第十二章 灰の街の昼
夜の名残は、臭いでわかる。
《月影の宿》の床は、まだ昨日の酒と胃液でしっとりしていた。
レガンの怒鳴り声が階段を駆け上がり、天井板が震える。
「おい、ろくでなし!! 床が光ってるぞ、どういう意味か分かるな!?」
床板の上で寝転がっていたナナシは、毛布のかわりに上着をかぶり、片手をひらひらと振った。
「うるせぇ……俺の才能が滲んだだけだ」
「才能じゃねぇ、酒と胃液だ!」
足音とともにモップが投げつけられる。
命中。ナナシの額に“ぐしゃり”と嫌な音。
「……今ので目ぇ覚めたわ」
「寝たまま反省すんな! 新入りが見てるぞ!」
階段の上から顔を出したリュカが、引きつった笑顔を浮かべる。
昨日、ナナシに拾われた転生者の少年だ。
その少年が見たのは、英雄でも剣客でもない。
酒と吐瀉物にまみれて寝る、ろくでなし。
「……この人が、昨日“働き方を教えてやる”って……?」
「そうだ」レガンは腕を組み、「現実を学ぶにはいい見本だ」と言い切った。
ナナシはゆっくりと体を起こし、床の染みを見つめる。
ため息をつき、モップを手に取る。
「……俺の尊厳、ここに沈んでんな」
「尊厳は床拭きながら拾え」
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朝の宿は灰混じりの光で薄汚れている。
ナナシが床を拭き、リュカが水を運び、レガンが鍋を振る。
これが《月影の宿》の朝の儀式だった。
「吐いたの、いつですか?」
「覚えてねぇ。覚えてたら反省するだろ」
「それ、悪循環じゃ……」
「循環してるだけマシだ」
リュカが口を閉じる。
この“灰の街の生活”は、反省よりも継続でできていた。
掃除が終わる頃には、ナナシの目がようやく焦点を取り戻した。
レガンが湯気の立つスープを二杯、木の台に置く。
「ほら、二日酔いの薬だ。塩と油の味しかしねぇぞ」
「効きそうだな。飲んだ瞬間、内臓がやめろって叫びそうだ」
「叫んだら働け。死ぬよりマシだ」
ナナシはずず、と啜り、舌を焼いた。
「熱っ……くそ……」
「言ったろ」
「レガン、これ毒じゃねぇだろうな」
「違ぇよ、薬だよ」
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昼前、ようやくまともな仕事の話が出た。
宿の裏手に古い棚が倒れかけている。
ナナシが鼻を鳴らして言う。
「“倒れる前に直せ”は職人の仕事、“倒れてから直す”のが俺の仕事だ」
「そんな区別ありませんよ」
「ある。倒れたもんのほうが喋る」
「喋る?」
「『もう立ちたくねぇ』ってな」
リュカは思わず笑ったが、棚を持ち上げる手が震える。
「重っ……!」
「力任せにするな。重いもんは、“持ち上げるんじゃなくて騙す”んだ」
「騙す?」
ナナシは棚の角を足で軽く蹴り、重心をずらす。
そのまま横へ滑らせるように立て直した。
「見ろ。持ち上げてねぇ。説得しただけだ」
「棚を……説得……」
「世の中、暴力で動くもんより、言い訳で動くもんのほうが多い」
リュカは何も言わず、ただ「へぇ」と呟いた。
褒め言葉にも聞こえなかったが、ナナシは上機嫌だ。
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昼食のあと、リュカは伝票を届けにギルドへ行った。
ナナシはというと、食後の“昼寝”を実践していた。
テーブルに突っ伏し、空き瓶を抱えて、完全に死んでいる。
レガンが鍋を拭きながらぼやく。
「まったく、あの歳で昼寝とか子供かよ……いや、子供より質が悪いな」
リュカが帰ってきて、小声で尋ねる。
「……寝てるんですか?」
「寝てる。息してるだけマシだ」
「起こしたほうが?」
「起こしたら吐く。放っとけ」
言われた通りに放っておくと、ナナシが寝言を漏らした。
「……働く……な……夢が逃げる……」
リュカはため息をつき、テーブルの上の皿を片付けた。
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日が傾くころ、ようやくナナシは目を覚ます。
寝癖と酒の残り香をぶら下げたまま、扉を押し開けた。
外は灰の風。子どもが駆け抜け、犬が吠え、生活が鳴っている。
リュカが箒を動かしている横で、ナナシは腰を下ろした。
「お前、まだ掃いてんのか」
「終わるまでは終わらないです」
「真面目だな」
「そうしないと、生きられない気がして」
「……真面目は良いことだ。だが、壊れるときゃ派手に壊れるぞ」
「壊れたらどうすれば?」
「寝ろ。酒飲んで、寝ろ。……それで、また起きりゃいい」
リュカは笑った。
その笑いが、ほんの少し、灰の中の光に見えた。
「ナナシさんって、駄目な大人ですね」
「おう。完璧な称号だ。磨いてんだよ」
「でも、なんか……嫌いになれないです」
「そう言われると、飲みたくなるな」
「また?」
「今度はちゃんと外で吐く」
リュカが苦笑し、レガンが奥から怒鳴る。
「おいナナシ! 吐く前に仕事終わらせろ!」
「了解、まずは一杯!」
「順序が違ぇ!!」
灰の街の空は、今日もくすんでいた。
それでも、《月影の宿》の屋根の上には、
どこか柔らかな笑い声が、確かに響いていた。
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