第二十九章 火が眠る日
灰と雪の境目は、いつだって曖昧だった。
春先の王都アーレンでは、雪解け水が灰を溶かし、薪を湿らせる。
炭はくすぶり、灯芯は短く、どの家の煙突も“息が浅い”。
人々は「火が眠る日」と呼んでいた。誰も悪くないが、何も温まらない日。
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「……出汁が出ねぇ。」
鍋を覗き込み、ナナシは眉をしかめた。
湯は濁り、野菜は固い。鍋の下では、炭がじっと沈黙している。
「炭が湿ってんだよ。」
レガンがしゃもじで鍋を叩く。
「泣いてる火に文句言うな。お前の肝臓のほうが先に燃え尽きる。」
「火は泣くもんじゃねぇ。泣かせるもんだ。」
「お前が泣かせるのは人間だろ。」
「おう。炭より話が早ぇ。」
レガンはため息をつき、鍋の蓋を少しだけずらした。
弱い火が一瞬だけ赤く光って、また沈んだ。
その瞬間だけ、スープから“生活の匂い”がした。
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昼すぎ。
街のいたるところで、同じような音がしていた。
薪を割る音。火を吹く音。失敗して舌打ちする音。
そして、冒険者ギルドでも火はご機嫌斜めだった。
「今日も“無事”が増えました。」
受付嬢が報告書を並べながら、眉を“へにょり”と下げた。
「でも、火の事故がちょっと多いみたいです。みんな火の扱いが下手になってるとか。」
「火は生き物だ。構われすぎても拗ねる。」
「……それ、説得力あるようでないです。」
「説得する気もねぇ。」
ナナシは紙束を指で弾き、薄い笑みを浮かべた。
受付嬢は苦笑し、湯気の立たない茶をそっと押しやった。
ナナシは鼻を近づけず、懐から琥珀を取り出す。
茶より薄い酒を、茶より静かにあおった。
「……外で、また火が止まったらしいですよ。」
彼女は声を落とす。
「鍛冶場でも灯がつかなくて、職人さんが困ってるって。」
「誰かが火を止めようとしてるんだろ。燃えねぇ街は、夢も冷める。」
「夢くらいは温かいままであってほしいですけどね。」
「温度はあっても現実じゃねぇ。寝汗で終わる。」
「じゃあ、起きてても冷たいんですか。」
「そうだ。だが冷たいままでも、生きてる。」
受付嬢は息をのんで、少しだけ微笑んだ。
その笑いに、灰の街の空気がほんの少しやわらいだ。
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外に出ると、灰まじりの風が鼻を刺した。
炭の匂い、湿った薪の匂い、焼け残りの匂い。
どれも懐かしいのに、どこか疲れていた。
通りの角では、子どもが灰と油の染みた布を小壺に詰めて“灰光の灯”を作っていた。
小さな手がもたついて、壺の口が黒く汚れている。
「……火が眠ってる日だ。無理すんな。」
「へーき! これがあれば夜も見えるんだ!」
子どもの声は、火より眩しかった。
ナナシはしゃがみ込み、灰の中から乾いた木屑をひとつ拾った。
それを壺の口に押し込み、息で灰を飛ばす。
灯が一瞬だけゆらぎ、小さく、確かに光った。
「……ついた!」
「消えるのも早ぇぞ。気ぃつけろ。」
「うん!」
子どもは笑い、ナナシは立ち上がった。
風が通りを抜け、灯が三度、かすかに揺れた。
遠くのほうで、鉄を叩く音が三度鳴る。
火事の合図ではない。火が眠る日の“鐘”だ。
街じゅうで鳴らす小さな合図――「まだ、大丈夫だ」という音。
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《蒼い月》の扉を開けると、夜の準備の匂いがした。
レミィが灯芯を整え、油を慎重に注いでいる。
「昼に外を歩くなんて、珍しいわね。」
「火が起きない日は、酔っても眠れねぇ。」
「じゃあ、飲みすぎるわね。」
「いつも通りだ。」
レミィは笑って、ふっと灯を吹いた。
火は消えず、弱くなって、また戻った。
「……灯って、気まぐれね。」
「気まぐれのほうが、生きてる感じがする。」
「そうね。火も人も、たまには眠らせてあげなきゃ。」
「俺も眠っていいか?」
「あなたは火じゃなくて、灰。」
「灰も燃えかすだ。」
「でも、暖かいわ。」
ナナシは何も返さず、酒を口に運んだ。
薄い琥珀が舌に触れ、心の中の“火種”がほんの少しだけ熱を取り戻す。
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その夜、北の空の向こうで、
誰かが“火を止めようとしている”という噂が走った。
だが街は騒がなかった。
火が眠る夜は、誰も火を起こさない。
ただ、灰の上で息をひとつ置く。
それだけで充分、暖かかった。
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