第三十二章 理性の残火
北区の外れに、使われなくなった徴兵所跡がある。
看板は外され、扉も外され、ただ「ここから送られた」という記憶だけが残っている場所。
灰色の朝、その前に男たちが集まっていた。
赤布を腕に巻いた火喰いの連中だ。
「ここを燃やす。」
リーダー格の男が油壺を掲げる。「これは戦争の入口だった。焼かなきゃ終わらねぇ。」
「終わらないのは、お前の頭の中の炎だ。」
低い声がそれを遮った。
レクス・ヴァルド。
《紅蓮鋼の剣》を提げたまま、抜く気配はない。
「ここは今、ただの空き家だ。
“次の戦争”の現場でもない。」
「象徴だよ。」
火喰いの男は笑う。「王都に見せつけてやる。俺たちは本気だって。」
「本気なら、正しく狙え。」
レクスの視線が冷たくなる。
「紅蓮研究所、軍の倉庫、指令所。
戦争を回す歯車だけを止める――それが残火の条件だ。」
「そんな甘いこと言ってるから、何も変わらねぇんだよ!」
男が吐き捨てる。「民だって共犯だ。税払ってる。徴兵見送ってる。
おとなしく暮らしてる顔して、火の上に座ってる!」
「だからって燃やしていいとは限らない。」
「“限らない”じゃなくて、“燃やす”んだよ。
俺たちはあんたと違って、躊躇しねぇ!」
油壺が振り上げられる。
その瞬間、レクスの手が男の手首を掴んだ。
剣より早く、迷いなく。
「やめろ。」
「離せ!」
「これ以上、灰を増やすな。」
レクスの目には、かつての光景が焼き付いている。
《灰の剣》が、街も敵も味方もまとめて焼いた夜。
その中心に立っていた男の背中。
その男の剣を「終わらせるため」に自分が一緒に立っていた記憶。
「“全部燃やせば早い”って理屈は、一度で十分だ。」
火喰いの男が歯を食いしばる。
「だったら、あの灰の剣の夜を否定するのか。
あれがあったから戦争は終わったんだろ!」
「そうだ。」
レクスはきっぱりと言う。
「だから、二度とやっちゃいけない。」
言葉が空気を刺す。
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「朝から声がでかい。」
間の抜けた声が落ちてきた。
振り向けば、ナナシがいた。
いつもの煤けたコート、いつもの酒の匂い。
道端から拾った棒切れを肩に乗せている。
「よぉ、レクス。」
「久しぶりだな、ナナシ。」
戦友同士の挨拶は、それだけだった。
握手も抱擁もない。必要ない。
「相変わらず真面目に燃え残ってんな。」
ナナシが言う。
「お前は相変わらず、ろくでなしだ。」
レクスが返す。
火喰いの男が苛立ったように叫ぶ。
「知り合いかよ!」
「一番燃えた現場の知り合いだ。」
ナナシが棒で地面をつつきながら言う。
「“全部燃やしたら終わる”って本気で信じて、一回やった連中だ。
結果どうなったかは、ここらの灰がよく知ってる。」
彼は地面に一本の線を引いた。
徴兵所跡と、その先の市街地を隔てるように。
「いいか、火喰い。
こっち側――」線の向こう、壁とその奥を指す。
「王国の顔、戦争の歯車、偉そうな机。燃やしたきゃレクスに相談しろ。
あいつはまだ“上を変える”って正気を残してる。」
今度は線の手前、家々の並ぶ側を示す。
「で、こっち側はただの生活だ。
パン焼いて、子どもが走って、どうでもいい愚痴をこぼして寝るだけの場所。」
「だから何だよ。」
「そこ燃やしたら、俺が嫌がる。」
「理由それだけ!?」
「それで十分だろ。」
ナナシは肩をすくめる。 「世界救うより、目の前のメシと酒守るほうが性に合ってんだよ、俺は。」
レクスが小さく笑った。
「お前がそう言うなら、俺も乗る。」
「相変わらずだな、炭騎士。」
ナナシも笑う。
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空気が少し変わる。
火喰いの連中は互いの顔を見合い、戸惑いを隠せない。
彼らが憧れた“残火”は、もっと真っ赤で勢い任せの正義だった。
今目の前で線を引いている二人は、灰色で、疲れていて、言葉が重い。
「……チッ。あんたらに従っても、何も変わんねぇよ。」
「それでも、全部燃やすよりはマシだ。」
レクスが言う。
「上だけ焼いて、下を残す。それでも足りないなら、
その時は俺を恨め。矢面には立つ。」
「お前もそれでいいのか。」と火喰いがナナシに問う。
「俺はもう十分燃えた。
これ以上燃やしたら、酒が不味くなる。」
つまらなそうにそう言うが、その目は冗談じゃない。
沈黙のあと、数人が赤布を外して落とした。
残ったリーダー格は舌打ちし、油壺を地面に投げ捨てる。火はついていない。
「好きに後悔しろよ、英雄崩れども。」
捨て台詞だけ残して去っていく。
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空き地に残ったのは、線と、二人の男。
「勝手に俺を勧誘するな。」
ナナシが言う。
「お前が線を引いた。」
レクスが返す。
「俺はただ、“灰はこれ以上増やしたくねぇ”って言っただけだ。」
「それが一番、残火らしい。」
「お前は未だに火側だろ。」
「誰かが火口を押さえておかないと、また勝手に噴き出す。」
しばし沈黙。
「なぁ、レクス。」
ナナシが珍しく、真正面から名を呼ぶ。
「あの時のこと、まだ正しいと思ってるか。」
「思ってない。」
レクスは即答した。「だが、あれで終わった戦があることも事実だ。
だから、あの夜を二度目にしないために残火をやってる。」
「……真面目だな。」
「お前がサボる分まで働いてる。」
「悪ぃな。」
二人は同時に小さく笑った。
レクスは一瞬、昔の名を呼びかけそうになり、唇を噛んで飲み込む。
「……やめろよ。もう使ってねぇ名前だ。」
ナナシがぼそりと言う。
「ああ。今はナナシだ。」
レクスはそれ以上、何も言わなかった。
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その夜、《蒼い月》。
受付嬢がギルドで「今日も無事」の紙を書く頃、レミィが灯を整える。
カウンターで酒を飲むナナシは、昼に引いた線を思い出していた。
「どう?」とレミィ。
「……ちょっと疲れた。」
「働いたの?」
「灰なりに。」
「なら、もう一杯ね。」
注がれた酒は、いつもと同じ味がした。
外では誰も燃えていない。
その事実だけが、灰の街にとってのささやかな勝利だった。
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