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第八章 英雄、来訪す

 王都アーレンの朝は、妙に軽かった。雲は高く、露は短く、呼び売りの声は半音上がっている。噂はときどき天気を連れてくる。きょうはまさに、そんな日だ。


 冒険者ギルドの扉を押すと、木と紙の匂いの上に、人の体温が薄く重なっていた。掲示板の前に若い連中が群れ、同じ名を口にする。


「ルクスって見た?」「三件連続で即日達成だって」「転生者らしいぞ」


 カウンターの向こうで、受付嬢が帳簿を閉じ、眉をへにょりと下げてナナシを見る。


「……おはようございます、ナナシさん。今日は混んでまして」


「紙の上で“平和”が焼けてる匂いがするな」


「いじわる言わないでください。依頼が片付くのは、良いことです」


 掲示板の隅には、迷い猫や倉庫整理の紙がほとんど残っていない。軽い依頼ほど剥がれ、骨の折れる類か、赤字覚悟の案件ばかりが貼りついたままだ。若い連中の目は、何かを信じるとき特有の熱で揺れている。


 空気がふっと押し分けられた。灯りの下をまっすぐ渡る影。白い上衣に金の留め具、日差しを飲んで薄く透ける髪。青年が受付に進み、迷いのない声で言う。


「急ぎの依頼を、まとめて引き受けたい」


 受付嬢が紙束を慌てて整える。


「ひとつずつのほうが安全ですが……」


「待っている人がいるなら、早いほうがいい」


 嫌味のない真っ直ぐさだった。青年――ルクスは束を受け取り、踵を返す。歓声と期待が、その背へ帯のように付いていく。


 ナナシは煙草の火を細くし、煙越しに横顔を眺めた。まっすぐすぎる刃は、何でも斬る。かつての自分がそうであったように。


 その日、ギルドの前で暴れた牛は三歩で膝を折り、昼前には市場のスリが一息で縄にかかった。午後には川沿いで行方不明の子が見つかり、夕刻には廃倉庫の賊がまとめて転がった。ルクスは笑って「大丈夫?」と声をかけ、人々は拍手と涙で「ありがとう」を返す。

 ――紙の上では、完璧だった。



---


 夜。《蒼い月》。赤い灯と香の匂いの奥で、レミィがグラスを磨く。カウンターに腰を落ち着けたナナシに、彼女は片眉を少し上げる。


「噂の“英雄さま”、見物は終わり?」


「刃の芯が透けて見える目をしてた」


「良い意味?」


「良くも悪くも、だ。鋭い刃は、触れたものをぜんぶ斬る」


 レミィは苦笑して琥珀を注ぐ。


「斬られた側のことまでは、刃は考えないわね」


「考えるのは握ってる手のほうだ」


 窓の外から子どもの歓声が飛び込む。通りでルクスが囲まれている。握手、笑顔、拍手。世界は彼にピントを合わせ、残りは背景になる。ナナシは一杯を空け、もう一杯を受け取り、黙って火を見た。



