第二十六章 炭の夜、鍋を囲む
夜の王都アーレンは、灰混じりの雪が静かに降っていた。
街の灯りは薄く、吐く息さえ白く濁る。
《蒼い月》の看板だけが、ゆらゆらと赤みを帯びて揺れている。
中では、鍋の音と、どうでもいい会話が響いていた。
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「……なぁ、レガン。肉はどこだ?」
「お前が全部入れたろうが。」
「じゃあ魚だ。」
「さっき捨てた。」
「拾ってこい。」
「嫌だ。」
「拾えよ、炭の香りが出る。」
「炭は燃やして出すもんだ! ゴミから出すな!」
カウンター奥では、レミィが静かに笑っていた。
磨いていたグラスの中に、ナナシの顔が逆さに映る。
完全に出来上がっていた。
「……あのね、ナナシ。さっきから鍋に何入れてるの?」
「魂。」
「やめなさい。」
「あと、黒パンの端っこ。これが出汁になる。」
「出汁じゃなくて焦げになるやつ。」
「焦げは旨味だ。」
「焦げは罪です。」
「罪は酒で流す。」
「お前の人生それで完結してんのかよ!」
レガンが頭を抱える。
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鍋の中では、白い湯気の向こうに黒い泡がぼこぼこと湧いていた。
焦げ、炭、そして謎の根菜らしき何かが沈んでいる。
もはや料理ではない。儀式だった。
「……これを食えと?」
レガンが箸を構える。表情は死んでいた。
「炭火の香り、冬限定メニューだ。」
「香りじゃなくて煙だろ。」
「どっちも似たようなもんだ。」
「違う! 人間の食いもんは煙出ねぇんだよ!」
ナナシは平然と一口。
噛む音が静かに響き、酒が続く。
彼はうなずいた。
「……うまいな。」
「嘘つけ!」
「いや、味がないってのは味だ。」
「哲学的なこと言うな! 腹立つ!」
「人生も一緒だ。焦げても、湯気をかけりゃ食える。」
「お前の人生は消火不可能だ。」
「消火したら冷めるだろ。」
「会話が地獄だな……!」
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そのやり取りに、レミィがくすくすと笑った。
グラスを拭く手を止めず、静かに言う。
「でも、焦げた鍋って不思議よね。
洗えばまた使えるし、少しの匂いなら残ってた方が落ち着く。」
「だろ?」
ナナシがどや顔で酒をあおぐ。
「そういう意味じゃない。」
「……だと思った。」
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レガンは匙を置き、ため息をついた。
鍋の底には、真っ黒な塊と少しの湯気だけが残っている。
「なぁ、これどうすんだ。」
「飲む。」
「飲むな。」
「焦げ味スープ。栄養はゼロ、アルコール百。」
「それもう毒だよ。」
それでもナナシは笑っていた。
目の下には隈、手には酒、心にはどうでもいい夜。
だが、笑っていた。
灰と炭の間で、ちゃんと息をしていた。
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外では、風が鳴った。
雪と灰が混じり、街灯がかすむ。
レミィが窓越しにそれを見て、静かに呟いた。
「……焦げた夜も、悪くないわね。」
「焦げても食える、ってやつだ。」
「誰がそんなこと言ったの。」
「さっきの俺。」
「撤回して。」
「却下。」
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笑い声と、焦げた匂い。
湯気がゆらぎ、灯が揺れる。
《蒼い月》の夜は、今夜も生ぬるく、穏やかに更けていく。
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