第十七章 灰と灯と
朝の灰は、夜よりも白い。
北工区の煙が晴れ、街は何事もなかったかのように動き出していた。
昨日の爆発の跡も、瓦礫も、もう片付けられつつある。
人々は足を止めない。見ない。問わない。
ただ、軒先に吊るされた灰光だけが、静かに揺れていた。
リュカが作った、あの小さな灯りの模倣。
もう誰の手によるものかさえ、知る者はいない。
ギルドの掲示板には、
《北工区事故・被害者なし》の紙が貼られていた。
ナナシはそれを一瞥し、誰にも声をかけられずに通り過ぎた。
外套の内には、焦げた布と錆びた釘。
それが、まだかすかに温もりを残している気がした。
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昼。王都の南門。
風が吹き、灰が道を渡る。
ナナシは腰を下ろし、煙草をくゆらせていた。
酒は飲まない。飲めば、何かを誤魔化してしまいそうだった。
「……火は、まだ灰になりきらねぇのか。」
呟いた声が、灰に溶けた。
通りを歩く子どもが、灰光の灯りを手に笑っている。
ナナシはその背を、長く見送った。
しばらくして、荷馬車の音が聞こえる。
レガンが現れ、手綱を引きながら眉をひそめた。
「……またどこで寝てた、ろくでなし。」
「地べた。寝心地は最悪だが、夢見は悪くなかった。」
「夢なんざ、見る年でもねぇだろ。」
「見ねぇと、終われねぇんだよ。」
レガンは何も言わず、隣に腰を下ろす。
ふたりの間に湯気の立つ椀が置かれた。
ナナシは手を伸ばし、温かさだけを確かめる。
「燃えねぇ火を見た。……残酷なくらい、綺麗だった。」
「燃えねぇ火も、照らすことくらいはできる。あいつがそうだったろ。」
「そうだな……照らしすぎても、焼けるだけだ。」
言葉の切れ目に、風が灰を運ぶ。
遠くで鐘が鳴った。
レガンは立ち上がり、短く言う。
「……“月”のとこ行け。あの女は、そういうの慣れてる。」
「……あぁ。」
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夜。
《蒼い月》の扉を押すと、微かな音がした。
人影はなく、カウンターには一つの灯が置かれている。
リュカが作った、あの灰光。
弱いけれど、まだ生きていた。
レミィが棚の奥でグラスを拭いている。
振り向かないまま、静かに言った。
「……帰ったのね。」
「ただの通り道だ。」
「そう。なら、少し休んでいきなさい。」
ナナシはカウンターに腰を下ろし、
置かれた一杯の水を見つめた。
琥珀色ではない。味もしない。
それでも、喉を潤すには十分だった。
「……味がしねぇな。」
「いいの。生きてるうちは、それでいいのよ。」
レミィはグラスを拭き続ける。
ナナシは視線を灰光へ移す。
光は小さく、弱く、それでも確かに揺れていた。
レミィが棚から木箱を取り出す。
そこには、もう消えかけた灯が一つ。
「――あの子の灯り、まだ消えてないの。」
ナナシは何も言わない。
光が指先を照らし、影が頬を掠める。
レミィは微笑み、静かに言った。
「誰かを許すとか、そういうことじゃないの。
見届けるしか、私たちにはできないのよ。」
ナナシは、目を閉じた。
声がかすれて、それでも届いた。
「……それでも、許してほしい。」
レミィはグラスを置き、ほんの少しだけ笑う。
その瞳に、月の光が映っていた。
> 「――もう、赦しは終わってるのよ。」
灰が窓を流れ落ちる。
外には月。
淡い光が街を包み、灰の街は静かに眠りにつく。
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