第二章 灰の街の朝と依頼書
――朝は、いつも灰色だ。
王都アーレンの南街区。
夜の熱を吐き出した街は、湯気のような冷気を漂わせていた。
石畳の隙間から立ちのぼる白は、煙でも霧でもない。
ただの灰。戦争の名残が、十年経っても風に混じっている。
《月影の宿》の看板の下で、ナナシはあくびを噛み殺した。
口の奥に酒の渋みが残る。喉が乾いて、肺の中まで錆びたような味がした。
「……もう朝か。昨日の夜、どこまで飲んだっけな。」
声は小さいが、路地裏に反響する。
まだ寝ぼけたような朝。働くには早く、諦めるには遅い。
そんな時間に、ナナシはコートの襟を立てて歩き出した。
通りの向こうでは、パン屋の煙突から白い煙。
隣の路地では、子どもが空き瓶を蹴って遊んでいる。
街は生きている。だがその息は、どこか煤けていた。
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冒険者ギルドの扉は、いつもより重かった。
油の匂い、古い紙の匂い、そして炭の匂いが混じっている。
ナナシが入ると、受付の彼女が顔を上げた。
「……おはようございます、ナナシさん。昨日は無事に?」
「無事だ。酒も生きてたし、俺もまだ燃え残ってる。」
「燃え残るって表現、普通は悪い意味ですよ。」
ナナシは肩をすくめ、カウンターに肘をついた。
机の上には報告書が数枚。
昨日の依頼――“馬車襲撃の救出”とある。
彼女は指でその欄を示した。
「依頼主から追加の報酬が届いています。……珍しいですね。」
「貴族は見栄が好きだからな。金で罪滅ぼしだ。」
「言い方。」
「現実ってのは、言葉より汚れてる。」
受付嬢は軽くため息をつく。
眉がへにょりと下がる。
その仕草に、ナナシは微かに笑った。
――だが、名前は聞かない。聞く必要もない。
彼女は昼の街の一部であり、紙と印の世界に生きる人間だ。
そこへ踏み込む資格を、ナナシはとうに手放していた。
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「依頼、探してるんですか?」
受付嬢が棚の札を一枚取り出す。
“灰祈区・旧下水道の清掃”。報酬は銅貨三十。
「これ、地味に危険です。ガスが残ってて。」
「燃えるのか?」
「え? ええ、少しだけ。」
「ならやめとく。」
「危険だからじゃなくて、燃えるからですか?」
「燃えるもんは、もう十分だ。」
受付嬢は言葉を飲み込み、札を戻した。
ナナシはその仕草を見ながら、ポケットの煙草を一本取り出す。
火を点けず、ただ咥えたままにする。
灰が落ちない煙草ほど、似合うものはなかった。
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しばらくして、ギルドの奥から若い冒険者の笑い声が聞こえた。
昨日の出来事――“ろくでなしが馬車を救った”という噂が、もう広まっている。
ナナシは苦笑した。
「笑われるのは慣れてるが、褒められるのは落ち着かねぇな。」
「褒めてるというより、珍しがってるんです。あなたが働いたのが。」
「働くと世界がざわつく。平和だな。」
受付嬢は紙に判を押し、手渡した。
「次の報告期限は三日後です。無くさないでくださいね。」
「無くしても、探してくれるだろ?」
「いいえ。次は自分で書いてもらいます。」
淡々とした声。だが、その声には小さな温度があった。
それに気づいたかどうかも分からぬまま、ナナシは外に出た。
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風が冷たい。
昼の陽が灰色の屋根を照らし、光はあっても熱がない。
街角の屋台では、香辛料の匂いが立ちのぼる。
腹が鳴った。財布の中は、銀貨一枚と銅貨数枚。
「働いた分、減るんだよな……世の理不尽だ。」
ナナシは笑いながら屋台を離れた。
その笑いが、風に紛れて消えていく。
通りを抜けた先、北の方角には鍛冶街の煙突が並ぶ。
そのひとつの煙が、赤く見えた。
ただの錯覚か、それとも――。
目を細め、ナナシは歩き出す。
火の気配には、いつも鈍く、そして敏感だった。
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午後。
《月影の宿》の入り口でレガンが腕を組んでいた。
「おう、ろくでなし。珍しく働いてきたって?」
「働いたんじゃねぇ、歩いただけだ。」
「歩いて金貰えるなら俺もやるわ。」
「じゃあ代わりに行け。俺は飲む。」
「結局そうなるんだな……。」
レガンは呆れた顔で笑う。
怒鳴りも皮肉もない、ただの笑い。
その笑いが、灰色の午後を少しだけ軽くした。
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夜。
遠くの街角に、赤い灯が滲み始める。
ナナシは煙草をくゆらせながら、その光を見た。
誰かが生きて、誰かが働き、誰かが飲んでいる。
火ではなく、光の匂いがした。
「……悪くねぇ、灰の一日だ。」
空を見上げると、雲の切れ間に薄い月。
灰色の街が、その光を受けて静かに息をしている。
ナナシは笑い、コートの裾を翻した。
「明日も、生き残るだけだ。」
灰の街に、鐘がひとつ鳴った。
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