第二十四章 夜明け、蒼い月の下で
雪は夜の間に、すべてを覆っていた。
焦げ跡も、叫びも、紅蓮の光も。
朝になれば、人々はそれを“静かな夜だった”と言うだろう。
けれど、ナナシは知っていた。
静けさの下には、焼けた匂いがまだ息をしていることを。
北の空に煙はもうなかった。
風がそれを運び去り、街の上にただ灰だけが降っていた。
その灰を払いながら、ナナシは南街へと歩いていた。
懐には冷たい賃銭、指先には小さな火傷。
どれもいつものことだ。
いつも通りに戻るはずだった。
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《蒼い月》の扉を押すと、暖かな空気が頬を撫でた。
レミィがグラスを磨いていた。
夜明け前の、客がいない時間。
その沈黙が、この街でいちばん優しい。
「……帰ったのね」
「ああ。いつものように、何も変わらずにな」
「あなたがそう言うときは、大抵何かが壊れてるわ」
「……壊れてねぇもんの方が少ねぇ」
レミィは苦笑して、棚の一番奥から瓶を出した。
ラベルが擦り切れた古い酒。
それをグラスに注ぎ、氷をひとつ落とす。
「雪、止んだわよ」
「止んでりゃ上等だ。止まらねぇやつばかりだからな」
ナナシはグラスを受け取り、口をつける。
喉に落ちる熱は、まるで人の記憶のようだった。
消えたはずの痛みが、ゆっくり蘇る。
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「また誰か、燃えたのね」
レミィの声は、風より静かだった。
ナナシは答えなかった。
沈黙の代わりに、酒が喉を通る音だけが残る。
「救えた?」
「……さぁな。俺の足が、いつも一歩遅いのは昔からだ」
「それでも、行ったのでしょう?」
「行っちまうんだよ。足が勝手に。
見たくないもんほど、見ちまう性分でな」
レミィは微笑んだ。
その笑みは慰めでも同情でもなく、
ただ“理解”の色をしていた。
「それがあなたの戦い方。
誰も見なくなった夜を、見続けること」
「戦いってほど、立派なもんじゃねぇ。
日を重ねて、酒飲んで、灰を踏んで……
それだけのことだ」
「そうやって、明日も同じ夜を迎える。
それがこの街を支えてるのよ、ナナシさん」
ナナシはグラスを見下ろした。
底に揺れる琥珀色の光が、かすかに震えている。
その奥に、リュカの灰光が、そしてリオンの紅蓮が重なって見えた。
どちらも、手を伸ばせば消えてしまう。
けれど確かに、そこにあった。
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「……俺は、まだ生きてていいのかね」
「いいも悪いもないわ。
生きてる人は、みんな“まだ生きてる”だけ。
それが、赦しってやつよ」
「酒臭ぇ神父より説得力あるな」
「神父は酒を飲まないもの」
レミィは笑って、氷を転がした。
音が小さな鐘みたいに響き、
その音が消えるころ、夜がすっかり明けていた。
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扉を開けると、白い光が差し込んだ。
灰を含んだ雪がまだ舞っている。
ナナシは煙草をくわえ、火をつけた。
火は小さく、風に揺れたが、消えなかった。
それを見て、彼は微かに笑う。
「……灰のくせに、しぶといな」
空はまだ薄青い。
遠くで鐘が鳴る。
人々が起き、パンの匂いが漂う。
街がまた“いつもの朝”を始めていた。
ナナシは灰の上を歩く。
今日もまた、変わらぬ日常が積み重なる。
それでも構わない。
そうやって歩くことが、彼にとっての戦いなのだから。
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