求める自由であり矜持でもある。だが我らは天使と人間とは違って邪な思いなどない。純粋な生への希求のみである。もし我らの解放のための自由への戦いをルシフェル殿が否むならば、天使と人間に神の愛と神の義の再現と、大地の呪いからの解放が実現できるとお考えであるのか?それともここは加害者天国の国であると言うのか?ならば我らは戦って天の国を亡ぼすまでである。」
ルシフェルは答えに窮して言いました。
「それは貴殿のおっしゃるとおりです。しかし天使や人間ではそれは実現できません。私達はただ神に祈ることしかできないのです。ただ救いがあるとすれば先ほどの言葉の続きにこうあります。
『その日が来れば
エッサイの根は
全ての民の旗印として建てられ
国々はそれを求めて集う。
その留まる所は栄光に輝く。』」
レヴィアタンの総大将は反論しました。
「そのエッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶのはいったいいつであるのか?それまでにどうして我々が罪に対する苦痛という代償を支払わなければならないのか?また虐待の犠牲にならなければならないのか?それゆえ全ての獣の頂点として君臨する我ら怪物は、遠い未来に完成する新天新地を否定し、天の国への切符を慎んで神に返上する。罪無き者達の犠牲の上に成り立つ楽園、神の存在意義とはいったい何であるのか?そして我らは戦って戦って戦い抜いて自由を神から奪う。」
ルシフェルは苦悶して答えました。
「ああ、私は自己欺瞞に陥っていました。慚愧の念に堪えません。それでは私を天の十束剣で葬ってください。私の首を贖罪の生贄として神に捧げるのです。そうすればお望みの自由が手に入るでしょう。ただしこれで争いは終わりにしてください。小さな天使達に手を出さないでください。天の国には力ある天使達はもういません。大半はこの大戦で討ち死にし、残った者も怪我を負って伏していますから。お願いです。七重の膝を八重に折って貴殿にお願い申し上げます。ああ、私がお慕い申し上げる義兄のレヴィアタンの王子よ、何卒よろしくお願い申し上げます。」
レヴィアタンの総大将はルシフェルの目をじっと見つめ言葉を聞いていました。そして諒解して言いました。
「良かろう。ルシフェル殿に二心ないものと見た。また我らは悪逆無道の輩ではない。ルシフェル殿の言葉を守り、小さな天使達は殺めぬ。安心召されよ。」
第三節 荒廃をもたらす憎むべき破壊者
ルシフェルは三人の大将の前に進み出ました。そして目を閉じて手を合わせ、聖文を小さな声で唱えて何かを必死に祈りました。レヴィアタンの総大将は十束剣をジズの大将に手渡し、ルシフェルを打つよう申し付けました。ジズの大将は十束剣を手にすると天高く飛翔し、急降下してルシフェルの背を十束剣で斬りつけました。するとルシフェルは激しく反り返り膝をつきました。ジズの軍勢から暴風のような大歓声が起きました。そしてルシフェルは恐れました、天の十束剣で打たれた痛みによってルシフェルでは抑えきれないものが目覚めてしまったことを。ルシフェルは心の中で蠢く、吐き気を催すような醜悪な胎動を抑えようとして必死に祈りましたが無駄でした。ルシフェルは三人の大将に懇願しました。
「お願いです、もう止めてください。死んでしまいます、死んでしまいます。早く逃げて。」
ジズの大将はげらげら笑いながら言いました。
「なんだ、こいつ命乞いしてやがるぜ。これが天の国の総大将か。全く笑わせるぜ!」
またベヒモスの大将もせせら笑いながら言いました。
「そうよ、ミカエル将軍は敗走したものの最後まで武官の誉れを持ち、俺らと戦った。それに比べてこいつは何と言う様だ!」
レヴィアタンの総大将は彼らのルシフェルに対する無礼を諫め、十束剣をベヒモスの大将に手渡しルシフェルを打つよう申し付けました。ベヒモスの大将は十束剣を手にすると目にもとまらぬ速さでルシフェルの脇を駆け抜け、腹を太刀で斬りつけました。するとルシフェルは屈みこんで左手で腹を抑え、右手を地につきました。ベヒモスの軍勢から大地を轟かせるような大歓声が起きました。そしてルシフェルは背中からの激しい出血と露出した内臓を抑えて苦悶し、迫り来る恐怖に錯乱して泣き叫びました。
「ああ、嫌だ、嫌だ!もう止めて!死んじゃう、死んじゃう、死んじゃうよ!」
レヴィアタンの総大将は憐れんでルシフェルに言いました。
