第二十話 「北岬」
北岬は、津波の去ったあとの巨大な歯型みたいにえぐれていた。崖肌には海藻が貼りつき、割れた流木が獣の骨みたいに散っている。黒い小艇が一艘、何事もなかった顔で波間に浮かんでいた。
面布を濡らしたアルガスは、糸で固めた右腕の残骸をぶら下げたまま、崖のへりで片膝をつく。面布の裏の口角は、笑っていた。身体は血を失い、笑うしかない。
視界の端で、道化の帽子に鈴が鳴った。絵本から抜けてきたようなピエロ――“紋戯のピクシス”が、ひょいと崖に腰をかける。足をぶらぶらさせ、唇に指を当てて「しー」。
「まちなよー、アルガスくん。目標は達成できたんだ。これ以上ここに用はないよ?」
ピクシスは、袖から小箱を取り出して見せる。細かな風の粒が、箱の隙間からぴりぴり漏れている。大精霊の欠片――それも、一つや二つじゃない。十にも二十にも見える光の屑。
アルガスは面布を上げ、口の端で笑って、腰の袋から“青いブローチ”を取り出した。月を溶かしたような青。彼はそれを、躊躇なくピクシスに投げた。
「目的を果たしたのは、こちらも、だ」
ピクシスは片手でひょいと受け取り、投げ上げ、また受け取って、からかうように目を細める。
「じゃあなんで、セロラを助けに行くのさ?」
「今後もあれの力は要る。水域の掌握は、第四の器をおいて他にない」
「そうかなぁ?」
ピクシスは膝を抱え、靴の先で崖の縁をとん、とん、と鳴らした。
「あの程度の連中に捕まるんだよ。今後の役には立たない。弱いコマ、いらない。ね?」
アルガスは挑発を素通りした。立ち上がる。糸で自分の身体を縫い止め、崖を降りていく。滑って落ちそうな足場に、細い補助糸を渡しながら。
背中で、軽い溜息の音がした。
「じゃあ、キミもいらないってことになるけど?」
言葉と痛みは同時だった。背中の肩甲の下、肋の間。ぬるりと冷たいものが差し込まれ、熱がどっと抜ける。アルガスは振り返る。ピクシスの手の中で、第三律の細身の“突針”が、光を食べていた。
面布の裏の笑いは、そこで初めて止まった。
「五穢律の候補は、まだまだいるからねぇ。そんな弱いのに、ぼくと同じ“穢れ”を名乗らないでほしいな」
ピクシスは、青いブローチを胸ポケットにしまい、欠片の箱を抱えて、黒い小船へひらりと飛び乗った。黒い帆がふくらみ、船底の縫い目が一瞬だけ光る。潮が逆らわず、彼を運ぶ。彼は一度だけ振り返り、手を振った。
「ばいばーい。セロラは……まあ、好きにしなよ」
アルガスは崖の縁に片手をかけ、笑っているのか泣いているのかわからない息を漏らし、崩れた。
波の音だけが、戻ってきた。
◇
結界の“受け皿”に滑り込んだ船は、森の外れの窪地に慎重に下ろされた。甲板の上で、俺は膝からへたり込み、息を吐く。エトが駆け寄ってきて、額を俺の肩に“こつん”と当てた。何か言いたげなんだけど、言葉が出ないみたいで、その代わりに、小さく笑った。
「……誰、そのおじいちゃん」
俺は、結界の縁に立つ老人に目をやった。杖、古い上衣、澄んだ目。ヘイルが仮面越しに肩で笑う。
「じいさん紹介しとけ、エト」
「――十三英雄の一人、エリオスさんです。律の知識なら、右に出る者はいません」
「は?」
俺は思わず指で数を折り始める。
「ひー、ふー、みー……つまり、集まった英雄は五人。まだ半分も――」
「いいえ、五人じゃないです」
エトが淡く首を振り、視線を船縁に向けた。そこに立っていた金の瞳が、きょとんとして俺を見る。
「彼で、六人目です」
「え、ぼ、僕?」
アルセリオは、弓を抱えたまま鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔をした。マリカが口笛を吹き、ヘイルが仮面の下で鼻を鳴らす。俺は――いちばん驚いていた。ひざが勝手に笑う。
「英雄、になっちゃった」
アルは照れ隠しに頬を掻いた。族長の“変な合図”が脳裏をよぎり、妙に納得してしまう自分がいた。
「……まあ、数が揃えばなんでもできる、って話だ」
ヘイルが肩を回してから、縛って転がしてある女――セロラをつま先で示した。
「で、こいつはどうする」
「情報、引き出そう」
マリカが言う。彼女の声は冷えていたが、よく通る。俺も頷く。セロラは目を開けている。けれど、焦点が宙に散っている。“心ここに在らず”。
「目的は?」
