第十五章 灰の街、灯の歩く場所
灰の街の朝は、夜とたいして変わらない。
陽は昇るが、光は届かない。
けれど、その“届かない明るさ”に慣れた人間たちは、今日もパンを焼き、煙を吐き、ため息をつく。
そうして世界は、壊れたまま回っていた。
《月影の宿》の台所では、レガンがパンの端を炙っていた。
ナナシは椅子に座ったまま、湯気の上でうつらうつらしている。
リュカが木箱を抱えて降りてくると、レガンが顔も上げずに言った。
「その箱、今日も生きてるか?」
「はい。少し弱いけど、まだ息してます」
「なら、腹も一緒に息させとけ。食ってけ」
木椀を手渡され、リュカは素直に頷いた。
ナナシは目を開けたまま寝ぼけている。
スープを鼻に近づけてようやく現実に戻る。
「……俺の分、あるか?」
「昨日のツケがある」
「夢で払った」
「夢は通貨じゃねぇって、何回言わせんだ!」
レガンが匙を突き出す。
リュカがくすりと笑った。
こういう朝が、どれくらい続いてくれるのか――そんなことを考える癖が、彼の中でいつの間にか芽生えていた。
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「ナナシさん、今日……少し出てきます」
「仕事か?」
「……置いてきます。あの、光を」
木箱を抱え直す少年に、ナナシは煙草を咥えた。
だが火を点けない。
そのまま唇の端で噛んで、視線だけを送る。
「火を持ち歩くなよ」
「火じゃありません。“灯”です」
「……似たようなもんだ」
「違うんです。火は燃やすものですけど、これは……生きるやつなんです」
言い切った声に、ナナシは短く息を吐いた。
言葉の端が、少しだけ昔を思い出させる。
灰の戦場で、誰かが似たようなことを言っていた気がする。
――燃やすんじゃなく、照らすんだって。
「ま、死ぬなよ」
「死なないように、見てきます」
そう言って、リュカは街へ出た。
灰の匂いが彼を包み、通りの奥へ飲み込んでいく。
レガンが後ろから弁当包みを放った。
「昼を忘れるな! 腹が減ると希望が干上がる!」
リュカは振り返って笑い、手を振った。
笑顔は少年そのものだったが、その背にある箱だけが、大人びて見えた。
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街は、今日も灰の色だった。
倒れた街灯。割れた窓。焼けた壁。
けれど、リュカは歩くたびに小さな灯を置いていった。
錆びた釘と油の布を詰めた箱。
蓋を半分だけ開くと、淡い光が覗く。
蛍よりも弱い、呼吸のような灯り。
それを路地の隅に、井戸の縁に、壊れた塀の下に――一つずつ、そっと置く。
誰もそれを拾わない。
誰も騒がない。
けれど、子どもが立ち止まり、老いた男が目を細め、女が足元の明かりを避けて通った。
それだけで充分だった。
誰かが「見た」という事実だけで、光は世界に混ざる。
灰の中で、光は確かに息をしていた。
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昼すぎ、ナナシは屋根の上にいた。
レガンが隣で煙草を折り曲げながら言う。
「……見ろ、あれ。通りの角に点々と」
通りの向こう、瓦の合間、崩れた街灯の根元。
ぼんやりと、青白い点が見える。
ひとつ、ふたつ、三つ。
それがまるで、灰の海を歩いているように見えた。
「悪くねぇ眺めだな」とレガン。
「これ、奇跡か?」
「奇跡ってのはな、だいたい誰かが死んだあとに間に合うもんだ」
「お前、ほんとそういう言い方しかできねぇのな」
「世渡り下手でな。世の中よりも先に焼けた」
レガンが鼻で笑い、鍋の灰を指で弾いた。
ナナシは視線を逸らさず、光のひとつが消えてまた灯るのを見ていた。
まるで誰かが呼吸しているように――生きて、消えて、また息をする。
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夕暮れ。
リュカは街の北端まで歩いてきた。
そこは、かつて“紅蓮戦争”で焼け落ちた旧市街。
壁は半分しかなく、風が吹くたび灰が砂のように流れていく。
リュカはひざまずき、木箱を開けた。
最後の灯が、かすかに光る。
その光を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……もし消えたら、それは風のせいであって、僕のせいじゃない」
風が答えたように灰を巻き上げる。
光は揺れ、また静まる。
まるで何かを聞いて、納得したかのように。
リュカはそのまま腰を下ろし、しばらく空を見た。
灰と雲と星が、どこで混じっているのか、もうわからない。
それでも、目を閉じれば――灯りだけが浮かんで見えた。
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その頃、《月影の宿》ではナナシが椅子にもたれていた。
手にした煙草は、まだ火が点いていない。
ただ、親指の腹で紙をなぞる。
外の風が窓を鳴らし、遠くで犬が吠える。
「……消えるまで、見てろって言ったのは、俺か」
呟きは灰に溶け、誰にも届かない。
彼の背中の向こう、街のどこかで、ひとつの光がまた瞬いた。
誰もそれを奇跡と呼ばない。
ただ、確かに“そこにある”というだけの、ささやかな現実だった。
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夜が降りる。
街のあちこちで、淡い光が小さく歩いていた。
火ではなく、呼吸のように。
誰かの目に、確かに見えて。
誰の記憶にも、たぶん残らない。
それでも――
この灰の街で、
光は歩いていた。
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