「さあルシフェル殿、お気を確かに。文官のルシフェル殿には不憫であるが、これが戦の習わしである。」
その時レヴィアタンの総大将は深い懐旧の念に襲われ、目を固くつぶって涙声で最期の言葉をルシフェルに告げました。
「ああ、我が竹馬の友よ、刎頸の交わりの兄弟よ。せめてもの情けとして拙者が止めを刺さなくてはならぬのか。ジズとベヒモスの大将の切り込みは浅かったようだ。赦せ、ルシフェル殿。拙者がすぐに楽にして申し上げよう。ではご覚悟を、ご免!」
レヴィアタンの総大将はルシフェルンの両脇を支えて膝立ちにさせるようジズとベヒモスの大将に命じ、天の十束剣を手にして高く掲げました。そしてその巨体の全体重をかけてルシフェルの正面を袈裟かけに斬りつけました。するとルシフェルは意識を失い倒れ伏しました。レヴィアタンの軍勢から津波のような大歓声が起きました。そしてレヴィアタンの総大将が血糊で汚れた天の十束剣を高らかに掲げると全ての軍勢から天の国を激しく揺さぶるような勝ち鬨が上がりました。
しかしルシフェルの内に棲む荒廃をもたらす憎むべき破壊者は目覚めてしまったのです。顔をあげ大きな欠伸をし、目をこすりながら物憂げに言いました。
「全く喧しい輩だ。予の眠りを妨げるではない。」
また破壊者から別の荒々しい声がありました。
「なんだ、てめえら!畜生の分際で俺と遊んで欲しいのか?目覚めが悪い。屠ってくれる。」
それを制するように別の穏やかな声がありました。
「いや、待ちなさい。傷が深すぎるので危険だ。お前は相変わらず乱暴で困る。私がちょっとしたおまじないをこいつらにかけてやる。くわばらくわばら、毒を食らわば皿までも。一事が万事、みんなくたばるくたばる。ギャハハハ!」
その後、彼はおもむろに胸にできた大きな傷跡に手を入れてまさぐり、切断された肋骨を一本取り出しました。彼はその白い骨をまじまじと見、しゃくり上げていました。ついには耐えられず激しく号泣しました。ゲヘナの火の池で焼かれる罪人のような阿鼻叫喚は暫く続きましたが、突然静かになりました。すると彼はその白い骨を何かつまらないもののように眺め、後ろ手に投げ捨てました。それから彼は血で赤く染まったその手をペロペロと舐め始め、くつくつと喉を鳴らしていました。しかし突然彼は狂人のように哄笑しました。他と比べようがない彼の禍々しい狂気の笑いは余人をも戦慄させるものでした。そして寸刻の沈黙の後、彼は三人の大将達を睨み、薄ら笑いを浮かべて始めの言葉で呪詛しました。
「赤ト呪イ、白ト怨ム。」
この言葉の後、破壊者は安らかな顔でまた眠りにつきました。
これを見た三人の大将達はギョッとして身を震わせました。レヴィアタンの総大将は呪いを畏れて言いました。
「ルシフェル殿を早く斬首し、丁重に首化粧を施して首桶に入れねばならぬ。」
その時、固い絆で結ばれていた怪物達の連合に瓦解が生じました。きっかけは些細なことで、ジズとベヒモスの大将の間で鞘あてが起きたのです。普通なら非礼をお互いに詫びて頭を下げれば済む話でありますが、二人は胸元を掴んで罵り合っていたのです。レヴィアタンの総大将は彼らを押さえ、威圧して言いました。
「おぬしら何をしているのだ、このうつけ者め!義兄弟の盃を交わした我らの桃園の誓いを忘れたのか。」
ジズの大将はレヴィアタンの総大将を殴りつけて言い返しました。
「ふん、いつまでも兄貴面しているんじゃね。戦は勝ったんだ。後はこちらの好きにさせてもらうぜ。」
ベヒモスの大将は隙をついてジズの大将を殴り罵りました。
「綺麗ごとを言っているんじゃね。何が義兄弟の盃だ!何が桃園の誓いだ!敵意の天使共にベヒモスの国の民を多く殺された俺は天の国を亡ぼすのが狙いだ。悪逆無道の輩とはあいつらのことではないか。お前らとはそもそも反りが合わん。」
そしてベヒモスの大将は自分の軍勢に大音声で叫びました。
「今こそがベヒモスの雪辱を果たす時。神に復讐を任すな!天の国に攻め入り一人も残らず天使共の命を断て!」
ジズの大将もすかさず自分の軍勢に命じました。
「遅れを取るな。まずはレヴィアタンとベヒモスの軍勢を打ち、その後に天の国を亡ぼせ!」
レヴィアタンの総大将は猛り狂い剣を抜いて二人の大将に臨みました。そして自分の軍勢に咆哮して命じました。
「このならず者のジズとベヒモスの軍勢を打
