第十七話 「沼の息」
尾根道の風が、ぬめる匂いに変わった。前方一帯は白く低い霧と、腐葉の泡を吐く沼――“硝沼帯”。足を一つ踏み違えれば、膝の上まで飲まれる。
「重盤、三歩先から等間で置く。踏み石にしろ」
ヘイルが掌大の鉄板をひょい、ひょい、と投げ入れる。落ちた瞬間、その一帯の泥が鈍く沈み、面が張る。
「霧を薄く。“鎮霧”は弱めで十分じゃな」
エリオスが杖頭の補助陣を撫でると、霧が糸のように解け、足元の輪郭だけが露わになる。
「……十秒、使います」
エトはティアラに指先を当て、小さく一呼吸。仮初の星が天頂のどこかに灯り、彼女の“星読み”が十秒ぶんだけ蘇る。
「三、二、一――今、右の“固”を踏んで。ヘイルは次の重盤、二歩先」
十秒刻みの指示。重盤の踏み石。第二律の“滑”と“固”を交互に入れた仮足場。三人の歩幅が、徐々に一つに揃っていく。
ぴしゃり、と泥水がはねた。霧の陰から、幅広い頭部がのぞく。淡い緑の鱗に、濁った眼。尻尾に“偽足場”を作る膜を引きずった――霧蜥蜴だ。
「正面、擬踏に乗るな」
エトがペン先を走らせ、蜥蜴が撒く偽の“固”の線を、空に補筆して殺す。
「顎、固定」
ヘイルが吸着掌をオンにして滑り込む。開きかけた顎を下から掴んで――
「無詠の“絡足”。二秒で」
エリオスの指が空を撫で、蜥蜴の脚元に細い札が貼りつく。ばち、と力が抜け、蜥蜴の体勢が崩れる。刹那、ヘイルの短剣が喉房を貫いた。
「連携、よし」
エトが小さく頷く。呼吸の乱れは最小。沼がまた、ぶく、と息を吐いた。
◇
噴気の音が混じり始めた。地面の割れ目から、淡い金色のルアが湯気のように吹く“吹き穴”。その縁に、白い小花を付けた細葉の群生――美楽草が揺れている。
「……これ全部、本物?」
エトがしゃがみ込むと、エリオスがしゃがんだまま指を立てる。
「鼻で嗅げ。真は“甘い後に辛”。偽は“すぐ辛い”。香りの位相差じゃ」
ヘイルがどや顔で懐から壺を出した。「秘蔵“鼻鳴壺”。香りを強調――」
ぷしゅ、と栓を抜いた瞬間、ヘイルだけが盛大にくしゃみを連発した。
「……それ、己だけに効くのか」
「今日はそういう気分なんだよ」
呆れ気味のエリオスをよそに、エトは一束だけ“甘い後辛”の方を丁寧に摘み、紙に包む。欲張らない――草地の精霊を荒らさないのが、彼女の流儀だ。
◇
霧が薄くなると、鏡みたいに滑らかな湖が現れた。周囲の木々が、逆さに深く沈んでいる。“鏡湖”。
「……音が、逆」
エトが首を傾げる。風のさざめきと、波の位相が半拍ずれている。耳の奥で、低い脈動――水圧の“息”が鼓膜を撫でた。
「水竜の回遊圏。しかも番かも知れん」
エリオスが岸近くの石柱を指差す。第三律の観測柱――古い潮刻印が刻まれ、その上に、誰かの補筆痕が被さっていた。過去にもここで“見張っていた”者がいる。
水面が、唐突に盛り上がった。いや、内側へ“凹む”。次いで、細い水の槍が線になって――湖から飛び出した影が、船影ほどの速度で跳ねる。
「来る」
ヘイルが要盾を前に突き出した。水柱の先に、顎がある。鰭の先が刃になった“水脈番犬リムガル”。水面を走る脚で湖上を疾走し、獲物を叩き切る。
「右ひれ、節の三つ目、二歩分下!」
エトの声に、ヘイルが半歩ずらす。“重盤”を足元に叩き込み、受け止めた衝撃を横へ流す。
「反詠障、散布」
エリオスの札が、水柱に張り付いて“加速”の律を鈍らせる。その刹那を、エトが逃さない。
「今、刃気」
ヘイルの腕に薄く刃気が走り、リムガルの鰓の節だけを横一文字に断つ。水が赤く咲いた。番犬は二度、三度と跳ねて、湖へ沈む。
波の向こう側、鏡のような水面が、一点だけゆっくりと割れた。巨大な何かが、こちらを“見て”いる。
「――まだ挑発じゃ。動くな」
エリオスが囁いた直後、湖面が内側へと逆流した。水が、こちらの足元から“持ち上がる”――
