表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/29

第二章 灰の街の朝と依頼書

 ――朝は、いつも灰色だ。


 王都アーレンの南街区。

 夜の熱を吐き出した街は、湯気のような冷気を漂わせていた。

 石畳の隙間から立ちのぼる白は、煙でも霧でもない。

 ただの灰。戦争の名残が、十年経っても風に混じっている。


 《月影の宿》の看板の下で、ナナシはあくびを噛み殺した。

 口の奥に酒の渋みが残る。喉が乾いて、肺の中まで錆びたような味がした。


「……もう朝か。昨日の夜、どこまで飲んだっけな。」


 声は小さいが、路地裏に反響する。

 まだ寝ぼけたような朝。働くには早く、諦めるには遅い。

 そんな時間に、ナナシはコートの襟を立てて歩き出した。


 通りの向こうでは、パン屋の煙突から白い煙。

 隣の路地では、子どもが空き瓶を蹴って遊んでいる。

 街は生きている。だがその息は、どこか煤けていた。



---


 冒険者ギルドの扉は、いつもより重かった。

 油の匂い、古い紙の匂い、そして炭の匂いが混じっている。

 ナナシが入ると、受付の彼女が顔を上げた。


「……おはようございます、ナナシさん。昨日は無事に?」


「無事だ。酒も生きてたし、俺もまだ燃え残ってる。」


「燃え残るって表現、普通は悪い意味ですよ。」


 ナナシは肩をすくめ、カウンターに肘をついた。

 机の上には報告書が数枚。

 昨日の依頼――“馬車襲撃の救出”とある。

 彼女は指でその欄を示した。


「依頼主から追加の報酬が届いています。……珍しいですね。」


「貴族は見栄が好きだからな。金で罪滅ぼしだ。」


「言い方。」


「現実ってのは、言葉より汚れてる。」


 受付嬢は軽くため息をつく。

 眉がへにょりと下がる。

 その仕草に、ナナシは微かに笑った。

 ――だが、名前は聞かない。聞く必要もない。

 彼女は昼の街の一部であり、紙と印の世界に生きる人間だ。

 そこへ踏み込む資格を、ナナシはとうに手放していた。



---


「依頼、探してるんですか?」


 受付嬢が棚の札を一枚取り出す。

 “灰祈区・旧下水道の清掃”。報酬は銅貨三十。


「これ、地味に危険です。ガスが残ってて。」


「燃えるのか?」


「え? ええ、少しだけ。」


「ならやめとく。」


「危険だからじゃなくて、燃えるからですか?」


「燃えるもんは、もう十分だ。」


 受付嬢は言葉を飲み込み、札を戻した。

 ナナシはその仕草を見ながら、ポケットの煙草を一本取り出す。

 火を点けず、ただ咥えたままにする。

 灰が落ちない煙草ほど、似合うものはなかった。



---


 しばらくして、ギルドの奥から若い冒険者の笑い声が聞こえた。

 昨日の出来事――“ろくでなしが馬車を救った”という噂が、もう広まっている。

 ナナシは苦笑した。


「笑われるのは慣れてるが、褒められるのは落ち着かねぇな。」


「褒めてるというより、珍しがってるんです。あなたが働いたのが。」


「働くと世界がざわつく。平和だな。」


 受付嬢は紙に判を押し、手渡した。

 「次の報告期限は三日後です。無くさないでくださいね。」


「無くしても、探してくれるだろ?」


「いいえ。次は自分で書いてもらいます。」


 淡々とした声。だが、その声には小さな温度があった。

 それに気づいたかどうかも分からぬまま、ナナシは外に出た。



---


 風が冷たい。

 昼の陽が灰色の屋根を照らし、光はあっても熱がない。

 街角の屋台では、香辛料の匂いが立ちのぼる。

 腹が鳴った。財布の中は、銀貨一枚と銅貨数枚。


「働いた分、減るんだよな……世の理不尽だ。」


 ナナシは笑いながら屋台を離れた。

 その笑いが、風に紛れて消えていく。

 通りを抜けた先、北の方角には鍛冶街の煙突が並ぶ。

 そのひとつの煙が、赤く見えた。

 ただの錯覚か、それとも――。


 目を細め、ナナシは歩き出す。

 火の気配には、いつも鈍く、そして敏感だった。



---


 午後。

 《月影の宿》の入り口でレガンが腕を組んでいた。


「おう、ろくでなし。珍しく働いてきたって?」


「働いたんじゃねぇ、歩いただけだ。」


「歩いて金貰えるなら俺もやるわ。」


「じゃあ代わりに行け。俺は飲む。」


「結局そうなるんだな……。」


 レガンは呆れた顔で笑う。

 怒鳴りも皮肉もない、ただの笑い。

 その笑いが、灰色の午後を少しだけ軽くした。



---


 夜。

 遠くの街角に、赤い灯が滲み始める。

 ナナシは煙草をくゆらせながら、その光を見た。

 誰かが生きて、誰かが働き、誰かが飲んでいる。

 火ではなく、光の匂いがした。


「……悪くねぇ、灰の一日だ。」


 空を見上げると、雲の切れ間に薄い月。

 灰色の街が、その光を受けて静かに息をしている。

 ナナシは笑い、コートの裾を翻した。


「明日も、生き残るだけだ。」


 灰の街に、鐘がひとつ鳴った。



---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