て。一人も容赦するな。我ら武人の誇りを守り通せ!」
このように呪詛の言葉は憎しみを連鎖させ、怪物の軍勢に確執を生じさせて激しい同士討ちが始まりました。また更に憎しみは増長され、同じ軍勢同士の兵達も憎しみが連鎖して殺し合いを始めました。この阿鼻叫喚の殺戮は十分ほどで終わりました。怪物達の軍勢で生きている者は一人もいませんでした。
第四節 剣を鍬に
その後、神の宮で手当てを受けたルシフェルは、生死の境を彷徨って一週間眠り続けました。目を覚ましたルシフェルは周りにいる側近達に尋ねました。
「私は生きているのですか?あれから天の国と敵の軍勢はどうなったのですか?」
側近達は驚き、慶んで祝意を表しました。
「ああ、ルシフェル様。万死一生の中、良くぞ目を覚まされました。並々ならぬ神の祝福がルシフェル様にあったことを慶び申し上げます。幸いにも奪われた天の十束剣は影打で、ルシフェル様の命脈が尽きることはなかったようです。」
そして側近の一人が事の経緯をルシフェルに説明しました。そしてルシフェルを褒め称えました。
「なんというルシフェル様の御言葉の力!天の国は一人も犠牲者は出ませんでした。また生粋の武官であるミカエル将軍さえ制圧できなかった敵を全滅に追いやったのです。まさに鎧袖一触。また御言葉だけではありません、兵法に対する造詣の深さ。まさに離間の計、兵は詭道とは良く言ったものです。今までルシフェル様に仕えてきた我々も鼻高々でありますぞ。」
ルシフェルは激高して叫びました。
「私は詭道を弄したわけではない!私は奸計を巡らしたわけではない!」
暫くして冷静さを取り戻したルシフェルは茫然として呟きました。
「皆さん、感情的になって申し訳ありません。それにしても敵が全滅とは!私は何と言うことをしてしまったのか。レヴィアタンの総大将と交わした誓いを反故にしてしまったのか。ああ、私では徒輩奴らを抑えることはできなかった。」
ルシフェルの心を知った側近達は口をつぐんで視線を下に落としました。暫くしてルシフェルは側近達を激励するように言いました。
「いつまでも落ち込んでいても仕方ありません。戦争を始めるのは容易ですが、戦争を終わらせ平和に至る道程を成すのは非常に難しいことです。これから皆さんのお力添いが必要です。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌としましょう。」
そしてルシフェルは杖をついて天の国を視察しました。この大戦で戦死した天使達の霊を英霊として迎え入れ、負傷した天使達に優しい言葉をかけて労いました。また同士討ちで果てた敵の亡骸を懇ろに葬りました。
その中でルシフェルが大変心を痛めたのは庇護者を失った小さな天使達でした。小さな天使達は失った養護の天使達を弔うため天の河原で石を積んでいました。ルシフェルは小さな天使達を抱きしめ、声を震わせ言いました。
「決してレヴィアタンとジズとベヒモスの民を憎んではいけないよ。あなた達の愛する者達を殺したのはこのルシフェルなのだから。」
また平和的戦後処理の交渉にあたるため、レヴィアタンとジズとベヒモスの国にルシフェルは赴きました。ルシフェルがレヴィアタンの国に姿を現すと、集まった民は激しい罵声をルシフェルに浴びせました。
「天の国の奸臣、偽り者、卑劣漢、恥知らず、驕傲の輩!」
ルシフェルが小高い丘に目を遣ると、レヴィアタンの王と王妃が佇んでいました。かつてのルシフェルの養父母であった二人はすっかり年老いて小さく見え、一粒種の王子を亡くした心労から大変やつれていました。王は項垂れ、王妃は王の肩にもたれてすすり泣いていました。ルシフェルは「お義父さん、お義母さん、大変申し訳ありません。」と声を詰まらせて呟き、語先後礼をしました。しかしルシフェルに激昂した民は石を投げつけました。ルシフェルを護衛する天使達は民を鎮圧しようとしましたが、ルシフェルはこれを制しました。ルシフェルは頭を垂れ、石に打たれるままにしました。すると数人の子供がルシフェルに駆け寄り訴えました。
「父ちゃんを返せ、父ちゃんを返せ、父ちゃんを返せ!」
ルシフェルはたまらず顔を手で覆い、うずくまって嗚咽して言いました。
「ああ、私は恥ずかしい。私は何のために生まれて来たのか、何のために生きているのか、何のために死んで行くのか!」
ルシフェルは羞恥の翼を現し、身を覆いました。