答えはない。エトが一歩前に出る。
「禍星の“完全復活”に関わる儀式のために、必要なものを集め、布石を打っている。第四は海、流路、運搬――そういう役割。……違いますか?」
やはり、答えはない。唇の端が、かすかに吊り上がったように見えたのは、気のせいだろうか。
「時間がもったいねえ」
ヘイルが前に出た。仮面の下で目が細くなる気配。彼は躊躇なくセロラの腹――背から貫いた矢の抜けた箇所に、踵を落とした。女の身体が跳ね、息が逆流する。ヘイルはそのまま押さえつけ、傷を“ぐり”と踏む。
「他の五穢律の能力と顔を、順に言え。さもないと――」
「やめろ!」
俺は反射的にヘイルの腕を掴んだ。熱と怒りと恐怖が混ざり、言葉がすべる。
「そんな無理やり聞くな! 俺たちは悪人じゃない!」
「俺は、自分を善人だと思ったことはねぇよ」
ヘイルは静かに言った。仮面の目孔の向こうで、目が笑っていない。
「痛めつけたほうが早いだろ。きれいごとで間に合う相手か?」
張り詰めた空気が、甲板の上で尖る。俺もヘイルも、あと半歩でぶつかるところだった。
「ヘイルは、その女に蹴られて海に落ちたのが、よほど悔しかったんだね」
マリカが、ニヤニヤしながら火に油を注いだ。
「うるせぇ!」
「はいはい、そこまで」
杖の先が地面を“コツ”と叩く。エリオスが前へ出た。笑っている。けれど、目が笑っていない。
「仲間同士で争ってどうする。……その女、笑っておるぞ」
セロラの口角が、確かにわずかに上がった。かすれた声で、一言。
「――滑稽」
「やっと喋ったと思ったら、一言目がそれか!?」
ヘイルは肩をいからせる。エリオスは、にこ、と笑って続けた。
「殴る蹴るより、もっと良い方法があるがの。頭を開口して、ちょちょっといじれば、情報なんていくらでも引き出せる」
沈黙。全員の顔がそろって引きつった。
「爺さんが一番ヤベェよ……」
俺、マリカ、ヘイル、ほぼ同時に同じことを言っていた。エトはぱん、と手を叩く。
「尋問は一旦置いておきましょう。北岬の確認をして、今夜は宴。判断は、その後で」
エトの提案に、場の空気がほどけた。アルは状況の変化にアワアワしている。彼の肩をエトがぽんぽん、と叩いた。
「大丈夫」
「う、うん」
◇
セロラはぐるぐる巻きにされ、ヘイルが背負った。背中で、女は意識を落としたまま、時々小さく息を吐いた。俺たちはエリオスの案内で北岬の縁へ出る。森の切れ間から見える崖線の下で、金の瞳が瞬いた。
「――あそこ」
アルが指さす。千里眼の射程の“粒”が、崖の影に血の色を見つけた。俺たちは走った。
崖下、流木と藻の間に、アルガスが倒れていた。右の肩から背中へ、ひどい刺し傷。糸で自分を縫い止めているが、縫い目はもう機能していない。血は海で洗われ、逆に止まりにくい。
「死なせるかよ、そういう方針らしいからな」
ヘイルがセロラを地に下ろし、アルガスの身体を仰向けにする。エリオスは杖を置き、第二律の“止血”と“縫合”を短く重ねた。指先が正確だ。エトは“癒皮”の式札を要所に貼り、薄い温かさで皮膚を寄せる。
「……意識は戻らん。だが命は繋がる」
エリオスが額の汗を拭った。「ここは風が悪い。わしの隠れ家が近い。運ぶぞ」
全員が頷く。俺はアルと目を合わせ、無言で頷き返した。ヘイルがセロラを再び背負い、俺とマリカでアルガスの担ぎを分担する。エトが前に立ち、森の中の最短の道を“十秒ずつ”開けた。
北岬の風が背中を押す。森は一度、みんなを飲み込み、そして、古い洞の口を吐き出した。
◇
焚き火がぱちぱちと音を立てる。エリオスの隠れ家――第三律の棚と、古い器具と、乾いた紙の匂い。セロラは奥の柱に繋がれ、意識は戻らない。アルガスは室の隅、簡易の寝台で浅い呼吸をしている。
しばしの静寂。誰もが、それぞれの“次”を考えていた。
ヘイルが仮面を外しもせずに、ため息を一つ。「さて」
エトが火に手をかざし、薄く笑う。「今夜は――宴。それから、明日のことを」
マリカがジョッキを掲げた。「船はまた作り直せる。心も、ね」
アルが不器用に笑って、俺を見る。「オイラ、なんか、がんばる」
「みんなで、だ」
エリオスは笑いながらも、目は鋭い。彼の視線は、壁の地図の“北”に止まっている。ピクシスの軽い足音が、どこかで風に紛れて消えた気がした。
青いブローチは、まだ遠く。けれど、道は――繋がった。




