第十四章 希望の灯
昼下がり。
《月影の宿》の外壁には、灰が風で貼りついていた。
陽は出ているのに、影のほうが濃い――そんな街の昼だ。
リュカは桶を抱えて裏口に出る。洗濯水は灰で薄く濁り、指先に粉のような感触を残した。
その灰の中で、ひとつだけ“息をしている”ように見えるものがあった。
胸の前、小さな木箱。
箱を少し開けると、布の奥から淡い光が滲む。
蛍の灯をさらに薄くしたような――ほんのひとかけらの呼吸。
それでも、確かに「消えていない」。
「……今日も、生きてるな」
小声でそう呟き、布を整えて蓋を閉めた。
あの灯りを見ていると、どうしても“生きている”という言葉が浮かぶ。
理由はわからない。ただ、消えてほしくないと思うだけだ。
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その頃、厨房では異臭がしていた。
ナナシが鍋の前に立ち、片手に瓶を構えている。
中身は酒。香りづけと言い張る量ではない。
「……いいかレガン、料理のコツは“味見のたびに調整”だ」
「調整じゃねぇ、“泥酔”だ!」
「誤差だろ」
「誤差で床が光るな!!」
「床が反省してんだよ」
「反省すんのはお前だ!!」
怒号と笑いが混じるなか、リュカが顔を出した。
胸の前に木箱を抱え、どこか緊張した面持ちだ。
「ナナシさん、少し見てほしいものがあって」
「今、繊細な調理の最中だ」
「酒を煮込んでるだけじゃないですか」
「魂の煮込みだ。邪魔すんな」
「意味がわかりません……」
リュカは苦笑し、木箱をそっと差し出した。
布の隙間から、淡い光がこぼれる。
蛍のように小さく、夜明け前の星よりも儚い。
それでも、厨房の灰混じりの空気を、確かにやわらげた。
ナナシがようやく瓶を下ろし、光を覗き込む。
息を潜めるような間。
その光は、あまりに弱く――それでも確かに“生きていた”。
「……なんだ、これ」
「錆びた釘と、油の布から出て……昨日から消えないんです。
風に吹かれても、灰をかぶっても、ちゃんと生きてる」
「……生きてる、ねぇ」
「この灯が……みんなを照らしてくれる気がするんです」
ナナシの目が細くなる。
光を見つめながら、短く息を吐く。
その息で、灯がかすかに揺れた。
「照らすには、弱すぎる」
「でも、見てると……少しあったかいです」
「それで十分かもな」
瓶の口を閉じながら、ナナシは椅子に腰を下ろした。
奥ではレガンが鍋をかき混ぜる音だけを立てている。
誰も邪魔しなかった。
厨房に、いつもの灰混じりの空気と、ほんのひと筋の光が揺れた。
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夜。
街は灰色に沈み、灯りの数が少しずつ減っていく。
リュカは木箱を抱え、宿の裏口に腰を下ろした。
蛍にも満たない光が、灰の粒を透かして脈を打つ。
ナナシが瓶を手にやってきて、隣に腰を下ろした。
「……今日も生きてるな、それ」
「はい。弱いけど、消えないです」
「人間より根性あるな」
リュカは笑い、光を見つめる。
ナナシは空を仰ぐ。
灰と星の境が曖昧な空だった。
「……お前が死ぬまで、それが灯ってりゃ奇跡だ」
「それでも、見てるだけで、少し救われるんです」
「……なら、見てろ。消えるまでな」
風が吹き、灰がゆっくり舞う。
リュカは木箱を抱えたまま、目を閉じた。
光が頬に映る。
その光は、誰にも届かないまま――それでも確かに、そこにあった。
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