初接触の一瞬手前で、三人は同時に息を止めた。
――
甲板のローテが白墨で記され、朝の海風が帆布を鳴らす。マリカが短く言う。
「稽古は仕事の合間に。タケシは“三秒”。できるまでやる」
「了解」
俺は“簡盾→鎖錨→鉤綱→回環刃”を三秒で切り替える反復に入る。呼吸を合わせ、手を先行させ、視線は周囲。足は常に“滑”の線を探す。
アルは弓弦を指で弾き、小さく精霊に呼びかける。「風の子、矢じりを撫でて」。矢羽がかすかに震え、微かな追い風が矢に乗る。
「疲れたらすぐ言え。第四は“やり過ぎると”反動が来る」
マリカが監督に立ち、黄の弾殻を指先で転がした。
午後、見張りが“帆の影”を指差して叫んだ。
「帆喰い!」
翼が板のように広いエイが群れで迫る。帆布を食い破り、海に引きずり込む奴らだ。
「私が崩す。準備!」
マリカが“黄”を二発、群れの先頭に撃ち込む。視界と平衡を乱されたエイの隊列が波形を崩す。
「青、二秒後に追撃。水、借りるよ」
バケツから水面を舐め、弾を帯水で発射。先頭のエイの口腔から内部に“水穿”が爆ぜる。
「今だ、引け!」
「“鎖錨”!」
俺は甲板柱に巻いた鎖の反対端を海へ投げ、引っ掛けたエイを“こっち”へ引く。甲板に叩き付け、すぐ“簡盾”の鉄板面で押さえる。
「関節!」
アルの矢が、エイの肩の軟い角度へ滑り込む。二体目、三体目――連携で崩し、被害ゼロ。帆は無傷で済んだ。
「上出来」
マリカが短く親指を立てる。汗の塩が目にしみて、だけど気分は悪くない。
◇
数日後、漂流していた小商船を引き上げた。舵を失っていたが、人は生きている。船頭が荒い息の合間に言う。
「見たんだ……黒塗りの、でかい船をよ。先頭で青い宝飾を掲げて、潮の“上”を走っていった」
マリカが海図の上に赤で線を引く。「東帯の返し……“ここ”を切ってる。潮の梯子を使ってる可能性が高い」
俺は真眼を静かに開き、商人の記憶の“印象”の中の青光の揺れだけ拾う。胸が僅かに冷たくなった。あの青だ。
補給のため小さな環礁に寄った。浅瀬で水を汲み、薪を積む。そこで、小さな祠から出てきた年配の巫が、俺の前腕を見て微笑んだ。
「その痕、星祈の“守り紋”だねえ。……北へ流れてるよ、同じ気配が」
エトが、どこかで俺に貼った式札――念のため、エトが貼っていたらしい。
「北の縁を辿りな。海はね、知ってる者にだけ、梯子を見せるのさ」
マリカが頷き、海図の線がさらに鋭くなる。アルは甲板柵から海風を胸いっぱいに吸って、「ねえ、オイラに二つ名ちょうだい」と言った。
「……そうね。『風見の目』」
「かっこいい!」
「お前は“三秒錬士”。三秒切替できたら名乗っていい」
「条件付きなんだ……」
笑いが甲板に走る。空気が、少しだけ一つになった。
◇
その夕刻、前方の海が“止まって”いるのが見えた。風はあるのに、そこだけ円を描くように波が死んでいる。直径、数百メートル。
「……第四の“域”。誰かが海を“掴んでる”」
マリカの横顔がわずかに強張る。船は減速。舵輪を握る手に力が入る。
「行く?」
「行く。けど、入り方を間違えると、出られない」
俺は“鎖錨”の感触を確かめ、アルは弓弦に指を置いた。風が一度、無音になり、次の瞬間、また微かに鳴った。
――
黒い水を溜めた盤の前で、女が指を擦った。指先についた見えない糸が、水面の“青”に絡みつく。青は、ブローチの中で鈍く脈打った。
「洞での誤差は矯正した。封糸は“二重”。今度は、流れに攫われない」
緑汀のセロラ――第四の五穢律は、静かに舌を打ち、海図の北縁に印を付ける。受け渡しは“北岬の渦ノ庭”。
片腕を新たな糸で縫い上げられたアルガスが、膝をついたまま無言でうなずいた。縫合の節目が、まだ赤い。
海は、二つの道を、同じ岸へ引き寄せ始めていた。




