第十六章 灰の夜、燃えるもの
灰の街は、今日も静かにくすぶっていた。
路地の灯が揺れ、遠くで鍛冶の音が小さく響く。
王都アーレンの空は晴れているのに、どこか黒い。
灰は止まらず、降り続ける。
それでも人々は笑い、リュカの作った小さな灰光を飾っていた。
淡い光が軒先に灯り、風に揺れていた。
ギルドの休憩所。
ナナシは壁際の椅子に沈み、報告書の上に瓶を立てていた。
紙には酒の染みが広がり、乾くそばからまた濡れる。
受付嬢が腕を組んでため息をつく。
「……また机が泣いてますよ」
「乾きすぎると割れるんだよ。潤いだ」
「潤わせていいのは喉だけです」
会話はそれきりだった。
その静けさを破ったのは、慌てた若者の足音だ。
「緊急依頼です! 北工区で爆発が!」
紙束が机に叩きつけられる。
赤い封蝋に、黒いスタンプ。
“立入調査・優先指定”――つまり、誰でもいいから行け、の意味。
「机に飲ませるくらい暇なら、見てきてください!」
受付嬢の声に、ナナシは肩をすくめて立ち上がった。
「……潤い、足りねぇな。」
瓶を置き、外套を羽織る。
その足取りは、酔いでも怒りでもなく、ただの惰性のように静かだった。
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北工区は煙に包まれていた。
崩れた建屋の隙間から、鉄の匂いと焦げの匂いが混ざって吹き出してくる。
人々は遠巻きに見ているだけだ。
ナナシは柵を跨ぎ、制止の声を無視した。
瓦礫を踏み、沈んだ床を越える。
焼けた机、焦げた紙、砕けた窓。
そして、見つけた。
木箱の残骸。
中身を包んでいた油染みの布。
溶けかけた釘。
それに、紅蓮装具の破片――あの忌まわしい、魂を燃料にする器の欠片。
ナナシは膝をつき、布の端を指でつまむ。
まだ、灰が熱い。
わずかに、光っていた。
蛍よりも弱く、それでも確かに、脈打つように。
「……そういうことか」
吐息が、煙に溶けた。
その声に、誰も答えなかった。
兵士も技官も、ナナシを見ては通り過ぎるだけ。
誰も“何を燃やしたか”知らないふりをしている。
彼は布を畳み、懐に押し込んだ。
立ち上がる。
視線は、遠くの搬入口――
そこから、同じ装具を積んだ荷車が運ばれていくのが見えた。
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夜。
倉庫街は、風より冷たかった。
月は灰に覆われ、灯りはまばら。
だが、油の匂いと人の気配があった。
搬入作業。木槌の音。紙束をめくる音。
倉庫の奥で、誰かが笑い、誰かが作業を急かす。
その音は日常の一部であり、誰も罪を意識してはいなかった。
扉が軋む。
風と共に、ナナシが入る。
足音は小さく、影はひとつ。
誰も気づかぬまま、鉄棒が走る。
音は一度だけ。
机が倒れ、瓶が砕け、壁が鳴る。
叫びは途切れ、空気が凍る。
動きは淡々としていた。重心をずらし、足を滑らせ、手元の工具を使い、無駄がない。
倒れる音だけが続く。
最後のひとりが、瓦礫の端に倒れ込む。
息を荒げ、呆然とナナシを見上げた。
「な……なんで……? 何のために……」
ナナシは視線を落としたまま、ひと呼吸置いた。
口を開く。
「ためなんざ、ねぇよ。……ただの八つ当たりだ。」
その一言が落ちる。
風が入り込み、紙が一枚、床を滑る。
灯がひとつ、ぱちりと音を立てて消えた。
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外に出る。
灰が降っている。
ナナシは懐から焦げた布と錆びた釘を取り出した。
その間に、かすかな光が残っている。
蛍のような、息のような灯。
彼は掌で包み、懐に戻した。
そのまま歩き出す。
背後の倉庫から、煙がゆっくり立ち上る。
灰が夜に溶ける。
彼の足跡に沿って、光がひとつ、ふっと瞬いて消えた。
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