第九章 光の軌跡、影の街
王都アーレンは、まるで光を喰ったように明るくなっていった。
通りの屋根には新しい旗が翻り、噴水の周りでは子どもたちが「ルクス!」と声を上げる。光を浴びる街は笑っている。だが、笑いの裏で沈黙する声が確かにあった。
ナナシは《蒼い月》のカウンターで煙草をくゆらせていた。
レミィは新聞を広げ、眉間に小さな皺を寄せる。
「また載ってるわ、ルクスの名前。『敵地潜入の盗賊団を一晩で制圧』だって」
「派手だな。火事みてぇなもんだ、明るけりゃ遠くまで見える」
「褒めてる?」
「皮肉を足して半分くらいだ」
ナナシは酒を一口、舌で転がす。
英雄の話は、もう王都の空気の一部になっていた。名の通り、彼は光を歩く。だが、ナナシの耳はいつも影を拾う。
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数日前、裏通りの《鉄輪》が閉まった。
あの賭場は、裏社会の連絡網として機能していた。喧嘩も泥棒もそこに落ち着けば、翌朝には“帳尻”が合う。だがルクスの「掃除」でそれが消えた。
残ったのは、行き場をなくした連中の小競り合いと、路地裏に転がる死体だけだった。
ナナシはその現場に立っていた。血の匂いに混じって、焦げた布の臭い。誰かが燃やした。証拠か、あるいは恨みか。
「……正義ってのは、手入れの悪い花壇みてぇなもんだな」
足元に転がった短刀の柄を拾う。刃は欠け、刃文は涙のように濁っている。
路地の奥では、誰かが「ルクス様が片付けてくれた」と喜んでいた。
ナナシは無言で短刀を排水溝に放る。音は小さく、夜風の中に沈んだ。
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次の日の昼、ギルド前の広場では「正義祭」と呼ばれる催しが開かれた。
ルクスは壇上に立ち、王国の紋章を背に演説をしている。
「僕たちは、もう怯えなくていい! この街には未来がある!」
聴衆の歓声が波のように押し寄せる。子どもが花を投げ、商人が銀貨をばらまく。
その様子を屋根の上から見下ろしながら、ナナシは酒瓶の口を指で塞いでいた。
風が強く、灰が舞うように光が散っている。
「……眩しすぎると、焼けるんだよ」
屋根の影にいた老犬がナナシの方を見た。声を出す代わりに尻尾を一度だけ振った。
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《月影の宿》。
夜の帳が降りると同時に、レガンが愚痴をこぼす。
「どうなってんだ、この街。賭場も潰れりゃ、護衛の依頼も減ってよ。英雄さまがなんでも解決してくれるせいで、腕の立つ奴がみんなヒマしてる」
「ヒマは贅沢だろ」
「贅沢も度が過ぎりゃ病気だ。金が回らねぇ」
ナナシは答えず、酒の表面を見つめた。
揺れる灯が琥珀の中で歪んでいる。それは、燃え尽きる前の小さな火に似ていた。
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翌朝、王都の北区で爆発事故が起きた。
火薬倉庫が吹き飛び、三軒が焼け、五人が死んだ。衛兵の報告では「不審な魔力反応による暴発」。
だが、ナナシの目はもっと別のものを見ていた。焦げ跡の形、壁に残った魔術式の走査線。
「……あれは、攻撃用だ。偶然じゃねぇ」
爆心地には、王国軍の監察官がいた。書類を束ね、淡々と指示を出している。
彼らの背には、赤い封蝋が押された紋章――王立魔術局。
ナナシはその光景を遠くから眺め、唇の端をわずかに歪めた。
(なるほど。火の実験ってわけか)
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その夜、《蒼い月》の扉が勢いよく開いた。
ルクスが入ってくる。顔には疲れがあるが、目は燃えている。
「ナナシさん。あんた、昔――戦場にいたんだろ?」
「そうだな。飲み屋と墓場の間を往復してた」
「どうして、あんな力を手放した?」
ナナシはグラスを傾ける。音が小さく鳴った。
「“力”ってのは、使ってるうちは気付かねぇ。
使わなくなって初めて、どれだけ奪ってたか分かるもんだ」
「……俺は、違う。誰かのために使う」
「誰か、ね。
そいつが焼かれたあとでも同じこと言えるか?」
ルクスは息を呑む。怒りではなく、理解できないという戸惑いの音だった。
「あなたは諦めた。俺は、まだ進む」
それだけを残し、ルクスは店を出た。
扉が閉まると同時に、夜風がひやりと頬を撫でた。
レミィが無言でグラスを拭き、ぽつりと呟く。
「若いって、怖いね」
ナナシは煙を吐いた。
「怖いのは、若さに光を信じさせる街さ」
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翌週、王国評議会が発表を行った。
「敵国の都市に対し、戦略的鎮圧作戦を実施する」と。
その中心となるのは、紅蓮装具――“火”の戦略兵器。
ナナシは新聞をたたみ、静かに立ち上がる。
灰が胸の奥でざらりと音を立てた。
(紅蓮、か……また火の名前かよ)
かつての《灰の剣》の記憶が脈の奥で疼く。
あのときと同じだ。正義の名で火が撒かれ、誰もが拍手した。
そして、焼け残ったのは――灰だけだった。
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ナナシは《蒼い月》を出る。
夜風の中、街灯の灯がひとつ、またひとつ消えていく。
通りの向こうでは、ルクスが人々に囲まれている。
英雄の笑顔。希望の象徴。
その光景を見つめながら、ナナシは小さく呟いた。
「光の道は長い。……だが、火の道は短ぇんだ」
煙草の火を指で潰す。
火は一瞬で死に、灰だけが残る。
ナナシはその灰を吹き払うように、夜の街を歩き出した。
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