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第1話

2028年


日本列島は、逃げ場のない灼熱に包まれていた。

特に、私が勤めるA信用金庫がある栃木県のこの町は、隣接する群馬県館林市からの熱風がダイレクトに吹き付ける「灼熱の最前線」だ。


「……はぁ」


風呂上がり、扇風機の風を独占しながら、私はタブレットの画面をスクロールする。

大山博隆、四十三歳。一地方信金の融資課長。

私のささやかな、そして職業病とも言える夜の習慣は、上場企業の決算短信を読み漁ることだ。


「お父さん、またそんなの見てるの? 休みの日くらい仕事のこと忘れなよ」


十九歳になる娘が、コンビニのアイスを片手にリビングへ入ってきた。

彼女は今春、商業高校を卒業し、館林市にある中堅製造業「北関東環境メタル」の工場で事務として働き始めている。


「……金融人の性だよ。お前の勤め先の親会社だろ、ここ。一応チェックしておかないとな」

「ふーん。で、どうなの? うちの会社。潰れない?」

「今のところは大丈夫だ。この物価高と資源高騰の中でも、自己資本比率は維持できているし、キャッシュフローも悪くない。……まあ、苦しいのはどこも同じだがな」


娘は「へぇー」と興味なさそうに返事をして、ソファの端に座った。

家族仲は、決して悪くはない。娘は社会人の先輩として、時折仕事の愚痴をこぼしてくれる。だが、プライベートの話となれば途端にシャッターが下りるし、私の脱ぎ捨てた靴下は、決まって彼女の手でつまみ上げられ、洗濯機へと放り込まれる。


ごくありふれた、どこにでもある家庭。

だが、娘が次に吐き出した言葉が、私の「融資課長としての脳」を鋭く刺激した。


「そういえばさ、最近うちの課長がうるさいんだよね。『これからはAIだ、AIだ』って。何でも一瞬で終わる魔法の道具だと思ってるんだから」

「はは、まあ、現場を知らない人間からすればそう見えるのかもな」




AIも、役に立つのは分かっている。

事務作業の膨大な数字を捌くなら、奴らに任せるのが正解だろう。


だが、人間の感覚も同じくらい大事なのだ。

対人業務までAI化し、無機質な対応に振り切りすぎれば、どこかで必ず不和が生じる。


何事もほどほどが一番――。

そう思ってはいるものの、具体的にどう改善すべきかという代替案があるわけでもない。結局、私は何も言わずに黙り込む。





翌日も、気温は四十度の大台に届こうとしていた。


「本当に、地球はどうしちまったんだ……?」


窓の外、ゆらゆらと立ち昇る陽炎を眺めながら、私は独り言をつぶやく。

にしても、暑い。


「外回りの部下たちはいいな……」


そんな、身の回りレベルの愚痴が口をついて出る。

営業車なら、誰に咎められることもなくエアコンをガンガンに効かせられるだろう。客先に行けば、冷房の効いた応接室が待っているはずだ。


一方、支店の中はどうだ。

固定費の削減を『環境配慮』という耳触りのいいオブラートで包み込み、設定温度を上げたままの信金。


地球規模の環境危機を憂うふりをしながら、実際は数円単位の電気代を惜しんでいるだけだ。

私は、首筋を伝う汗をハンカチで拭い、再び端末に向き直った。




先ほど羨んだばかりの部下が、外回りから帰ってきた。

 だが、その顔を見た瞬間、私の軽口は喉の奥に引っ込んだ。


「お疲れ様。外、暑かっただろう?」


「……課長、ちょっとお話が」


部下の顔は、苦いものを噛み潰したような表情だった。嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。

彼は無機質な、どこか冷めた手つきで、数枚の書類を私の机に並べた。


「なんだこれは? ……ネット証券の取引報告書じゃないか」


そこに並んでいたのは、見覚えのある社名と、信じがたい金額の推移だった。


「田中不動産。……我々が貸し出したローン資金で、金融投資をしていました」


「は……?」


一瞬、思考が停止した。

田中不動産に貸し出しているのは、あくまで「事業ローン」だ。

 

建前も何もあったものではない。

事業に関わる費用に使うからこそ、信金は「この低金利」で金を貸す。それが前提だ。

もし金融投資がしたいのであれば、一般のサラリーマンと同様に、もっと金利の高い個人向けローン、あるいは投資用ローンを組むべきなのだ。


ましてや、相手は不動産屋だ。

彼らもまた、金融に片足を突っ込んでいるプロのはずだ。

 

この金が「何のための金」で、この行為がどれほど重い「規約違反」になるか。

分かっていないはずがない。


「……確実なんだな?」


私は、エアコンの効きが悪い事務室の中で、さっきとは違う種類の嫌な汗が吹き出すのを感じていた。





私は田中不動産へ、立て続けに四回の電話を入れた。

どんなに小さな金融機関であっても、窓口の電話には録音装置が付いている。

ここで証言が取れれば、その瞬間に逃げ場のない「物的証拠」が確定する。


結果は――真っ黒だった。

受話器の向こうからは、何食わぬ、緊張感の欠片もない声が返ってくる。


「……なにかマズいっすか?」


(マズい、なんてレベルじゃない……!)


受話器を握る指が白くなるほど力を込めるが、叫びたい衝動を必死で抑え込む。

田中不動産は最近、代替わりしたばかりだ。長年経営を担ってきた先代が老人ホームに入り、二年前から息子が事業を継承していたはずだ。


嫌な予感がした。まさかこいつは、事の重大さを「そもそも知らない」のではないか。


「……確認ですが、事業ローン資金での金融投資を行ったのは間違いないんですね?」


「だから、何度も言わせないでくださいよ。ちょっと赤字が出たから、株とFXをやったんっすよ」


私は震える声で、最後にして最大の助け舟を出した。


「……個人口座と間違えて、事業ローン専用口座から引き落としてしまった、というわけでは……?」


頼む、そう言ってくれ。そうすれば、まだ「事務的ミス」として処理できる余地が残る。だが、返ってきたのは呆れたような笑い声だった。


「金があるなら使うでしょ。事業の穴埋めに使うんだから、事業の一環じゃないっすか?」


開いた口が塞がらなかった。

 

この瞬間、これは一地域の支店、一融資課長の手に負える案件ではなくなった。

 

私は受話器を置き、すぐに市街地にある本店の「コンプライアンス部門」へ連絡を入れる準備を始めた。

 

結論は見えている。99%、規約違反による残存元本と利子の一括返済処分。

地方の小さな不動産屋が、億単位のローンを今すぐ返せと言われて、生き残れるはずがなかった。

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