第二十八章 酒は火よりも長持ちする
夜の《蒼い月》は、いつも通りだった。
昨日、レガンの店が「自爆鍋事件」で半壊したにもかかわらず、
この店の灯りは、まるで何事もなかったように揺れていた。
「……で、鍋が空に飛んだって?」
「飛んだ。あれはもう鍋じゃねぇ。飛翔体だ。」
カウンター越し、レミィが呆れた顔でグラスを磨く。
ナナシはいつものように酒瓶を抱え、片手で灰皿を転がしている。
「ケンは?」
「元気だ。煙の向こうで“俺の覚醒イベントっス!”って叫んでた。」
「それ、一番燃えやすいタイプの人よね。」
「違ぇねぇ。だがまあ、燃え尽きないなら功労賞だ。」
レミィは小さく吹き出した。
呆れと苦笑の中に、ほんの少しだけ温かいものが混じる。
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「でも不思議ね。火事があったのに、あなたの服からは酒の匂いしかしない。」
「防火性能つきだ。中身が常に湿ってる。」
「つまり泥酔してたのね。」
「おう。」
「誇らしげに言うことじゃないわ。」
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外では雪が灰混じりに降っていた。
風の音もなく、世界はぬるい静けさに包まれている。
そんな夜の中、ナナシがふいに真顔で言った。
「なぁ、レミィ。」
「なに?」
「俺、火事んときに“酒樽だけは守れ!”って叫んでたらしい。」
「……誰に?」
「知らねぇ。多分、酒の神。」
「バカじゃないの。」
「だろうな。でも、結果的に樽は無事だった。神はいた。」
「“飲み屋の守護神”っていうやつかしら。」
「そいつがいるなら、俺は信仰してもいい。」
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レミィはくすくすと笑い、
グラスを傾けながら言った。
「本当に、あなたって……何も変わらないのね。」
「変わる気もねぇよ。火は燃えて灰になるが、
俺は灰のまま飲んでりゃいい。」
「じゃあ、その灰に水を注いで、また飲んでるのね。」
「灰割り。新しいジャンルだな。」
「飲むな。」
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静寂。
外で雪が屋根を打つ音。
ナナシは瓶を掲げ、残りをあおった。
「火はもういらねぇ。
でも、酒は――悪くねぇな。」
「燃えない火ね。」
「……そいつぁ、平熱ってやつだ。」
レミィが肩をすくめる。
「ほんと、ろくでなし。」
「お褒めにあずかり光栄だ。」
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夜が更ける。
《蒼い月》の灯は変わらず、灰色の世界を照らしていた。
何も燃えず、何も赦さず、ただ笑って過ぎる夜。
それで充分だった。
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