第三十章 灰街残火
春先の灰は、いつも嘘くさい。
王都アーレンの空は低く、溶け残った雪と煤の雲が混ざり合っている。
屋根から落ちる雫が石畳を汚れた色に染め、その上を一枚の紙がずるずると流れていた。
『北方境界線 警備強化につき志願兵募集』
その文字が、ぐちゃりと踏みにじられる。
踏んだ本人は振り返りもしない。もう見飽きた文句だからだ。
「まだ燃やり足りねぇってか。」
ナナシは紙片を見下ろし、小さく吐き捨てた。
酒と煙草の匂いが染みついたコートを翻し、《蒼い月》の扉を押す。
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「おかえり、灰。」
レミィがそう言った。
“酒クズ”と呼ぶ時よりも、少しだけ柔らかい声で。
「灰は帰る場所なんて持たねぇよ。」
「ここ以外で倒れないって意味よ。」
「それは否定しねぇ。」
カウンターに腰を下ろし、出された酒をあおる。
喉に落ちていく熱を、ナナシは雑に確かめる。
「外、紙が増えたな。嫌な字面だ。」
「戦の匂いが戻ってきたわね。」
レミィは肩をすくめる。「で、その紙の横に、別の紙も貼られたのよ。“残火”って名前で。」
「見た。字は綺麗だった。」
「軍需の荷車を襲ったらしいわ。
“戦争を止めるために、王国の火種だけを狙う”って、堂々と書いてある。」
「また正義が火を噛みはじめたか。」
「知り合い?」
「……さあな。」
答えは濁す。
だが、胸のどこかで「レクス」の名がひっかかった。
紅蓮戦争の終わり。
《灰の剣》がすべてを焼き尽くした夜。
その隣に立っていた騎士の顔は、一生忘れない。
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昼過ぎ、冒険者ギルド。
受付嬢が新しい通達を掲示板に貼っている。眉はいつも通り“へにょり”と下がっていた。
「また増えたのか。」
「ええ……。“残火を名乗る組織に注意”って軍から。
でも“軍需施設だけを狙っている形跡あり、民間被害なし”とも書いてあって、余計ややこしいです。」
「中途半端に筋通ってるやつが一番面倒だ。」
「“戦争を止める”って言葉、ずるいです。否定しにくい。」
「そういう言葉の燃えカスが、そこら中の灰だ。」
ナナシは軽く笑ったが、その目は笑っていない。
受付嬢は彼の横顔を見て、何かを聞きかけてやめた。
「とりあえず、あなたは“無事”でいてくださいね。」
「俺はしぶとい。簡単には燃えねぇよ。」
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その夜遅く。
南区の街道で、軍の荷馬車一台が止められた。
車輪は焼け落ち、荷の武具が一部黒く焦げている。
だが、御者も馬も生きていた。
火は線を引くように荷だけを舐め、周囲の家屋には届いていない。
木片の焦げ目に、短く刻まれた文字があった。
『残火』
――あの男の筆跡に、見覚えがあった気がした。
「……あいつか。」
その名を口にせず、ナナシは煙草に火をつける。
灰に落ちる火種を靴で踏み消した。
「相変わらず、上だけ狙いやがる。」
火をやめられない騎士と、火を捨てた剣客。
同じ夜の灰の上で、別々の場所を歩き始めていた。
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