第十八章 朝、灰の寝床で
――世界は、今日も酒臭い。
どこかで桶が倒れた音がして、次いで誰かの怒鳴り声が飛んだ。
その声の主が誰か、ナナシは寝たままで察した。
酒の匂いと、喉の渇きと、蹴りの予感。
「おい、ナナシ! また床で寝やがって……!」
レガンの怒声と同時に、足の甲が腹にめり込んだ。
体がくの字に曲がる。
床の板が冷たい。
視界の端には、転がった瓶と乾いたパン。
その上に、灰。
「……あー、朝か」
「いや、夜明けどころか昼近ぇ! 何時間寝てんだ、酒樽かお前は!」
「樽は立派に立ってるだろ。俺はもう少し、寝てる」
再び蹴り。
その音で、宿の看板がかすかに軋んだ。
《月影の宿》の床は、昔からこの蹴り音で目覚める仕様らしい。
「昨日の依頼の報告書、出したか?」
「報告書? “やりました、飲みました、おやすみなさい”でいいだろ」
「馬鹿か!」
「馬鹿だな。確認ありがとよ」
レガンが頭をかきむしる。
窓の外では、街の鐘が鳴った。
朝の号。
つまり、“今日も働け”という合図だ。
ナナシにとっては“そろそろ酒が抜けたか?”という確認音でしかない。
「まったく……王都一の酒クズが、まだ生きてるってのが奇跡だぜ」
「奇跡は飲みすぎたやつの言い訳だ。俺はただの現象だ」
言って、ナナシはのそのそと起き上がった。
髪は寝癖で跳ね、シャツは半分ほどボタンが取れている。
腰のベルトには、剣どころか栓抜きしか差していない。
レガンが呆れ顔で腕を組んだ。
「なぁ、たまには真面目に生きてみろ。
依頼のひとつでも受けりゃ、あの受付嬢だってちったぁ笑うだろうよ」
「俺が真面目に生きたら、王都がひとつ減る」
「なにそれ」
「予言だ。二日酔いの神託」
そう言って、ナナシは頭を抱える。
胃が重い。
だが、目の前の水桶に映った自分の顔は笑っていた。
この朝に何の意味もないことを、よく知っている笑いだった。
「ほら、顔洗って行け。ギルド行くだろ?」
「行く。……寝床代、あとでツケといてくれ」
「またツケかよ!」
「ツケが積もるのは、信頼の証だ」
「積もってんのは埃と未払いだ!」
レガンの怒鳴り声を背に、ナナシは階段を下りた。
宿の娘が掃き掃除をしていて、彼を見て眉をしかめた。
「……また床で寝てたんですか?」
「床が一番正直なんだ。人間は嘘つくけど、床は冷たいだけだ」
「詩人ぶらないでください」
外に出ると、風が刺すように冷たかった。
王都の冬は、灰と雪が混じる季節。
吐く息も灰色に見える。
「――今日も、生きるだけで赤字だな」
そう呟いて、ナナシはギルドの方角へ歩き出した。
昨日と同じ道。
いつも通りの足取り。
違うのは、ポケットに残った銅貨が一枚減ったことくらい。
その銅貨が落ちる音が、今日一番の“冒険の音”だった。
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