---


 翌朝。《月影の宿》。煮込みはよく煮え、店主レガンの声はいつもより荒い。


「昨夜、裏でチンピラをルクスが追い払ってくれた。ありがてぇさ。だがな……」


「だが?」


「チンピラがいなくなりゃ、あいつらに“保険代”みたいに酒を卸してた商人が困る。悪党ってのは街にくっついてる。片方だけ剥がしゃ、もう片方が裂けるんだ」


「裂けたら、縫うやつが要る。だが縫い仕事は目立たねぇし、儲からねぇ」


「だから誰もやらねぇ。……ったく、英雄ってのは難儀だ」


 レガンは溜息をついて笑い、どんぶりを押し出した。


「お前みたいなろくでなしが、ほどほどに飲んでりゃ、街はまだ回る」


「ほどほどが一番むずかしい」


 表を行き交う声は「救世主」「光」「新時代」。ナナシは椅子を蹴って立ち上がり、煙草に火を点けた。



---


 昼下がり。ギルドの裏口は荷の出入りが絶え、静かだった。壁に背を預けるナナシの前に、影が曲がり角からまっすぐ伸びてくる。縁取りのない足取り――ルクスだ。


 彼はナナシを見つけ、わずかに目を細めた。


「……昼間から酒か。噂通りだな、“酒クズの剣客”」


「名前を覚えられて光栄だ」


「ギルドで忠告された。“昔は英雄、今は堕落”。……笑えない冗談だ」


「笑ってるのはお前のほうだ」


「なんだと?」


「“正しいこと”をして拍手されて、目が高ぶってる。そういう笑いだ」


 ルクスの眉がかすかに動く。反射で噛みつくほど幼くはなく、すべてを飲み込むほど年老いてもいない。


「困っている人を助ける。間違いか?」


「間違いじゃない。だが“あわい”から“違い”を抜くと、空っぽになる」


「はぐらかすな」


「簡単に言おう。お前は目の前の火を消してる。だが煙がどこへ流れてるか、見ちゃいない」


「“次”の火を消せばいい」


「火は次を選ばない。選ぶのは風で、街で、人だ」


 短い沈黙。ルクスは一歩だけ近づき、声を落とす。


「……世界を良くしたい。俺には力がある。だから使う」


「好きにしろ。こっちも好きに生きる」


「邪魔するなよ、酒クズ」


「邪魔はしない。――今はな」


 ルクスは踵を返し、光の中へ消える。残るのは、きれいすぎる直線の余韻。ナナシは煙を空へ吐き、背を離した。かつての自分がどう止まったか――止まらなかった。燃え尽きて、やっと止まった。古い熱だけが腹に残る。



---


 数日。紙の上の王都はさらに白くなった。衛兵の仕事は減り、商人の笑顔は増え、ギルドの記録にはルクスの名が並ぶ。一方で、夜の市場の露店は消え、盗品をさばく路は塞がれ、そこで糊口をしのいだ裏の職人が仕事をなくす。賭場《鉄輪》の客が減れば、別の路地で博打が粗暴になり、刃傷沙汰が増える。笑いの音階は、半音濁った。


 《蒼い月》でレミィが薄く顔を曇らせた。


「“英雄さま”の夜は、静か。表だけ」


「静かじゃない夜を知ってる奴が減っただけだ」


「止めないの?」


「言葉で止まるなら、誰も血を流さない」


「言葉は?」


「火種にも、灰にもなる」


 レミィは肩をすくめ、琥珀をもう一杯置く。外では子どもが「ルクス!」と叫び、どこかの大人が拍手した。灯はきれいだ。眩しすぎるが。



---


 その夜更け、ギルドの奥で乾いた声が重なった。灰色の外套、文官の低声、紙の擦過音。扉の隙間から名が落ちる。


「――候補者ルクス殿。王国の作戦への参加要請だ」


「作戦?」


「敵国の工業都市に対する決定的打撃。長引く戦を一気に終わらせるために」


「具体的には」


「《紅蓮装具インフェルナ》の実戦試験。あなたの適性は抜群だ」


 ナナシの喉奥に古い熱が戻る。灰の剣の時代、投げ捨てたはずの理屈と同じ匂い――“早く終わらせるために、街を焼く”。それを正義と呼ぶために、紙を重ねる手順。


「……俺は、やります。戦争を終わらせたい」


 迷いのない若い声。判が落ちる音が現実へ線を引く。ナナシはその場を離れ、夜の廊下を歩いた。足音は静かだが、腹の底で古傷がうずく。


 外の風は冷たい。《蒼い月》の灯が遠くで瞬いた。扉を開けると、レミィが顔を上げる。言葉はいらない。指を二本立てる。二杯が音もなく置かれた。


「顔が、昔みたい」


「そうか」


「灰の匂いがする」


「そうだな」


 一杯目を空け、二杯目に指をかける前に、ナナシは立ち上がる。


「どこへ?」


「煙の出どころ」


 レミィは追わない。ただ背中に向けて言った。


「――帰ってきなさい」


「帰れる場所があるなら、な」


 扉が閉まる音が夜に短い拍子を打つ。石畳は冷えて、長かった。



---


 王都北門に軍の旗が立つ。出立は二十日後。向かう先は敵国の工業都市。紅蓮装具の“試験”は、終戦の狼煙になるはずだった。


 掲示板からまた紙が剥がれる。子どもは英雄の出立を語り、商人は机上で商機を並べ、兵士は地図に最短を引き直す。


 北門の影で、ナナシは煙草に火を点けた。灰は降っていない。だが空は乾いている。火種を親指で潰し、踵を返す。英雄のまっすぐな道とは別の、迂回で、陰で、面倒な道へ。


(光の真ん中へは、あいつが行く。なら、影の溜まる角で待つのが、ろくでなしの仕事だ)


 誰にも祝われず、誰にも見送られず、酒クズの剣客は静かに、焔の先を目指した。



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