第二十二章 昼の影、灰の街
酒は、雪より冷たかった。
灰を含んだ白が、瓶の口に落ちて溶ける。酔いと寒さの境界がわからなくなって、ナナシはしばらくぼんやりと瓶底を見つめていた。
「……雪が溶けりゃ春が来ると思ってた時期が、俺にもあったな」
路地裏の石垣に腰を下ろし、空き瓶を積み木みたいに並べる。火はない。煙草の火種すら惜しい。
酒で雪を溶かそうとしたが、酒が先に尽きた。そんな冬の昼。
風が抜け、鐘が鳴る。ナナシは立ち上がり、空瓶を片手に冒険者ギルドへ向かった。
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ギルドの中は、外とは別世界だった。
暖炉の前に木の椅子、炭の匂い。扉を閉めると、雪の音が途切れる。
カウンターの向こうでは、受付嬢が眉を“へにょり”と下げていた。
「……昼ですね」
「人間が昼に来て悪いか?」
「ナナシさんの場合、“昼から飲んでる”のが問題です」
「昼に飲むために働いてんだ。順序が逆じゃない」
「前向きな屁理屈ですね。はい、依頼です」
紙が三枚。修繕、荷運び、行方不明。ナナシは一番上をひょいと取る。
「荷運び。これなら酒が抜ける前に終わる」
「……どうせまた酒で補給するんでしょう?」
「文明の循環ってやつだ」
彼女は小さく笑ってペンを走らせた。
ナナシは瓶をぶら下げ、雪混じりの街へ出る。
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市場は灰色の天蓋の下で、いつものように生きていた。
干し魚の匂い、塩の粉、商人の声。
ナナシは樽を抱え、坂の上の倉庫に向かう途中で、やけに明るい声に呼び止められた。
「手、手伝いますよ! 任せてください!」
見るからに“新品”の青年だった。
髪は整えすぎ、服はまだ染み一つない。腰の剣も研ぎたてのように光っている。
手袋が新しいせいで、動きにぎこちなさが残っていた。
「お前……転生者か?」
「はは、やっぱバレます? 俺、リオンっていいます!」
「そのテンションで生きてるやつは大体そうだ」
リオンは樽の片側を持とうとしたが、腕がぴくりと震えた。
「うっ、重い……! すごいな、これ……」
「重いってことは中身が詰まってるってことだ。人間も同じだ」
「へぇ、深いこと言いますね!」
「そうか? 俺は空っぽの方が楽だと思ってるが」
リオンは曖昧に笑い、息を切らしながら付いてくる。
坂を登りきるころには、顔が赤く、目だけが妙に輝いていた。
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荷を下ろし、賃銭を受け取る。リオンはそれを見て目を丸くした。
「え、これだけ?」
「“これだけ”が積もるんだよ。雪みたいにな」
「……そっか。でも俺、いずれはもっと大きいことがしたいんです。
誰かを助けるとか、街を変えるとか……そういう“活躍”って、憧れるじゃないですか」
「手垢のついた善意ほど信用できる。使い古されてるからな。
新品の善意は、火がつきやすい」
リオンはきょとんとし、それから少しだけ真面目な顔になった。
「実は、このあと……声かけられてて。試験みたいなやつなんです。
もし受かったら、もっと活躍できるって言われてて」
「試験ね。どこで」
「えっと……“北のほう”。詳しくは言えない決まりで」
「言えない善意は、だいたい誰かの財布に繋がってる」
「……それでも、俺はやってみたいんです」
「止めねぇよ。燃えるやつを止めても、結局、煙になるだけだ」
ナナシはそう言って煙草を取り出し、火をつけた。
灰が舞う。雪と混じって、空気がほんの少しだけ甘くなる。
リオンはその横顔を見つめていた。
何かを言いたげだったが、言葉が出てこない。
代わりに、静かに頭を下げて歩き出す。
北へ。雪の光が背中を照らし、影が白の中に滲んでいった。
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残ったのは、冷えた風と、酒の匂い。
ナナシは腰を伸ばして、空を見上げる。灰混じりの雪が降り、空のどこにも火はない。
「……“活躍”ね。
誰かに見られたいってやつは、火より燃えやすいんだよ」
空瓶の底で雪を受け、ひとくち飲み残しを流し込む。
舌に残るのは、焦げた酒の味。
それでも少しだけ温かい。
それが、灰の街の温度だった。
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