第十三章 灰光の種
昼前。
《月影の宿》の厨房は、昨日の酒と煮込みのにおいでできていた。
ナナシは床で大の字、椀を枕にして寝ていた。寝返りのたびに椀が「こつ」と鳴る。
「……おい、床の備品。呼吸してるか」
レガンが椅子の脚で背中をつつく。ナナシは呻き、顔だけ出して周囲を見渡した。
「……ここは地獄か?」
「天国なら臭いでもっとマシだ。立て、地獄の主」
頭を起こした瞬間、視界がぐらりと傾く。喉が干上がり、胃はまだ反乱軍。
それでもナナシは椅子にのし上がり、懐を探る指を煙草に伸ばした。
「お前なぁ、昨日の酒代、まだ払ってねぇぞ」
「……夢で払った」
「夢は通貨じゃねぇ。現実を生きろ」
「現実のほうが信用ねぇ」
レガンは鼻で笑い、鍋をかき回した。煮込みが泡をはじき、油がひとつ跳ねてナナシの頬に当たる。
それでも彼は動かない。まるで“怠惰”を鍛錬しているかのようだった。
---
そのころ、リュカは宿の裏で掃除をしていた。
灰の風が吹き抜け、陽射しは白く乾いている。
壁際には、壊れた棚や使えない木箱、古びた釘や布の切れ端が積まれていた。
「……すごいな、物の墓場みたいだ」
ひとりごちて、リュカは箒を動かす。
木片をどけ、錆びた釘を拾い、油の染みた古布をまとめる。
そのとき――指先に“ざらり”とした冷たさが走った。
古い釘と布の隙間から、淡い光が漏れている。
陽の反射ではない。もっと内側から、呼吸のように脈打つ光。
灰の粒が布に染み込み、ほんの一瞬だけ、蛍のように淡く光った。
「……これ……?」
リュカは息をのむ。
指先に熱はない。ただ柔らかい温もりと、なぜか“生きている”気配。
風が吹いて灰が舞っても、その灯は消えない。
まるでこの街のどこか深くから、“まだ終わっていない”と伝えてくるようだった。
---
厨房ではレガンが怒鳴り、ナナシが机に突っ伏していた。
「ナナシ! 昼飯の皿、洗っとけ!」
「……皿は流れる水に任せろ……俺は自然派だ……」
「自然派は店を潰す派だ!」
リュカは苦笑いしながら、裏から桶を抱えて戻る。
その腕の中、小さな木箱がひとつ。
彼は気づかれないようにそっと布の端を詰め、灰光を覆った。
その灯は、箱の中でかすかに瞬いている。
ナナシの背中を横目に見ながら、リュカは心の中で呟いた。
(……これ、誰にも言わないほうがいい気がする)
理由はわからなかった。
ただ、この小さな灯を誰かの手に渡した瞬間、壊れてしまう気がした。
だから彼はそれを懐に入れ、いつも通りの顔で皿洗いに加わる。
---
夕暮れ。
宿の裏の風は灰を溶かし、街の音を遠くに押し流す。
リュカは誰もいない時間を選んで、もう一度箱を開けた。
灰光はまだそこにあった。
弱く、淡く、それでも確かに灯っている。
「……こんなに小さいのに、消えないんだな」
リュカは箱を閉じ、胸の奥で小さく息を吐いた。
何も変わらない灰の街。
けれど、たったひとつ“変わりそうな気がする”ものを、彼だけが見つけていた。
---
その夜、ナナシはまた酒に沈み、レガンはため息をつき、街はいつも通り暗かった。
ただ、宿の裏の小さな木箱の中で、
誰も知らない“希望の種火”が、静かに光っていた。
---




